ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有
以下は、地下に眠るMさんのところへのコメントとして書き始めたものの、長くなりすぎたのでこちらに記入することにしたものです。 http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915/1252950872 http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090918/1253211612 PledgeCrew [議論][すれちがい] あちらが「サル」という言葉で表してたのは文明や文化でもかわらぬ通時的な人間の基底のことでは。人間が歴史的存在であるとしてもそれがすべてではないしたとえ本能が壊れていようと人間は単なるタブララサではない 2009/09/18 先端的な部分はともかくとして、物理や化学のような原理的な意味で単純な自然科学と違って、実験による検証が不可能か、または不可能に近い学問の場合、厳密な「科学」として成立させることはきわめて困難です
承前*1 「論理」にはつねにそれが適用される条件と範囲がある。 形式的な「論理」を、適用対象を含めて、その条件と範囲を超えて適用してしまえば、ただの空理にしかならない。 カントが言ったのは、そういうこと。 こちらが言った「犬はどこまでいっても犬」というのは、犬は人間のように知識や経験を集積して文明を築くことはできない、それは種としてのイヌが持つ生物的条件に規定されているからというだけのこと。 そのことと「女はどこまでいっても女」というのは全然関係ない。*2 こちらが言ったことをちゃんと理解もせず、また正面から反論し否定するわけでもなく、形だけ似せて、関係ない別の問題を持ち出すのはただの話のすりかえ。 だいたい、「女はどこまでいっても女」という言い方こそが、性別としての「女」と社会的に規定されたジェンダーとしての「女」を混同している証拠ではないか。 他人を批判するのはもちろん自由である。だが
⇒おサルの世間の真正性 - 地下生活者の手遊び まず、私たちはサルではないし、遺伝子の産物でもない。この大前提について確認しておきたいと思います。 自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会は、ひいては公共は、価値的な人工物です。その価値に対するコミットは問われます。コミットなくして人工物は維持されないので。その人工物を抽象的な国家が代替する発想こそスターリニズムです。「その人工物を抽象的な国家が代替する発想」をtikani_nemuru_Mさんが一貫して退けておられることは知っています。 自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会――ひいては公共――という価値的な人工物に対するコミットは共同性に対する批判を含意する。なぜなら、共同性が喚起してきた殺し合いの歴史を私たちは知るから。近代以降にあって、共同性とは政治的な動員の装置でしかない。そもそも「共同性」の観念が近代の産物なので。「自然」の観念が近代
「党再生会議」で麻生総裁への「恨み節」 自民党は15日、衆院選の敗因を分析する「党再生会議」を党本部で開き、落選議員から意見聴取した。都内のホテルで華々しく両院議員総会を開いた民主党とは対照的に、聞こえてくるのは麻生太郎総裁ら執行部への批判や党の将来への悲観論など「恨み節」ばかり。党の再生論以前に、切実な生活不安を訴える声が相次いだ。 午後4時から始まった会合。出席した細田博之幹事長は「多数の落選者を出したことをおわび申し上げる」と頭を下げた。ただ会場が静かだったのはここまで。細田氏が陳謝して退席すると、一斉に発言が始まった。 「言葉で感動させることができない人は、リーダーにふさわしくない」。大塚拓氏(埼玉9区)が麻生総裁に矛先を向けると、衆院議院運営委員長だった小坂憲次氏(長野1区)はマニフェスト(政権公約)を俎上に載せ「メッセージ性に欠けた。民主党の方が政権公約らしかった。配
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