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2014年にウクライナ東部で、ロシア系住民の虐殺が行われたという話があります。「ドネツクの虐殺」と呼ばれるこの事件は、ウクライナの民兵(国家親衛隊)によって起こされたとされ、今年(2022年)2月に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻の理由を説明するものとされることがあります。 この件について、正確なことを知りたいという気持ちが高まってきたので、少し時間を使って調べてみました。 まず、どんな話が流通しているのか、典型的と思われるものをリンクします。「日本のマスコミが黙殺するウクライナ東部の大虐殺」という記事です(あとで解説しますが、この情報は真実でない可能性が非常に高いです。ご注意ください.)。 https://www.kazan-glocal.com/official-blog/2014/11/24/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%B
はじめに このメモは、2018年10月2日付で吉村大阪市長からサンフランシスコ市長あてに送られた公開書簡(現在、大阪市のサイトからは削除されています。国立図書館によるアーカイブによって、ここから読めます)に対する反論の試みの一つです。 このメモでは、「4.サンフランシスコ市の慰安婦像及び碑の問題点」というセクションを中心に、歴史認識のテクニカルな論点についての反論を試みました。他のセクションについては検討していません。 全体で9つの反論があります。反論対象の該当箇所は「参照和訳」のPDFファイルのページ数と書簡の抜粋で示しました。 1. 日本軍「慰安婦」犠牲者の人数について 反論1 [該当箇所] 碑文には、1931 年から 1945 年に日本帝国軍に性的に奴隷化されたアジア・太平洋地域 13 ヶ国の何十万もの女性と少女、いわゆる「慰安婦」の苦しみを証言するものである。これらの女性のほとんど
日本維新の会の政策集、「日本大改革:経済成長と格差解消を実現するグレートリセット」を読んでみました(広告代理店の手が入ってるらしい、なかなか上手いタイトルだと思います)。 リンクはこちらです。 https://o-ishin.jp/policy/pdf/nippondaikaikaku_plan_202109_fix.pdf 日本の危機のところ この政策集(というかパワポのスライドです)は、三部構成になっているのですが、全体として「今の日本は危機」「こう改革する」という話になっています(急いでつくったのか、内部学習会の資料みたいな「今後の維新はこうあるべき」というパートも混ざっています)。 まず日本の危機についてみると「経済成長がなく、諸外国に比べて所得落ちていること」「企業の内部留保が多過ぎ、労働分配率が低いこと」「貧困」「少子・高齢化」「教育費の高騰」を挙げていて、まあ普通に社会派です
2021年10月31日、任期満了を受けての衆議院選挙は自民党のある程度の退潮という予想された結果と、維新の躍進と立憲民主の後退という一部でしか予想されていなかった結果をもたらすことになった。 ここから見えるのは、日本が新自由主義と新保守主義に向けて舵を切ったという事実だ。ただし、これは世界的に見て、特異な現象でもなければ異様な状況でもない。ポピュリズムに支えられた新自由主義・新保守主義勢力の台頭は、たとえば2017年にエマニュエル・マクロンの共和国前進(党名)が左右の既存政党を一掃したフランスや、2019年に保守党のボリス・ジョンソンが地滑り的勝利を収めたイギリス、そして2016年にヒラリー・クリントンを破ったドナルド・トランプの大統領就任などでも見られた。 新自由主義とは、競争を原理とし、競争を妨害するような規制を排除することで経済の急激な成長を目指す国内政策であり、新自由主義とは、国際
(僕は渋谷系とかは知らないけど、あの時代に20代だったものとして、90年代についてはそれなりの苦々しさはある。2016年11月に書いたテキストを発掘したので、転載。今も、こんなふうにごまかさないと書けない。) あれは封印されているはずだった。ネオ東京の地下深く、絶対零度の秘密施設に、ってそんな話じゃない。いや、大友克洋という言葉に心当たりがなければ、ここは読み飛ばしてくれ。僕が言ってるのはナショナリズムのことだ。 あれはもう、すっかり忘れ去られて過去のものになり、覚えている者たちも警戒を怠っていないはずだった。だから、僕たちはそれを使って一勝負かける気になったのだ。もちろん、ひどく思い上がっていた。戦後復興、冷戦終結、バブル…。見るべきものは何も見えていなかった。影の部分を忘れて、なんでもできる気になっていたのだ。 「あの時代」の話をしよう。90年代の前半のことだ。僕たちの悩みは大きな問題
「実に日本人という人種はドコの成り下がりか知らないが、実に馬鹿で臆病で人でなしで、爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思いました」。 これは明治から昭和にかけて活動した弁護士、山崎今朝弥が関東大震災の朝鮮人虐殺について書いた文章の一部だ。山崎は大杉栄の弁護士にして友人で、布施辰治とともに多くの社会主義運動家の弁護もしている(金子文子と朴烈の弁護にも加わっている)。 山崎はまた、大変な悪戯者でもあった。権威、権力というものに違和感があったらしく、機会があればふざけずにいられなかったようだ。若い頃、信州で開業していた時には、営業広告に「弁護士大安売」というタイトルをつけ、「山崎博士法務局」を名乗っていた。 もちろん、彼の事務所は民間の機関で、学位は法学士である。「これはヒロシと読んでただの通称だ」「民間機関が『局』と名乗っていけないという理由はない」というのが彼の言い分だったらしい。 また、
1.ごめん、めっさ長いです 徴用工問題と日韓請求権協定の話を書きました。そした、めっさ長くなった…。ごめんなさい。時間のある時に読んでください。ただ、これで問題の大半はカバーしたかと思います。損はさせないので、お付き合いいただけると嬉しいです。 2.いえいえ、解決してません 「請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決したこことなることを確認する」という、インパクトのある言葉が含まれることで有名な、日韓請求権協定。「ほらごらん、これで解決してるじゃないか。韓国はおかしい」とか「いやいや、それは政府の間の話であって、個人が請求する権利はある」とか、いろいろな話が飛び交います。 これに対して、去年(2018年)の韓国大法院(最高裁)の判決は「日韓請求権協定は今回の徴用被害者の損害賠償請求とは関係がない」と断言していまして、文在寅政権もその決定に従っています。いろいろなことを見聞きして、僕もその
5月17日の朝、「今アピールしなくていつするんだ」と思って書いた、維新市政批判の連続ツイート、こっちにもまとめときます。 ====== ====== 「このままの大阪市でいいんですか?」という言い方を、維新・都構想支持の人から良く聞く。では、橋下氏が市長になってからの4年間で大阪の行政はどれくらい良くなったのか。市役所の対応、行政と市民との連携が良くなったとはいえない。橋下氏は改革に熱心ではないか、または無能なのだ。僕は、若い改革派の市長がいる都市に住んだこともある。そういう市長は、まず市役所の雰囲気を変えるし、市民への対応も変える。行政と市民のインターフェイスがまず改善され、市民が市役所を利用しやすくなる。維新市政・府政はそういうことを何かやっただろうか?僕は、むしろ後退していると思う。 それまでの大阪市政は、不十分であり、遅すぎたとはいえ、市民の行政参画を試み、特に都心部では壊滅状態に
井上泰至、金時徳『秀吉の対外戦争:変容する語りとイメージ: 前近代日朝の言説空間』の感想。この本は江戸時代初期からの「朝鮮出兵」を扱った日本の書籍についての論文集だ。 まず、上記のようなものがかなりたくさん出版されていたという事実に驚く。もうはっきり対外戦争として意識されていて、「明治以前は国家意識がない」なんて俗説は吹っ飛ぶ。また、非常にしばしば日本書紀にある「三韓征伐」の話が引用されていて、どうも朝鮮半島を属国視するのは江戸時代よりさらに前からのことではないか、という印象を抱かされた。以下(以上もだが)本論とはちょっと違ってしまうことを覚悟で僕の感想を少し。 金によれば、朝鮮出兵は大きく二種類の論理によって正当化される。一つは征伐の論理。朝鮮側に「非礼」「虐政」「淫楽」「奸臣」「忘戦」などの落ち度があり、日本が正義の軍としてそれを正すというもの。もう一つは防御の論理。元寇への報復、また
某所に書いたメモを再掲。 問題の構図 1. サバイバーへの攻撃の構造 ネット右翼や行動保守などの人のこの問題へのアプローチにはいくつかの共通点があって、その一つが、「慰安所」の実態を証言するサバイバーの方々や、その支援者の方々を攻撃するというものだ。不愉快だが、あえて実例を見ておこう。以下は、吉見義明さんの『従軍慰安婦資料集』へのレビューとして、アマゾンに掲載されている、匿名の読者によるものだ。 「昔から嘘の例えに「女郎の誠」というのがあって、女郎の身の上話など誰も本気で信じたりはしなかった。売春婦は嘘をつくのが商売みたいなものだからだ。ところが現代の無垢な日本人は、元慰安婦と称するお婆ちゃんが泣きわめいて悲劇のヒロインを演じているのを見ると、コロッと騙されるのである」 http://www.amazon.co.jp/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89
偉そうなことを言うのは好きではないし、伝統だの社会のあり方だのを訳知り顔で語るのも嫌いだ。そこまでの実力も地位もない。けれど、一方で「日本の伝統」とか「日本人の感覚」とかをしたり顔で持ち出し、差別や排除を正当化しようとする人たちもいる。そういう人たちの言うことを黙って聞いているよりは、自分なりに言えることを言ってみようかと思ってこの記事を書いた。素人のやることだから間違いやツッコミどころは沢山あると思う。これをきっかけに、いろいろ考えて、発言していく人が増えてくれると嬉しい。 ベネディクト=アンダーソンは好きだしロマンだけど、やっぱり日本にそのまま適用するのは無理があるよな、と思う。まあ、アンダーソン自身も「ナショナリズムをすべて説明できる」と言っているわけではないけど、日本のナショナリズムを近代国家体制(=近代の国際関係)だけで理解するのは多分難しい。 明治維新はあきらかに世界的な国民国
金明美『サッカーからみる日韓のナショナリティとローカリティ』読了。清水市と西帰浦市(済州)で、(少年)サッカーをめぐる様々な実践をフィールドワークしたもの。日本と韓国のナショナリズムの成立ちの違いについての結論が興味深い。 大胆かつ大幅に要約すると、日本のナショナリズムは「地域での活動が自然にナショナルなものにつがなる」ような形になっているという話である。金は、少年団でのサッカーが地域選抜から日本代表につながっていくというような図式に重ねて*1読み解く。 ここで、末端ではナショナリズムが持ち出されないことが特徴的だと指摘されるのが興味深い。日本の、地域での少年サッカーはコミュニティに組み込まれた形で実施され、そこからだんだんナショナルなものに繋がっていく。また、活動のなかで自然に「日本的」な価値観が教えられる。ローカルなものとナショナルなものの区別は日本では曖昧になっているという。 一方、
まえおき たとえば「在日コリアンが持っている『特別永住者』という在留資格はおかしい。日本国籍を取得させるべきだ」という考えがある。また「日本国は様々な民族からなる国家になるべきだ。日の丸はその国家の象徴になるべきだ」という考えもあるように思う。 僕は、ザイトク会的なものの次に、こういう考えを心配している。もしザイトク問題が解決しても、この問題は残ってしまうのではないか、そういう不安がある。なので、この記事を書いた。不安に根拠があるのか、と言われれば「印象程度です」と答えるほかない。杞憂に終わればよいと思う。 本文 日の丸を国民の統合の象徴とする、というアイデアには反対だ。多様なエスニシティの人々を日本国民として統合するという話にも賛成できない。日本国は様々な国籍をもつ人々が共存する場所であるべきだと思う。なぜなら、それが日本のナショナリズムの唯一のありかただと信じるからだ。 ナショナリズム
昨日から会田誠の作品展への抗議について考えている。主に表現の自由という観点からあれこれ書いているのだが、それだけでよいのか、という問題は残る。 確認しておくと、僕は表現は基本的に自由であると考えていて、それが大規模に流通するような場合に、公共性に基づく最低限の規制が必要になる、と考えている。つまり、今回のことに関しては「ポルノとして売っているのではないから、ポルノに似ているとか、芸術としての価値がないといったような理由によって規制するのはおかしい」というのが言いたいことだ。 しかし、これでは議論の水準を切り替えただけで、本当の意味で問題に答えたことにはならない。そもそも会田の作品が問題になったのは、「それがポルノに似ている」からだし、会田が批判的なアイコンとして作品を機能させられるもの「それがポルノに似たものになる」からだ。たとえば、ウォホールの「キャンベルスープ」を缶詰の大量流通と切り離
選挙の前後に「左派(左翼)のこれから」についていろいろツイートしていた。ちょっといじったら一つの文章になりそうだったので、まとめ。 8−90年代の個人主義(というか、反集団主義)的なムーブメントが共同体主義をへて排外的なナショナリズムにつながっていく流れっていうのは、00年代の前半には見えてきていたかな、と思う(このへんは、たとえば薬害エイズと拉致事件の言説分析などをやると面白い。同じフォーマットが左翼的な主張から右翼的な主張に転用される様子が実によくわかる)。 こういう思考の特徴というのは「自己への愛」がそのまま「国家(世界を包含する共同体)への愛」につながっていることで、その先駆的で極端な形のとしてのオウムから「量産型」としてのセカイ系、ややマイルドなあり方としてのJリーグまで、色々な形がある。そこで問題なのは、対話が存在しないことだ。「敵」と話し合わないのはもちろんだが、「仲間」だっ
今話題のバンクーバーオリンピックの男子スノーボード代表、国母選手について考えていたら(もちろん、彼が服装について激しく批判されている件のことだ)、あるブログ記事へのコメントで、「たとえば天皇陛下の前にあの格好で出るのをあなたは許せるんですか」というコメントがあって、ああ、なるほど、と思った。というのは、メディアでの表現について、それに似たことを考えたことがあったからだ。 対談とか討論とかいったような特殊のフォーマットを除くと、たとえばテレビに出ている人どうしは、基本的に敬語で話し合うものだと思う。そのルールが無視されると、見ている我々は不安感や違和感を抱く。出演している二人が私生活において肝胆相照らす仲であって、「ありゃどう見たってコンディション不良だよねー」「大体この時期に大会持ってくんなっての。協会がおかしいよ」と言いあっていたとしても、画面に登場したときには「やはり監督の手腕の限界だ
以下、単なる個人的偏見なので、「俺の意見は違う」という人にはあらかじめ謝っておく。すみません。 というわけで好きなことを書くが、またしても表題のようなことを書いて、歴史修正主義について語っている人がいるらしい。で、それについてこの記事「“単に『知らないから勉強します』”はなぜ『知的に極めて真っ当』ではないか」が書かれている。正直なところ、言いたいことはわからないではないが、ちょっと方向がズレているような気がする。 というか、単に「そういう奴は情けないから相手にしない」「出直してこい」で良いのではないかと。 いうまでもなく、無知であることが恥なのではないし、「勉強する」という宣言がまっとうでないのでもない。問題はそこにはない。もちろん、無知を装って偏見を垂れ流すのは恥ずべきことだが、ここで問題化すべきなのはそういうことでもないような気がする。 「知りません」「勉強している最中です」というのは
『ニューズウィーク日本語版』2009.3.11号の記事「忘れ去られた暴力の嵐」がなかなかいい(58-9ページ)。こう始まる。 ウォール街を南へ進んでいた一台の馬車がJPモルガン商会の正面で止まり、爆発したのは1920年9月のある朝のことだった。 イタリア人無政府主義者マリオ・ブダが仕掛けたとされる世界初の「車爆弾」には50キロのダイナマイトと250キロの鉄片が積まれていた。場所はニューヨーク金融街の最もにぎやかな一角。時刻は昼休みの始まり、まさに最大限の効果をねらった爆破だった。 死者40人、負傷者数百人に達したこの事件は1995年にオクラホマシティー連邦政府ビル爆破事件が起きるまで「アメリカ史上最悪のテロ」とされていた。 JPモルガンの建物の外壁には今も爆発の痕跡が残っている。だが、エール大学のビバリー・ゲージ准教授が新著『ウォール街が爆発した日』で指摘するように、事件やその背後にある「
イスラエルの新聞、ハーレツ紙に村上春樹のエルサレム賞受賞演説の全文が出ました。Always on the side of egg :by haruki murakami 署名入りですので、これがオリジナルという扱いになると思います。これで、どのソースで何が含まれる、というような問題は全て解決されます。ただ、同時に著作権の問題も発生することは間違いありません。全文翻訳は問題があるかもしれませんので、色々考えなければいけないと思います。時間もあまりないので、とりあえず気付いたことだけ。 「行ったら本をボイコットすると警告された」という表現が含まれています。 「ガザで非武装の市民、子どもと老人が犠牲になった」という表現が含まれます。 「過剰な軍事力の行使」という表現が含まれます。 「どのような戦争も許容しないし、いかなる国も支援しない。また、もちろん、自分の本がボイコットされるのも見たくない」と
とりあえず、熱。出すぎやろ。 というわけで、昨日から寝込んでしまっていて、何も思うようにならない。なので速報だけ。 受賞演説については、エルサレム・ポストの記事が一番詳しいとみなされているようで、ガーディアンの記事もそれに準拠している。 全体としてややマイルドながら政治性が出ていて、なかなかの名演説だ。冒頭のところ(「小説家、つまり職業的な嘘吐きとしてここに来ました。政治家も外交官も嘘をつきますが、小説家が違うのは大きな嘘をつけばつくほど褒められることです」「僕が嘘を言わない日は一年に何日もありませんが、今日はその日です」)はかなり受けがよかったらしく、記者も熱心に引用している。色々考えたが、何も言わないより言うことを選んだ、というユーモアを込めた展開。そして壁の話。高い壁にぶつかる卵という、読者にはおなじみのフレーズ。壁が非道なことを行なわせる、壁に支配させてはならない、という政治的な含
1993年のオスロ協定で暫定自治が合意され、西岸とガザがパレスチナ人の手に戻されたことになった後も、基本的な状況に変化はなかった。96年の時点で、サイードはこう書いている。 オスロ合意後の西岸の地理は、頭がおかしくなるほどに複雑であるが、三つの地域からなっている。…A地区は西岸のほぼ一%しか占めていない。それはラマラと五つの主要な町、ただしヘブロンを除く、である。この地区はパレスチナ政府の管轄下にある。B地区は四〇〇の村の連鎖からなり、農業地帯と隣合っていて、全体の二七%を占めている。これはイスラエルが管理し、パレスチナ政府はきわめて稚拙な補佐役でしかない。C地区は入植地域であり、連結道路か「バイパス」が走っていて、完璧にイスラエルのものである。それは計算してみると、およそ七二%を占めている。…困ることは、A地区から他のところへ移動するさいに、どうしてもB地区を通らなければいけないことだ。
パレスチナが足りない 日本のメディアではパレスチナ問題と旧ユーゴ紛争は、ともに『民族問題』と『宗教問題』として語られることが多い。いや、この表現は正確ではない。『民族』『宗教』という言葉が口にされた瞬間から、日本人の多くは思考停止に陥ってしまい、『二千年にわたる宿命的対立』やら『一神教どうしの憎悪の関係』といった説明文句が登場すると、それで議論が打ち止めにされてしまう。 (四方田犬彦、『見ることの塩』作品社、p417) パレスチナ問題というかイスラエル問題というか、名前は何でもいいが*1、この問題の本質というのはパレスチナが足りないことにあるように思う。 一方にイスラエルがいて「住民が全員ユダヤ人であるようなイスラエル国をパレスチナの地(あるいは、ヘブライ語で言えば「エレツ・イスラエル(イスラエル人の土地)」)に築き上げること」を目指している。そして他方にパレスチナ人がいて、「イスラエルが
近所の公立図書館を荒らしてきた。その成果の一冊。 「パレスチナとイスラエル」、ダヴィッド マクドワル、奥田 暁子訳、三一書房 これはすごい。原著が出たのが1989年なので、オスロ合意とパレスチナ自治政府成立以降の重要な部分がフォローされていないのだが、パレスチナ問題についての基本的な文献のひとつに位置付けされうるのではないかと思う。 少くとも、僕がこれまで読んだなかでこれほど明確に問題の経緯が説明されているものはなかった。まあ、単純に僕が無知なだけだと思うのだけど、説明が素晴しく上手いのも事実だ。本には詳しい説明がないのでさっぱりわからないのだが、こちらのサイトによれば著者のマクドワルは「オックスフォード大学で地域研究を専攻した中東問題研究家」だということだ。 全体として言えば、インティファーダ(第一次インティファーダ)を中心に、19世紀末から原著が出た時点での近未来である21世紀初頭まで
ネット言論の一番奥深いところにある幻想は、「我々は独立した感覚と意見を持った存在であり、その表明が集合的になにかを形作る」というものだと思っているのだけど、どうなんだろうか。 もちろん、それは幻想だ。メディアでつながる人々の出現というのは、100年も前にタルドが新聞読者について言っていたことでなんら目新しいものではないという意味でそうだし、「その公衆たちは独自の意見を持っているように見えて、実は新聞を模倣しているにすぎない」と彼が断言した、という意味でもそうだ*1。 ある種の犯罪について、加害者(正確には単に容疑者なのだが、それはともかく)の断罪よりも被害者の落ち度を非難するようなことを言うひとたちがいて、その主張の論理的な誤りを批判するひとたちがいる。 どちらの人たちも、「自分たちがやっているのは論理的な意見の表明である」と言っているように僕にはみえて、その誠実さを疑うわけではないが、自
そろそろ本当にパレスチナ側の資料を集めようと思いつつ。 検索していると、ガザで取材をしている唯一のイスラエル人記者という人がいる。その人、アミラ・ハス記者はもちろんイスラエル軍・政府に対して批判的で、そういう趣旨の記事をいっぱい書いている。 たとえば、こんな感じだ。 いま流行の洗練された言語表現が捻出される以前から、私の両親は「ガラリヤにおける平和のための戦争」とか「公共の秩序を乱すもの」といった表現に吐き気を感じていた。「公共の秩序」なるものが「占領」を意味し、「乱すもの」とは「それへの抵抗」だったのだから。秩序というのは、ユダヤ人がその権利を主張するものをパレスチナ人がもつことを妨害することなのだ。エフード・バラクとツィピ・リヴニが、自分たちはパレスチナ人にはまったく敵対していないと説明するのを聞かなくて、イスラエル政府の閣僚事務官が、人道上の危機はまったくない、それはハマスのプロパガ
リンクを辿っていて、ちょっと興味深いエッセイを見付けた。原文は09年1月7日にロスアンジェルス・タイムズに掲載された英文なので、ほとんどの人には読めると思うのだけど、時間がかかる…ということで忌避する人がいるかもしれない。版権の問題などがあるのはわかっているのだけど、どうしても、と思うので超訳。たぶんミスだらけです。あらかじめごめんなさい。直すべき点はお教えください。 中東の「均衡化(proportionality)」 エドガー・ケレット 【テルアビブ発】12月27日にイスラエルがガザを空爆して何百人ものパレスチナ人を殺害しはじめてからというもの(犠牲者は初日だけで200人を越えたと伝えられる)、メディアで最も多く使われる言葉は「均衡」というものになった。 いったい何発の爆弾を落とせばいいのだろう?これが問いである。イスラエル南部の入植地や町に向けて発射されたミサイル(先月までに数百発に逹
随分前に書こうとして準備していたのだけど、しっかりやろうとすると永遠に無理だと思うので、軽く骨子だけ『鬼滅の刃』について書きます。 『鬼滅の刃』は見た目より単純なところと、見た目より複雑なところを含む、意外と難しい作品だ。しかし、そのメッセージは魅力的で、受け取ろうとすればちゃんと受け取れる。大ヒットしたのは、単に映像的迫力に富んでいたからでも、子どもに受ける表現だったからだけでもない(そういう要素はもちろん含まれているが、それだけではない)。漫画的、映像的にどうであるか、という話はたくさんあるので、ここでは作品のモチーフの話をしたい。ネタバレは最小限にするつもりだが、おそらく全体のストーリーの行方は読み取れてしまうと思う。そういうことも知りたくない、という方は、ここで読むのをやめることをお勧めする。 == == さて、 == == == 『鬼滅の刃』のコミックの後半の巻に、キャラクターの
さっき、エルサレムのブックフェアについて検索していて見付けた。すごく複雑な気分になる。すごくすごく。 この女性のバックグラウンドについては良くわからない。どうやらイスラエルの大学で日本語を教えている人らしく、徴兵されて軍隊にいる息子さんと、高校生で近い将来徴兵されるはずの娘さんがおられる。配偶者の方は、多分ユダヤ人なのだと思うが、はっきりしない。そして、どうでもいいことだが、本文には改行がほとんどない。 非日常の国イスラエルの日常 http://www.geocities.jp/mikayamamori/diary.html たとえば、2009年1月21日の項は、僕が想像する「通俗的イスラエルシンパ」のような文章だ。 問題は根本的には何も解決されていないのだが、とりあえず欧米の関心をハマスの武器輸入問題に向けさせ、アメリカの関与を引き出し、ハマスが破壊されたものの再建に追われているうちは砲
ところで、僕はエルサレム賞に関して、何を知っているだろう? それがイスラエル最大の文学賞であり、イスラエルの有力新聞とかが噛んでいて、エルサレム市長とかも列席する中で授与されるということだけだ。 言うまでもなくエルサレムはパレスチナとイスラエルが領有をめぐって係争し、それどころか過去半世紀以上にもわたって血腥い戦争を繰り広げてきた土地であり、イスラエルはパレスチナに対して相当疑問のある経済政策や軍事行動を取っている国で、イスラエル国民はその多くがそうした政府の行動を支持している人たちだ。 だから、エルサレム賞というのはまことにいかがわしく、その受賞を辞退して当然のように見える。だけど、果してそうなんだろうか?というか、それで良いんだろうか? たとえば、僕だったら、中国の人に「お前は日本人だから南京虐殺を否定しているんだろうけど、あれはな」と言われたりしたら、相当悲しい気分になる。その辺は一
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