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ノーベル賞
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歌人名は平仮名のよみ(現代仮名遣)でも検索可能です。 例:ふじわらのさだいえ,こまち,さいぎょう,ごとばのいん 一部人名に旧字体(正字体)を用いている場合もあります。例:兼藝 読み方の手引 六歌仙|三十六歌仙|中古三十六歌仙|女房三十六歌仙|新三十六歌仙|集外三十六歌仙|小倉百人一首 ●新規登録 足代弘訓 松永貞徳 飛鳥井雅顕 冷泉為景 佐久間象山 荒木田久老 久坂玄瑞 堀田一輝 ●改訂(歌の入れ替え、略伝・注釈・鑑賞の追加・訂正など) 三十六歌仙 永福門院 ―緒言― 神代の伝承歌から幕末の橘曙覧・伴林光平まで、千の歌人(神様含む)の和歌をおよそ1万首集めよう、という企画です。いわば、歌人別テキストデータベースに、詞華集の性格を併せ持たせた、折衷体といったところでしょうか。 凡その方針としては、 群書類従・私家集大成・新編国歌大観をはじめ多種の刊本を参考にし、時には写本・古版本等にもあたっ
日本書紀には「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」とある。父は鏡王。天武天皇の妃となり、十市皇女を生む。鏡姫王(鎌足の嫡室)の妹かともいう。 斉明四年(658)十月、斉明天皇の紀温湯行幸に従駕し、歌を詠む(万葉集巻1-9)。斉明七年(661)、天皇の新羅征討の際、熟田津の石湯行宮で歌を詠む(巻1-8)。但しこれは左注所引の『類聚歌林』によれば、斉明天皇の作。天智六年(667)三月、近江大津宮遷都の際、「額田王、近江国に下る時の歌」(巻1-17・18)。これも『類聚歌林』は天智天皇(正式には当時まだ皇太子)の作とする。天智七年(668)五月、蒲生野遊猟に従駕し、大海人皇子と歌を贈答(巻1-20、大海人皇子の答歌1-21)。天智十年(671)の天智天皇崩御の後、大殯(おおあらき)の時に歌を詠む(巻2-151)。持統年間(持統七年=693年五月か)、吉野行幸の際、弓削皇子より歌を贈られ、これに和す(巻
【概要】 小倉百人一首の全首につき替歌(パロディ)を創作した狂歌集です。天保十四年(1843)、蘆間蟹彦の編輯により『蜀山先生 狂歌百人一首』として大阪で出版されました。蜀山先生とは大田南畝(1749-1823)。それ以前にも狂歌師による同種の試みは幽双庵『犬百人一首』をはじめ幾つもありましたが、江戸狂歌の大家の名で出版された本書は最も著名な「もじり百人一首」として今日まで享受されて来ました。 但し収められた百首すべてを蜀山人の自作とするのは疑わしいと見られ、例えば『大田南畝全集』第一巻解説(濱田義一郎氏)は、「蜀山人の作に近いのは、喜撰法師・春道列樹・後徳大寺の三首、似ているのが安倍仲麿・僧正遍昭の二首」に過ぎないとしています。蜀山人らしからぬ素人臭い作が幾つも存在するのは明らかですが、飄逸な秀詠・佳詠も少なくなく、天明狂歌の頓知横溢の才を十分に発揮した集となっており、蜀山先生を草葉の陰
生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。 母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して小式部内侍をもうける。やがて道貞のもとを離れ、弾正宮為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子。母は兼家女、超子)と関係を結ぶが、親王は長保四年(1002)六月、二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。親王との間にもうけた一子は、のち法師となって永覚を名のったという。 しかし敦道親王も寛弘四年(1007)に二十七歳の若さで亡くなり、服喪の後、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺
藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。 年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られるが、僧としての身分は低く、歌人
伊邪那岐命(いざなきのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つくよみのみこと)の弟。素盞嗚尊とも書く。速(はや)須佐之男命、建速(たけはや)須佐之男命とも。大国主神の父。 伊邪那岐命より海原を支配するよう命ぜられるが、従わず、八拳髭(やつかひげ)が胸先に至るまで泣きわめいて、青山を枯山にし、河海を泣き乾した。父に咎められると、「僕は妣(はは)の国根の堅洲(かたす)国に罷らむとおもふがからに泣く」と答え、怒った父神によって追放を命ぜられた。姉に別れを告げに天上へ向かった須佐之男は、ウケヒによって三柱の女神を産む(多紀理比売・市寸島比売・田寸津比売の宗像三神)。これを勝ち誇って、大御神の田を荒らし、御殿に糞をし散らした。須佐之男の悪行はやまず、ついに天照大神は天の岩戸にこもり、八百万の神は須佐之男の髭と手足の爪を切って高天原から追放した。 出雲
建久三年(1192)八月九日、征夷大将軍源頼朝の次男として生まれる。母は北条政子。幼名は千幡(せんまん)。 正治元年(1199)、八歳の時父を失う。家督は長兄頼家が継いだが、やがて北条氏に実権を奪われ、頼家は建仁三年(1203)九月、北条氏打倒を企てて失敗、伊豆に幽閉された(翌年七月、北条時政の刺客によって惨殺される)。このため、実朝と改名して第三代将軍となる。翌年、坊門大納言信清の息女を妻に迎える。承元二年(1208)、十七歳の時、疱瘡を病む。翌年、藤原定家に自作の和歌三十首を贈って撰を請い、定家より「詠歌口伝」を贈られる(『近代秀歌』と同一書とされている)。建暦元年(1211)、飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向した鴨長明と会見する。雅経とはその後も親交を続け、京から「仙洞秋十首歌合」を贈られるなどしている。建保元年(1213)には、定家より御子左家相伝の万葉集を贈呈された。また同三年の「院四
用言(動詞・形容詞・形容動詞)及び助動詞が他の語に接続する場合の語形変化を活用と呼び、未然・連用・終止・連体・已然・命令の六活用形があります。 未然形には助詞「ば」が付いて未然(まだそうならない状態)の条件節を作ります。例えば「吹く」の未然形「吹か」に助詞「ば」が付いた「吹かば」は、「もし吹いたならば」といった意味です。未然形には、打消(否定)の助動詞「ず」、未来推量の助動詞「む」なども付きます。 連用形は、文を中止する場合(風吹き、花散る)や、動詞につなげる場合(風吹きしきる)の活用形です。「て」「つつ」などの助詞や「たり」「けり」などの助動詞も連用形に接続します(例:風吹きて…。風吹きけり)。また、「流れ」「恋ひ」などのように、連用形は体言としてはたらくことがあります。 終止形は、普通、文の終りに用いる活用形です。また、「らむ」「らし」「べし」などの助動詞や、助詞「と」「とも」などが接
【巻数】二十巻 【歌数】1978首(新編国歌大観による) 【勅宣】後鳥羽院 【成立】建仁元年(1201)和歌所設置。元久元年(1204)選定作業終了。元久二年三月二十六日、竟宴。建保四年(1216)後鳥羽院による切継が一旦完了。承久三年(1221)以後、さらに切継が継続される(「隠岐本」)。 【撰者】源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経 【主な歌人と収録歌数】西行(95首) 慈円(91首) 藤原良経(79首) 藤原俊成(72首) 式子内親王(49首) 【性格】第八勅撰和歌集。鎌倉時代最初の勅撰和歌集。 新古今集は、その名の通り、古今集の言語空間を基盤として引き継ぎつつ、その上に和歌の新たな規範的様式を確立することを目指した、野心的、革命的な歌集であった。 新古今の入集歌は、浪漫的・幻想的・主情的・絵画的、さまざまな傾向を含むが、すぐれた作に共通しているのは、詞に於ける伝統の保守と
【接続】 動詞の連用形に付く。 行きつ 見つ 出でつ 来(き)つ 為(し)つ 形容詞、助動詞「べし」「まじ」「ず」などに付く場合は、動詞「あり」を介して付く。 悲しかりつ(悲しく―あり―つ) 見るべかりつ(見る―べく―あり―つ) 見ざりつ(見―ず―あり―つ) 【機能】 動作が確かに成り立った(完了した)との判断をあらわす。 「ぬ」とほぼ同じ意味になるが、「ぬ」は非作為的・自然推移的な意味の動詞に用いられたのに対し、「つ」は作為的・人為的な意味の動詞に用いられる傾向があった。 鳴神の音のみ聞きし巻向の檜原の山を今日見つるかも(万葉集、人麻呂歌集歌) 折りつれば袖こそにほへ梅の花ありとやここに鶯の鳴く(古今集、読人不知) すでに終ってしまったことを過失と見なし、そのことで後悔したり、自分を――あるいはそれを行なった他者を――責める気持を含めて言うこともある。 今来むと言ひしばかりに長月の有明の
古今和歌集 仮名序 原文 注釈付きテキスト(工事中) 貫之の歌論について(未作成) 訳文付きテキスト 古今集仮名序を便宜的に九節に分け、各節に適当な題を付けると共に、本居宣長『古今集遠鏡』の口語訳を附しました(筑摩書房『本居宣長全集 第三巻』に拠る)。 『古今集遠鏡』は、寛政九年(1797)出版。宣長が初学者のために、古今集の仮名序・短歌を当時の口語(京都あたりの言葉遣いを標準としたらしい)で訳したものです。原書の表記は片仮名なのですが、ここでは読みやすさを考慮し、平仮名に改めました。仮名遣いは底本通りにしましたが、旧字体の漢字は新字体に改め、特に意味がわかりづらいと思える部分は仮名を漢字に改めるなどしています。読みづらい漢字には()でルビを入れ、また意味のつかみにくいと思われる語句には{}内に語意を補足しました。 (注釈は後日付加する予定です。) 一、はじめに―和歌とはどういうものか 二
最 終 更 新 日 平 成 二 十 七 年 三 月 二 十 二 日 た ね と な る む か ひ し と に の お 心 よ の べ い や つ ま も と あ こ ら と ば の は 京 極 為 兼 ◆更新情報 ◆新設コーナー やまとうたeブックス 2015.2.6更新 『拾遺愚草』資料集 2015.3.22更新 ◆創作和歌のために 和歌入門|和歌のための文語文法|和歌日記(更新停止中) ◆古典和歌 千人万首 2015.1.10更新|資料編(和歌に影響を与えた漢詩文)|百人一首 訓読万葉集 2014.7.14更新|八代集秀歌選|十三代集秀歌選 歌合|歌学・歌論|古玉聚|和歌歳時記更新|歌枕一覧 和歌雑記(休止中)|和歌リンク集 ◆BBS・blog 掲示板過去ログ|雁の玉梓(やまとうたblog) ◆その他 ご挨拶|Q&A集|アンケート集計|参考文献 随時更新 最終更新日:2015.2.6
安藤広重画『東海道五十三次』より「日坂」(小夜の中山) 【更新情報】 陸奥の武隈にリンク1件追加(18.1.16)。 ―例言― ●和歌に詠まれた名所歌枕・地名を取り上げています。 ●各都道府県の歌枕は、五十音順に並んでいます。振り仮名は歴史的仮名遣で表記していますが、配列は現代仮名遣に拠っています(たとえば「ゐ」は「い」の位置に置いています)。 ●旧国名をクリックすると、国別の歌枕一覧へジャンプします。また■の印のついた歌枕名をクリックすると、私(水垣)が書いた拙い紀行文にリンクします。この印のない場合、簡単な解説と引用和歌からなるファイルへのリンクということになります。▲は他所様へのリンクです(▲にマウスポインタをのせると、リンク先のサイト名や説明文がポップアップ表示されます)。 ●当面、明治時代のいわゆる「短歌革新」以前の和歌を主体としますが、近現代短歌に詠まれて名高い地名も追々加えて
古今の歌学書・和歌入門書などから、現代の私たちが和歌を作ったり和歌について考えたりする際に参考になりそうな文章を集めてみました。今後さらに追加してゆくつもりです。 歌とは何か 和歌の形式 歌を学ぶ際の心得 初心者への注意 4.7更新 歌の詞について 良い歌とは 4.7更新 字余りについて 和歌と文法 実際の歌の作り方 4.7新設 題詠について 4.7新設 附録:和歌のための文語文法・古典的修辞法 はじめに――和歌の規則について 和歌を作る上で堅苦しい規則はありません。短歌なら5,7,5,7,7、長歌なら5,7,5,7,…,7,7、といったように、音数律(決まった音数の句を、決まったパターンで組み合せる形式)以外には、決まりごとは何も無い、と言っても過言ではありません。音数にしても昔から許容範囲は広く、字余りはごく普通に見られる現象です(下記字余りについて参照)。連歌俳諧のような季語の制約も
出自不詳。『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『小野氏系図』には篁の孫で、出羽郡司良真の女子とあるが、いずれも疑わしい。ほかに出羽守小野滝雄の子とする説などがある。 経歴等も明らかでないが、仁明朝(833~850)・文徳朝(850~858)頃、後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(または中臈女房)であったと見る説があり、また『続日本後紀』承和九年(842)正月の記事に見える小野吉子(仁明天皇の更衣とみられる)と同一人、またはその妹とする説がある。 古今集・後撰集の歌からは安部清行・小野貞樹・僧正遍昭・文室康秀との親交が窺え、また「小町が姉」の歌が見える。 家集『小野小町集』に百余首の歌を伝える(異本系は七十首足らず)が、後世の他撰であり、他人の作が混入している。確実に小町の歌と言えるのは古今集所載歌十八
和歌入門附録 古典的修辞法 枕詞 序詞 掛詞 縁語 比喩 歌枕 本歌取り 枕詞 枕詞は特定の語の前に置くことが慣習化された語で、ふつう五音からなります(四音・三音もあり)。和歌の修辞法の一つですが、古い信仰心の名残のようにも感じられます。枕詞が冠せられる語を調べると、(ちはやぶる)神、(ひさかたの)光、(あしひきの)山、(たらちねの)母、(くさまくら)旅など、古代人が大切なもの、聖なるもの、あるいは非日常的なものとして、尊んだり畏れたりした物事が多いことに気づきます。枕詞は地名に掛かるものも多いのですが、地名とは古人にとって地霊を呼び起こす畏るべきことばでした。聖なるものへの畏敬の心――それゆえの距離感が枕詞を生んだ、とは言えないでしょうか。たやすく口にのぼせることを躊躇わせるような対象に対し、もってまわったような言い方をすることで、心理的負荷を払拭する詞――そんな、おまじないのようなもの
勅撰二十一代集 一覧 ・後拾遺集の本来の名称は「後拾遺和歌抄」。それ以外は「古今和歌集」など「和歌集」が付くのが正式名称である。 ・金葉集の成立・歌数は所謂二度本のそれとした。 ・巻数は金葉集・詞花集のみ10巻で、他は全て20巻である。 ・総歌数は新編国歌大観による。
在原業平朝臣 ありはらのなりひらあそん 825〜880 千人万首 17 ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは ちはやふる かみよもきかす たつたかは からくれなゐに みつくくるとは 【私解】神々の霊威で不可思議なことがいくらも起こった大昔にも、こんなことがあったとは聞いていない。龍田川の水を美しい紅色に括(くく)り染めするとは。 【語釈】◇ちはやぶる 「神」にかかる枕詞。「勢いはげしい」ほどの意が響く。万葉集では「千磐破」の字が宛てられている例があり、千の岩も破る意で解されていたか。後世、「千早振」などの宛字が多く見られるようになる。◇神世 神々が地上世界を跋扈(ばっこ)し、摩訶不思議な現象が日常的に発生していたと考えられていた時代。「神世もきかず」は「神代の昔語りにも聞いた覚えがない」ということだが、一種比喩的な言い方であり、この魅惑的な情景に対する驚嘆を強調しているの
悠 久 最 な こ も 日 日 の 雅 本 本 人 に の そ に 体 文 の あ 現 人 も ら 最 し と の は 終 た し の れ 更 ` て 初 た 新 大 の 心 本 日 伴 志 で 朝 家 を あ 文 平 持 最 る 人 成 の も の 十 文 激 | 悲 九 学 し 保 願 年 と く 田 の 十 生 ` 與 志 二 涯 重 は 月 郎 ` 六 | 日 作品|伝記|秀歌撰|文献|オマージュ|更新情報 サイトマップ|ご挨拶|リンク |やまとうた|訓読万葉集テキスト Q&A集|和歌投稿掲示板「花莚」(休止中)|百人一首に唱和しよう(休止中) ゲストブック過去ログ |アンケート集計 To the English index 最終更新日:平成19.12.6 ©水垣 久(プロフィール) mail:ya
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