サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
d.hatena.ne.jp/zoot32
『ブリグズビー・ベア』 ストーリーは更新されなくてはならない 1981年3月30日、ワシントンDC。25歳の青年ジョン・ヒンクリーは、その年に大統領へ就任したばかりのロナルド・レーガン暗殺を試みた。ヒンクリーはかねてからジョディ・フォスターのストーカーであり、大統領の暗殺に成功すれば、彼女に認められると考えていたのだ。いったいどのような理由により、彼が「大統領を暗殺すれば、意中の女優が振り向く」と、何の脈絡もないふたつの事象を関連づけたのかはわからない。しかしヒンクリーはそのような奇矯なストーリーに沿って生きていたのであり、レーガン大統領暗殺未遂事件が私たちに独特の憐憫を呼び起こすのは、犯人がかかるみじめな物語のなかでしか生きられなかったことの空虚さゆえである。 私たちはみなストーリーに沿って生きている。人は何らかの物語のもとでしか生きていけないからこそ、誰もが内部にストーリーを持ち、日々
ステージ上でギターを鳴らし、「これは君の人生だ/どこへだって行ける(this is your life, you can go anywhere)」と歌うティーンエイジャーに対して、年長者が取れる態度はいくつかある。まずはその短絡さをたしなめること。人生の選択肢は限定されており、無限の可能性などありえないのだから、ものごとの判断は現実的かつ慎重であるべきだとアドバイスする方法である。しかしこれはいかにも退屈だ。十代が短絡的なのは当たり前で、それゆえに失敗するものだし、ある局面では、前へ進むために一度失敗しなくてはならない場合もある。かといって、かかるメッセージを信じていないにもかかわらず、ものわかりのいい大人を演じて「君はどこへだって行けるね」とうわべだけの同意を見せる姿勢はさらに耐えがたい。それは不誠実だし、子どもをばかにしている。では、十代の真ん中で夢を見る思春期の少年少女を描いた『シ
以下の文章は、cakesに掲載した『ヴィジット』評( https://cakes.mu/posts/11351 )から削った部分です。祖父母の家へ行くのが怖かったという経験を書いていたら、筆が走ってしまい、原稿と関係がなくなったので削ったのですが、もったいないので、ここに載せます。特にオチもないのですが、削った部分を載せただけなのでお許しください。 子どもの頃をおもいだすと、たしかに祖父母の家へ行くのは妙に怖かった。彼らとどうコミュニケーションを取っていいのかわからなかったのである。善良な祖父母だったが、子どもの相手をする体力はないし、むりに話を合わせて孫の機嫌を取るような積極性もなかった。そのため、たまに祖父母の家へ連れていかれても、一緒に黙ってテレビを見たり、しけたビスケットを食べたりする以外にやることがなく、子どもの私はすぐに退屈してしまっていた。気前がよく、会うと小遣いをくれるため
『恋人たち』は剥き出しの人生についての映画である。生きることを豊かにしてくれるさまざまな飾りつけを、すべて取り外してしまった先にあるような物語である。人生が虚無と殺伐に満ちていることを、われわれはよく知っている。ゆえに人びとは、それぞれのしかたで、剥き出しの人生を直視しないよう細心の注意を払う。会話の際には冗談を言い、相手の話をきちんと聞き、たくさんの良書を読む。映画や音楽に触れ、美しい衣服を身に着け、部屋を清潔に保つ。なぜそのようなことをするのだと言われても返答がむずかしい。生きるとはそうした、巧妙な回避の連続によってしか成立しないためだ。さもなければ目の前にはただ剥き出しの人生があるのみで、そうした虚しさに直撃しながら耐えられるほどわれわれは強くない。 だからこそ、私は『恋人たち』に反発を覚えた。すべてがあまりにも剥き出しで、登場人物たちは不満ではちきれそうになっていたためだ。少なくと
あの書店ってやつはふしぎなもので、一度店内に入り、書架にずらっと並んだ本を眺めていると、いくらでも本を読めるかのような錯覚におちいり、目についた本を次々に買い求めるという愚挙に出てしまう。そして大量の本を抱えて家に着き、冷静さを取り戻して気がつくのは、こんなに本を買っても読む時間がないという当たり前の事実である。そろそろ「本を読むには一定の時間が必要である」と気づくべきなのだが、書店に入るたびにそのことをすっかり忘却してしまう。理由は判然としないのだが、「読める」とおもってしまうのだ。わかっていても、同じ間違いを繰りかえしてしまう。 したがって読書家の夢とは、将来に渡って金銭的な心配をいっさいせずに済む状態になった上で、仕事を辞めて、家でひたすら読書をすることとなる。私もそうであった。そして、ミシェル・ウェルベック新刊『服従』には、期せずしてその夢を叶えた読書家が登場するのである。舞台は2
『「ブレードランナー」論序説』(筑摩書房)における加藤幹郎のスラヴォイ・ジジェク批判は、「彼にとって重要なことは、誰もが見知っている(つもりの)大衆的参照点を利用して、自説をわかりやすく開陳することだけである」と結論づけられている(p233)。「映画をダシにして、自分に都合のいい結論にばかり持ち込むのはよくないですよ」と言い換えてもいいかもしれないです。映画史の正確な記述にあまり興味のなさそうなジジェクの態度に、加藤幹郎や蓮實重彥が苛立つのはよくわかる。蓮實さんもジジェク批判をしていましたね。 ゼロ年代にジジェクが出てきて、私は単純に「わー、すごい」と圧倒されてしまった過去があるので、いまさら加藤批判に乗ってジジェクをやいのやいの言う資格はない。てへへ。こういう過去は積極的に認めるよ私は。当時は何だか輝いて見えたのであります。その頃は、まだ私自身も映画史に対する認識が甘かったし、勉強も足り
d.hatena.ne.jp
みなさんこんにちは。このブログを書いている伊藤聡ともうします。今年もまた「ふりかえる」の季節がやってきました。今年公開された映画についてふりかえりつつ、いただいた回答をまとめていきたいとおもいます。地味に続いてきたこの企画も11年め、開始当時にはまだ生まれていなかった甥っ子は9歳になり、わたしはけがをしたり病気をしたりすると、治るまでにえらく時間がかかるようになりました。年月が経過したわけですね。今年も、このような質問内容でアンケートを募りました。 名前/性別/ブログURLもしくはTwitterアカウント 2014年に劇場公開された映画でよかったものを3つ教えてください 2で選んだ映画のなかで、印象に残っている場面をひとつ教えてください 今年いちばんよかったなと思う役者さんは誰ですか ひとことコメント 今回の回答者は159人でした。回答いただきありがとうございます。毎年、ベスト10に入る作
みなさんこんにちは。このブログを書いている伊藤聡と申します。これから募集します「2014年の映画をふりかえる」は、今年見た映画のなかで好きだった作品を選んでもらい、全ての結果を集計することでランキングをつける企画です。地味に継続すること11年、毎年、どの映画がよかったかをみなさんに教えてもらい、リスト化してきました。今年も行いますので、映画ファンの方はぜひ参加してみてください。過去の結果は以下のようになっています。 2004年の映画をふりかえる 2005年の映画をふりかえる 2006年の映画をふりかえる 2007年の映画をふりかえる 2008年の映画をふりかえる 2009年の映画をふりかえる 2010年の映画をふりかえる 2011年の映画をふりかえる 2012年の映画をふりかえる 2013年の映画をふりかえる この企画にはコンセプトがありまして、今年よかった映画を挙げ、いいところをみんなで
人間関係において、他者に何かを与えるということが、いまだによくわからない。自分は長らく、与えることのできる人間になるべきだと考えてきた。見返りを期待することなく与える姿勢を持つ必要があると。純粋に、贈与をしたいという感情の発露として、与える側の人間になれないものかと思案してきたが、そのような考えはやや単純だったし、与えさえすればいいというものではないらしいと気づくまでに時間がかかってしまった。仏民族学者、マルセル・モースの『贈与論』は、世界のさまざまな民族、共同体における贈与の形態を研究したテキストだが、同書では「どんな社会においても、贈り物の性質の中には期限付きでそれを返す義務が含まれている」「十分にお返しをする義務は強制的なものである」と論じられている。モースが正しいとすれば、どうやら、返礼を欠いた贈与は両者の関係を破壊してしまうらしい。 銀行で横領した巨額の金を、恋人との逢瀬でひたす
物語の冒頭、公園でスケッチをする少女は、この世界は(コミュニケーションの)輪の内側に属する者と外側に属する者に分けられると説明する。そして少女自身は、その外側にしか存在しえない者であるとつけくわえられる。彼女にとって、他者との関係性はあたかも、けわしく乗り越えがたい壁のように屹立しているのだ。たくさんの子どもたちがめまぐるしく走りまわる、動きの多い公園のシーンのなかで、ひとり孤独を抱えた少女は、みずからが外側の存在でしかあり得ないことの重圧に耐えかねて、ぜんそくの症状を悪化させてしまう*1。こうしたストーリーの起点を持つ『思い出のマーニー』で、主人公の少女、杏奈は、物語を通してつねに外部(外側)を求めて移動しつづけ、さらなる外部へと向かって逃走を繰りひろげることとなる。 少女はつねに、内側から外側への移動を試みるだろう。空気の汚れた都会から、自然の多い療養地へ。しばらく居候する親戚の家から
いくぶん露悪的な印象を受ける予告編から当初想像されたのは、ネットやSNSを通じて「見えない他者」の悪意や恐怖を描くといった内容だった。たしかに『ディス/コネクト』には、ネット時代の残酷さ──名を持った個々の人間をたちどころに非人格化し、尊厳を剥ぎ取ってしまうプロセス──が描かれてはいる。しかし、本作においてもっとも重要なのは、他者が現実的に見える距離にいることだろう。それは場合によって、一方的(AはBを見ているが、BからはAが何者かが見えない)であったり、双方向的(A、Bがお互いを認識している)であったりするのだが、いずれにせよこの物語における他者はつねに近い場所におり、「見ることのできる存在」だ。ではなぜ本作は、SNSを題材にしながら、見える距離にいる他者を描くという奇妙な迂回を必要とするのだろう。 劇中もっとも印象に残るのは、家族の病気について真剣に話す少女と、その話を聞いている彼女の
内容に言及しているので、未見の方は注意ください。 作品につけられた英語のタイトル “Blue is the Warmest Color”(青はいちばんあたたかい色)は、作品の主旨をよく汲み取っているようにおもう(ちなみに本作は仏映画である)。この映画における青は愛情の色であり、人を愛するエネルギーを示す色である。登場人物たちは劇中で豊かに感情を交わしながら、絶え間なく色彩を交換し、青の色をキーにしながら物語を組み立てていく。テーマとなる色がエモーションへ直結する点に、仏映画らしい繊細さと心遣いを感じた。 主人公が恋する女性は髪を青く染めている。この映画における、色彩=感情のルールに従って解釈すれば、他人を愛するエネルギーを強く秘めている人物ということになる。さらに彼女はデニム生地のジャケットまで着ており、愛の意欲が強いことをおもわせる。主人公の想いと同じように(主人公は青い髪の女性にひとめ
単なる娯楽作品という枠をこえて、ほとんどポップアートの領域に到達してしまっている『LEGO®ムービー』のビジュアルデザインを見ながら、僕は何度も唖然とさせられた。「すぐれた映画」と「特別な映画」をわける境界線は何かという問いは興味ぶかいが(『LEGO®ムービー』はあきらかに「特別な映画」である)、僕にとってそれは、映画のなかに別個の独立した世界が存在すると感じられるかどうか、そして、映画のなかに構築された世界が、それじたい固有の魅惑的なテクスチャーを持っているかどうかだ*1。ただ単に「ストーリーがすぐれている」「演技がすばらしい」というだけではなく、世界の隅々までをくまなく想像し、小さなディテールからあらたな別個の世界を作り上げていく姿勢。その箱庭のような感覚がめまいをもたらし、作品を特別なものにするのだ。 劇中、レゴでできた海面を、レゴでできた船が進んでいく印象的な場面。レゴの波は激しく
(写真は「ふりかえる」イメージキャラクターのオリーヴさんです) みなさんこんにちは。このブログを書いている伊藤聡ともうします。ついにこの企画も10年め。考えてみればわれわれは10年もの長きに渡って、その年どの映画がおもしろいのかを問いつづけ、集計しつづけたわけです。それはさておき、年の瀬ですがお元気ですか。今年もたのしい映画がたくさんあったとおもいます。映画に順位をつけることの理不尽さをかみしめつつ、あえてランキングという非情な行為を行っていきたいとおもいます。毎年恒例となっています「ふりかえる」企画の結果の発表です。さすがに投票で上位に挙げられる人気作品となると、クオリティの高い映画ばかりですので、たのしい年末年始のDVD鑑賞の参考にしていただきたいとおもいます。このような質問内容でアンケートを募りました。 名前/性別/ブログURLもしくはTwitterアカウント 2013年に劇場公開さ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『d.hatena.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く