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大そうじへの備え
d.hatena.ne.jp/gunzyou
日記一週間前にたまたまたどり着いたヨガ体操のサイトで、サイト主が結跏趺坐をする映像を見て結跏趺坐(けっかふざ)をやってみたいと思った。自分にはできるわけはないと思っていたのだが、サイト主はあまりにこともなげにやってみせるし、その練習方法まで映像でみせるし、一日一時間程度を一ヶ月くらい続ければできるようになりますなんて、魅力的なことをいうしで、やってみることにしたのだ。結跏趺坐というのは、あぐらとは違って両足を組み合わせて両腿の上に乗せるやつだ。座禅やヨガをやる人には馴染み深い。結跏趺坐の具体的なやり方はここを参照されたし。(結跏趺坐のためにお坊さんがぐりぐりしてる。ちょっとお茶目だと思う)http://www.rinnou.net/cont_02/suwaru.html正確には座禅がしたいのではなくて結跏趺坐がしたい点がやや不純な動機だが、この際気にしてはいけない。なにしろ自分の部屋は和室
そは何ぞ平等という言葉は長らく曖昧な言葉だと思ってきた。例えば男女は平等であるべきだ。とか。どのような平等??と聞き返したくなる。平等の定義は人によってまちまちなのだ。だから平等を理由にした政策として、一方で「男女は平等なのだから男女別の公衆トイレは廃止」などといったナンセンスも生まれ、他方では「男女は平等なのだから働く機会は均等に与えられるべきである」という当たり前のようでいて大事な政策も実施される。どちらも平等を理由にしているのだが、男女別トイレ廃止論の方をナンセンスに感じる理由は、平等をフェアとイーブンに分けて定義しないことにあると思う。そんなことにワタミ社長の記事を読んでいて気づいた。平等を構成する二つの要素である、フェアとイーブンの違いを説明してみたい。フェアとは機会の平等である。全ての人に等しく挑戦の機会を与える意味での平等だ。フェアにおいては結果の平等は保障しない。各人が自分
仏教・老子, そは何ぞ 「よい中高一貫校に入って、よい大学を出て、よい企業で働いて、家族作って、最後はガンで死ぬのなら、そいつはガンで死ぬことを最終目標にして生きているということだろうか?」世間一般からみればボチボチよい(受験時の偏差値が高く、有名大学への進学率が高い)とされる中高一貫校に通っていた私にクラスメイトがそう問いかけたことを、私は忘れていない。高度経済成長時代の神話である、「良い中高一貫校から始まりガンで死ぬ」で終わる身も蓋もないレールの上を歩くことが幸せなのだと信じる団塊の世代の父母が育てた子供が少なからず通う中学の教室の片隅で、放課後たまたま居残っていた自分に彼はそういった。衝撃だった。画一的だが世間的に魅力的とされるこのレールの上に乗ろうと決めて、乗り続けることが出来て死ねたとして、その予定調和的な人生になんの意味があるのか?ストーリーと結末の分かっている物語を人は飽きず
現在の経営学部では、ドラッカーはほとんど教えない件さらに、つ、つられてみる。ドラッカーが「経営学者」なのかとか、経営学史上、なんらかの理論を打ち立てたのかとか、何で大学で教わらないのかとかは知らないんですが、ドラッカーの書いた本が古典といわれて人気がある理由について書いてみたいと思います。 今日のエントリはやや長いので結論から。ドラッカーが古典とされて今も人気があるのは、1.経営学という分野を開拓したし、2.いまだに役立つからです。 1.古典のひとつの定義は、主要な論点を提示した本であること古典の一つの定義は、特定の分野に取り組めば誰でもが行き当たる疑問を体系だて、それに逐一答えているということだと思います。その疑問に対する、より精密な答えやシンプルで明快な答え(洗練された理論)は後世の人たちによって築かれていくわけですが、古典はそれらの理論が生まれる刺激剤としての役割を担った本なのです。
その他週末は、大学生の弟(20歳)と、高校卒業したてで秋から大学生のいとこ(18歳)に会って話す機会があって、「ソーシャルブックマークって知ってる?」「友達は使ってる?」と聞いてみたところ、弟は、「名前だけ知ってる。何なのかは知らない。はてなだっけ?友達は使ってないよ。それから、自分含めて友達はみんな、授業中はmixiとメッセンジャー立ち上げてる。ネットでのコミュニケーションは、あとはメールするくらいで間に合ってる」とのこと。機能や利便性を説明しても「ふうん」って感じでした。いとこは、「ソーシャルブックマーク使ってるよ。デリシャスね。ただのWEB上のお気に入り集として使ってる。友達は使ってないなあ。あれは、やっぱりIT関係の人たちの間で流行ってるものでしょ。」とのこと。ちなみに、弟はKOの某学部生で、いとこは、アメリカ人と日本人のハーフ、いわゆる帰国子女であります。それから、二人ともWEB
そは何ぞ日本人の特性が身の回りにあるものに工夫を加えて何かを作り出すことだとしたら、アニメやゲームネタが参加者にとってもっとも身近な材料だったのでしょうから、そういった投稿が多くなるのは当然のように思えます。引用:うつせみ日記 日本のどこにでもいる「才能の無駄遣い」結局は似た結論に辿り着くのだけれど、やや違った角度から日本人の才能の無駄遣いの理由を説明してみたいと思った。日本人も外国人(英語圏の人々)も、才能の無駄遣いはする。ただし、その方向性が違うのではないかと思う。英語圏の人々が、新しいルールを考え出すのが好きな民族なのだとしたら、日本人は、ルールを限定するのが好きな民族なのだ。(それが氏によるものなのか、育ちによるものなのかはわからないけれども。おそらくはその両方なんだろう。)この発想の違いを示す端的な例として、どこかで読んだのは、次のようなものだ。日本で郵便物を出すとき、あて先は広
紹介したいモノコトおもわず、「じとうりょく」と読んでしまいそうだけれど、最近売れ行きが良いらしいこの本(→地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」)を題材にしたのか、NHKのクローズアップ現代が「地頭力」を特集していたので、ほぼ日の糸井重里さんが出演しているということもあり(ファンです)、見てみることにしました。今日はそれを題材につれづれと。 まずはじめに、番組の内容は?というと、今企業は10から100を生み出す人材よりも、ゼロから1を生み出す人材を求めているとのこと。何もないところから誰かの役に立つ何か(つまり価値)を生み出せる人を採用しようと、従来の知識吐き出し型テストでの入社試験を廃止し、あたらしい採用方法をとるようになっている。そのキーワードが「地頭力」だそうです。ただ、地頭力の本を本屋で立ち読みしたことがあるのですが、もともとの地頭力の定義は、「知識によらない論理性」くら
方法行くんじゃなかった、Twitterの大規模忘年会。という増田氏に反応。Twitterもやってないし、もちろん当日の状況も知らないけど、立食パーティみたいな感じだったんだろうか。増田氏が今後パーティ苦手だと思うようになってしまったら、なんというか、せつなすぎると思ったので、初対面の人同士が大勢集まる大規模かつカジュアルな立食パーティのようなものを想定しつつ、「増田〜、今度はこんな風に振舞ったらうまくいくかもよ?」と僕が思ったことを、以下、普段語爆発の語りかけ口調でお伝えします。 とにかく人の輪に入ってしまえ。ビール瓶を片手に。まずは、とりあえずどこでもいいからタイミングを見計らって人の輪の中に入っちゃうと良いよ。「こんにちは〜」とか言いながらさ。ついでに自分はビール瓶やお茶ボトルなんかを片手に持っておいて、コップがあいてる人を見つけて「いかがですか?」とでも言いながら飲み物をついで回った
そは何ぞ趣味の悪さというもの好みと人気と優劣お二方のエントリーを読んで、考えたこと。 好みと人気と優劣は、すべて別々の要素です。引用:good2ndの日記 趣味の悪さというもの (人気と好み、人気と優劣が別物であることは同意ですが、)好みと優劣は分けがたいと思っています。それは、「優劣」の基準が「好み」なのだと考えるからです。 優劣とは、なんらかの基準に照らして決めるものまず、優劣とは、なんらかの基準に照らして決められるものです。たとえば、「このテストで高い点が取れるほど優れている」とか、「より早くあの目的地に辿り着いたほうが優れている」とか。なにかしらの基準がなければ、優劣は測れない。であれば、good2ndさんの以下の言及(優劣は客観的に言えない)は成り立たないか、説明足らずでしょう。 好みはその人自身が判断するだけだし、人気は客観的に言えるでしょうが、優劣はそうはいかない。 基準があ
思いつきはてな”裏”人物事典 はてな衰退記「はてなダイアリー」ヤバい、というかブログ全体がもうヤバいはてなのユーザー数が伸び悩んでいるという2つのエントリーをみて思った危惧。それは、はてなって格闘ゲームのような尻つぼみになる恐れがあるかもしれないということです。どういうことかというと、(あんまり格闘ゲーム詳しくないんですが、岡目八目で言うならば)格闘ゲームって、ストリートファイター2などの格闘ゲームが流行り始めた時に、ちょうど小学生くらいだった自分達の世代(20代)固有のあそびになってしまったと思うんですよ。それは、格闘ゲームが進化する過程で、徐々にあたらしい操作やルールが加わって、もはや現在では、初心者にとって複雑きわまりないゲームになってしまったから。流行の最初に遊び始めた人たちは、ゲームが進化するのに合わせて、少しずつ追加されていく操作やルールを学べたから、さして苦もなく最新のゲーム
方法「地球が爆発し、わたしたちの本当の人生がはじまる」さんのリア充のコミュニケーション・プロトコルに接触してきたという話を読んだ。みんなが参加できるテーマで話の引き出しを沢山持ってると会話が楽だけど、それがない時困るよね?って話だ。自分もそういう状況に置かれることは、ままある。たとえば野球、サッカー、バスケなどの球技にそれほど興味が湧かないから、おそらく男の過半数が興じるであろうその手の話題は得意じゃない。そういう場合にどうすれば良いのか、自分のよく使う方法は3つある(3つしかない?orz)。1.手札を増やすつまり正攻法。野球や、サッカー、バスケの話題に詳しくなってここぞという時に切れる手札を用意する。でもそもそも興味が湧かないんだから、その話題に詳しくなるには、面白さ追求というよりは、真面目に研究みたいになってしまう可能性は捨てきれない。そこを敢えて面白がってみるのが吉。2.聞き役に徹す
方法自分は「流行りものを一応かじる」習性がない人です。自分の興味があることにしか興味はないというか。こういうと、なんだか了見の狭い人みたいですね。もし自分の興味のあることにしか食指を伸ばさないと、視野狭窄に陥りがちです。その点は自分でも知っていて、視野狭窄を避けるために食わず嫌いはしないことにしています。つまり、自分の興味のないことには積極的に係わらないけど興味のないものでも、接する機会があれば、拒否せずやってみるということ。例えば、野球は普段やらないし、ルールもよく知らない。けれど、友達からバッティングセンターに行こうと誘われたら、それはとりあえず楽しんでみるというのが自分です。そんなわけで、世の中で今流行っているから自分も!というノリを避けてきた自分なのですが、今日からそれは止めにしようかなと思いました。自分が前々から影響をもらっている人に糸井重里さんがいるんですが、彼は「流行りものは
方法ポジティブな友人だな増田!何でも楽しいという友人究極は、物理的な不幸が自分を不幸にするわけじゃない。ラッセルの言葉を思い出したよ。次第に私は、自分自身と自分の欠点に無関心になることを学んだ。だんだん注意を外界の事物に集中するようになった。たとえば、世界の状況、知識のさまざまな分野、私が愛情を感じる人たちなどである。外界に対してさまざまな関心を持っていても、確かに、それぞれが苦しみの種にならないという保障はない。世界は戦争に突入するかもしれないし、ある方面の知識はなかなかに達成しがたいかもしれないし、友人は死ぬかもしれないのだ。しかし、この種の苦しみは、自己嫌悪からわき出てくる苦しみと違って、生の本質的な部分まで打ちくだくことはない。しかも、外界への興味は、それぞれ何かの活動をうながし、それは、その興味が生き生きとしているかぎり、倦怠を完全に予防してくれるのである。引用:ラッセル幸福論
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