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現在の「明治神宮外苑」一帯は、江戸期には武家の屋敷や寺院などが集まる地であった。これらの土地は、明治期に収用され広大な「青山練兵場」が開設された。明治後期にはこの練兵場の土地を転用し、博覧会会場とする計画が進められたが実現せず、明治天皇崩御後に「明治神宮外苑」として整備された。 現在の「明治神宮外苑」(以下「神宮外苑」)一帯は、江戸期には「篠山藩青山家下屋敷」などの大名の屋敷のほか、旗本などの小規模な武家屋敷、与力・同心の大縄地、寺院などが集まる地であった。また、幕府の「御焔硝蔵」(火薬庫)、「御鉄砲場」(鉄砲の練習場)もあった。明治期に入ると屋敷の跡は茶畑などにも利用されていた。図は「青山練兵場」が開設される前、1880年代のこのあたりの地図。明治後期頃の「青山練兵場」のおおよその範囲を緑線で示している。【図は1880年代】 一帯は、明治中期までに政府が収用し、1886(明治19)年、現
借家契約において、借地借家法の定めに基づいて自動的に契約期間が更新されることをいう。 借家契約においては、契約当事者が、一定期間前に、契約を更新しない旨または条件を変更しなければ契約更新しない旨の通知をしない場合には、従前の契約と同一の条件で契約を更新したとみなされるが、これが法定更新である。このとき、更新後の契約期間は定めがないものとされる。 また、家主がする契約を更新しない等の通知は、正当な事由がなければすることができないとされている。さらに、期間の定めがない借家契約については、家主は一定の猶予期間をもって解約の申入れができるが、この場合にも正当事由が必要である。 法定更新は強行規定であるため、それについて借家人に不利となるような特約を定めても無効となる。 なお、同様に、借地契約についても法定更新が適用されることがある。すなわち、借地契約において、契約期間終了時に建物が残っている場合に
不動産を購入する時に法人で買うべきか個人で買うべきかというご質問をよく受けます。 この問題、実は、四連立方程式のように複雑です。この問題にお答えするためには①相続の時にどちらが有利か、②所有している間はどうなのか、③譲渡益に対する課税はどうかという三つの面からアプローチする必要があります。加えて、法人が製造業、卸売業、小売業、サービス業など「商売をしている法人」なのか、「不動産賃貸業」なのかにより結論が変わり、更に、購入する不動産の使い道によっても有利不利が変わるのです。 内容が深いので、3回に分けてご説明します。第1回は、「一般原則は法人が有利①(相続評価と所得分配)」、第2回は、「一般原則は法人が有利②(譲渡するとき)」、第3回は、「小規模宅地の特例を考えると」です。 1.相続時にどちらが有利か個人所有と法人所有を比較します 単純な例でご説明しましょう。A(55歳)さんは、資産管理会社
毎日猛暑が続いていますが、そんな中、先日ゴルフに行ってきました。猛暑の真昼間に、日陰の少ない野原でクラブを振り回し、歩いたり、走ったり(私は下手くそなのでよく走ります。)するわけですから、熱中症になってもおかしくないのですが、あまり熱中症になったゴルファーを見かけません。それどころか、明らかに60歳代後半から70歳代と思われる皆さんが、猛暑をものともせず元気にプレーされています。やはり日本のシニアは元気です。 さて、今回は、前回の続きで、経年変化や通常損耗によって汚れたり壊れたりした部分の修理費用を借主に負担させる特約のお話です。 前回ご紹介したケースは、次のようなものでした。 貸していた部屋 : ワンルームマンション(入居時築4年) 貸していた期間 : 4年間 家賃 : 月額8万円 預かっている敷金 : 16万円 入居時の状況 : フルリフォーム(壁紙も張替え)破損・汚れ一切なし 退去時
江戸期、「東海道」が通る「神奈川宿」周辺は、「神奈川湊」もあり、人や物の往来で賑わった。一方、「神奈川湊」と湾を挟んで南に位置する「横濱村」には、砂州が発達した入海があり、江戸前期以降に新田開発が行われ、広大な平地が造成されていた。幕末期、幕府はこの「横濱村」の砂州上と新田一帯を「開港場」としたことから、横浜は日本の貿易の中心地として、また国内外の文化の集積地として発展した。 現在の中区と南区にまたがる伊勢佐木町から「吉野町駅」にかけての一帯は、かつて、釣鐘の形をした浅瀬の入海が広がっていた。北の「野毛山」、南の「山手」に挟まれた谷地で、西(図では上側)から「大岡川」が流れ込んでいた。入海の出口付近(図では下側)には「宗閑嶋(しゅうかんじま)」(「洲干島」とも表記される)と呼ばれた砂州が発達していた。この砂州は横に伸びる浜であることから、「横濱」という地名が誕生したともいわれる。江戸前期ま
現在の川崎市多摩区・麻生(あさお)区一帯は古くから交通の要衝であった。江戸・東京方面から西へ進んできた「津久井道」が「多摩川」を渡り「多摩丘陵」に分け入る、地形的な変化も大きい地域。昭和初期には、この「津久井道」に沿って小田急線が開通、学校・研究所などの施設が沿線に移転してきた。丘陵には、戦前期に「向ヶ丘遊園」、戦後には「よみうり ランド」が開園するなど、行楽地としても発展。昭和30年代以降は「百合ヶ丘団地」をはじめ、多くの団地・住宅地が造成された。「多摩ニュータウン」開発のため、小田急多摩線が建設されると、分岐駅として「新百合ヶ丘駅」が誕生、開業当時は雑木林が広がっていた駅前は、土地区画整理などで整備され川崎市の新都心となり、商業的にも大きく発展した。
現在の「船橋駅」周辺は、江戸期には「船橋宿」として栄えた。また、船橋の北側の台地上は「小金牧」の一部で、幕府の軍馬育成のための放牧場が広がっていた。明治初期に「小金牧」の跡地は開墾が進められたほか、陸軍の演習場となり「習志野原」と命名され、軍施設が立地するようになった。沿岸部では明治初期に塩田が開発され、明治中期から大正にかけて鉄道網が発達すると商業都市として、また海浜リゾートとしての発展を見せた。戦後は、「谷津遊園」「船橋ヘルスセンター」などが賑わう東京近郊の行楽地となったほか、広大な軍施設の跡地や湾岸の埋め立て地を中心に、工業・住宅・学園都市として発展。「船橋駅」「津田沼駅」周辺が商業地として発展したほか、近年は湾岸や郊外に大型商業施設も立地している。
江戸の住民に生活用水を供給していた「玉川上水」は、四ツ谷大木戸から江戸各所へ分配されていた。明治に入り衛生的な問題から、新水路を築造、新宿西側の淀橋に浄水場が建設された。 「玉川上水」は、江戸前期に開削された上水道。当時、江戸の人口増加により1629(寛永6)年頃に完成していた「神田上水」などでは水の供給が足りなくなっていたため、開発が進められた。「多摩川」の水を羽村で取水し、四谷まで全長42.74kmの水路で運ぶもので、高低差はわずか92.3mしかなく、高い測量技術によりルートが選定された。着工は1653(承応2)年の4月4日(旧暦)、完成は11月15日(旧暦)といわれ、わずか約8か月(閏月も含まれる)の短い工期であったという。 図は江戸末期に歌川広重が描いた『名所江戸百景 玉川堤の花』。描かれた正確な場所は不明ながら、大きく右に曲がる「玉川上水」の形状などから、現在の「東京都立新宿高等
東京都西南部における主要都市である「町田」。古くは「鎌倉街道」沿いの「本町田」地区が宿場として賑わい、開国後には、生糸の輸送ルートとして「町田街道」(『絹の道』)が利用されたことから、街道沿いの「原町田」地区が物資の中継点として繁栄した。貿易港である「横浜」との結びつきも強く、一時は神奈川県に属していた。この「原町田」地区には、横浜鉄道(現・JR横浜線)、小田急線の駅が開業、現在に至るまで町田の中心地となっている。その後も国鉄(現・JR)駅の小田急寄りへの移転、駅前の再開発が行われ、さらなる街の整備が続いた。
実は、少し前に、A土地の近くに新幹線が開通する計画があるという話を耳にしました。新幹線が開通すれば地価が値上がりすると思いましたので、所有者にそのことを話してA土地を買ったのです。 ところが、買った後によく調べてみると、どうもそのような計画はなかったことがわかりました。 何とか契約を白紙にできないかと思い、インターネットで検索してみたところ、私のようなケースは、民法に定められている「錯誤」(さくご)にあたり、契約が無効になりうるということを知りました。 ただ、最近、新聞で民法が改正されたという記事を読みました。この改正で、「錯誤」の規定も変わったのでしょうか。(以下では、現在施行されている民法を「現行民法」、改正後の民法を「改正民法」とよばせていただきます)。 1.改正民法が成立しました 報道などで明らかにされていますように、2017年5月26日に、民法の一部を改正する法律案が参議院本会議
「軍都」となった相模原は、終戦後は米軍基地の街として引き続き発展した。また、戦時下に始められた区画整理事業は、その後の急激な都市化の基盤に。広大な陸軍施設の跡地および接収からの返還地は学校・公園・大規模団地など公共的な用地として活用された。2010(平成22)年、戦後生まれの市として初の政令指定都市となったことは相模原の急成長を象徴することといえる。 「相模陸軍造兵廠」には終戦後の1945(昭和20)年9月に米陸軍が進駐、1949(昭和24)年に接収され、兵器、軍用車両などの修理を行う「米陸軍横浜技術廠相模工廠」となった。この工廠には日本人労働者も多く、その通勤のため、1950(昭和25)年に国鉄(現・JR)横浜線「相模仮乗降場」が再開(戦中に一時使用されていた)され、1957(昭和32)年に駅に昇格し「矢部駅」となった。1961(昭和36)年に「相模倉庫地区」と統合され「在日米陸軍相模総
東京都の北に位置する埼玉県。中でも現在のさいたま市・川越市・所沢市など南寄りの地域は、江戸・東京の発展と共に都市化が進みました。特に川越は、江戸期から地域の中心都市として発展し、大正期には埼玉県で最初の市制を施行、2022(令和4)年には市制100年を迎えています。この地域は養蚕・製糸・織物といった繊維産業も古くから盛んで、現在もその伝統や名残を感じることができます。近年は東京近郊のベッドタウンとしても発展。人口の増加とともに商業も充実するようになりました。
今回は、従前行われていた不動産の「中間省略登記」と近時それと同様の目的を実現することができるとして注目されている「新・中間省略登記」をテーマとして取り上げさせていただきます。 (1)中間省略登記とは 従前行われていた中間省略登記とは、不動産について、AからBへの売買、BからCへの売買があった場合に、所有権はA→B→Cと順次移転しているにもかかわらず、中間者Bへの移転登記を省略して、AからCへ直接所有権が移転したこととする登記のことをいいます。中間省略登記は、A→B、B→Cとの移転登記をすれば、登録免許税が登記2回分必要になるところを、1回で済ますことができるとのメリットがあります。 (2)中間省略登記についての裁判所の考え方 このような中間省略登記は、所有権移転の経緯を正確に表しているものではありませんが、裁判所は、ABC三者の同意があれば、CはAに対して直接移転登記を請求できると判断して
Aさんは、B社が売り出している14階建ての○×マンションの701号室を買うことを検討し、B社に行きました。物件の下見のときに、Aさんは、B社の社員に対して、高齢の夫婦であるAさんと奥様の2人で住む予定なので日当たりを非常に気にしていることを説明したところ、社員からは、「701号室の日当たりは良好です。」という説明を受けました。また○×マンションの隣の空き地には建物が建設予定であったため、Aさんは、社員に対してどのような建物が建つのか聞いたところ、「7階建てのビルが建設されますが、○×マンションの7階にある701号室とは同じくらいの高さであり、また○×マンションとは距離があるので、701号室の日当たりには影響がありません。」という説明を受けました。 Aさんは、このような説明を信じて701号室を買うことに決め、契約をして売買代金を支払いました。ところがその後になって、隣の空き地に建設予定のビル
徳川家康が整備を始め、幕府直轄で管理された「五街道」。その中の一つ、江戸から下諏訪を結ぶ「甲州街道」は1602(慶長7)年に開設された。当初、起点となる「日本橋」から最初の宿場(第一宿)は約4里となる「高井戸宿」であったが、ほかの街道の第一宿(「品川宿」「板橋宿」「千住宿」)は約2里の距離にあったことから、1698(元禄11)年に「日本橋」と「高井戸宿」の間に新しい宿場として「内藤新宿」が設けられた。新しい宿場であったことが、現在の「新宿」の地名の由来となっている。写真は「新宿歴史博物館」で展示されている「内藤新宿復元模型」。 「内藤新宿」は現在の「新宿通り」沿いにあった。写真はかつての宿場町の西端付近、「甲州街道」と「青梅街道」の追分(分岐点)にあたる「新宿三丁目交差点」。直進方向が「青梅街道」で、「甲州街道」はここで左折していた。 「内藤新宿」の宿場町が形成されていたのは、「四谷大木戸
分譲マンションの“経済的な価値”を判断する際に、東京カンテイが毎年公表している「マンションPBR」と「マンションPER」という便利な指標があります(※)。 「マンションPBR」は、株価資産倍率(Price Book-value Ratio)をマンションにあてはめたもので、ある期間に新規分譲されたマンションの価格が、中古市場に登場する時に新築当時の何倍になっているかという数値です。マンションPBR=資産倍率が1倍を超えていれば新築当時の価格が割安だったことになり、売却差益も期待できるという意味でオトクですから、マンションPBRは資産性を示す数値で、大きいほうが良好ということになります。 一方「マンションPER」は、株価収益率(Price Earnings Ratio)をマンション用にアレンジしたもので、現在分譲されている新築マンションの価格が、その周辺で貸されている分譲マンションの賃料(賃貸
一般に、品物の値段は骨董的な価値のあるものを除けば中古品のほうが新品よりも安価なものですが、これはマンションにも当てはまります。ビンテージマンションと言われる、相応の年月を経ても流通市場での価格が全く下落しない物件もありますが、これは本当に例外で、分譲マンションにおいても新築物件より中古物件の方が安価に流通するのが一般的です。もちろんこれは立地条件や物件の周辺環境、新築分譲時の価格など、物件の個別要因によって異なりますが、新築物件よりも高い価格で流通する中古物件はごく僅かです。 では、新築物件は築年を経るごとにどのように価格に違いが出てくるのでしょうか。今回は2011年に東京都、大阪府、愛知県で流通した中古マンションの価格を築年数(1年単位)で区分し、その平均価格(坪単価)を比較することで、築年別の価格相場観を把握することを試みました。地域ごと、築年数ごとの違いを調べてみましょう。 上記の
「令和6年能登半島地震」によりお亡くなりになられた方々とご遺族に対し心よりお悔やみ申しあげますとともに、被災された方々に謹んでお見舞い申しあげます。被災地の一日も早い復興を、心よりお祈り申しあげます。
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