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ブックマーク / yuhka-uno-no-nikki.hatenadiary.jp (11)

  • 「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という、抑圧者の甘え - yuhka-unoの日記

    少年アヤちゃん @omansiru のピル(OC)に関するつぶやきと反響 - Togetter 「ベビーカーで電車の乗るな」という傲慢さ!それなら他人が産んだ子に将来の年金や社会福祉の負担を押しつけるな  | 川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」 | 現代ビジネス どちらの記事についても、「言い方が悪い」「書き方が不快」「憎悪に満ちている」などのブコメがついているが、ああこれは典型的な差別あるあるだな、と思った。まずそもそも、マジョリティのマイノリティに対する抑圧があるせいで、マイノリティが不快な思いをさせられたり苦痛に耐えたりしてきて、マジョリティに対する「配慮」を強いられ続けてきたにも関わらず、そこをすっ飛ばして、「俺らを悪く言う被害を感じる」とは、典型的な差別あるあるだ。こういった差別あるある的態度を取る人は、これまで自分たちがマイノリティにしてきたことを丸ごと無視して、今現在、

    「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という、抑圧者の甘え - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2012/11/18
    自分がまき散らす毒は誰もが無自覚だからね…。抑圧者と被抑圧者という構図はわかりやすいけど、抑圧と被抑圧の構造はそれほど単純ではないかもしれない、と言ってしまうと堂々巡りなんだけど。
  • 「若者は、物が溢れた豊かな時代に生まれて、苦労も不満もなく育ってきた世代」というイメージ - yuhka-unoの日記

    デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話 1979年生まれのデジタル原人の話も聞いていっておくれよ | LUNATIC PROPHET 89年生まれの人と、79年生まれの人の、インターネットとの関わりについて書かれた記事。この二つの記事が書かれた当時は、自分の世代とインターネットとの関わりについて話す人が沢山出てきて、なかなか面白かった。 それらの話を読んでいて思ったことは、若者は年長者世代から「デジタルネイティブ世代」と言われているけど、実際はそうでもないということだった。上の89年生まれの人は、親御さんのPCをバレないようにこっそり使っていたそうだけど、私の親なんて、全くネットにコミットしない人だったので、私がインターネットに触れたのは、学業を終えて自分で稼ぐようになってからだった。だから、けっこうネットにコミットするのは遅かったのだ。 ネット普及初期の頃にネットにコミッ

    「若者は、物が溢れた豊かな時代に生まれて、苦労も不満もなく育ってきた世代」というイメージ - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2012/10/05
    同世代間でも地域差親の経済力金銭感覚諸々の理由で豊かさの基準には差があるよね…経済に限らず苦労の質は時代よって違う。だけど40年代ごろまではほんとうに貧しかったなあ…子どもだったからなのかなあ。
  • なぜ、若者と見れば「甘やかされている」と思ってしまうのか - yuhka-unoの日記

    若者と見れば甘やかされている、一人っ子と見れば甘やかされている、お金持ちの家の子と見れば甘やかされていると考えてしまうのは、自己承認欲求なのだろう。「自分はこんなに努力して苦労している」→「あいつは努力して苦労していないに決まっている」→「あいつは甘やかされている」という思考回路だ。 もちろん、若者だから、一人っ子だから、お金持ちの子だから甘やかされているかというと、必ずしもそうではなく、個々の事情は異なる。しかし、これらの人のことを、すぐに「甘やかされている」と見てしまう人は、実はその人自身が一番甘えたくて、自分の努力や苦労を褒めて欲しいのだろう。しかし、自分の中の「甘えたい」という気持ちを抑圧しているので、素直に「褒めて欲しい」と言えない。だから、他人の努力や苦労を過小評価する形で、自己承認欲求を満たそうとする。 つまり、「自分だけが可哀想」と思い込みたい心理に似ているんだと思う。「自

    なぜ、若者と見れば「甘やかされている」と思ってしまうのか - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2012/01/12
    自分がいつも一番大変だと思ってるんだろうなあと感じる人はいますね…でも私のように我慢や辛抱を回避してばかりいる者からすると、ある面ではよく耐えている我慢強いところもあるしそこは評価しないとと思います。
  • 我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む - yuhka-unoの日記

    まともな人ほど「私はこう思う」と言い、我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む。これはもう法則と言っても良い。 我侭な人は、「私はこう思う」と、自分個人の意見として言いたくない。なぜなら、批判されてしまったら、「私」が批判されていることになるからだ。我侭な人は、自分が批判されることに耐えられない。自分が批判されることをとことん避けたい。 だから、「普通はこうする」「これが常識だ」と言う。自分は「普通」で「一般的」で「多数派」なのだと思い込めば、批判してくる相手は、「私」ではなく「普通」や「一般」や「多数派」を批判しているのだと思える。自分自身を世間という大きな存在と一体化させててしまえば、自分に批判してくる相手は、普通じゃない非常識な人間なのだということにできる。こうして、常に自分のほうが正しいかのような幻想を形成する。 このような人が何か言う場合は、終始「私のほう

    我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2011/11/08
    『誰が見ても我侭な人であることももちろんだが』結局判断は「数」なのねw
  • ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について― - yuhka-unoの日記

    .@nucco 例えば、子どもが、缶蹴りや鬼ごっこをして遊んでいると安心するけれど、DSの画面を見つめてひたすら黙っているという場面を見ると、なんか不安になるというのは、見守る側の大人の素朴な感情としては、どうしてもあると思うんですよ。そこをどうしたらいいんだろう、というか。 http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-216.html たぶん、このDSで遊んでいる子供に対する不安感というのは、一見して何をしているのかわからないという不安感なのだろう。缶蹴りや鬼ごっこなら、子供がどういうルールや世界観の下で、何を考えながら行動しているのかが一見してわかる。しかし、これがゲーム機だと、そういった世界観や思考というものは、画面の中と子供の脳内に存在しているものであり、一見して何をしているのかがわからない。もっとも、この手のゲーム機で遊んだ経験のある最近の親なら

    ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について― - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2011/10/26
    ぎょ…お子に「はてなブックマークって何?毎日なにやってんのー?」とさして興味もなさそうに言われる私はいったい…
  • 社会が押し付ける「良い親であれ」というプレッシャー - yuhka-unoの日記

    「もしも、自分が障害のある子を授かったら....みなさんはどう思いますか」・・乙武(h_ototake)さんの連続ツイート - Togetter これは障害児だけでなく、広く「虐待」というものを考えさせられるテーマだ。 結論から言うと、私は乙武氏のスタンスに疑問を持っている。なぜなら、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いからだ。だから、このような「良い親になってください」という形の呼び掛けは、逆に危険なのではないかと思う。 なぜ虐待は起こる? 1 育児についての理想が高い: 意外なことに子どもを虐待してしまう養育者(特に母親)の多くは、「良い親でありたい」という気持ちが強い人達です。 そのためにかえって子どもの発達や「しつけ」について高い理想を持ち、その理想どおりにいかない現実の子育てにいらだちます。 さらに、「こんなことではいけない」と自分を責

    社会が押し付ける「良い親であれ」というプレッシャー - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2011/10/10
    乙武さんのご両親はそうじゃなかった。自分の体験からの呼びかけなんだろう。
  • 相手は自分より頭が悪いと思い込む材料としての「アスペルガー症候群」 - yuhka-unoの日記

    前回記事『頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること』に、1000を超えるブコメがついて驚いた。そして、ブコメを読んでいるうちに、また色々と考えさせられた。 私がこの手の話で思い出すのは、山月記の李徴だ。李徴はもともと若くして科挙に受かるほど頭も良く、詩才もあったのに、自分の詩才を伸ばすことよりも、自分の自意識を保っておくことのほうを選んでしまった。つまり、「詩が上手くなりたい」という気持ちより、「自分は詩が上手い人だと思っていたい」という気持ちのほうが強かった。虎になる前の李徴の中では、自己評価が実際の自分の実力よりもずっと高くなってしまっていた。これについて人が全くの無意識なら、私が前回書いた記事のような振る舞いになるのだろうが、李徴はどこかで(認めたくないものの)自覚があったので、実際の自分の実力が発覚するのを恐れて、師匠につきもせず、詩を志す者と交わ

    相手は自分より頭が悪いと思い込む材料としての「アスペルガー症候群」 - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2011/09/28
    個人的な特徴と線引きしにくい症状なんだね…。でもだからこそ相対的に見ればどっちもどっちなんて事にしてはよくないのでは。だって本人の意思と無関係に社会的に逸脱しているから理解や治療が必要なんだし。
  • 自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。 - yuhka-unoの日記

    『相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い』に、予想外にブックマークが沢山ついた。で、 id:ekirei-9 理屈はわかるけど具体例がほしい という意見を頂いたし、ちょうど書きそびれたなと思っていたこともあったので、続きを書こうと思う。 母は、家に人が来るとなると、家の中を完璧に片付けていた。私の担任になった先生は、大抵誰でも「yuhka-unoさんの家は綺麗だね」と言ったものだし、その中の一人は、「yuhka-unoさんの家は、生活感がない感じやね」と言った。 学校の先生が来る時に家の中を綺麗にするのは当然として、母は消防署の人が火災報知器の点検に来る時や、電気屋の人が家電を修理しに来る時でさえそうだった。 母が留守で、私が火災報知器の点検に立ち会うことがあった日、私は布団を押入れに仕舞わず、畳んで部屋の角に置いておいた。火災報知器は、押入れの中にも設置されているからだ。押入

    自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。 - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2011/09/03
    こちらが書かれている別の記事も読み解けた気がする…。私も含め不完全なまま親になってる。完璧な人間などいないのだけれども。だから親以外の大人と接したり本(別の人生)を読む体験が子どもに必要なのだと思う。
  • 味方を装ったいじめっ子 - yuhka-unoの日記

    いじめの構造の中でよく見られることの一つに、直接明確な悪意を持っていじめて来る人間の他に、「私はあなたの味方よ」というポーズを取ってやって来るいじめっ子がいる。こういうタイプは明確で直接的ないじめっ子よりタチが悪い。人はあくまでも善意のつもりで、自分の迷惑性を欠片も疑わず、迷惑性を指摘すると途端に逆ギレして手の平を返し、罵倒する側に回るからだ。 味方を装ったいじめっ子は、初期段階では、直接いじめるでもなく、いじめを止めようとするでもない、「その他大勢」であることが多い。一見いじめられている人間に友好的に振舞うが、人の前では友好的に振舞っておいて、陰で噂を広めたりする。人から情報を聞き出し、聞き出した情報を噂仲間に広めて「情報通」ぶることが目的だ。 噂を広める人は、他人をいじめられる状況に追い込むだけ追い込んでおいて、いじめに遭っているその瞬間に助けるようなことは絶対にしない。それで「

    味方を装ったいじめっ子 - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2011/08/26
    ややこしい…いじめられているとそういうふうに近づいてくる人も受け入れてしまうのかな…。当事者でなければ一目瞭然でばかばかしいくらい関わりたくない人物なんだが。
  • 男女別学で成績が上がる理由の一つは、偏見に囚われない教育ができるから - yuhka-unoの日記

    男女教育は学力アップ」 シンポで報告  - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/education/100815/edc1008152034007-n1.htm 結論から言うと、男女別にすると成績が上がるということはありえる。その理由は、世間に存在する性への偏見のせいだ。 男女が混ざっている環境では、男は「女性的役割」とされていることはせず、女は「男性的役割」とされていることはしない、ということになりやすい。一方、男だけ、または女だけの集団では、男も女も「男性的役割」「女性的役割」とされていることの両方をこなさなければならなくなる。つまり、別学のほうが、性偏見に囚われず自分のしたいことに挑戦しやすい、というメリットがあったりするのだ。 ブコメでも、それを指摘しているコメントが見受けられる。 id:n-y-a 女子校についてはジェンダーにとらわ

    男女別学で成績が上がる理由の一つは、偏見に囚われない教育ができるから - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2010/08/16
    なるほど
  • パターンではなく個人を見るということが、人格を尊重するということかもね - yuhka-unoの日記

    まさに「受け取り方は人それぞれ」で、「女性だから」と言ってひとくくりには出来ない。 「これが正しい女性への接し方です」などと言うものは存在しないのである。 もういっその事、男性は女性を相手にしない方が良いのかもしれない。そんな事すら思うがそうは行かない。 http://d.hatena.ne.jp/Paris713/20100526/p1 これを読んだ時の私の感想は、正直なところ「は?当たり前じゃね?」だった。 これは「女性」の部分が「男性」でも「日人」でも「若者」でも何でも当てはまることで、こんなことで「もういっその事、男性は女性を相手にしない方が良いのかもしれない。」とか言ってたら、女性どころか人間全員相手にしない方が良いということになってしまうのではなかろうか。 そもそも、人間関係の基は個人を見ることにある。何が嬉しくて何が嫌なのか、同じことでもどの程度傷付くのかということは、そ

    パターンではなく個人を見るということが、人格を尊重するということかもね - yuhka-unoの日記
    aozora21
    aozora21 2010/05/29
    そこだけ引用すると論旨が伝わらない気がするんですが…。「これが正しい」が「存在しない」にも拘らず世間一般が男性に求めるダブルバインドに苦しむのを脆弱性と切り捨てていいのか?という問いかけだと思ったんで
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