サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
体力トレーニング
d.hatena.ne.jp/m-abo
宇野常寛氏が、自分をふくむ東浩紀氏周辺の若手評論家たちをモデルに書き始めたばかりのやおい小説『AZM48 the after story』をめぐって、ツイッター上で議論になっていた。発表媒体が、東さんが主宰する(…でいいのかな?)出版社のサポート会員に配布される会報とあって、今の時点では読んでいる人がかぎられるせいか、議論はさほど広がることなく小休止している印象。会員番号450番であるところの僕(笑)は問題の作品(連載第1回。A4見開き2ページ)を読みましたが、まあ今の時点ではなかなか言いがたいな、という感じ。強いて言えば、性行為がたんに肛門に指なり一物なりを挿入すること、に切り詰められており、快楽を与える/与えられる者のあいだの優劣を決定する行為に過ぎない時点で(快楽を与える側の官能は一顧だにされないんだよね)、BLでもなければやおいでもないかな、という印象はあります(だからといってつま
こんにち40歳になるわたくし、6歳の子供の父親であるわたくしのゆがんだ性愛観は、その多くを十代前半から後半にかけて接したロリコンマンガに負っている、と断言できる。 その中でもとりわけわたくしに影響を与えた、ある短編のことを書いておきたい。掲載誌は『レモンピープル』、作者は官能劇画出身の端正な絵柄でファンの多かった中島史雄氏、題名はもはやはっきりしないが、『遭難』ないし『転落』といった、ごく単刀直入なものであったはずだ。その通り、小学校の遠足で、引率の若い男性教諭と女子児童が遭難するのである。 二人は落盤事故か何かのために、洞穴のような場所に閉じこめられる。なすすべなく救援を待つうち、教師として、大人としての自分の無力を責めたてる少女に激高した青年は、彼女を力づくで犯す。夜もなく昼もない孤立した空間で、青年は少女を犯し続ける。ようやく救助の手がさしのべられる頃、青年の目は落ちくぼみ、顔は無精
みやきち日記さん経由で知ったニュース。 スウェーデンのとある夫婦、2歳児のジェンダーを隠して育て、賛否両論を呼ぶ。 赤ん坊の段階から、男女の性別を子供自身に意識させずに育てようとしているご夫婦の話。 …なんですが、表題の時点でちょっとつまづいた。や、言及先の英文記事を斜め読みしたところ、元記事からして混乱している気味があるので、みやきちさんのせいではないです。 どこかというと、「ジェンダーを隠して」っていう、その言い回し。「ジェンダー」は元の文中にもあるとおり社会的構築物として定義されるから、周囲が(親とか世間様とかが)徐々に与えていく、仕込んでいくものですよね。2歳児に対して「隠す」というと、ジェンダーが、あたかも生まれつき決められているもののように読める。そうじゃなくて、後付けのものだからこそ、極力その影響を少なくして育てたい、ジェンダーの刷り込みに対してニュートラルに育てたい、って
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を近所のシネコンのレイトショーで観て、家に帰ると11時過ぎ。相方と子供はもう布団に入っておりました。いつもだったらそのまま風呂に入って寝てしまうところだけど、冷蔵庫の氷温室に入ったまま消費期限の切れた豚ホホ肉のかたまりが気になっていたもので、明日の朝メシの仕込みをすることに。リンゴとショウガをすりおろして醤油と酒とまぜてタレを作り、半分凍っている肉を5ミリ厚くらいに切り分けてタレに漬け、冷蔵庫に戻しておく。それだけの作業に20分近くかかってしまうのは、やっぱり不器用というか手際が悪いというか。自炊歴の長いわりに進歩がなさすぎだろ>自分。 …などと思いながら、観てきたばかりの『ヱヴァ破』のことも考えました。ミサトとの同居生活で料理当番を重ねるうちに、いっぱしの腕自慢になっているシンジに感化?されて、レイもアスカもおっかなびっくり料理をつくろうとする、新劇場版の
…経ってもまだ、ピンと来ないというか腑に落ちてこないでいます。不謹慎な言い方になってしまいますが、近いうちにあの群青色の日記が彼岸からの書き込みで再開されたとしても、まるで驚かないだろうし、むしろ、それでこそ亡くなられたということを納得できてしまいそうな、そんな感じ。死んだくらいで、あのひとが書くのをやめるとは思えない…なんか滅茶苦茶なことを言ってますが。何度も現にお目にかかっていながら(…とはいえ、そのつど自分はほぼ使いっ走りだったのですが)、それでも、もうこの世におられない、ということ以上に、もう書かない、ということのほうを、ひどく理不尽で、あり得ないことみたいに感じています。イシハラの書くものを気に入ってくださってたようなので、さっさと引き合わせればよかった、という後悔も。 ところで。この場所で関心を持ち、書いてきたことに即して残念でならないことをひとつだけ。「抑圧図式に偏ったやおい
子供に絵本を選ぼうとすると、つい、自分が子供の頃に親しんだものをまず選びがちです。で、子供が自分と同じように楽しんでくれることをつい期待してしまったり。子供が自分にとって大事だったところは素通りしておいて、自分とは違うところにひっかかってたりすると、妙に不機嫌になったりとか…。 自分の子供を見るときには、どこか、自分が自分の親になって幼い自分を見ている、そのような錯覚がつきまとうのですが、自分の親しんだ同じ絵本を与えるという行動には、そういう錯覚をより強固にしようとする期待、がどこかにあるのかもしれません。 無論、子供のことなので、どこかどう印象深いかなんて、正確に表現できるわけはないのですし、そもそも何に心動かされているかもまだ、わかりはしないはずです。 ついこの間、トミー・ウンゲラーの『へびのクリクター』を30年ぶりくらいに読んでいて、ウンゲラーの絵、そのひとつひとつのタッチから、どれ
「自分の性器を鏡で見たことがありますか?」という問いかけは、女の子に、性的抑圧を気づかせるきっかけとして、わりと定番(たぶん)。 この問いかけを、男子のほうに引っくり返すとしたら、「自分の肛門を鏡で見たことがありますか?」になりそう(えー)。 男のからだの中では、男性性を帯びさせられていない部位は、関心の外に置かれがち。関心を持つな、という抑圧がある……とまで言っていいかは、わからないけど。その「関心の埒外」の最たるものとして、とりあえず「肛門」! 童貞の人とかは、「女の子にどうさわっていいかわからない」的なことを言うことになっているらしいけれど、果たしてそんな彼は、自分のからだにだって日頃さわっているのか、どうか。 他人の身体感覚なんて、自分のそれをベースに想像するしかないと思う。感度、というのは(あまり、いい言葉じゃないけど…)個人差や性差に左右されがちかも知れないけど、大ざっぱな性感
ひと月以上も前にトラバいただいていながら放置しちゃってたnodadaさんへの返信です。元エントリ(こちら)自体にはほぼ同感しつつ*1、後日のコメント欄でのやりとりを拝見するうちに、自分の立場みたいなものをある程度説明しといたほうがいいのかな、と思っていたものの、今に至ってしまいました…年が改まっちゃいましたよ…ほんとにすみません。 以下、かなりとりとめもなく書いていきたいと思います。 まず、ホモフォビアを批判する向きは、担い手の心理を問題にはしていないのでは、という指摘は、そのとおりだと思います。作り手や受け手の内面=真意を括弧入れする意味でも、「表象」が問題化されているはずですよね*2。表現されたものがさまざまに読まれうることがもたらす政治性、というか。既に佐藤さんの論考に読みとれる問題意識ですが…。 いっぽうnodadaさんの目指す読みの方向に、僕が基本的に共感できるのは、「キャラク
以前紹介した、斎藤ミツさんと文尾実洋さん(id:boilednepenthes)の同人誌『腐女子の履歴書』が、文学フリマで搬入した500部を完売してしまったのにはおどろきました(完売御礼対談はこちら)。しかも、当日に発表された東浩紀点の低さというハンデをひっくりかえして、なのだからなおさら値打ちもの。審査基準の再考をうながした原因の一つにはなったのだと思います。コンビそろっての通過がかなわなかったのは残念ですが、基準の再考がなければあるいは2人揃って落ちていたのかも。 内容的には、確かに食い足りなさを感じます。インタビューにしろ、アンケート形式の履歴書にしろ、個別の記事のボリュームがいかにも少ない。物理的な制限がある以上しかたないとわかってはいても、もったいないなぁ、と思わずにはいられません(自分も対談の構成をちょっぴり手伝わせていただきましたが、泣く泣く削った原稿量たるや…)。また切り口
やおいやJUNEに教養主義の一面があることは、読者であったことのある人にとっては意外なことではありません。しかし、その意味、つまり、JUNEが登場する70年代以前の、もっぱら男性によって占有されてきた教養と何が違うのか、といったことになると、ほとんど言葉にされてこなかったような感じがします。この『密やかな教育』は、やおいやJUNE的教養のバックグラウンドとして常々その名を挙げられるヘッセ、ヴィスコンティ、三島、足穂から、24年組の少女マンガ家や栗本薫に至る流れの中で何が変わり、何が受け継がれたのかを、作品そのものや肉声(竹宮惠子・増山法恵・佐川俊彦3氏へのインタビューを併載)をもとに具体的に示してくれる本であり、前提とするにせよ批判的に読まれるにせよ、これからの議論のベースとなっていくだろう本です。 男性たちのものとしての「教養」(それがしばしばホモソーシャルな絆の拠り所として機能してきた
宮崎駿が、いつのまにか「魔法」を物語の中心に置くようになっていた。 89年『魔女の宅急便』で魔法使いを主人公にして以来、92年『紅の豚』、97年『もののけ姫』、01年『千と千尋の神隠し』、04年『ハウルの動く城』、そして08年『崖の上のポニョ』、と並べてみると、『カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』当時の、宮崎アニメ=「漫画映画」という形容は、『もののけ姫』をいくぶん保留するにしても、今や「魔法映画」と言い直したほうがいいくらいに見える。 そしてその「魔法」によって、宮崎駿は、変身する主人公を繰り返し描くようになる。変身の理由をいっさい明かさない『紅の豚』のポルコもふくめ、名前を奪われることで元々の自分を忘れてしまいそうになる千尋にしろ(ここでの変身とは、じつに「忘れること」である!)、老女に変身させられてしまうソフィにしろ、変身によっていろいろと(客観的には)不都合な事態に直面するだ
原爆で家族を失いながらもたくましく生きる少年の姿を描いた(以上、ほぼ棒読み)、中沢啓治の名作マンガ『はだしのゲン』。しかし、親に勧められてこの作品を読んだ小学生当時の僕にとって、『はだしのゲン』は、かーなーりエロかった、のです(笑)。中沢氏の、太く、どちらかといえば不器用な描線がナニゲに肉感的に見えたことに加え、降りかかる試練の数々に耐えるゲン一家のすがたに、どこかサドマゾ的な感覚をくすぐられもしたのです。その極めつけは、なんといっても、原爆投下直後の悲劇でした。ゲンの父が、弟が、そして姉が、倒壊した家の下敷きになって生きながら焼き殺されていく場面に、当時の僕は、のちに知ることになる絵金の無惨絵を前にした時の感覚を先取りするかのように、昏い昂奮を喚び起されていました。 ところで、『はだしのゲン』はアニメ映画化もされています。監督は、マンガ家でもある虫プロ出身の真崎守。僕はこのアニメ版のごく
…と思うんですわ、『崖の上のポニョ』を4回見た人間としましては。 さすがに大ヒット中の映画はというか宮崎アニメはというか、いろんな感想が読めておもしろい。中でも、はああ…と思ったのが「リサの運転が乱暴すぎて人格を疑う、感情移入できない」的な感想。や、自分はほぼ気にならなくて、唯一、大波の寄せてくるドック*1を渡っちゃうところが、ちょっと無理してるかな、と感じたくらい。あとは、このかあちゃんは走り屋かよ!?と単純に盛り上がってました。「法律違反のオンパレード」「人としての見識を疑いたくなります」といった真面目な感想を読んじゃった日には、オレの見識も疑った方が良いのかもなあ…とか。「子を持つ親」として。でもチャイルドシートはちゃんと用意してたよね…。 ただ、あの乱暴な運転ぶり、キャラクターとしての首尾一貫性とは別の水準で、演出上、必要だったんじゃないかとは思うんですよ。以前書いた『ナウシカ』の
ポニョ見たけど、師匠も男友達もいない宗介と、オタク的に都合の良い「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でしたポニョみて「これでいーのか」と思ってうっかり真似しちゃうような迂闊な駆け出しの人には、たいへん有効な良薬的エントリ。 ただし、いちいちごもっとも、ではあるものの、このツッコミが全部クリアされてる脚本だからといって、おもしろい、がどうかは別のような気が。せいぜい「納得」のレベルなのでは。じつは自分、観る前の予断として、乙木さんの書かれてる、海の中からポニョが崖の上で光る宗介の家に憧れていたってのを、彼女の家出の動機にするていうのがたぶん出てくるんだろうな、段取りにしてもうざいな、と思ってたらそゆこと一切無視し尽くしてたんで、心ん中でガッツポーズ決めてました!www にしても(ブクマでも突っ込まれていたけど)、異性婚という禁断の恋愛が、乗り越えるべき試練に満ちた冒険になりえていないっていうのは
めいっぱい乱暴にまとめると、5歳児どうしをめあわせる話、になっちゃうわけで、『人魚姫』がストーリーの下敷きになっているとはいえそれってどうなのよ、と、義母にあたる女神さまから「ポニョは半分人間、半分魚。それでもいいのですね?」とまるで結婚式の誓いのように問われて「うん」と答える宗介くん5さい、の屈託のなさに、不憫さと同時に微かな違和感も感じずにはいられなかったのですが、「魚」の姿に戻ったポニョを人間にするには、案の定!チュウがお約束と言っても、思い返せば、ポニョがチュウを振る舞っていたのはもっぱら小さな小さないもうとたち相手だったわけなのだし、「5歳児どうしをめあわせる」なんてのは目腐れした大人の考え方でしかないにちがいない、とこちらが考え直すスキもあらばこそ、スクリーンでは水滴?にくるまれた「魚」のポニョがさっさと自分から宗介くんの唇を奪ってしまっていました。 飛翔感覚をしきりにホメたた
すっかり遅くなってしまいましたが、「macska dot org」のエントリ「子ども向け劇場アニメが描く「マルチチュード的革命」/ジュディス・ハルバースタム講演報告」と『レミーのおいしいレストラン』の場合/「ゲイな映画」と「クィアな映画」のあいだの感想、続きです。 前回のエントリで、ハルバースタム氏の示す3DCGアニメ作品の読み方はストーリー偏重ではないだろうか、と書きました。その印象に変わりはないのですが、子供に伝わるかどうか、を基準にするなら、提示される読みがそうなる…ならざるをえない、のは、納得できます。「クィアな主体による革命」を肯定するメッセージが子供にも受け止められるように、このようなストーリーにアレンジされている、という指摘としてまず読むべきなんだろうな、と思うのです(さもなければ、ヒロイズムに拠らない「マルチチュード」の共闘というテーマ自体は、何も「ピクサーヴォルト」に限っ
孫引用。やおい論の中には、やおいを性からの逃避、あるいは女性嫌悪と見なすものがあった。しかし厳密にみれば、やおいにおいて回避されているのは、性や女らしさではなく、女性を性的対象としてみる(性的対象としてしかみない)まなざしではないだろうか。藤本由香里「少年愛/やおい・BL」における、金田淳子「やおい同人誌 解釈共同体のポリティクス」引用、の再引用。確認=女性嫌悪に然るべき実体はない(それは神話のようなもんである)。「まなざし」が、あたかも嫌悪すべき何かがあるように女性をまなざす、のにすぎない。女性性を嫌悪するようなまなざしを内面化した者にとってだけ、女性嫌悪は実体をもってあらわれる。逆に言えば、女性嫌悪(性的存在としてのみ存在を許されている「女性」)の正体を「まなざし」だと見破れる者は、すでにまなざしの内面化から逃れ得ている。「女性嫌悪」である/ない、は、「まなざし」の内面化の濃淡の違いの
やおいでのゲイ差別的表現(にまつわるいろんな問題)を、HODGEさんとnogaminさんのやりとり(例えばここ)から拝借して、僕は「表象暴力」と呼んできました。また、そういったウェブ上の議論も反映してのことか、「腐女子マンガ体系」の続編となるユリイカ増刊「BLスタディーズ」でも、複数の書き手が表象暴力について言及しています(っていうか、「やおいをめぐる言説の最大にして最新の論点になりつつある」んだとか!)。いっぽう、同じ問題に言及していながら、石田仁氏のみ、その「BLスタディーズ」に収録の論文「「ほっといてください」という表明をめぐって」の中では、「表象暴力」ではなく「表象横奪」という言葉を選んでいます*1。 で、2つの言葉があいまいに使われているのがどうも気になってまして。そもそも自分がわりといい加減に「表象暴力」という言葉を拝借しちゃった自覚だけはあるので、あいまいななりにハッキリさせ
斉藤環氏とともに聞き手となった金田淳子氏が、『ジョジョの奇妙な冒険』をめぐる自分のやおい妄想を原典の作者に向かって熱弁したことが各所で叩かれていたらしい、「ユリイカ」臨時増刊の荒木飛呂彦インタビューを読んだ。このインタビューの感想をネットでいくつか斜め読みした範囲では、金田氏のやおい妄想そのものの妥当性について触れているというよりは、もっぱら、やおい妄想を公然と語ることのイタさ、およびそれを原作者へのインタビューの場でやっちゃったことへの嫌悪感や反感が語られていたように思う(逆に、数少ない擁護派には、妄想の内容を評価する言葉もあった)。〈なお、はじめに告白しておくと、僕は『ジョジョ』の読者ではない。読んでいたのは連載初期の2年くらいでしかない。なので、金田氏の語る妄想の中身にはいっさいふれることができない、ということを、お断りしておきます。〉腐女子が自分の妄想をおおっぴらに垂れ流すことは、
重要なのはリズムと同期。手を握れば伝わるあれ。ポイントは「同期」なのはもう間違いない。http://marcon.g.hatena.ne.jp/Marco11/20071010/1191993484 中井久夫のエッセイの中でも、極度の不眠がつづいている少女を往診した時の体験談がとりわけ忘れられない。 そう書き出しておいて、どの本だったかすでにあやふやな自分がいるわけですが(笑)、『家族の深淵』だったような。 彼女が非常な緊張状態にあるために、その手にふれることも危ういと思われた。医師は椅子に座らせたままの彼女の、確か、くるぶしに掌をあてがう。ひどく動悸が速い。 そのままの姿勢で時間が過ぎていくうちに、筆者の動悸もしだいに速まり、だんだん少女の鼓動と重なりあって。 …と、別室(もしかしたら階下だったかも)で動いている掛け時計の秒針のコチコチという微かな音が、奇妙に大きく聞こえはじめ。 医師は
これは、一歩間違えば自分も「引きこもりのオタク」になっていたかもしれない松江哲明が、自らの暗い過去を棚に上げて、どうしようもないオタク男たちを叱咤し、おせっかいにも「童貞脱出への道」をプロデュースしてみせた、愛と勇気と感動のドキュメンタリーである。『童貞。をプロデュース』オフィシャルサイト 2部構成を取る本作には、2人の「童貞」(童貞1号・童貞2号と仮称)が登場するが、彼らが執着するヒロイン(?)は、2人とも、名前を2つに引き裂かれている。「1」のヒロインには「まさみ」という、松江哲明監督(id:matsue)の発案による仮名と、ラストシーンでようやく明らかになる実名の2つの名前があり、「2」のヒロインには、アイドル時代の芸名「島田奈美」と、アイドル廃業後に名乗っている本名の「島田奈央子」という2つの名前がある。 そのことは「1」と「2」の大きな共通点であるけれど、同時に、2作の違いが、
『腐女子マンガ大系』は、「マンガ」が大学などでの研究対象として定着してきたことの、おそらく成果と言っていいのだと思う。アカデミズムのいち領域としての「マンガ学」をふまえての企画、ということ。 その上で、この本の場合は、何しろあつかうのが「やおい」だから、社会学(フェミニズム)にも通じていて、なおかつ自分自身も腐女子(腐男子)な、30代中心の比較的若い論者が多いみたい。 腐女子の立場を大事にしつつ、新しい世代の論者が、マンガ学と社会学の知見を用いてやおいを肯定的に語る本、という感じかな。いわば、アカデミズム版『オタク女子研究』というわけですね。上野・香山と、ハク付けもばっちりである。 その趣旨には賛成するし、また、そのメッセージが充分読み手に届く本になっているんじゃないか、という気もするのだが、個人的には、少なからず違和感も感じている。それを言葉にしておこうと思う。 違和感の直接の原因は、や
「子宮で映画を撮る」の元ネタ、もしかしたら、河瀬直美監督の発言だっただろうか(そんな気がする)。しかし、だとしても、ラストシーンの「河瀬直美に捧ぐ」という字幕で、当て擦りを解した観客の笑いを取ってみせるこの似非ドキュメンタリー映画が、タイトルからして、とほうもなく下品であることに変わりはない。 なぜかと言えば、「女は子宮で表現する」的な物言いは、ひたすら「男」への対抗上、発明されたもの言いに違いないはずだからだ。それがただいま21世紀に大真面目に聞かれることのアナクロさをしかし、こんなふうに笑えてしまう山下敦弘の鈍感さには、呆れるしかない。 僕はこの映画を「ガンダーラ映画祭2」で観た。友人から聞いた話だけれど、同じ映画祭の別作品に関するトーク中、この映画祭に参加している某監督が、河瀬監督の新作ドキュメンタリー『垂乳女』で、監督自身の出産場面が股間にフォーカスを合わせて撮られていることについ
むかし漠然と考えていたのは、耽美というかやおいというかBL、の読者が、いずれ女の子どうしものに関心を持つということもあるんじゃないかな、ということでした(ただし、「百合」とはちょっと違う雰囲気のものを想定していた)。男同士の関係性が当たり前になっちゃったら、つぎは男ではない性に関心が向く、ということは素朴にありそうだし、また、やおいを求める一部の人の心理の根っこに、女の子の内なる女性嫌悪がある、というのが本当なら、多少なりともその女性嫌悪が緩和された時、女の子どうしのフィクションを通じて、あらためて自分自身の性を見つめようとすること、もありそうに思ったのです。 そして何より、男である僕の目には、やおいに関わる女の子たちの仲のよさが尋常ではないものに見えたのでした。「友情というより愛だろ」というのは、彼女たちの関係のほうがよっぽど似つかわしい……などとは、当時言いませんでしたが、ちょっと思っ
いきなり引用ですいません。「部落問題文芸」にあらわれる女性たちは、判で押したように、その美貌を強調されるのだ。(略)彼女たちはみな悪徳から程遠く、わずかに陰気な影をとどめるものの基本的にはひたすら善良な性格と、またしばしば明治の「新時代」にふさわしい知性とが、その美貌をいっそう引き立てる。(略)現実の被差別階層中にも、裕福な一家が皆無であったわけではない。人目を惹く美女たちもまた、ままありえたことだろう。だが、そうした事実が現実に存在することと、同時代の作家たちが、それを好んでしかも誇張して書きたがることとは、本質的に次元を異にしていよう。問題は、被差別階層の〈異質性〉を、執拗なまでに等質な「章」(しるし)を介して表象することにある。この点、ありようの「観念性」について、「どうせ被差別部落民は〈人外〉なのだから、途方もない金持ちにしようが、また、娘は京人形のような美人、男は『平家蟹』のよう
3月26日のエントリには、ゴルゴ31やかとゆー家で紹介していただいたおかげで、どえらい量(当社比)のアクセスやブクマやトラバを頂戴しましたよ。30日1日だけで、ふだんのだいたい2ヶ月分のアクセス数(笑)。うだつのあがらねえ泡沫ブログに、やっとめぐってきた幸運か、それとも、破滅の罠か……ニュースサイトってすごいなあ、つか、よしながさんの発言を紹介しただけなのに(しかも僕が初めて紹介したわけでもない…)。皆さんぜひ「メロディ」を読んでいただきたく。 ところで。 ブクマの中で、「友愛」という言葉に触れていたHODGEさんとumetenさんのコメントを読んで、大事なことを書き忘れていたのに気づかされた。2007年03月31日 umeten 「友愛」と言う言葉ではだめなのか。あくまで根底に性を意識させながら、表層的には性を否定する言葉としての「やおい」が必要なのか。2007年03月30日 HODGE
「やおい」をごく大雑把に、「ホモソーシャリティのホモセクシャルへの読み替え」と定義してみる。 ホモソーシャリティはホモセクシャリティを排除することで成り立つから、やおいはホモソーシャルな集団にとって、排除した当のものを突きつけてくる存在、ということになる。やおいに必ずしもその意図があるとは言えないにしろ、やおいには、ホモソーシャル集団の排除したホモセクシャリティを顕在化させる(しかも、多くの場合は戯画化して…)一面も、確かに備わっている。やおいは、ホモソーシャル集団に属する男たちが触れずにいるものを、含み笑いと羨望のまなざしとともに指してみせる。 「メロディ」4月号のよしながふみ&羽海野チカ対談がおもしろい。見た目仲良くないんだけど、お互いの力を認め合ってて、それでその人が本当に困った時には手を貸してやる関係みたいなものを、やおいだと私らは呼んでいて、 と、よしながふみが言っているのを読ん
表題通りの映画だったので、いい意味でびっくり&感動。見る前の期待としては、いわゆる「底抜け超大作」になりがちな企画を、近年はモー娘。主演の中編でタイトな傑作を連打している澤井信一郎監督がどこまで引き締めてみせるか……といういくぶん斜に構えたものだったのですが。大作然としたオールモンゴルロケ&人馬の物量を見せるべき時には惜しみなく見せつつ*1、いっぽうでフェミニズム的な意識をたえず見失うことのない脚本*2の意図をムダなく的確に語りきる澤井演出の妙に、すっかり引きずり込まれてしまいました。 おどろいたのは、「女の目から見たチンギス・ハーン」というテーマが監督への依頼の時点でプロデューサーから提示されていた、ということ*3。たんなる誇大妄想的な一代記とは違う狙いが、企画の最初からあったわけです。今時ただの偉人伝やってもしょうがねえよ、という感覚はごく真っ当なもの。 とはいえ、「女の視点」なるもの
だいぶ前にTBいただいたid:troubleさんのイノセンスへの憧憬/「ぼくがおんなのこになりたいわけ」についてを読んで今さら感想。 自分と似たような体験をし、似たような感情を抱くひとはやっぱりいるんだなあと思いつつ、決定的に違うと見える点もあって、いろいろ興味深く読みました。troubleさんのエントリでも引用されてる、 単純な話、「男」は「傷つける性」かもしれんけど、おれが「男」である必要はない、と考えたらどう?と僕は思って、そのままなんとなくラクになったのだった。「男の子」とフェミニズムについていろいろよくわからないこと。という文の中で、自分が「なんとなく」と書いてしまった一事がずっと引っかかっていたのだけれど、troubleさんの文章に感じる「違い」について考えるうちに、「なんとなく」がも少し具体的に言葉になってきた気がするので、そのへんを。「男性性を嫌悪している」くせに「自らの中
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『d.hatena.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く