サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
www.yk.rim.or.jp/~h_okuda
今回の原稿は「押井守がこれまでアニメ界においてどのような位置にあったか」という点の概説として依頼されたものである。 さて、それを語るにどこから始めるべきだろうか。 押井守がアニメ業界に入ったタイミングだとすれば一九七七年まで遡らなければならないし、出世作であるテレビアニメ「うる星やつら」の放映開始ならば一九八一年、同じく(商業)映画初監督作品の「うる星やつら オンリー・ユー」の公開時なら一九八一年となる。 しかし、この文章を読む多くの人が意識しているように、押井守の「映像作家」としてのスタートはやはり「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」(以下「B・D」と略記)と見るのが妥当だろう。他方、「攻殻機動隊」の成功によって押井守が(一応)国際的映像作家となってからは押井守が種々の媒体に登場する機会が飛躍的に増え、それ以前のように「知る人ぞ知る」に近い存在ではなくなった。何より、時代が新しく
『攻殻機動隊 Stand Alone Complex Second GIG』 この半年ほどの間に、テレビシリーズ『攻殻機動隊SAC』を初めて通して観ました。今までは押井守氏がほとんどかんでいないということで、あまり興味がなかったため放置していたんですね。『攻殻機動隊SAC』の第2シリーズは、一応押井守氏が「ストーリーコンセプト」なるよくわからない形式で一枚かんでいるということだったので観てみる気になったのでした。もっとも、「ストーリーコンセプト」などという関与の仕方は、おそらくはせいぜい上流工程の打ち合わせで指示など出した程度で、それほど深く関わっていないことを容易に想像させました。まあ過剰な期待はせず、第1シリーズから順にDVDを借りてようやっと観終わったといったところであります。 作品そのものはたしかにいいものでした。クオリティは高いし、内容もなかなか考えさせる部分もあり、第一級とい
何事にも「動機」というものがある。私がこのシリーズを書いてみたいと思ったのにもある「動機」があった。 1995年の秋ごろ、『漫画の時間』という本がでた。自称「ディープな漫画読み」であるところのいしかわじゅん氏の漫画評本である。 EYECOMという雑誌の氏の連載を愛読していた私は、とりあえずその本を買ってみた。個人的にはいしかわ氏はキライではないが、この本はどうも肯定的に読むことができなかった。 各作品評の冒頭には、ちょっとしゃれたキャッチフレーズが掲げられている。 「自由への、ちょっと辛い航海 ハロルド作石『ゴリラーマン』」 といった具合である。いかにも洗練されてござい、というこのへんにもなんか「そひすてぃけーてっど」なスノビズムを感じてうっとうしかったが、私が否定的な感じを受けたのはそればかりではない。なんか、とにかくズレている。単なる主観の相違かも知れないが、どうにもズレているように
解釈学という思考法 われわれがある作品について考えるとき、しばしば犯す過ちがある。それは、作品をひとつのデータ、ないしはプログラムのようなものとしてとらえてしまうという誤謬である。作品鑑賞という行為は、データのインプットやプログラムのインストールのような作業とは性格を異にする。このことは、意外と理解されていない事実である。 いくつかの評論や解説は、ある目的をもった作者が、その目的に基づいたプログラムとして作品をつくり、また、作者の意図を伝達するためのデータとして作品を送り出すという前提をもって語られている。こうした種類の文章はしたがって、作品のなかに込められている「作者の意図」を解読するといったスタイルをとることが多い。われわれはかつて学校において、「作者は何を言いたいか」を問われ続けてきた。これはそこにおいて培われた思考習慣の影響なのかもしれない。だが、この思考態度はつねに正しいとはかぎ
なぜ「構造分析」なのか? 作品の解釈、批評にあたり、その「構造」を明らかにしようとする行為の動機、意味、効用は何かと言えば、色々理屈はつけられますしょうが、究極的には作品世界を理解=掌握=この手にしたいという欲望そのものだと私は思います。しかし面白いことに構造化されている押井作品はそのような動機に対して逆に自己言及的に否を突きつけるわけで、これで私は押井作品にマイッてしまいました。それはともかくとして、この利己的な動機を意識せずに、作品を自分に生じた事件としてではなく外部の事柄として語ることは、しばしばネット上だけでなく散見される無意識的ゆえに手に負えない傲慢な一般論か、それとは対極にある恣意性に甘えた「独断と偏見」という唯我論的言いたい放題を導き出しかねないことを、まずもって自戒の意味で述べておきましょう。 さて、作品の評論は受験国語的な正解発見行為でもなければ、世界の究極論理を探しだす
はじめに 「萌え」である。ある意味これだけ「俗情」と結託したモチーフを特集としたことはWWFでも初めてかもしれない。なんで、とかく文章堅めで「筆者」なんていう一人称を日頃使ったりするこの私(とこの文では自称する)も、今回はソフトモードで行くことにしよう。 で、さっそくなんだがタイトルにはあんまり意味はない。でも一応これは二十世紀の政治史に残る文書のタイトルの剽窃である(注1)。何、元ネタがわからない? じゃ、こういうのはどうだ。 「白い猫耳でも黒い猫耳でも萌えられるのがよい猫耳だ」(注2) これでもよくわからない? そうかもしれない。 今回、テキストとして編集者より指定された東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の記述に基づけば、いわゆる「萌え」という現象は政治思想や国家的なイデオロギーという現実の「大きな物語」が衰滅し、さらにそれに代替されたサブカルチャーにおける「大きな
<body bgcolor="#FFFFFF" text="#000000" link="#0000FF" vlink="#800080" alink="#FF0000"> <p>このページを見るのにはフレームの表示ができるブラウザが必要です。</p> </body>
WWFNo.26のページへ戻る 座談 「動物化」って何? ―― 東浩紀氏の「動物化」論を読む―― へーげる奥田 ■まつもとあきら ■清瀬 六朗 ■鈴谷 了 ■岩田 憲明 ■雨読 (発言順) ■奥田 経緯としましてですね、今回の企画立案者であるところのまつもと氏の案として、まずはテーマとなる本をみんなで読んだ上で、その周辺をめぐっての話をしよう、ということになったんですが。東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、二〇〇一年)と、東浩紀・笠井潔の往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書、二〇〇三年)なんですけど、私、字がいっぱい書いてある本てニガテでして。 という訳で、買った本もまだほとんど読んでないんですが、よく考えたらそれ以前に私はポストモダンとかそのへん全然知らないデシタ。アイゴー。 そういう状況ですんで、ワタシにわかるように今回のテーマとか、ポストモダンとコミックマーケッ
WWFNo.12のページへ戻る ■王立宇宙軍という映画 鈴谷 了 ・はじめに 1.「キャラクター」との出会い 2.主人公とは誰か 3.「繰り返し」の物語 4.結びにかえて──語り足りなかったことなど WWFNo.12のページへ戻る WWFホームページへ戻る
文章の題名から予想されるわけはないだろうが? 私の興味は「萌え」の定義でもなく、「萌え」という現象が社会的に何を物語るかということでもない。知りたいことは、「萌え」なる言葉で表わされる、私と私と類似した指向の「オタク」たちが現在体験している感覚がどのようなものかという、本来は内省的で客観化できないことを言語化しようというのが本稿の試みである。その目的は無論、社会や現代の傾向を解明するためなどではなく、さらには学問的なことなどどうでもよくて、ただ自分のためだけに、自分の感情でありながらも移ろいやすく老いとともに忘れていってしまうであろうこの感覚を何とか文章として定着して保存させることであり、その一過程として、様々な言説を流用しているに過ぎない。このような極めて個人的に過ぎない動機のために、わざわざご大層な言説を捏ね繰り回すのは自慰行為以外の何物でもないことは初めに言っておいたほうがよいだろう
東浩紀氏の『動物化するポストモダン』については、その根拠の薄さなどによって(いきなりヒドイ言い方で申し訳ないのであるが)、既にネット等で様々なツッコミが成されていることと思う。例えを挙げればキリがなさそうであるが、それを改めて指摘してもあまり面白くない。「ポストモダン」や「オタク系文化」の定義からして紛糾しそうではあるが、彼はそれを知りつつ敢えて戦略的に曖昧にしたまま議論を進めていると思われる。というわけで、この文章では彼の著書の可能性の中心を取り上げながらも、その中心自体を批判して根拠なく自分の意見をチョッカント主義的(まるしー野矢茂樹)に述べてしまおうという、かなり思弁的であるだけなく底意地の悪い文章になりそうなのだが、これは実際に私の性格が悪いためなので半ば止むを得ないと謝らざるを得ないデス、はい、ごめんなさい(実生活でストレス多いので許してくだせえ)。で、本稿では東氏のこの著書から
ホームインデックスへ戻る ■WWFの刊行物 ☆定期的(のはずなんだが……)に「WWFナンバー」を発行。 ☆また不定期刊行物として「WWFセカンドシステム」等、非常に多数。 WWF正規ナンバー
今回お届けするのはWWFの「萌え」特集の第二号であり、二〇〇三年夏に刊行した『WWF No.26――「萌え」の構造・非構造』から続く問題意識に基づいて編集されている。 この一連の「萌え」特集の執筆者の多くが共通して参照しているのが、現代思想家の東浩紀氏の一連の著作やホームページ上での発言である。私たちは、今号の特集のあちこちで、東氏が立てた議論のことばや概念を引用して議論している。 東氏の名まえなど聞いたこともないという方や、名まえは知っていてもどんな議論をしているかはよく知らないという方は、「動物化」とか「データベース的動物」とかいう用語がいきなり出てきても戸惑うばかりだろう。そこで、東氏がどんな議論をしているかをかんたんに紹介しておこうと思う。 なお、いうまでもなく、これは私の立場からの整理である。 東氏の議論は、コジェーヴやジジェクなどという、私が耳にしたこともない思想家の議論を参照
「コミックマーケット的文化」に関する文化論のようなものを、いつか書いてみたいと思いつづけてずいぶん経ちますが、実のところまだその目処はたちません。今回、東浩紀氏の研究をとっかかりにして論じようとあれこれ考えてみました。しかし、やはりどうもまだまだきちんと論じられる段階ではないようです。仕方がないので、今回は、思いついたことをつらつらと書いて行くことにしましょう。 「オタク」という名辞について 前回の同人誌のなかの「対談」で、私は「オタクという言葉はその語源から見てどうも承伏しかねる」と述べました。まずはそれについてちょっと説明しましょう。 「オタク」という語は、ライターの中森明夫氏が、1983年に言い出したのが最初とされています。語源について諸説ありまして、中には「コミックマーケットが大田区で行われたので、大田区族という語からきた」などという人もいましたが、今では中森明夫説が定説とされてい
たとえば、ここにあげたのは、松崎道幸氏の提示する有名なデータで、「人間がそれを一生摂取することにより、癌などの疾病にかかり死亡する割合」というものです。 たとえば水道水を日常生活上で一生飲み続けた人が10万人いたとすると、そのうちの0.1人(ということは100万人のうちの一人という意味ですね)が癌などの病気にに罹患して死亡するということです。 論理的に言って、「身体に悪いもの」と「そうでないもの」の間には、本質的な違いというものはありません。青酸カリだって1000兆分の1グラム程度だったら毎日一生飲んでもそれによって死ぬ可能性は低いでしょうし、単なる水であっても一日に100リットルも飲めば水死するか水中毒になって死ぬおそれがあります。ただ、「そのものがどの程度危険なのか」という線引きは当然必要になってきます。このデータはそういった意味で、対象となる物質を日常的なレベルで毎日摂取したとき、そ
■当サークルの方針は、あんまり正当に評価されていないと思われるような作品に対し、テツガク的な観点とかによる論評などを試みたりしてみようとかいった感じです。 ■当サークルは、アニメーションとかコミックスなどに対して特に多く語ってきたかもしれません。 ■特に押井守作品とかに触れることが多かったかもしれません。 ■一種の押井守データベースとして、『押井守小辞典』とかあります。 ■どくとる清瀬のウェブサイトさんごのくにもよろしく。旧珊瑚舎のページはここです。最近はブログ形式の『猫も歩けば』にいろいろな文章を発表されています。 ■当サークルは、主催者へーげる奥田の手によって1983年6月に発足し、ときどき同人誌などを作ったりしてはコミックマーケットなどに出展したりしています。 ILCサポーターズ活動を支持。 ☆WWFバナー☆ http://www.yk.rim.or.jp/~h_okuda/wwf/
1 作品 CD「しあわせのかたち 水晶の滑鼠(マウス)」は1992年3月、OVAシリーズ「しあわせのかたち」の人気を受け、CD第2弾として、押井守脚本・監督で発表されたCDである。押井作品で言えば、「機動警察パトレイバー」OVAが1988年、「機動警察パトレイバー THE MOVIE」が1989年、「御先祖様万々歳」OVAが1989年、1990年ゲーム「サンサーラ ナーガ」発売、1991年「ケルベロス 地獄の番犬」、そして1992年の10月に「Taiking Headトーキング・ヘッド」が公開された。実写、アニメ、ゲームと多彩な活動が行われている中、合間を縫ったような形で発表されたものである。 その後、1993年「機動警察パトレイバー2」、1994年小説「TOKYO WAR」、ゲーム「サンサーラ・ナーガ2」、1995年「攻殻機動隊」を発表している。こうみてくると、劇場版アニメが目立っていた
WWFホームページに戻る 押井守データベース 押井守小辞典 Since 1993 Ver.2013/02/11 ■【あ】~【こ】 ■【さ】~【と】 ■【な】~【わ】【英数】 世界は、事実の寄せ集めであって、 物の寄せ集めではない. ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』 ※当辞典は1993年に以下のWWFスタッフによって執筆されたものを集約したものである。 ・清瀬六朗 ・鈴谷 了 ・都市迷彩野郎 ・藤井隆生 ・へーげる奥田 ※情報提供者 ・A-come ・いぬだきねも ・都々目さとし (敬称略、50音順) ※当辞典の検索構造は、ネットスケープ3以上、インターネットエクスプローラ4以上についてテストを行っている。 ※ホームページ掲載にあたってのHTML化は、へーげる奥田によって行われた。記載内容に関する最終的な文責は奥田にある。 ※記載内容は一応更新しているが、事実に反する記
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『www.yk.rim.or.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く