サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
www.p.pia.jp
高校3年の時にあるところでコンセプチュアル・アート展のカタログを見たんですよね。たぶん、東京都美術館かどこかであった展覧会のカタログだったと思います。80年代か、70年代のものかもしれないです。白黒写真とテキストが多かったような印象があります。
僕の母方の祖父が描いていた油絵が残っていまして。母も父と同様、新潟の出身です。祖父は画家ではないです。美術は教えていたようですが。祖父は19歳で田舎の師範学校を出て、すぐにもっと田舎の村の小学校の校長先生になったそうです。そういう時代なんですね。以後、定年退職まで小学校の校長先生だったそうです。国語と社会を教えていて、美術は免許は持っていなかったけれども、子供のころから得意だったようで、研修を受けて教えていました。
─── 押井さんはぴえろで劇場デビューを飾っていますよね。『うる星やつら オンリー・ユー』です。そのときも助けてもらったんですよ。でき上がった初号を、お偉い関係者の人たちと一緒に観て、その後...
─── 本当の意味での押井さんの師匠は監督の鳥海永行(とりうみひさゆき)さんです。押井さんを一人前の監督に育ててくれた方と言ってもいいんですよね?
それ以来、淡いお付き合いが続いている。僕が本を出すときには山田さんに解説を頼んだり。『イノセンス』のときは、お願いしてノベライズを書いてもらった。普段だと自分で書くんだけど、そういう気持ちじゃなかったので、思いきって山田さんに頼んだら、書いてもらえたわけですよ。バトーが主人公の犬を探す話。まさに僕が書いて欲しかった小説(笑)。何となく以心伝心みたいな感じで、これは本当に嬉しかった。
もうひとり、違う分野から師匠を挙げるなら、作家の山田正紀さんですね。若い頃、作家志望でもあった僕に引導を渡してくれた方です。
ジョゼ・モウリーニョ(右)&アーセン・ベンゲル(左) Photo:AFLO─── 押井さんの師匠のひとり、モウリーニョはどんな監督だったんですか?勝つためにあらゆることを...
ジョゼ・モウリーニョ(右)&アーセン・ベンゲル(左) Photo:AFLO─── 次の“師匠”は誰でしょうか?僕はサッカー好きなので、サッカーの監督ですね。ふたりいます...
74年に初来日してから今年で44年目を迎えるピーター・バラカン氏。第1回の連載スタートにあたり、音楽の目覚めから、シンコーミュージックを経ての日本での活動、キュレートする音楽フェス「LIVE MAGIC!」への思いまで、じっくりと語ってもらった。
リドリー・スコット─── リド様の『エイリアン』はどうですか? 押井さんはこちらも好きですよね。『エイリアン』も大好きですよ。宇宙船のクルーたちが、ツナギを着て、コンバースの...
リドリー・スコット─── ふたりめとなると、やっぱりリドリー・スコットですよね、押井さん!そうなっちゃうよね。サー(リドリー・スコット)の『ブレードランナー』を語らずしてSF...
─── で、宮崎さんが師匠なところは、どういう部分なんでしょう?「フリーランスで監督をやっていくのなら、3年くらい食べられるだけの貯金はしとけ」という言葉ですね。その裏には「作品を選ぶために...
スピルバーグは、全く同世代というわけではないのですが、トビー・フーパーもそうですが、ちょうど僕が映画に興味を持ち始めた70年代前半くらいにデビューして、その後ずっと今日までキャリアを続けている人です。どこか同じ時代に生きている人だなということを感じている監督の代表格ですね。
─── 今回は押井さんに、自身のエンタテインメント史における師匠について語っていただきます。トップバッターは、ご存知、宮崎駿監督です。そもそもおふたりの出会いはいつだったんですか?
小津の個性は小津だけのもの 僕がここであえて小津を語るのも今さらなんですが、最初に名前を覚えたのは、高校生の頃に映画に対する知識を色々取り入れたいと思っていた頃に読んだ本です。おそらく新書で出ていた佐藤忠男さんの『ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画』(中公新書)か岩崎昶さんの『映画の理論』(岩波新書)でしょうか。当時の映画青年のご多分に漏れず、僕もそういった書籍を読んだりした中で、小津安二郎や溝口健二という人がいたんだと知って、教養として観なきゃなと思っていました。 ただ、当時は小津の映画は二番館でやっているシロモノでもありませんし、東京のフィルムセンターに行くか、図書館での上映とか、ある種の教養として観せる催しがたまたまないかぎりは、観られなかったですね。だから最初に観たのが高校生の時か浪人の時かはっきりしないんですが、夏休みに映画を観る目的で東京へ来ていた時に『淑女と髭』だったかな?
初めて“監督名”を意識して作品を観たのがサム・ペキンパー はっきり監督名というものを意識して、監督とは如何なるものかある程度わかった上で見始めたのは、おそらくサム・ペキンパーではないかと思います。きっかけになったのは、たぶん高校生の頃に観た『わらの犬』。ただ、どうして観に行ったのか。おそらく雑誌の『映画評論』が、やたらとペキンパーを特集していたのが影響していたと思います。 僕の地元は神戸なんですが、元々映画は好きだったので、高校生の頃になるとハリウッド映画を中心に積極的に観ていました。学校帰りに寄れるウニタ書店という左翼系の雑誌をたくさん置いてある小さなマニアックな本屋に『映画評論』が売っていて、読んでみると石上三登志さんなんかが、サム・ペキンパーというのはすごいと書いていました。それを記憶していた中で、『わらの犬』が公開されたんじゃなかったかな。それで僕も観てすごいということになって、順
90年代、台湾映画から受けた衝撃 エドワード・ヤンは、自分が映画を撮る上でとても強く影響を受けた監督でした。前回のゴダールの話にも関係してきますが、80年代に入ってから、とにかく日本映画の画面はダメだと思っていました。昔はよかったんですけどね。昔というのは60年代などがそうですが、ある時期から映像的に全然ダメになってしまって。70年代を経て80年代になると、日本映画の映像的な魅力はもう全く感じられなくなっていました。 僕が商業映画を撮り始めた頃も、画面のクオリティ――美しい画面というのはどうやって撮ればいいのかを苦心していた時代です。当時はフィルムですから、照明を焚かないと何も映らない上に、放っておくとすぐに汚いブルーがかった映像になってしまい、何とかして西洋の絵画のような(それもえらくステレオタイプな基準ですが)画面に近づきたいと様々苦心していました。 テオ・アンゲロプロスやゴダールはも
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『https://www.p.pia.jp/』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く