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daen.hatenablog.jp
未来の古典。法学部生なら全員読むに値する。古典的自由主義の文脈では、自由への脅威は政府がつくる法(law)だとされる。法は、たとえば「未成年が喫煙をすると罰則がある」という形で人々を脅している。 しかし、自由の敵は政府だけではない。コミュニティのメンバーが共有する規範(norms)にだって行動の自由は拘束される。喫煙者が煙たがられているのは、規範による規制だとも言える。また市場(market)が提供していないサービスを買うことはできないので、ここでも一種の規制があると言える。タバコの価格が上がったり、種類が少なくなることで、好きなタバコを気ままに吸う自由は失われる。 そしてレッシグが強調するのはアーキテクチャ(architecture)による規制だ。タバコにはフィルターがついており、有害性が減っているため気軽に吸うことができるが、もしこれがなかったら、おいそれと吸えるものではなくなだろう。
破壊力。これはもはや表現力などという単語で形容できるレベルではない。この作品は破壊力がある。そう形容しないと気がすまない。それほど、この作品には心えぐられる。下衆がいっぱいでてきて、しかもその下衆が延々と自分語りするという点でドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に近い。だが個人的には断然こちらのほうが面白い。町田康「告白」に匹敵する。 破壊力の源泉は、この物語が一人称で語られる点にある。主人公のプンプンはひよこ型の謎の生命体として描かれているが、作品日世界ではただの内気な男子学生である。当然、人間だ。主人公とその親族以外は、ふつうの人間として描かれているのに、なぜ主人公を人間の姿で描写しないのか。それは、この作品が一人称で描かれる、主観的な物語だからだ。 主人公の姿を人間として描写してしまえば、その時点でそのマンガは第三者の視点から見た客観的な物語になってしまう。そもそも、人は普段、自分
ずっと気になっていた哲学者だった。なにかあるたびに「それって言語ゲームだよね」などとドヤ顔ではぐらかす連中に負けたくなかった、というのが動機である。あまり期待はしていなかったが、その分思わぬ収穫もあった。 以下は完全に「私」用のメモとして記すが、暇だったら読んでもらいたい。 およそ語られうることは明晰に語られうる ヴェルベットモンキー語は論理的推論ができない。このアフリカに棲息する猿は「鷲」「大蛇」「豹」の三種類の捕食者の出現に対して、それぞれ別の音声を発話する。おそらく、その内容は「鷲が来た」「大蛇だ、逃げろ」「やべえ、豹だ」といったふうに解釈することができるだろう。たとえその内容が3種類とはいえ、これは立派な言語である。 しかしヴェルベットモンキー語で語られうるのは、この3種類だけなのである。たとえば「……ではない」や「……ならば……」といった接続詞は存在しない。だから「鷲は来ていない
〈第5回誰得賞〉受賞作の「万物理論」について解説します。前回の解説では人為的なイデオロギーによる、大きな物語の維持が不可能になっている現状を指摘しました。それに対するイーガンの解は「たとえイデオロギーにおいて僕たちが無数に分断されていても、僕たちは一つの理論に従って動く自然現象ということで共通している。たかが自然現象にすぎないからといって悲しまないでほしい。世界はまさに僕たちが観測していることで成立している。僕が、僕たちが、世界なのだ」というものでした。いやあ、要約するとまんまセカイ系ですね。さすがエヴァとオウムの年である1995年に出版されただけはある。 しかし全てを理解できる理論が発見されたところで、みんながみんな明晰になるかといったらそんなわけではありません。世の中には聡明であることよりも、とりあえず「自分が正しい」ことにしたい人たちが大勢いるのです。だから、「理解できる」条件がそろ
SFに出てくる動物といえば猫のイメージがある。ハインライン「夏への扉」の影響だろうか。だが世に動物萌えの種は尽きまじ。猫SF以外にも様々な動物が取り上げた作品があるはずだ。というわけで十二支SFを考えてみる。 子(ネズミ):ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」 アルジャーノンは小説界通しても最も有名なネズミでしょう。他に鼠SFとしては冲方丁「マルドゥック・スクランブル」のウフコックとか。 丑(ウシ):津原泰水「五色の船」(「11」収録) 牛SFはぱっと思いつかなかったので、そのかわり牛の身体と人の顔を持つとされる妖怪「くだん」を扱ったこの短編に。おそらくここで紹介した作品の中で一番文章がきれい。 寅(トラ):ベスター「虎よ、虎よ!」 虎はでてこないらしい(おい)。 卯(ウ):ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」 ウサギってあんまりネタにしづらいですよね。あとは「ピーター・ラビット」
先の芥川賞でこれを評価するのしないので意見が真っ二つに割れたのは、円城塔「これはペンです」でした。 文壇はいまや円城党と反円城党の二大政党制に移行しているといっても過言ではないでしょう。*1 なぜ円城塔はそこまで受け入れがたいのでしょうか。あるいはなぜ一部で熱烈に支持されているのでしょうか。それは彼が自然現象としての物書きたらんとしているからです。 もともと円城塔は作家になる気なんかさらさらなく、現に生活のために書いてると公言しています。というのも、彼は東大の院で物理学を研究していた研究者だったのです。しかも研究テーマは言語でした。人間という自然現象が言語を扱えている以上、人間以外の構造においても自ずから言語を発するような、そうした初期設定はあるのではないか、ということを探求していたのです。 たぶんこうした視点が、文壇において受け入れがたい原因なのでしょう。いわゆる「文学」においては人間の
最近の国産SFはすごい。そう思わせるアンソロジー。読書会の課題本にしました。読書会では10点満点で点数をつけて4人で選評したのですが、一番高得点を獲得したのは長谷敏司「allo, toi, toi」(38/40)。満点をつけた人が2人もいました。児童性的虐待者のおっさんが主人公というきわどい設定でありながら、ある種普遍的な問いかけを投げかける作品と評価されました。〈第3回誰得賞〉を授与します。ちなみに最低点を獲得したのは眉村卓「じきに、こけるよ」(10/40)。低評価の理由は、内容がどうでもいい、などでした。これには〈第3回マジで誰が得するんだよこれ賞〉を授与します。 以下ネタバレありで解説。 冲方丁「メトセラとプラスチックと太陽の臓器」 7点 新しく生まれてくる子どもが300年くらい生きられるテクノロジーがある世界で、親たちが自分の死後も子どもたちに残せられるものがあるかを気にする話。立
ポリガミー(一夫多妻制・多夫一妻性・多夫多妻制) さて、残った時間で私は、多様な婚姻制度を認めてもいいんじゃないかという主張の中で、一番現在の我々にとっては反直観的な主張について検討したいと思います。それは、「3人以上でもいいんじゃないか?」という主張です。まず、ポリガミーがはたして、どのように過去の哲学者によって評価されてきたかを紹介したいと思います。 ポリガミーとは、一夫一妻性以外の、3人以上の婚姻形態すべてを指します。つまり、一夫多妻制、多夫一妻性、多夫多妻制、すべて含みます。実際には一夫多妻制を指すことが多いです。 その際に、私が興味深く思うのは、17世紀、18世紀の、近世自然法論者の議論です。近世自然法論者は、どんな法的制度も現状の制度を前提にして解釈するということはしません。彼らは、そもそも契約とはなんのためにあるのか、所有権とはなんのためにあるのか、国家の権利はどのように正当
2010年11月23日の駒場祭での森村進教授の講演の書き起こしです。非常に面白いですよ、これは。 東京大学法律相談所主催で行われた家族法改正講演会「これからの「家族」の話をしよう」では、夫婦別姓・同性婚などについて、大村敦志先生(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、棚村政行先生(早稲田大学大学院法務研究科教授)、千葉景子先生(元法務大臣)、森村進先生(一橋大学大学院法学研究科教授)といった方が討論されました。以下、書き起こし本文になります。 イントロダクション 紹介いただきました、一橋大で法哲学を教えている森村進です。今日のスピーカーの中では、私ひとり、家族法についてそれほど専門的に研究したわけではないのですけれども、それにもかかわらず、ここにお招きいただいたのは光栄に思っております。 私がなぜ招かれたかというと、私が法哲学者として、この問題についてかなり極端な事を言っておりまして、そう
山脇氏からの反駁がありました。それぞれ (1)君の考えは経済的自由主義でない (2)公共哲学を切り捨てているのはリバタリアニズムの方だ (3)公共哲学は余裕ある個人のものでなく、市民のものだ、です。 論点1:経済的自由主義と公共哲学は両立するか ご批判の第一点は、貴方が支持する経済的自由主義を拙著が安易に切り捨てているという点にあると思います。しかし、貴方の「利己的な個人が自由に活動することで、結果的に経済的な富が生み出される。よって自由な秩序こそが望ましい。富の再分配は国家によって達成されるし、社会的な価値の創造については、個人や私的組織が自己の裁量のもとで実行されている」という考えの後半部分には、経済的自由主義とは違う思想が入り込んでいて当惑します。「富の再分配を国家が達成する」という考えが果たして経済的自由主義やリバタリアニズムと両立するでしょうか。私はしないと思います。ですから、貴
ありとあらゆる思想のいいとこどりをすれば最強の思想ができるんじゃね? と思ったことがありますが本書はまさにそんな感じです。そうした思想はたしかに欠点らしい欠点も無く、防御力という点では非常に優秀なのですが、それを使って何か面白いことができるかと言うと、まったく役に立ちません。格別間違ったことを言っているわけでもなく、その方向性の正しさは誰もが認めるところだと思うのですが、僕たちがそんなお上品な存在だったら世界はこんなに混沌としてないよね、と思うのです。むしろハイエクのように穴だらけだけど攻撃力抜群みたいな思想の方が、現実を咀嚼するのに有用だと思います。社会思想史としてはそこそこ。アリストテレスからヘーゲル、横井小楠、南原繁など幅広く紹介されてます。
先日「公共哲学とは何か」を批判的に取り上げたところ、著者である山脇氏から「私自身はこの本が貴方の言うように「無害ないいとこどりの本」とは全く思っておりません(中略)現代社会のあり方について激しく論争しましょう。」とのコメントをいただきました。 僕も市民の端くれとして、このお誘いには誠実に対応しなくてはならないでしょう。というわけで山脇氏の講義で教科書にも指定されている「グローカル公共哲学」の書評とともに、僕の意見を述べたいと思います。 結論から言えば、それは「この公共哲学は理想主義ではあっても、理想的現実主義ではないのではないか」ということです。 ここでは「正義」の話はやめよう まずはじめに断っておきますが、僕は公共哲学が目指している価値について、その是非を判断しません。つまり何が正義だとか、何が倫理的だとか、語るつもりはないということです。それはこの記事の主題ではありません。 (むしろ個
これは本当にいい本ですよ。古典の名に値する。とくに収録論文の「社会科学にとっての事実」は文系なら全員読むべき。 ハイエクによれば知識というものは「存在する」ものではありません。むしろ、知識は個々の人間によって「意思決定される」ものです。これだけだと意味が分からないと思うので、まず知識の前提である「事実」について考えてみましょう。僕たちは「事実」をどのように認識しているのでしょうか。 歴史上の「事実」というとき、われわれはそれによってなにを意味するのであろうか。人間の歴史にかかわる事実は、われわれにとって物理的な事実として意義があるのだろうか、それともなにか他の意味において意義があるのであろうか。ウォータールーの戦い、ルイ十四世治下のフランス政府、もしくは封建制度とはどのような種類の事柄であるのか。(中略) ナポレオン親衛隊の展開の末端から少し離れたところで自分の畑を耕していた人はウォーター
「権利のための闘争は権利者の自分自身に対する義務である。と同時に、権利のための闘争は国家共同体に対する義務である」。 えーと、ちょっと何言ってるかわかんないです。権利ってことは「権利を行使しない自由」も含めて権利なんじゃないの? 権利を主張しなくてはいけない義務って観念できるの? ……そう考えていた時期が僕にもありました。 イェーリングは国家の領域侵害と、個人の権利侵害を同等に考えています。たとえばA国が国境線沿いの住民が一人も住んでいない不毛の土地・甲土地をB国に占領されたとします。A国にとっては経済的な損害は全くありません。しかし、A国はB国に土地の所有権を主張し、B国が立ち退かなかったら、武力行使するでしょう。それで兵士の血がどれだけ流れようと、戦費にどれだけ血税を費やそうと、闘うでしょう。 なぜか。舐められたら終わりだからです。自分の領土を気前よく占領させてくれるようなお人よし国家
前回の記事の続編。 グレッグ・イーガン「無限の暗殺者」(「祈りの海」収録) アンリミテッド・パラレル・マミさん〜最後に残ったアイデンティティ〜 うえお久光「紫色のクオリア」 万物理論紫色☆クオリア (「バタフライ・エフェクト」をノーマル・ほむほむとすると、これはアンリミテッド・パラレル・ほむほむ) 桜坂洋「All You Need Is Kill」 ホマンドー〜いったい何が始まるんです?〜 伊藤計劃「ハーモニー」 僕と契約して、完全社会になってよ! 飛浩隆「グラン・ヴァカンス 廃園の天使I」 魔法熟女らてるな☆マギカ (魔法少女ものの中で一番文章が美しい) 東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」 世界郵便おっさん☆マギカ 小林泰三「酔歩する男」(「玩具修理者」収録) 魔法中年らんだむ☆ウォーカー (ループもので一番怖い。マミさんはおろか、ほむほむですら耐えられないような運命がある。読むと精神の
魔法少女ものにしては血なまぐさいなー程度にしか最初は思っていなかったのですが、なかなかどうして傑作ですよ。だいたいこういうバトルものって敵を倒すときに必殺技の名前を叫ぶじゃないですか。この作品の魔法少女もそうした例に漏れなかったわけで「あーはいはいそういうのね」って思ってたんです。ところが、物語が進むにつれて必殺技をドヤ顔で叫ぶ魔法少女は一名しかいないことが発覚するのです。他の魔法少女は淡々と戦闘をこなしてます。そりゃ戦闘中に中二病を炸裂させている暇はないってことはわかりますが、そんなシリアスな舞台設定だったことに後から気づかされるわけです。これは驚いた。 同時に件の必殺技少女は、シビアな現実を少しでも「魔法少女の世界観」に変えようとがんばっていた、けなげな女の子だったことにも視聴者は気づきます。この転換にはまいりましたね。「ふつうの魔法少女」だったはずが「魔法少女らしくあろうとする痛い子
人間には「好きなことやって野垂れ死にする派」と「あほか! 堅実に安定した生活を送るのが一番だろ派」がいると思う。 「安定した生活が第一派」にしてみたら、とりあえず平均年収1000万以上の大企業に就職することが勝ち組ということになろう。この「安定した生活が第一派」にしてみれば「好きなことやって野垂れ死にする派」は、負け組になる確率が高く、分が悪いギャンブルにハマるバカにしか見えない。だが、たぶん「好きなことやる派」は、どうせいつかは死ぬんだし、それなら好きなことやった方がマシじゃね? という死生観を持っている。 つまり130億年以上続き、この後も永劫に続くであろうこの宇宙の中でぽっと出の数十年を生きるだけの人生など、もはや勝ち負けを論ずるまでもない、ささいなもんじゃないか、と。 いつかは死ぬという巨大な敗北を前にして見たら、もうなんか収入とかリア充とか学歴とかモテとか、どうでもいいんじゃない
福島第一原発の事故以降、「ほれ見たことか。原発は日本じゃ無理」という声が高まっています。しかし原子力が他の代替発電に比べて危険だということが証明されないかぎり、原発を廃止すべき理由にはなりません。 たとえば「「テラワット/時」当たりの平均死亡率は、石油の場合36人、石炭の場合は161人、原子力の場合は0.04人」というデータがあります。世界レベルで見れば、原子力はかなり安全な部類なのです。工学博士の著者は、アメリカでは火力発電所の大気汚染が原因で毎年3万人程度が亡くなっているから原発は相対的にマシ、と主張します。 これら微粒子を出す最大の源は化石燃料の燃焼です。これには、石炭・天然ガス・石油・ディーゼル燃料・ガソリンと木材が含まれていますが、群を抜いて最悪の源となっているのは石炭火力発電所です。 NRDC*1 は、およそ6万4000人がこれら微粒子のために平均よりも早く死亡すると分析してい
小松左京の代表作。永遠に砂の落ち続ける砂時計を太古の地層から発見した主人公が、何十億年もの時空を超えた戦いに巻き込まれるというストーリー。宇宙になぜ人間のような知的生命体がいるのか、という問いに挑んだ作品。アシモフ「永遠の終わり」を豪勢にした感じです。科学・未来予想・オカルト・伝説・神話など、全方位的な知識をまるで幕の内弁当のごとく詰め込んでいるので読み応えがあります。 以下ネタバレ。 たしかに古いなあと思う箇所はあります。たとえば知性や意識について考察するシーン。言いたいことはわかるんだけど言葉のチョイスがまずいです。 それ自体は物質そのものでもなければ、エネルギーそのものでもなく、そのいずれをも超えるものだ――物質を認識してエネルギーの法則を認識できるもの――物質やエネルギーを前提しながら、そのいずれからも、はなれているもの――『負』の存在、マイナスの場、マイナスのエネルギー、マイナス
1.良いデモクラシーの評価基準 シャピロは民主主義(デモクラシー)の良し悪しを評価する基準として「不当な支配をどれだけか減らせるか」という基準を提示します。ここでいう「不当な支配」とは、自分の意思に反した拘束を強いられる状態です。たとえば、学校の先生が生徒に宿題を与えるような命令関係は形式的にみれば支配といえるかもしれませんが、生徒に退学する自由がある以上は、不当な支配とはいえません。 しかし僕はこの「不当な支配の最小化」の基準はあいまいすぎると考えます。真に支配を無くしたいのならば、デモクラシー(多数決)は必要ないはずです。結局、多数決で決めるということは、多数派が少数派を従わせることを認容することでしかありません。だから、すべての個人が自分に利すると思ったことだけに合意する、契約ベースの社会こそが、不当な支配の最小化の行き着く先となるはずです。 とはいえ、この社会では国家は何もしないの
今年もやってまいりました、年間ベストを選出する企画「誰が得するんだよこの本ランキング」です。気持ちとしては「誰が損するんだよこの本ランキング」にしたいところですが、ブログ名との兼ね合いでこのタイトルになっています。実用書と小説それぞれベスト10を発表するので計20作です。 去年のランキングはこちら。 誰が得するんだよこの本ランキング・2009 実用書 第10位 佐藤優「国家の罠」 鈴木宗男と共に国策捜査で起訴された外務官僚の暴露本。なぜ起訴されたのか、検察官との尋問でどのように議論したのか、そもそもこの捜査は国益にかなうものだったのか、など興味深いトピックが目白押しです。検察による役人の不当な起訴がなされ、検察の暴走だとか言われている今こそ読むべき一冊でしょう。また、ノンフィクションとしてすさまじい面白さがあり、文才を感じさせます。 実用書 第9位 リチャード・セイラー, キャス・サンステ
法は誰かが誰かを拘束するものである。治者と被治者の自同性が認められれば、その拘束には正当性が認められる。この考え方の前提にあるのは「自分のことは自分が一番よく知っており、その自分が決めたルールのなのだから、自分は拘束される」という思想である。だがこの前提は正しいのだろうか? 少なくとも僕は自分のことがよくわからない。試験前に、よーしパパ今日は商法8時間勉強しちゃうぞーと意気込んでいたら、なぜかニコニコ動画でくだらない音MADを3時間見てる自分に気づき、愕然としたりする。そんなときは自分というものがいい加減な概念だなと思う。だが現在の自分が過去の自分の想像とは別物だからといって、人格の連続性が失われるわけではない。自己嫌悪することもあるが、なお人格の同一性は保たれている。 しかし、いったんここで人格というものを分解して考えてみたい。人格は、複数の異なる欲望を持つ「自己」の集まりにすぎない、と
これぞ正義論。絶対的な正義などないのだから正義論なんて論じるまでもない、という冷めた価値相対主義は、実のところ正義に対する根本的な批判ではない。それは善にたいしては有効な反論であるかもしれないが、正義にとっては致命的な反論にはなっていない。たしかに文化や習俗が異なる者がいくら話し合っても、有限時間内にそれぞれが納得のできる「正解」をすべての争点において導きだすことは不可能だろう。「正解」の確証可能性がないという意味では、たしかに正義論はたわ言なのかもしれない。しかしそれは正義論がまったく不可能であるとか、まったく使えないものであるということを意味しない。たとえ完璧な「正解」へと至ることはなくても、議論をすることで僕たちはよりマシな結論へたどり着くことはできる。この暫定的な結論を絶えずバージョンアップさせていく過程を正義論と名付けるならば、それは可能であるし有益である。では井上が語る正義はな
刑法・刑事訴訟法について学ぶ人は読んで損はないです。刑事政策の専門家が、治安にまつわる神話をデータに基づいて検証した本。まず「少年犯罪は減っており、むしろ高齢者の犯罪が増えている」のが意外でした。万引きについては1980年代には50%が少年、10%が高齢者でしたが、2006年には30%が高齢者になり少年を上回ります。また刑務所に入る人の大半が「悪い人」というよりも「経済力を失い、社会的に孤立した人」という実態があります。中高齢者の犯罪は年々増加している今、刑務所が身寄りのない老人のセイフティーネットとして機能している状態です。つまり監獄が一種のベーシック・インカム(BI)になっています。 個人的にBIには、公務員契約としての性質があると思っています。三食・寝る場所という最低限の生活を報酬として与える代わりに、犯罪を起こさないという労務を課す、公務員契約です。そうすると、BI導入は国土の全体
噂、伝聞一切なし、すべて一次資料のみからCIAの実態を明らかにした傑作。1947年に発足したCIAの使命は「何よりもまず、第二のパールハーバーのような奇襲攻撃を事前に大統領に報告すること」だった。*1 つまり政策立案のために外国の情報を集め、理解する諜報機関として作られた。しかし諜報機関としてのCIAほどお粗末な組織はなく、ソ連にただの一人のスパイも送り込むことはできなかった。ソ連内の自発的な協力者だけがたよりだったが、彼らは全員殺されるか捕まるかした。さらにソ連の諜報機関KGBからの二重スパイによって情報が筒抜けであることも多かった。現地語を話せるスタッフの不足もあり(これは今も解決していない)、諜報で成果を挙げられないCIAは膨大な予算を浪費して秘密工作に走ることになる。 陰謀をたくらむのは面白い――成功すれば自己満足が得られたし、ときには勝算を集めることもあった――“失敗”してもと
濱野智史が「もう初音ミクが出馬するべきでは」と言っています。言い分はこうです。そもそも民主制(デモクラシー)なんてものは、自分たちのことは自分たちで決めるというだけなんだから、誰か代表を選んでその人に統治を任せるなんていうのはちょっと変だ。固有の頭を持っている分、独自の裁量でなにをやるかわからない「人による統治」よりも、自分たちの意見が直接政策を決めるような「理念による統治」のほうが望ましいんじゃないか。しかし誰かに主権を委任しないことには運営上いろいろと大変なので、理念を体現したキャラによる統治がめざすべき民主制のあり方となる、と。 http://kakiokosi.com/2010/05/%E3%80%90%E6%9B%B8%E3%81%8D%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%97-com%E3%80%91%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%8B%E3%82
1996年、A国中央政府は絶望的な状況にあった。太平洋に浮かぶ群島国家であったA国は、その経済を鉱山資源の輸出に依存しきっていた。その鉱山が反政府武力組織に占領されたのだ。しかし、国防軍にその奪回のための軍事力はなかった。旧宗主国からの援助も断られたA国は、それまで同盟関係になかったBに軍事援助を依頼した。Bは360万ドル(A国国防軍の年間予算の150%に相当する)の対価として最新鋭の攻撃部隊による反撃を約束した。この契約金の出所は未公認の予算削減と占拠された鉱山の国有化と売却である。 この取引は国民的な議論も議会への通知もなく行われた。この取引の過程で元国防大臣が50万ドルの賄賂を受け取り、行政府内の権力者に根回しをしていたことが後に発覚した。その後、軍の指導者がこのスキャンダルをもとに首相を批難する。取引の詳細が民衆に知らされると、軍を支持するデモがはじまり、文民政府は最終的に非を認め
リバタリアン・パターナリズムという思想がある。リバタリアニズムは「市民はバカだが政府はもっとバカなので、市民の判断に任せるしかない」というものであり、パターナリズムは「政府はバカだが市民はもっとバカなので、政府が介入するしかい」というものだ。これほどかけ離れた思想がくっつくことなどないように思えるが、行動経済学者リチャード・セイラーはこう考える。「自由とは、人々が「選択の自由」を実感できることであり、実際に無限の選択肢を用意しなくともよいはずだ。そもそも無限の選択肢など幻想にすぎない。むしろ政府が恣意的に選択肢を用意することで、人々がより幸福になることもありうるはずだ」と。 たとえばカフェテリア(学食)の料理の配列を変えるだけで、その消費量を25%もコントロールすることができるという統計がある。これは人々が、より近くの料理を取り、遠くの料理をとらない傾向があるためだ。では、カフェテリアの管
そろそろこの名著を紹介しておこう。 世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼 - Zopeジャンキー日記 でリバタリアニズムが支持されているのは「なにが正しいかはわからない。だから権力や暴力でなにかを強制するのでなく、自由にやってもらうしかない」という理由だった。 しかしさらに重要な理由は、何が正しいかについて大方の合意ができたとしても、そしてそれがみんなの善意に基づくものだとしても、人類はこれまで正反対の結果を量産してきたという事実だろう。たとえば格差のない福祉社会とか言われても誰も反対しないだろうが、そうしたスローガンのために国家権力が使われた結果は悲惨なものとなった。計画経済(計画化)を批判したハイエクによれば、全体主義は福祉国家をめざす純朴な人びとがまねいた予期せぬ誤りであった。 ハイエクは、全体主義を集産主義の一形態とする。それは、
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