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井上靖『敦煌(とんこう)』の物語は、おもに西夏(せいか)の領内において展開される。この小説の主人公は、進士の試験をうけるため、都にのぼったが、ふとしたことから失敗した。 そのとき、開封の街頭で出あったのが、西夏の女であった。 女は 一枚の布片をくれた。 「それには、異様な形の文字のようなものが、十個ずつ、三行に認められてあった。」それが西夏文字であった。 男(趙行徳)は、この未知の文字がもつ魅力にとらえられた。ついにみずから西夏の国をおとずれようと決心する。 「西夏というのは、チペット系のタングート族の建てている小国で、この種族は早くから五涼地方の東方に蟠踞(ばんきょ)していた。 五涼地方は、いわゆる夷夏雑居の地で、タングート族以外に、ウイグル(回鶻=かいこつ)、チベット(吐蕃=とはん)をはじめとする雑多な少数民族がむらがっていて、その幾つかは小さな王国を建てていたが、太祖のころより、ひと
**************************************** HOME ミッドウェイ ガダルカナル ニューギニア インパール ビルマ シッタン河 ラバウル タラワ サイパン フィリッピン 硫黄島 沖縄 ラバウル将軍・今井均の太平洋戦争 (『責任 ラバウル将軍今井均』三章 角田房子著) 私には、法律で罰せられない罪がある。戦犯として服役を済ませた後も、ラバウルの軍司令官に“終戦”はなかった。釈放後も、庭先の三畳の小屋に自らを幽閉して戦没者を弔い、困窮の遺族や辛くも生還した部下への行脚が続いた。敗軍の将・今村均の自責の旅路を辿りつつ、戦場の実態を冷徹に叙す、太平洋戦争に逝った兵士たちの鎮魂歌。 今村均・略歴 明治19年、仙台に生れる。 高等学校へ進学の析、父を喪い進路を変更、陸軍士官学校、陸大を経て軍人の道を歩む。 昭和13年陸軍中将となり、昭和17年11月、第八方面軍司令
国鉄再生への提言 三塚 博 この書が「分割・民営化」後の新会社経営に、大きな教訓と指針になることを期待してやみません。 加藤 寛 この本を読んでいて、私は怒りと涙がこみあげてくるのをおさえることができなかった。…国鉄荒廃の事実と経過を余すことなく描いているからである。 あとがき 大野光基 昭和六十年十二月 昭和四十五、六年に行われた国鉄の生産性運動(いわゆるマル生運動)について、生きている間にどうしてもその真実を書き残しておかなければならないと思い、ようやく今年(昭和六十年)の正月に筆を起こした。 昭和三十年代の初めから書き出して、生産性運動が国鉄に導入されるまでの経緯を最初に述べ、次に、生産性運動とはいったい何であったのか、それはどうして挫折したのか、その経過を克明に迫った。 私はこの本において、私の国鉄における体験のすべてを包みかくさず書いた。 挫折後、この運動ほど長期間にわたって
*************************************** 山手線 中央線 総武線 常磐線 東武伊勢崎線 京成線 京王線 京急線 HOME 中央線誕生と立体交差 明治22年4月(1889)新宿~立川間の甲武鉄道といわれた今の中央線が仮開通した。 当時の明治政府は幹線鉄道の建設で資金が不足し、地域の鉄道は民間からの出願を許可する形がとられていた。 明治の実業家の岩田作兵衛、雨宮敬次郎の2人がその資金集めをして出願した。そして、 ① 政府の鉄道局による建設 ② すでに赤羽~新宿~品川の鉄道を持つ民営の日本鉄道の傘下に3年間入る という2つの条件で、開業に先立つ2年前に新宿~八王子間の建設許可がおりた。 ルートは荷物と乗客が期待できる街道筋の甲州街道か青梅街道沿いを目論んでいたものの、どちらの沿線住民も反対の声が強くそれが難航するとわかると、鉄道局の技師の提案
**************************************** 明治維新等の記録 太平洋戦争等の記録 第二次大戦欧州戦等の記録 よくわかる科学史 よくわかる科学史 エピソード科学史 化学編 物理編 生物・医学編 農業・技術編 五人の大発明家 概要 ワット スチブンソン エジソン マルコーニ ライト兄弟 通信の開拓者たち 概要 モールス グレアム・ベル マルコーニ ド・フォレスト 半導体 コンピュータ 大空に挑んだ人々 概要 気球 リリエンタール ライト兄弟 リンドバーグ ホイットル ロケット 概要 ツィオルコフスキー ゴッダード オーベルト フォン・ブラウン ガガーリン 星と宇宙 天体と宇宙 宇宙の謎を解いた人々 星と星座 気象と天災 宇宙望遠鏡 宇宙の旅 太陽系 原子力への道を開いた人々 概要 ラザフォード アインシュタイン
巨大都市カルカッタは、現在三百万をこえる人口をもつ。 一時はインドの首都だった。この市が生まれ、富み栄えたのは、主としてイギリス東インド会社とよばれる冒険的商人たちの会社のおかげだった。 この会社はエリザベス一世の治世の終わりごろに設立された。 それは、イギリスかスペインの無敵艦隊(アルマダ)と戦って大勝利をおさめた結果、イギリスの船乗りたちがインドのような遠い未開発の国々と、安全に航海し貿易できるようになった時代だった。 一六八六年にはカルカッタはまだガンジス川の岸にあるごく小さい村だった。 この年、東インド会社の支配人の一人がここに貿易センターを設立した。 位置がうまく選ばれたため、センターの大きさも重要度も急速に増大した。 村は一方が川という天然の防壁をなし、反対側の陸上からの攻撃は土塁ととりでを設ければ容易に防ぐことができた。 土人の支配者からそういうものを建てる許可もあたえられて
********************************* 明治維新等の記録 太平洋戦争等の記録 第二次大戦欧州戦等の記録 よくわかる科学史 太平洋戦争等の記録 陸海軍編纂の開戦 帝国海軍 マレー作戦 ジャワ作戦 ビルマ作戦 比島作戦 勝ち戦 北仏印 南仏印 パールハーバー シンガポール マニラ 泰緬鉄道 敗け戦 ミッドウェイ ガダルカナル ニューギニア インパール ビルマ シッタン河 ラバウル タラワ サイパン フィリッピン 硫黄島 沖縄 開戦から敗戦まで チャーチル 日本海軍 皇軍 神風特攻隊 B17 B29 天皇の決断 マッカーサー 日本占領 海戦 潜水艦の歴史 水雷戦隊 日本連合艦隊 戦艦大和 ソロモン海戦 伊号潜水艦 空母 高速魚雷艇 空戦 空母の歴史 栄光の零戦 はやぶさ 日中航空決戦 陸上攻撃機 グラマン 疾風 紫電改 幻の戦闘機 庶民の見た太平洋戦 サイパン島
****************************** 1関門トンネル 2青函トンネル 3丹那トンネル 4生駒トンネル 5本四架橋 6瀬戸大橋線 HOME 丹那トンネル貫通す――苦闘16年――(長大鉄道トンネルの建設3) (証言私の昭和史第1/東京12チャンネル 星野茂樹、石川九五 [解説] 昭和8(1933年6月19日11時40分、当時の鉄道大臣三上忠造が大臣室で押したスイッチによって、丹那トンネル(長さ7,804m)は貫通した。 7年間で貫通される予定で大正7(1918)年4月着工してから16年という長い歳月が流れていた。 この項の証言者の2人は、トンネルの貫通現場で、この歴史的瞬間を押さえ切れぬ喜びで味わっていた。 思えば長い16年であった。 そもそもこの丹那トンネルが完成するまでは、東海道本線は今の御殿場線を経由していた。 国府津から箱根を迂回して御殿場を通り
****************************************** 碓氷峠の歴史 アプト用SL アプト用EL 山下善太郎 横軽用EF63 急勾配用あさま アプトの道 箱根登山鉄道 HOME 碓氷峠の歴史物語 (小林収著 平成9年刊 p93-123、p181-184) 小林 収(おさむ) 昭和6年長野県佐久市生れ 郷土史家、元長野県地理学会理事、元小諸市立野岸小学校長、元佐久市文化財保護審議委員、佐久市志綱さん委員 著書 軽井沢開発ものがたり、小海線を行く、塩川伊一郎評伝 共著 軽井沢町誌(近現代篇)、佐久市志(近代篇)、立科町誌(近現代篇)、望月町誌(近現代篇)右:明治26年に開通した旧線の煉瓦造りのめがね橋。 今は文化遺産となっている。 旧線は66.7‰のアプト式の単線。 アーチの向こうに、昭和36年に開通した新線上り線のコンクリート橋と特急電車が見える。 新線はアプト
********************************* 明治維新等の記録 太平洋戦争等の記録 第二次大戦欧州戦等の記録 よくわかる科学史 第二次大戦欧州戦線等の記録 欧州戦線 ポーランド パリ陥落 英本土 北アフリカ モスクワ スターリングラード クルスク ノルマンジー バルジ ベルリン その他1 ドイツ空軍 ドイツ海軍 Uボート 機甲師団(日本 ドイツ ソ連 米英) コマンド 空挺作戦 秘密兵器(ドイツ 米英ソ) その他2 自動車発達史 ジープ 銃器 手榴弾 大砲撃戦 人間魚雷 ロケット戦闘機 暗号戦 空軍機 Me109 スピットファイア モスキート ムスタング ミグ ロッキード ドイツ爆撃 飛行機発達史 独裁者 ヒトラー 暗殺事件 ナチ武装親衛隊 ムソリーニ スターリン ソビエトの悲劇 ジューコフ 戦闘機・戦車のイラスト 複葉機戦闘機 第二次大戦の戦闘機 ジェット戦
浜口雄幸(1970~1931) 明治末~昭和前期の官僚・政治家。高知県の水口家に生まれ、浜口家の養子となり、東京大学を卒業。 大蔵省(現・財務省)に入り、逓信次官や大蔵次官となる。 この間に立憲同志会(のちに憲政会)結成に参加。 1915年(大正4)以来衆議院議員6回当選。 加藤高明・若槻礼次郎内閣の蔵相を務め、立憲民政党結成とともに総裁。 組閣するも経済混乱を起こし、狙撃されて重傷を負い、内閣総辞職した。 〈ゲスト〉城山三郎(しろやま さぶろう) 小説家。本名は杉浦英一。 1927年名古屋市に生まれ、一橋大学を卒業。愛知学芸大学(現愛知教育大学)で景気論講座を担当。 1958年に『総会原綿城』で腹水賞受賞。社会性を持つ経済・企業小説の新分野を開拓。 『小説日本銀行』『鼠』『百戦百勝』などから、広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』(吉川英治文学賞)など作品の幅は広い。『男子の本懐』では浜□雄幸を取
Ⅰ 断乎、ハリマン協定を粉砕 1 ハリマンの正体 2 戦後経営の消極主義につけこむ 3 ハリマン覚書の内容 4 小村、政府の無謀に激怒す 5 毅然として神のごとし 6 後門の狼を討つ 7 ハリマンと焼き打ち事件 Ⅱ 満州に関する日清協約 1~7 省略 8 ハリマンに引導を渡す 9 桂と共に辞職 Ⅲ ハリマンの執念と”亡霊” 1 新民屯、法庫門鉄道問題 2 満州銀行の創立案 3 錦愛鉄道借款問題 4 満州鉄道中立案を提議 5 4国借款団も水泡に 小村寿太郎 安政2年9月16日~明治44年11月26日 (1855~1911)宮崎生まれ。外交官。 父は飫肥藩士。藩校振徳堂で学び貢進生として大学南校に進む。 明治8年(1875)に文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学。 帰国後、司法省に出仕し、大審院判事を経て21年(1888)外務省翻訳局長となる。 日清戦争では政務局長。 その後、外務
****************************** 新幹線 高速道路 HOME 田中角栄と道路建設 NHKスペシャル 戦後50年その時日本は第4巻 列島改造・田中角栄の挑戦と挫折より 昭和22年に衆議院議員に初当選した田中角栄は、ローカル私鉄の長岡鉄道の社長となり、公約の電化を実現したことから、地元の強い支持を受けるようになった。 この長岡鉄道は昭和50年に廃止された。 新幹線の時代が到来し、上越新幹線の建設が始まっていた 右は長岡鉄道さよなら記念切符(by net) 1 田中角栄の力の原点は立法 top 長岡鉄道の電化を果し地元での支持を拡大する一方で、田中は霞が関に挑もうとする。まず活躍の舞台として選んだのは、建設省だった。 田中が初当選を果たした1947(昭和22)年12月、GHQ(連合国軍総司令部)によって内務省が廃止され、翌48年7月に建設省が発足した。当時の
右:田中角栄の日本列島改造論の表紙 日刊工業新聞 昭和47年刊 日本列島改造論を発表して国民の絶大な支持を受けて総理となり、高速道路と新幹線を実現した、日本では稀有の政治家。 しかし行き過ぎからインフレとなり、退陣に追い込まれた。 1 田中政調会長のローカル線への執念 top 田中角栄は、大蔵大臣に就任する以前の一年間、池田政権下で、自民党三役の一つ、政務調査会長を務めている。 当時、自民党の政調会長には、一つのポストが約束されていた。鉄道建設審議会の小委員長である。 鉄道建設審議会は、鉄道敷設法に記されている国鉄の建設予定線(予定線)の中から、建設の調査を始める線(調査線)や実際に工事を始める線(エ事線)を建議する運輸省の諮問機関である。 そしてその小委員長は、審議会で話し合う案件を、事前に運輸省の事務局とともにまとめる役割を担っていた。 つまり、自民党政調会長になれば、鉄道建設のリーダ
****************************** 国鉄労働運動史 国鉄スト 生産性運動 鉄道事故 HOME 国鉄スト権奪還スト8日間の攻防 NHKスペシャル 戦後50年その時日本は第5巻 国鉄労使紛争・スト権奪還ストの衝撃より 1 関ケ原の決戦 top 史上空前のストライキが始まろうとしていた。 スト突入前日の昭和50(1975)年11月25日、市川誠総評議長はスト権奪還集会で支援の演説を行った。 「このストライキが、おそらく今後の労働運動の方向を決めていくであろう……」 そして、この市川発言のとおり、このストライキが戦後労働運動の分水嶺となっていく。 スト突入の事態に、自民党幹事長の中曽根康弘は、決戦の時がきたと覚悟した。 「政治ストを繰り返してきた国労などと、関ケ原の決戦をやる時だ。どっちが勝つか。 負けたほうが傷ついて倒れる方向に行くだろうと思った」 力と力の
1 電力 国鉄における昭和26年度の年間使用電力量は、13億5,000万kWhである。 この56%に当る7億5,000万kWhは自営電力がまかない、他は全国の各地で購入した。 自営電力の99%は信濃川水系の千手・小千谷の2水力発電所と、川崎の火力発電所によって発電される。 この3箇所の発電所と5箇所の交流変電所(給電区)及び給電区から直流変電所(変電区)までの合計1,200kmに及ぶ送電線を含めて、発電、需給の電力施設の総合運用が給電という一つの管理系統の下におかれ、直流変電所(変電区)から変成された動力がき電、配電の系統に入っている。 ① 発電 top 国鉄の発電所は、次の6個所である。 千手発電区(水力) 設備容量 31,000kVA×4 最大出力 120,000kW 26年度年間発電量 645,772,000kWh 小千谷発電区( 〃 ) 〃 28,000kVA×2
中川浩一の南武、青梅、五日市線の歴史 (首都圏の鉄道史2) (南武、青梅、五日市線の歴史過程 鉄道ピクトリアル 1992/12) 1 石灰石輸送が主目的な青梅鉄道 2 改軌、電化で青梅電気鉄道となる 3 石灰石輸送に期待した五日市鉄道 4 砂利輸送を目的に南武鉄道は発足 5 青梅、五日市両鉄道も砂利輸送に対応 6 設立難航、工事租製の奥多摩電気鉄道 7 浅野系地方鉄道の合同は不成立 8 買収後の48年間を概観する 9 付表 青梅鉄道初代委員長 指田茂十郎(1842-1902) 指田家は代々玉川上水の管理を委託された家で、茂十郎は地域のリーダーとして活躍。 明治初年、玉川上水の舟での水運を許可されるものの、すぐ取り消された。 そこで鉄道敷設を思い立ち、沿線内の賛否が分かれる中、同郷の下田伊佐衛門と協力して青梅鉄道会社設立に尽力した。 (青梅鉄道関係資料 羽村市) JR東日本に属する南武、青梅
**************************************** 鉄道電化 電車と電気機関車 蒸気機関車 9600形設計 共同設計 列車の走行抵抗 連結器 ブレーキ INDEX 1 鉄道車両の連結器の歩み (汽車 朝倉希一著 p183-190) 著者紹介 伊原一夫(いはら・かずお) 1962年まで自動車関係に、その後現在まで鉄道車両関係に、それぞれ開発設計と工業デザインの業務に従事。 1987年現在、東急車両製造株式会社参与、社団法人・日本鉄道車輛工業会、車両工業デザイン専門委員会・委員長、車両技術委員会・委員。 著書に『自動車の健康診断』『日曜整備士』『自動車工学』(いずれも西束社)などがあるほか,自動車関係結,鉄道車両関係結に数多く執筆している。 1 問題の多かったネジ連結器 top 列車は種々の車両で編成され、それらの車両は連結されたり、解放されたりするから
**************************************** 答申・着工 鉄道研究所 高速鉄道の研究 東海道 山陽 東北 上越 北陸 九州 秋田山形 成田 全幹網 JRと新幹線建設 三木忠直 小田急SE車 特攻機桜花 爆撃機銀河 松平精 零戦 新幹線ATC 弾丸列車と新幹線 技術者の軍民転換 HOME 松平精の零戦から新幹線まで (松平精著 機械学会誌 Vol.77,No.667,昭和49年6月号 p30-33) 松平精経歴 1910年 杵築藩主能見松平家の子爵松平親信の三男として生まれる。 1934年 東京帝国大学船舶工学科卒 1934年 海軍航空技術廠飛行機部技師 1945年 国鉄鉄道技術研究所 技師→所長 1969年 石川島播磨常務 同社技術研究所長、2000年 逝去 著書:『基礎振動学』共立出版、『飛行機の振動』ニッセイエブロ 「高速鉄道技術の黎明 その1~その
北山敏和 1940年奈良県五條市生れ 1959年県立五條高校卒、1963年大阪大学工学部卒→国鉄勤務、 鉄道車両の設計開発、外国の鉄道技術協力(JICAチリ国鉄派遣等)に従事、その間1977年井深賞受賞、1979年オーム賞受章、 1987年民営化で国鉄退職後、東急車両(工場長:土岐実光:S20東工大卒後国鉄工作局) 1年後JARTS(運輸省の下請けでインド、インドネシア、中国等の鉄道調査) 併せてテクノコンサルタンツ(会長:松平精:海軍省から鉄道研究所:新幹線開発に尽力) 会社解散で駿台電子(校長:間野浩太郎:軍部から鉄道研究所→青山学院、コンピュータ黎明期に鉄道のコンピュータ化に尽力) 65歳から年金生活 なお戦時中には職業選択の自由はなく、優秀な人ほど重要な部門に配属されました。 戦後の国鉄は軍関係から多数の優秀な若い技術者を受入れ、新幹線を始めとする鉄道の近代化ができました。 それを
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