サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
noon.serio.jp
誰にでも開かれたネット空間=ブロゴスフィアは、あらゆる人間に書くという行為を可能にした。もちろん、それはあくまでインターネットへの接続を可能にする技術が存在している経済的に恵まれた国、言論の自由が保障されている国においてだけの話であることに留意しなければならないが、少なくともこの日本語が解される島国においては万人に開かれたネットが実現しており、私たちにとって書くという行為はとても身近なものとなった。 ブロゴスフィアに散見されるのは、いわば剥き出しの生の条件とでもいうべきものである。ある者は別れた相手との確執を生々しく描き、ある者は抱いた女との苦々しい思い出について語り、ある者は自分の金儲けの方法について語り、またある者は自分が受けた虐待について赤裸々に語った。そこに書かれたことが嘘であるかどうかはどうでもいいことであり、見るべきなのは、現れた言葉の中に否応なく露呈されているこの世界の姿であ
あなたたちは悪口を書いて嫌味を書いていつまでも同じことを繰り返していた 気に入らない相手はとにかく罵倒しなければ気が済まなかった反論せずにはいられなかった 簡単な単語しか使えなかった真面目に考えなかったそれはただの罵り合いだった 見て思ったことを相手にぶつけられればよかったあなたたちはそれで満足して眠ることができた 本当は自信がなかった自分の弱い心を守りたかっただから必死だった 必死で相手の弱点を探してあら探しをして過去ログをあさって相手の失言を探した 相手が失敗すると小躍りして喜んだそれをコピーペーストして人に教えて回った あなたたちの顔は弱く寂しかった何も得るものがないことが自分でもわかっていたから ブログだから匿名だから何をしても許されるとあなたたちは思っていた いつでも過去ログを消していつでもどこかに逃げられると思っていた卑怯なことをしても 嫌いな相手にいつまでも粘
ブログが死ぬのはブロガーが更新をやめたときではなく、そのブロガーに対する読者の信頼、目には見えないが確かに存在する信頼が、失われたときである。
例をあげれば、ある男Aがある女Bに「愛している」と電子メールを送ったとき、そこで伝わるのは男が女を愛しているという事象であり、ただの心象を述べているに過ぎないはずである。しかしその伝達が瞬時に行われることで、またそれが同じように反復される返事――たとえば、女の「私も愛しているわ」という返事――によって補強され、二人の間にはある錯覚が生まれる。 それはもちろん愛が存在しないということではない。愛というのは様々な感情を中に潜めた心のあり方であり、たとえば憎しみ、優しさ、痛み、切なさといったものすべてを包含している心の位相である。しかしそれを見るためには足を止めて、立ち止まらなければならないが、電子メールのような即時的なシステムは、人を立ち止まらせることをやめてしまう。 この男と女のやりとりはただの比喩であるが、インターネットの言論に見られるあらゆることに、ここで隠蔽されていることが当てはまる。
別に「くだらない」に限ったことではない。 同じように「無知」や「文章が下手」や「アルファブロガー」といった、あらゆる自己卑下の形式に当てはまることではあるのだが、この手の人間の手口というのはいつでも見え透いている。 つまりこの手合いは、実のところ、自分は本当は馬鹿でも無知でもないと思っているのである。 いや、自分は頭が悪いですから、自分はくだらない人間ですから。 そう平然と言う人物の口には薄く笑みが浮かんでいるのを、あなたは目撃したことがないだろうか? 自分を「無知」であり「馬鹿」であり「アルファブロガー」であると、「謙虚に」認めて見せるまさにその瞬間、その自意識は密かに無傷のまま保たれる。 自分が真にくだらなく、愚かで、無知な人間であるという、その矮小なプライドにとってもっとも受け入れがたい、かつ動かせない事実。 自己卑下をパフォーマンスして見せることにより、そういった受け入れがたい事実
ここから何かを期待する事は出来ないであろう。私の擬態化されたものは私自身ではない。 南無玄之介、「痴覚の現象楽-Mentality Spot-」 <はじめに> 生きることに伴う困難には様々なものがあるが、その困難さが自分の魂よりも遙かに巨大なものであることを宿命づけられた人間は、そのように過酷な現実の諸要素に抗うための方法として、見るという行為を選ぶほかない。 宿命に抗おうとするあらゆる行動が、その宿命の自同律を強化する作用しかもたらさないということを認識してしまった、あるタイプの知性を持った人間が選ばざえるを得ない、ぎりぎりの選択でもあった。 そして見るということはすなわち現実世界において不能であり続けるということであり、自らの手で宦官となることである。なぜならこの現実における不能こそが、行動によって隠蔽されつづけるこの世界の姿を見るための、唯一の方法であるからだ。 <逃げ場としてのイ
人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである。あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに夢魔のようにのしかかっている。(*) 書くということはすでに何度も繰り返された歴史をたどりつつ、そこから離れようとするある運動のことであるが、これがこの私たちの愚かなブロゴスフィアの場合、たとえばありとあらゆる場所で繰り返される大小様々な幾千億のエントリの更新、「そんな記事は既出」に代表される先に書いたものが重要であるという無意味な価値観の蔓延、書き手の恣意的かつ任意の削除により言論の倫理性が激しく損なわれて回復不能となっている事実などにより、その中で生きるほかない私たち21世紀の日本人は、自分たちの書いているエントリがいったいどのような立ち位置、時
(コメントは匿名でも記入できます。メールアドレスも必要ありません。コメントされた言葉の著作権はすべてブログ管理者に帰属することにご注意ください。削除や変更要請は受け付けません。またIPアドレスはコメントした個人を特定するために記録されています。)
私にしては珍しく、真昼の恵比寿で人と食事というものをした。人と会うのはほとんど夜な私にとって、この時間帯にこういうことをしているのは珍しい。それにつけても、日本の太陽の日差しというものは、もう夏も近いというのに柔らかく、優しくうっとうしい。まるでもう中年になる子供の世話を焼きたがる自立できない母親のようである。しかし空気は涼やかで、風はさわやかであった。 この国の気候は私が育った毒々しい光に満ちた熱帯雨林とは違う、と思いながら中華レストランで注文した飲茶の焼売を口にする。焼売、チマキ、ザーサイの飲茶セットは、日本の丸い味の野菜で作った日本製中華料理の味がした。天井のガラスから射し込み自分の手を焼こうとしているこの穏やかな太陽の光も、この中華料理と同じように、本物ではなく、まがいものではないのか、と考えながら、一緒に食事をしている相手に微笑んで見せる。 太陽で出来た影が斜めに店内に落ちてきて
最近よく目にする広告だが、これは一種の詐術ではないのか。 アップル - Macをはじめよう - TV CM すでに見た人も多いと思うが、「パソコン」というスーツを着た小男が、「マック」というカジュアルな格好の優男に、さまざまなシーンでからかわれ、馬鹿にされ、面目を失わされつつも、それに一切気がつかない鈍感ぶりを発揮し、結果として視聴者の失笑を誘うという、アップルがここしばらくネットやテレビで放映し続けている、あの趣味の悪いCMのことである。 もちろんここでいう「パソコン」という名前の小男は、ウィンドウズOSがインストールされているパーソナル・コンピューターであり、後者はマックの暗喩である。見る人が見ればわかりますよねという押しつけがましい制作側の姿勢がありありと見える、いわば「ほのめかしメソッド」の悪意ある変種であり、煽りとして実に巧妙な作品である。おそらくはなかなか効果を上げているのでは
どんなブログにも、最初の読者というものはいる。 一日数千のアクセスが普通になってしまったブロガーにも、忘れがたい読者というものはいるだろう。私にとっても最初の読者というものがいたし、その人は忘れることのできない記憶としてある。 男が童貞を捨てた相手を忘れられないように--余談だが、女とは処女を捨てた相手をすぐに忘れることができる生き物だ--ブロガーにとって、最初にそのブログが読まれた体験、言葉が届いた体験というものは、忘れがたいものである。 エントリというものは文章がそこに置かれているだけで価値がでるものではない。例をあげれば、たとえばあなたの部屋には、読んでもいない本が山となって積まれてはいないか。 その本はあなたが偶然手にとって読み、そこにあなたのために書かれた一文を発見したとき、初めて価値あるものとして光を放つのである。 読むということはそういうことではないか? それは一度限りのかけ
人は誰しもが好奇心というものをもっており、それをおさえつづけることなど誰にもできはしない。 http://awasete.com/ 「あわせて読みたい」は、 あなたのブログ読者が読んでいるブログ を表示するサービスです。 あなたのブログ専用の画像をサイトに貼るだけでどんなブログ(※)でも参加できます。 さて、ここに「合わせて読む」という、最近サービスインしたシステムがある。私は登録した覚えがないが、あるブログを読んでいる人が他にどのようなブログを読んでいるのか、表示させる仕組みである。 あるブログで「合わせて読む」をクリックすると、他の読者が読んでいるブログがリストで表示される。なるほど、これはなかなか優れた仕組みである。一つ問題があるとすれば、多くのブロガーたちが「こんなバカが書くブログと同列に扱われたくない」と、内心ひそかに反発していることぐらいであろう。 が、こんな「バカが書くブロ
打ち合わせを昼過ぎに終えて巨大なビルを出ると、外は真夏のような光にあふれている。私はおろしたてのワイシャツのボタンをゆるめて、日がじりじりと照りつける中駅に向かって歩き出す。今朝まで降っていた雨のせいか、空は青く澄んでいる。私は普段はノートパソコンThinkpad1124を入れている革鞄を右手から左手に持ち直す。企画書と納品物しか入っていない鞄は軽い。あまり人のいない昼過ぎの道を渋谷駅への向かって歩いていく。背の低いビルの向こうに、巨大な入道雲が浮かんでいる。その白い体が光を浴びてただ静かに浮かんでいるのを、私は立ち止まってぼんやりと見た。 入道雲のことは英語でサンダーヘッドというらしいことは、高校のころあるノルウェー人のクラスメイトから聞いた。おそらく雷をはらんだ巨大な頭、という意味だろう。熱帯に住んでいるとそのイメージがよくわかった。太陽光線によって毎日のように炙られ、熱せられ、蒸発し
毎日のように買っておいてなんだが、この飲み物を考えた人間は頭が相当おかしい。 まずネーミングのセンスが馬鹿だ。アイス・キューカンバー。氷胡瓜。とてもではないがキュウリを食べたことがある人間が名付けたものとは思えない。キュウリだけならまだしも頭にアイス。購買者を舐めているとしか思えないこのセンスがまずすばらしい。 そしてこの色。人工着色料以外にありえないエメラルドグリーンのこの液体。この色にしようと決めたのはいったいどこの誰なのか問い詰めたいところだが、この色に関して「カラダに悪そう」とか言って否定的な意見を述べた同業者を見かけた。お前は何を言っているんだ。ペプシはカラダに悪くてナンボである。カラダにいいペプシなんぞ飲む価値なしであり、この色を選んだセンスにも脱帽だ。 またこの味。キューカンバーと銘打っておきながら無果汁と堂々と書いてあるのに脱力するが、この色でかつこの名前なのだから、そもそ
あるブログの書き手のあまりにひどい言語障害、そしてそのようなブロガーが書き捨てるエントリに盲目的に追従する、頭が悪いとしかいいようがない数多くの読者の姿。 この二つが渾然一体となってかもしだす、なんともいえない雰囲気こそが、ブロゴスフィアという人生劇場の醍醐味であり、その舞台で日々行われる悲喜劇を、軽いめまいと頭痛を覚えつつ眺めるということが、私たち現代に生きるものの楽しみである、と言えないこともないだろう。 そしてそのような光景は日常茶飯事である。 さて、本日私noon75が皆さんにご紹介したいと思うのは、次のようなブログである。 不謹慎な箱男: ホームレスになってみよう。 世に曰く 「乞食は三日やったらやめられない。」 らしい。 そいつが本当かどうか試してみてぇ! ということで、6/7~6/9にかけて新宿において2泊3日のホームレス生活をやってみた。 そしてこの人物は、食事にも
飲酒運転をして免停となり、執行猶予中の身分にもかかわらず運転をし、「免停が終わっていないことを知らなかった」という間の抜けた弁明をしたが、当然のごとく起訴されていた米国モデルのパリス・ヒルトンが、つい先日とうとう監獄に行くことになった。 日本ではファッションブランドのサマンサ・タバサのイメージガールを務めていたり、日本でモトローラのRAZOR携帯が販売されたときそのプロモーションで来日していたりもしたが、今回の事件があるまでは比較的知られてない芸能人だったのではないか。むろんアメリカではお騒がせセレブリティとして有名なモデルである。 プライベートなセックスビデオ流出など、毎回メディアを賑わせる奇矯な言動からついたあだ名が「エアヘッド」。つまり空っぽ頭である。ヒルトン・ホテルの創業者一家のヒルトン家の令嬢でもあるパリスは、後継者を意味する「エア」とシャレをかけてエアヘッド、つまりカネだけは持
米国のヴァージニア工科大学で少し前に発生した留学生による大量銃殺事件について考えることから始めたいと思うが、私はたとえばネットで群れるしか能のない人々が大好きな弱者叩きにはまったく興味がないし、また「韓国人留学生」というきわめて政治的な単語について何か述べることこそ阿呆のすることであり、愚かで、何の価値もないことであると信じて疑わないブロガーであるわけだが、この事件についていろいろ調べていたときに、非常に驚いた映像が一本あった。それはこの工科大学で行われた追悼式の様子を写したビデオだ。 追悼式そのものは別に珍しいものではないし、つい最近日本でも立てこもり犯の銃撃に倒れた警察官の追悼式をメディアがこぞって報道していたことは記憶に新しい。さてこの米国の同大学で行われていた映像を見ていて、私が思わず呆然としてしまった箇所というのは、この大学の追悼式に出席していたジョージ・ブッシュ大統領が行ったス
所用があって昔の女に手紙を書いた。送信ボタンをクリックして、送信の進展バーが進んでいくのを眺めながら、まったくもって思い出というものはうっとおしいものだと思う。とっくの昔に忘れたと思っていた観光地で聞いたカッコーの鳴き声、蒸気機関車の響き、手で触れた冷たい水、資料館の漱石の遺稿、客のいなかった旅館の床のきしみ、チェックアウトしたあと女が傘を忘れて自分が代わりに取りに戻ったことなど、突然思い出されてきて、まるで阿呆のようにこうして椅子に座っている。この世界に生きるあらゆる人間がそうであるように、誰しもが個人的な痛みや悲しみを抱えており、むろん私もそういった凡庸なる人々の一人でしかなく、そこから逃れられると思うのはただ滑稽である。椅子に座ったままぼんやりと本日用のエントリの空白の入力画面を見ながら考える。ブログの画面の反対側には、おそらく人の数だけの一瞬の孤独があり、薄く青い悲しみがあり、自意
あなたはこんなことを知っていただろうか。 毎日更新されるようなブログに掲載されている99.999999%のエントリは、誤字、脱字、ほのめかしだらけで、内省のカケラも見あたらない、愚にもつかない内容の文章であるという事実が、統計によって明らかになっているということを? そしてあなたはこんなことを知っているべきではないだろうか。 自分のブログを何があっても毎日更新し、読む価値のない、書く価値のない、誰も読まず、そして誰の心も動かさない三流テキストを毎日のようにネットに公開することで、ブロゴスフィア全体の品質を落とすことができるのだということを? さらにあなたはこんなことを知っているべきではなかっただろうか。 開放されたコメント欄やトラックバック欄に群れをなして集まるかわいらしき子犬のようなアクセス乞食、白痴コメンテーター、顔も名前も文才もない、圧倒的大多数のネットにしか居場所のない人々の、何一
「クローズアップ現代」という侮辱的な番組によってあたかも芸能界のように取り上げられたブロゴスフィアがますますその愚かさを加速していく中、それと時を同じくするかのように、ネットにしか居場所がない人々の厚顔無恥さ、ずるがしこさ、卑劣さ、自らの無知を少しも恥じないその傲慢さは、まったくとどまるところを知らないように見える。 インターネットの普及によりあらゆる場所で「言論」が可能になった結果、小学校の作文以外に一度も何かものを書いたこともなく、書くことについて考えたこともなく、何一つ読むに値するものが書けなかった数千万人の人々が、雪崩を打つように二流・三流の知性の吹きだまりであるこのブロゴスフィアにも流れ込んできた。前述の番組はそれを加速する以外の効果を何ももたらさなかったのである。 「痛いニュース」のようなブログはまさにそういった知性のない人々が石をぶつける先を煽り立てる旗振り役である。そのペン
ブログには非常に不思議な人々が住んでいて、それはブログに書かれている個人的な出来事をあたかも自分のことのように受け止めてしまう人々で、彼らはまるで作者が自分の10年来の友人であるかのように振る舞い、ひどいときには同情したり心配してくれたりするのである。書き手から見ると、いや、あなたのことは何も知らないのでそんなものは受け取れないと思うのが普通だろう。 こういった親和性、言い換えればフラットさがネットの良いところとノンキに考える人々が大多数な中こういうことを言わせていただくのは大変恐縮なのだが、別にこれは新しいことでもなんでもなく、テレビで特集されている芸能人に親しみを覚え、赤裸々な性体験を語る作家になれなれしく口をきくワンフとさほど変わらない光景であるとは言える。書き手と読み手の間には無限の欠落があり、越えられない壁がある。 むろんそれはどちらが上といういつまでも繰り返される書き手の優位幻
現代というのは女の発言権というものがこれまで人類史になかったほど強まっている時代である、と考えてしまって差し支えないのではないかと思ってしまうほど、インターネットにしか居場所がない女たちというのは口やかましく、性的魅力をまったく感じさせず、慎み深さというそれ自体には何の罪もない概念に唾を吐くような行為を毎日のように繰り返す自己顕示欲の固まりであり、そういう存在自体薄ら寒いネットの現状を最大限に象徴しているような存在であると思うわけだが、こういったつまらない女たちがパソコンの画面の前で眉をひそめてキーボードを叩いている正直美しいとはとても言えない姿が目に浮かんでしまって仕方がないわけで、メンヘラーという意味のよくわからない日本語に自らをはめ込むことで自虐的な満足を得る奇妙な女たちをはじめ、ネットに住む女たちの姿はまったく奇妙であり奇怪であると考えるのだが、そのような魑魅魍魎が跋扈するブロゴス
以前から言われていることではあるが、新しいブログに引っ越しをしてから文体が変わったという女の意見をよく聞く。内容(心)を規定するのは文体(顔)であるといつものように断じたいところだが、女達の直感というものはたいていの場合正しい。別にファンメールに限らないが、男を一度好きになった女達の直感というものはおそるべきものである。その力を何か世界平和に役立てることができれば、東南アジアに言論の自由をもたらすことができるのではないかと思うぐらいだ。 なぜ変わったかと問うならばその答えは単純で、文体が変わったのは想定読者が変わったからである。以前は一人の読者を想定して書いていたのが、日本語を解する人間すべてに変わったということだ。つまり私は私のたぐいまれなる才能をアジアに住む日本語を解するすべての人々のために役立てようと思い、対象読者を一人から無限に広がる不特定多数に拡大したわけである。 それに従い文体
まったくもって退屈で当たり前の認識から始めたいと思うが、カネをほしいと思うのは社会的な生き物である人として当然の欲求であって、アフィリエイトに精を出し、テレビのディレクターにごまをすり、編集者のところに足繁く通って「ブログには未来がありますよ!」と信じてもいないたわけた嘘をはき続ける一部ブロガーたちの行動は、別に非難されるべきものでないという意見もあるだろう。 またそういう行為をナイーブに批判するのは自分の力でカネを稼いだことすらない学生ニートであったり、創作オナニーにふける童貞であったり、口だけで何一つまともな文章を書くことができないはてなブックマーカーであったり、一定以上のアクセスがあるブログにだけ自分の三流ブログのURLを書き残していくアクセス乞食だけではないのか、という声があるのも理解できることだ。 しかし、それにも関わらず私noon75が不可解だと思うことは、つまりカネがほしいと
信じていた女に裏切られ侮辱され泥を塗られたそこのあなた 愛していた女にすべてを捧げれば報われるものと信じたあなた 幸せにはなれないまでも孤独からは逃れられると誤解したあなた 不信と誤解と傲慢で苦く腐った二人の信頼取り戻すすべもはやなし 青き顔もて火をつけろ、ペイル・ガソリン・オーシャン。 書いていたことは真実でしかなかったと語る不器用なあなた 真実を語るために嘘をつくしかなかったと嘘を書く誠実なあなた 幸せはどこにもないけれどもここには未来があると浅はかに思ったあなた 哀れみと嘲りと怒りでもろく崩れた二人の願いを書き直すすべもはやなし 赤い怒りもて火をつけろ、ペイル・ガソリン・オーシャン。 エントリの一句一行が手紙であったと信じる敬虔なあなた ブロゴスフィアの片隅に届けたい思いがあると掛け金を積んだあなた 幸せの意味はわからないけれどもその価値を見つけてみせると宣言した
書くということはますます困難になってきている。 あと数十年もすれば21世紀初頭の日本は漫画とアニメとゲームの時代として記憶されることになるのかもしれないが、それはすなわち言葉が徹底的に軽視された時代だったということである。すでにある文芸作品をオマージュという都合のよい言葉で焼き直し劣化コピーし借用した言葉を自分の都合のよいように流用して切り貼りした図々しい「作品」ばかりが流通し、消費され、しかもその速度はとどまるところを知らない。 この時代を覆い尽くす恐るべき消耗品としての作品の持つ空疎さを必死になって肯定的に読み解こうとすれば、それはもはやサブカルチャーの礼讃に走るしかない。たとえばそのような文芸評論家も実在していることを私たちは知っている。インターネットという場は自らの厚化粧を褒めてくれるブサイクな男を喜んで受け入れる娼婦のように、股を開いて文芸による権威付けをその緩い性器の中に導いた
ペッパーランチの店長が店で女性を強姦したニュースに関する記事をいろいろ読んでいたのだが、このニュースに限らず毎日のように繰り返される性犯罪のニュースを見ていると、昔フィリピンで終戦を知らずに生き延びてずっとジャングルに潜んでいたある日本人兵士が、「戦争はまた起こるのでしょうか?」という質問を生還後にされたとき、「平和とは、戦争の間の短い休止期間のことなのです」と答えたエピソードのことを思い出す。つまりおかしな男が性犯罪を犯すのではなく、そもそも男とは暴力によってしか性行為を行うことができない生き物であり、男と女の間にある断絶は暴力をふるうものとふるわれるものという差異なのではないのかという視点がなければ、この世界の姿はよく見えないのではないか。したり顔して常識と道徳を語る女達も、自分は暴力とは無縁の生活を送っていると考える顔の青い男達も、ある倒錯した関係性の中にあり、それは暴力を何か外在的
長い夢を見ていた。 未来の日本の夢だ。 夢の中の日本では、民放のテレビ番組にブロガーが出演していた。なぜその彼がブロガーとわかったかというと、出演者のキャプションに「ブロガー」という肩書きが、まるでまっとうな職業か何かのように書かれていたのである。 田舎の母親に「お前、いま東京で何してるの?」と聞かれたとき、フリーターでもなく、ドリーマーでもなく、ニートでもなく、自由人でもなく、アーティストでもなく、まるで当然の職業であるかのように「ブロガー」と、満面の笑みを浮かべて答えることができる世界が、夢の中の日本にはあったのである。 司会者は女性で、淡泊なセックスしかしてなさそうな顔をしていた。この司会者はブロガーのことを「~先生」「~先生」と呼んでおり、その呼び方はまるで漫画家のことを「先生」と呼ぶことで実は見下しているどこかの業界のことを思わせた。 彼女がブロガーを先生と呼ぶとき、その目にはか
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『サブドメインサーバー[SE07.CSIDE.JP]<株式会社シーサイドネット>』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く