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衆院選
le-matin.hatenadiary.org
もう随分昔に読んだので出典をすっかり忘れてしまったのだけど、田辺聖子がある女性について憤慨を込めて書いていたことがある。定年退職することになったその女性へのプレゼントを相談されたので大胆な案を提示したところ、相談してきた若い男性たちが「いや、彼女はただのオバサンですから」と言ったというのだ。そんなことがあるか、と田辺は反論する。 その女性は昭和ヒトケタ生まれだった。世界恐慌のさなかに成長し、戦争とともに思春期を迎え、青春は敗戦という価値観の大転換のさなかにあり、高度経済成長とともに人生の充実期を送ってきた。戦争のために結婚相手が見付からず、結婚が当たり前の社会で働き続けることを選んだ。そういう人が「つまらない平凡なオバサン」でありえるか、と。 その同じようなことが、村上春樹についても言えるのではないかと思う。1949年にベビーブーマーとして生れ、戦後民主主義にどっぷりつかって成長し、10代
正直なところ、僕は最近ではあまり熱心な村上春樹読者ではない。とはいえ、ご多分に漏れず、若いころは相当熱心に読んだ。 で、当たり前だが、彼はこの時期にイスラエルの文学賞を受けることの意味を(まして授賞式に出席すると公言することの意味を)考えていないはずはない、と思う。実際のところ、彼は政治的な発言をしまくっているし*1、賞を辞退するとか授賞式を欠席するとかいうようなことを躊躇うタイプではない。 だから、彼は「政治的行動として」エルサレムに行くはずである。もちろん、ここにあるようなソンダク風の発言をするとは思わない。http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090125/p1 だからと言って、唯唯諾諾と反対側の連中に利用されることを容認したりもしないはずだ。繰返すが、最も非政治的であるために、全てが政治的であることをあれほど理解している人もいない。 ある意味で最も愚劣な
これ↓に答えるとはてな左翼ということになるのだろうか、とおののきつつ。 はてサの皆様に質問がございます。http://anond.hatelabo.jp/20090107103438 皆様なりの思うところがあり、弱者保護の拡充、体制の変革を求めていらっしゃるのでしょう。 では、その理由はなんですか? 私の無知蒙昧な頭ではその理由を明確に説明することが困難なのです。 「なんか、死んじゃいそうでかわいそうだから」 それだけ。他に人助けに理由なんかない。理由が必要なのは、むしろ「助けないこと」のほうだろう。こうやって問いを逆転させると、話は一気に単純になる。この単純さを受け入れないというのはどちらかと言うと衒学的な「偽悪」だと僕は思う。ただ、議論につきあうと話はそれなりに長くなる。なので詳しくは下記を参照されたい。 私的所有論 作者: 立岩真也出版社/メーカー: 勁草書房発売日: 1997/09
派遣村批判とかを見ていると、権威主義的パーソナリティの概念を思い出す。といって、あの単純化された9項目か何だかの話ではない。あれだと多義的に解釈できてしまう。オリジナルの概念を良く紹介するものとして、グーグル2枚目より手前では、たとえばこれ。 権威主義(authoritarism)とは、政治的・社会的・歴史的に優越性(価値性)が認められた既存の権威や権力に無条件に従うことで利益を得ようとする考え方のことである。権威主義者は、自分より上位にあると認める社会的権威や政治的権力、支配的価値観に対して卑屈で弱腰であり、勝ち馬に乗ることを信条として『寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ』の格言に示される従属的な態度を取る。しかし、その一方で、自分より下位にあると考える社会的弱者・政治的マイノリティ、周縁的価値観(サブカルチャー)に対して傲慢不遜で威圧的であり、権力(財力)や権威を何も持たない社会的弱
ブクマがすごいことになっていて、まあ、このままにしとけば格好もつくのだけど。ただ、単純なるポストモダン叩き路線、というのもに違和感はあって。なので、ピントが変にずれるかもしれないのけど、少しだけ、ポストモダンのための言い訳みたいなものを。これで悪評が立ったとしても、それはそれでいいや。 たとえば、下記のような言い方があって、それはそれでもっともな話だ、と僕は思う。 すると次に、この「罪」からハッキリした善悪あるいは道徳に戻りたい、という反動が生じますね。 今、「人権」というようなことを問題にしている人たちは、おそらくそう考え始めているのだと思います。 そうした議論は、いとも単純明快で、ハッキリとした方針も出てきますし、最小限明らかなことがあるということまでも提起できます。なぜなら、「人権」を守ることは善であり、それを侵すことは悪に決まっているからです。そうしますと、訳のわからない罪深さ、と
僕が愛読しているブログには理系の人のものが多いのだけど、この人もそうなのかな?と思う。 http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20081207/p1 ここでは、「絶対的真実」というのは、無根拠、無前提に正しい、という意味で使われているみたいだ。だから「絶対正しい」とか言わないで、ちゃんと説明して説得してよ、というようなニュアンスがあるような気がするのだけど、それはちょっと違うかな、と。 文系的な発想では、自分たちをプレーヤーとして、受け手でもあるかもしれないが、主には送り手であるものとして意識していると思う。そのことをベースに、少し。 物事の認識についてはその主体の数と同じくらいの多様な可能性があり、そのどれが優越していると確定的に言うことはできない。いわんや、その意味づけにおいておや。 というのが、思想や哲学がここ数百年来考え続けていることであり、「絶対的真実はない
よせばいいのに、ポストモダン系の人が南京大虐殺とかの歴史修正主義マターに知的相対主義で突撃して、案の定反発くらったのに定型的に逆ギレして、プチサイエンスウォーズみたいになっているという話。 (ひとつの典型として、ここhttp://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20081203/1228313553) 僕は自分でポストモダニストのつもりだけど、こういう話を見ると情けなくなる。そもそも歴史修正主義は知的相対主義の悪しき応用なのだから、そこに相対主義を持ち出して何かの解毒剤になるわけがないじゃないか。空気を読めよ。 もちろん、気持はわからないではないけれども、わざわざ食中毒の現場で刺身を食ってみせるようなもので、どんなに弁解しても揶揄的な意図が含まれていることは否定のしようがない。デリダにせよ、フーコーにせよ、彼らはそういう態度は取らなかったし、つねに明確な戦略性を持っていたと
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