サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
体力トレーニング
www.shinrankai.info
前田町会館(親鸞会初の会館) 親鸞会初の会館が落成 Hさん 建設中の前田町の会館 前田町の親鸞会館にも、思い出がいっぱいあります。 落慶式の前の日に、6、7人で垣根を作った。男の人はくいを打って、女性は「垣根結び」をしました。横に張った竹を、わら縄でくいに結びつけるんです。 建築工事は、突貫工事でした。壁が塗り立てで、ベタベタでしたので、「気ぃつけてくれ」と言われました。そんな中の落慶式でした。 あっちからもこっちからも寄ってきた人が、 「よかったねぇー、よかったねぇー」 と言うてました。 障子を入れる敷居はできていて、障子戸も用意してあったのですが、最初から人がいっぱいで、敷居の外にも人が座っとって、障子を入れることはなかったと思います。 本堂も人がいっぱいで、膝が触れ合うくらい、ぎゅうぎゅう詰め。今みたいに冷房はありませんから、夏は暑かった。窓を開けて、自然の風を入れました。冬は
高森顕徹先生と親鸞会の50年 親鸞会結成以前(滋賀県 その1) Tさん(滋賀) 学生服の高森顕徹先生 滋賀県の下之郷という所に、Yさんという方がおられました。戦後まもないころ、Yさんが京都へ行かれた時、大勢の人が集まっている中で、一人の学生さんがビール箱の上に乗られ、腕には「死線を越えて」と、小指を切った血で書かれた腕章を着けて、一生懸命にお話しくださいました。 「親鸞聖人のみ教えは、現在ただいま助けてくだされる阿弥陀仏の本願である」 と高森顕徹先生は、親鸞聖人の教えを手に汗握ってお話しくだされていたとのことです。 Yさんが、今まで聞いたことがない素晴らしいお話でしたので、先生に、 「一度来ていただきたい」 とお願いしたのが、滋賀県への最初のご縁です。 そのころ、私は、この世にあて力になるものは一つもないと知り、どこかに真実の教えを説いておられる先生がおられないかと、寂しい心を持ちな
高森顕徹先生と親鸞会の50年 親鸞会結成以前(石川県) Kさん(石川県) ハッキリ答える布教使がいない 昭和8年、東京に生まれた私は、戦争のただ中で育ちました。「死んで護国の鬼となれ」との教育を受け、小学校で射撃や手榴弾を投げる練習をし、切腹の作法も習いました。 近所の人も赤紙で出征し、次々に亡くなっていきます。米軍の空襲にも遭い、爆弾がいつ振りかかってくるか分からないと感じました。空爆から逃れても、やがては自分も出陣し、戦死する。死んだらどうなるか、真剣に考えずにおれません。 地獄・極楽は有るのか無いのか、毎日のように友人と言い合いましたが、結論が出るはずもありませんでした。小学生ながら、 「寺に聞いたら、答えが分かるかもしれない」 と思い、東京には少ない真宗寺院を、やっと一軒探し当てました。しかし、出てきた坊守(住職の妻)は、 「一生懸命、学校の勉強をしなさい」 と言うばかり
高森顕徹先生と親鸞会の50年 親鸞会結成以前「歩いての布教」(富山県 その6) Tさん(富山) 昭和30年の初め 嫁ぎ先の両親が、高森顕徹先生のお話をよく聞いており、私も聴聞するよう勧められました。しかし、すぐには聞こうとしませんでした。 近くの寺で一週間のご説法をしてくださる時は、滋賀県や、富山県内の人でも、わが家に泊まって聴聞を重ねることがよくありました。皆さんの食事や宿泊の用意は当然、嫁である私の仕事です。 「他人の家に泊まってまで仏法を聞くのか。法道楽とはこのことだ」 と、出てくるのは愚痴ばかり。 しかし、滋賀から若い人が、泊まり込みで聞きに来ているのを見ると、 「あんなに一生懸命になる仏法とは、どんな教えだろう」 という疑問も起きてきます。 聞法を始めたきっかけは、27歳の時。高校教師だった夫が、生徒を率いて立山登山をしている最中に腹膜炎を起こし、急死したのです。30歳のあ
高森顕徹先生と親鸞会の50年 親鸞会結成以前・結核診療所での説法(富山県5) Mさん(富山) 結核診療所 昭和26年1月17日、結核に侵された私は、富山県城端町の「北陸荘」という結核療養所へ入りました。 当時、結核には有効な治療法がありませんでした。ストレプトマイシンという特効薬があるにはあったが、米国製の高価な品でした。一本一万円、今なら、30万から50万くらいに当たるでしょうか。それを36本打つと、大体治ったそうですが、そんなに打てる人など、ほとんどなかった。だから、北陸荘に入っただけで、助からないと思われていたのです。 600人ほど収容されていた療養所で、2日か3日に一人は、死んでいたと思います。 深松顧問が書道教授 結核は感染するので、外部の人は、療養所へ近寄ろうとしません。家族も遠ざかり、身内が亡くなった時でさえ部屋に入ろうとしない場合が多かった。そんな時は、亡くなった人の身
高森顕徹先生が結成した、浄土真宗・親鸞会は、今年で結成50周年を迎えます。結成前後の話を当時の証言を元にお届けします。高森顕徹先生と親鸞会の50年 まえがき 親鸞会は、平成20年で結成50周年を迎えます。 このページでは、親鸞会黎明期の証言と題して、親鸞会結成から、昭和50年頃までの流れを掲載します。 最初は、親鸞会結成以前の、高森顕徹先生のご布教の様子を、当時、縁のあった方の証言から、ふりかえってみます。 黎明期の証言目次 親鸞会結成以前(富山県編) 深夜まで続く座談会 救われたうれしさに、母は毎月、高森顕徹先生をわが家へご招待するようになりました。私は小学4年生。9つ違いの先生を私は、兄のように慕っていました。
高森顕徹先生と親鸞会の50年 親鸞会結成以前「坊主にマコトとニセがある」(富山県) 川淵をたさん(富山・故人) 昭和20年代のころ 川淵をたさん(故人)の思い出を、家族の人に語って頂きました。 川渕「義母(をたさん)が初めて高森先生にお会いしたのは昭和20年代、先生が学生のころです。義母は40代やった。 近所に仏法熱心な同行が3人あって、その中心がうちのばあちゃん(をたさん)でした。 『まことの方がおられる』 と聞き、義母は二人の"弟子"を連れて、高森顕徹先生のご実家、大浦(富山県氷見市)のお寺へ出掛けたんです。 夏休みか何かで、帰省しておられたのでしょう。先生は、ちょうどご在宅でした。 『信心決定※されましたか』 と、義母がお尋ねしたら、先生は、 『はい』 と言われて、手に持っておられた物差しか何かで、ピシャンと畳をたたかれた。 (※信心決定-阿弥陀仏に救われること) う
高森顕徹先生と親鸞会の50年 まえがき 親鸞会は、平成20年で結成50周年を迎えます。 このページでは、親鸞会黎明期の証言と題して、親鸞会結成から、昭和50年頃までの流れを掲載します。 最初は、親鸞会結成以前の、高森顕徹先生のご布教の様子を、当時、縁のあった方の証言から、ふりかえってみます。 黎明期の証言目次 親鸞会結成以前(富山県編) 深夜まで続く座談会 救われたうれしさに、母は毎月、高森顕徹先生をわが家へご招待するようになりました。私は小学4年生。9つ違いの先生を私は、兄のように慕っていました。
浄土真宗親鸞会結成50周年のページ ■ 浄土真宗親鸞会結成50周年 浄土真宗親鸞会(じょうどしんしゅうしんらんかい)は、本当の親鸞聖人の教えを多くの方々に知っていただくために、昭和33年(1958年)に設立され、今年で50周年を迎えました。 浄土真宗親鸞会結成50周年の特設ページを設けました。今後随時、50周年記念企画を掲載していく予定です。 50周年の歴史について、以下のページをご覧下さい。 浄土真宗親鸞会結成50年の軌跡 高森顕徹先生と浄土真宗親鸞会の50年 私と50周年 私と50周年1(蓮如上人の遺産・岐阜県) 私と50周年2(滋賀県)仏法は聴聞に極まる、大雪の日も火事の跡でも 私と50周年3(岐阜県2)戦後の焦土から、生きる意味を求めて 私と50周年4(富山県)団塊の世代・変革の夢醒めて 私と50周年5(富山県)すし詰めでも熱心な聞法・芳野の会館とともに駆け抜けた昭和50年代 浄土
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『浄土真宗親鸞会 50周年記念サイト』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く