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ブラックフライデー
qspds996.hatenablog.jp
フェイクドキュメンタリーとSNS――『クロニクル』 これまで、フェイクドキュメンタリーに対する最大のツッコミ所は、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」ということだった。もちろんそこで撮影を止めてしまえば映画にならないのだが、戦場カメラマンならいざ知らず、ふざけて心霊スポットにやってくるような軽薄な学生たちが死の直前までカメラを回し続けるというのは、どうしても不自然で、ご都合主義的に見えてしまう。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス、1999年)の非常時にも撮影を続ける女を仲間たちが批難するシーンや、『REC/レック』(ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ、2007年)の「何があっても撮り続けて」という自己言及的な台詞からも、制作者たちの苦心の跡が見て取れるだろう。 ブレア・ウィッチ・プロジェクト <HDニューマスター版> Blu-ray
12月20日に某所(別に隠す必要ないと思いますが念のため)でおこなわれた勉強会でプレゼンする機会があり、郊外(論)と芸術にかんする私自身の問題意識をお話ししました。当日配布したレジュメを、いただいたご意見・ご感想を反映して多少修正したものを以下に掲載します。neoneoでの連載「郊外映画の風景論」の執筆動機にあたる内容となっています。 【1】郊外とは何か ■地理区分としての郊外(suburb) ・都市に隣接する地域 ・人びとの住む場所(山岳地帯や海洋、砂漠は郊外と呼ばない) ・通勤や通学などを通じた都市との結びつき(職住分離していない町や村も郊外と呼ばれない) →日本における郊外とは、東京や大阪など大都市を囲むベッドタウンとしての機能を持った、住宅地中心の土地を指す。(国毎に郊外の位置づけは異なる。) ■郊外のイメージ(suburbia/郊外的) ・郊外的なる風景……西洋風の白い一戸建て住
映画の歴史について語るとき、最初に必ずと言って良いほど登場してくるのがリュミエール兄弟『工場の出口』と『ラ・シオタ駅への列車の到着』の二作である。では、「揺動映画史」なるものを書いてみようとしたときに、この二作に匹敵するフィルムが存在するだろうか。つい最近、わたしはこの問いに即答できると思えるようなフィルムに出会った。インドシナで1900年に撮影された『ナモ村落:駕篭から撮影されたパノラマ』(Le Village de Namo : Panorama pris d'une chaise à porteurs)である。 Namo Village, Panorama Taken from a Rickshaw ... この映画では、移動する駕篭に設置されたカメラが、それを追いかける子供たちをはじめとするナモ村落の人びとの姿を捉えており、世界ではじめてトラックバック撮影(カメラが被写体から遠ざか
1 安易な手ぶれ映像 映画批評や感想サイトなどでしばしば見かけるのが、「安易な手ぶれ映像」というような言葉である。このことは、「安易な固定映像」という言葉を見かけることがないことと併せて、手ぶれ映像の置かれた状況を象徴している。手ぶれ映像を語ろうとしたとき、わたしたちはあまりにも貧しい言葉しか持ち合わせていないことに途方に暮れてしまうだろう。ここで世界各国の映画研究を参照することはできないが、少なくとも日本国内においては、今のところ手ぶれ映像独自の表現を体系的に記述した論考やまとまった議論は見当たらない。手ぶれ映像は、これまでの映画史のなかで、常に周縁的なものとしてしか扱われてこなかったのだ。 そして、数少ない手ぶれ映像についての言及も——先ほどの「安易な手ぶれ映像」という言葉が示すように——楽をして「臨場感」や「リアリティ」を得るための手法であるという批判が大半を占めている。たとえば90
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