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体力トレーニング
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株式会社 童夢(本社:滋賀県米原市、社長:鮒子田寛、以下「童夢」)では、2013年4月に子会社の株式会社 童夢カーボン・マジック(本社:滋賀県米原市、社長:奥明栄、以下「DCM」)及びDOME COMPOSITES (THAILAND) CO., LTD.(株式会社童夢コンポジット・タイランド、所在地:タイ王国チョンブリ県、社長:矢谷悟志、以下「DCT」)を東レ株式会社(本社:東京都中央区、社長:日覺昭廣、以下「東レ」)に売却することになりましたのでお知らせします。 東レ株式会社 プレスリリース 「株式会社童夢カーボンマジックの買収について」 http://www.toray.co.jp/news/carbon/nr130318.html 事務的に要旨を説明すると以上のようになりますが、詳しいことは買収側の東レの発表を参照していただくとして、ここでは、皆様が最も疑問に思っていらっしゃるであ
「株式会社 童夢」では、2015年度の完成を目指して、公道走行可能なスポーツカーの開発を開始しましたのでお知らせします。 このスポーツカーは、林みのるの最後のホビーとして開発するものであり、車を造ること自体が趣味である林みのるとしては造ることが目的であり、もとより事業とは考えていませんし販売も考えていません。 ただし、スポーツカーである以上、公道を自由に走り回れないと意味がありませんし、いにしえの「童夢-零」のリベンジも意識して、正規の方法でのナンバーの取得は実現したいと考えています。 では、どんなスポーツカーかと言いますと、正確に言うと、今回、私の造りたいのはシャーシで、そのベアシャーシにいろいろなスタイルのボディが架装できるという、つまり、私が20歳の時に製作した「MACRANSA」の進化版のような構想ですが、そのベアシャーシに、私も「童夢-零」の夢よもう一度と、「やんちゃ」をテーマに
林みのる(株式会社 童夢 代表取締役社長、株式会社 童夢カーボン・マジック 代表取締役会長 、日本自動車レース工業会 会長)は、2012年8月末日をもって、株式会社 童夢 代表取締役社長及び日本自動車レース工業会 会長の職から退任することをお知らせいたします。 なお、2012年9月1日より、株式会社 童夢の代表取締役社長には鮒子田 寛が就任し、日本自動車レース工業会の会長には 大岩 湛矣氏が就任します。 今後、林みのるは、株式会社 童夢に関しては、特別顧問として主にデザイン関係の管理/運営を担当しますが、会社の経営/運営については、その一切を鮒子田 寛に付託します。 日本自動車レース工業会に関しては、理事として在籍し、大岩会長の方針に従って出来る限りのお手伝いをします。 注)日本自動車レース工業会 会長退任については、日本自動車レース工業会からのNEWS RELEASEを参照してください。
私、幼少のみぎり、ラジコン飛行機に熱中していた時代には、夢中になって製作に没頭するものの、いざ完成して飛ばす段になると、下手だしすぐ落とすしたちまち飽きるし、あげくに、壊すのが嫌で飛ばしていない機体もあったくらいですから、もとより本末転倒です。 その次にハマっていたオーディオでも、機器を製作している間は夢中なんですが、完成後に聴くのは「周波数レコード」という30Hzから10000Hzまでの正弦波だけが収録されたレコードばかりで、ほとんどスピーカーから音楽が聞こえてくることは無く、これも本末転倒な趣味でした。 現在の趣味である釣りにおいても、道具と船には凝りますが、実際の釣行時にはほとんど操船していますから、まるで遊漁船の船長みたいなものです。 だから、そんな私に、レースの成績をとやかく言われても、ラジコンの操縦が下手だとか音楽の趣味が悪いとか責められているようなもので、感覚的にはほぼ
思えば2008年、壮大な夢とはち切れそうな希望を胸に、今までの童夢では考えられないほどの巨額な予算(それでも、AUDIなどに比べれば微々たるものですが)を投じて童夢S102を開発して臨んだルマン24時間レースですが、その後、その夢と希望はあっけなく霧散してしまい、それから童夢S102は、しばらく惰眠をむさぼる事を余儀なくされていました。 童夢本社のロビーに展示されている童夢S102は何も語りませんが、見る度に、何でこいつが何時までもここに鎮座していないといけないのだ?と、世界でもトップレベルの性能を誇ると自負している童夢S102が、心臓部もカラのまま、抜け殻のように置きざりにされている姿に大いなる違和感を覚えつつ3年間が過ぎました。 なぜこの3年間のブランクが生じてしまったかについては、また、将来においてお話しできるチャンスもあるかと思いますが、そんなことはさておき、この童夢S102にとっ
当時の「日本ボブスレー・リュージュ連盟」からの熱心な呼びかけに動かされて、とりあえず視察にだけでも行こうということになり北海道のコースに出かけましたが、そこで見たオリンピック用競技マシーンは、少なくとも古びた遊園地の乗り物となんら代わることの無い代物で、思わず我々は「これなら勝てる」と顔を見合わせたものです。 それからちょっと真剣になってしまった我々は、まず、現行のボブスレーの運動状態を定量的に把握する為に、ピトー管(速度)、Gセンサー(加速度)、ポテンションメーター(操舵角)、ジャイロ(ロール角速度)、歪みゲージ(ランナー荷重)、熱伝対(ランナー温度)などの測定器とデーターロガーを積み込んだフル装備のボブスレーをリレハンメルとアルテンベルグに持ち込み徹底的な基礎調査を行いました。 その後、風洞試験も行い、かなりのデータが出揃って、いよいよこれから開発開始というころに、本家「日本ボブスレ
最近、私は自動車を運転することに非常にストレスを感じるようになっている。市街地を走っていると、幹線道路にもかかわらず一定の間隔で車が駐車していて左車線をキープできない。だからと言って、みんなが右側ばかりを走っていたら、すべての道路は一車線となってしまうし、その中に混じって漫然と右側を走り続けることには抵抗があるので、少し空いている区間があると左車線に移るようにしているが、そうするとすぐに駐車車両にひっかかり右に戻らなくてはならない。結果、右側を走り続けている人たちから見ると、何をうろちょろと迷惑な運転をしているんだ!と思われてしまいそうで、ここではいかに努力してもジェントルな走り方は出来ない。こういう時は、駐車している車に向けてトリガーを引いたら消滅してしまうような電子銃があったら打ちまくってやるぞ!と思いながら走っている。 また、高速道路を走っている時も、延々と右側を走り続けないといけ
Engineering Design, Prototyping, Car Styling, Aerodynamics Development, CFRP, Tests, Racing Activities and Enjoy Making Cars
14時15分、今年最初のGTレースがスタートした直後、私はそっとサーキットをあとにした。つもりが、9番ゲートの直前で、Quattroporteのギアボックスが2度目の故障で動かなくなったのでサーキットに逆戻り。同じ京都のGIMGAINERの田中慶治を、無理矢理、早く帰らせて便乗することにした。 久しぶりのサーキットだったが、親しい人が一杯いてウキウキするような気分が無いことも無いものの、今回はなんか、みんなの魂が離脱しているような、本当は知らない人が特殊メイクして知人を演じているような、すごく落ち着かないような、ここに居るべきでないような、とてもおかしな感覚に苛まれていた。 土曜日の夜のキックオフ・パーティでも、「予選惜しかったね」、「頑張ってね」、「明日は大丈夫だろうな?」、「暖かそうなのでタイヤが心配です」など、関係者の集まりにも関わらず普通のレースの前夜のような会話が平然となされ
昨年の暑い頃は、私はストレスが体中に充満しきっていて、どこかにちょっと穴があいたらそのまま破裂してしまいそうだった。血圧が上がりすぎて頭がくらくらするようで脳梗塞が再発しそうな勢いである。 思えば30ちょっと過ぎ、「童夢―零」を開発しているときに、当時の運輸省の役人連中を相手に型式認定の申請を申し出ていた頃の、何ともいえない嫌な感覚が蘇ってくる。 この連中の腐りきった頭の中は想像を絶するが、私はこのとき、こういう連中(役人、公務員たち)と付き合わなければならない仕事は絶対にしないと心に固く誓った時のことを思い出したものだ。 それ以来ここまで、決してこのような輩と接触することもなくうまくやってこれたものだと思うが、この歳になって、ついに逃れるすべのないような状況に陥ってしまった。 本能的にこのような状況を想像していたので、なるべく回避できるようにあれこれ努力を続けたが、あまりに面倒な
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