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論法に関するaozora21のブックマーク (11)

  • 「おしつけるな」論法 - hituziのブログじゃがー

    なんでも いいけど、「おしつけるなよ」。よく みられる反応です。これほど便利な反論は ありません。なにか議論している ひとがいて、なにかを 提案している。その中身を 検討することなく、ただ、「おしつけるな」といえば、議論は おわってしまいます。 「意見を わたしに おしつけている」。「おしつけるのは わるいことだ」。「だから、おまえは まちがっている」。 どうでしょうか。こうなってしまえば、もはや提案したひとの「人格の問題」に なってしまいます。「おしつけている!」に とどまらず、「ファシズムだ」と名づけるならば、どうでしょう。おそろしや。「全体主義者」の登場です。恐怖政治が はじまってしまいます。オーウェルの「1984年」みたいです。………。 ちょっと まってください! そこまで連想を ひろげていくのは、あまりに「はやとちり」です。相手の すがたを よーく みてください。そのひとが提案し

    「おしつけるな」論法 - hituziのブログじゃがー
    aozora21
    aozora21 2008/10/01
    おしつけがましいより根回しの方がよほど警戒が必要だと思います。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

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    aozora21
    aozora21 2007/11/12
    理論で戦っている分にはアイデンティティそのものは冒されないからじゃないでしょうか。
  • 理屈と屁理屈 - novtan別館

    一見筋が通っているようでも、どうにも無理がある理屈ってのをそのまま筋の部分で押し続けると議論は成立しません。論者として重要なことは、自分の論にしろ他人の論にしろ、(そこにより全体が破綻するようなものでない限り)枝葉末節を論じることよりも、全体の整合性が取れていることではないかと僕は思っています。常に一歩も引かない、相手の粗が自分の利になるような論戦をしているわけでないのであれば尚更。 いわゆる屁理屈と言われるものは 無理筋(単品で見ても論理的整合性があやしい。俺は正しい的) 前提の誤り・無視(泥棒に人権はない、等) 文脈整合性無視 などに分類されると思いますが、特に前提の誤りについては、間違った前提と言う認識自体が論者毎に統一されていなかったりするので、相手にとっては屁理屈でも自分にとっては前提になっているものもあります。そこで揉める場合、それが議論になることが正しい(つまり、前提そのもの

    理屈と屁理屈 - novtan別館
  • 嫌いな人、嫌いな議論 - novtan別館

    僕はあまり人のことを嫌いにならないのだけれども、それは多分必要以上に人と踏み込んだ関係を持たないようにしようとしているからだろう。別に議論をしていても、そこであまり意義を感じなくなったら「あーそうですねごもっとも」で済ませてしまうことも多い。譲れるところであれば。 だけど、こういう議論をする人は嫌いだ。それは、他人の言葉を勝手に解釈して、その解釈が正であることを言葉を発した人が否定しているにもかかわらず、その発言を拾い集めてきて、論理的にはこうでしかありえない、自分が正しいと押し付けるような議論。言葉を発した人にとってはその意図だけが重要であって、こう解釈できますよね、ってのは正しいのかも知れないけれど、それを言ったら世の中言葉の行き違いなんて絶対起きないように出来ているわけではなし、過去を振り返ることは大事だけれども、その刹那刹那で常に思考が一貫していることを求められたら何もしゃべら

    嫌いな人、嫌いな議論 - novtan別館
    aozora21
    aozora21 2007/11/01
    『想像力に欠けていると指摘する自分の想像力はそもそもの思考のロジックが異なる人のことを想像できるのだろうか。』
  • 地獄のジャングルにて。 - REV's blog

    私はこの種の修辞的質問が嫌いである。 それは負けたチームの監督が選手たちを前にして「どうして負けたのか、お前たちはわかってるのか?」と訊いているのと同型のものである。 この質問に正解すれば、「なぜ、負ける理由がわかっていて、おまえたちは負けたんだ?」というさらに答えにくい次の質問がなされる。 だから、このような質問には誰も答えないで、じっとうつむいている。 http://blog.tatsuru.com/2007/09/15_1049.php 党の党首(オザワ)に発した質問を思い出しました。 「共産党とも協力していく意向はありますか」 そんな質問でしたが。 http://blog.tatsuru.com/2007/09/15_1049.php 共産党と協力するのは変節漢だ!協力しないのは、非協力主義者だ!!ホント、国会は地獄だぜ。 似たようなのに、「責任を感じるか?」という質問に、「感じる

    地獄のジャングルにて。 - REV's blog
    aozora21
    aozora21 2007/09/16
    何が目的なのかと思う。
  • 男女論 - uumin3の日記

    かなり以前(2003年)の、岡田斗司夫さんの「新オタク日記」より …倉田真由美さんと対談。 開口一番「私みたいな女、男は嫌いでしょ」と決めつけ発言。「自分が今までしてきたことは、ことごとく男に好かれないことばかり。例えば、勉強して一ツ橋大学に入った。でも、高学歴恋愛上、けっして有利ではない」「高校のとき、憧れの彼に手編みのセーターをプレゼントした。でも、そういう重たい女、男は嫌いである」 「だから」と彼女は続ける。「そういう素の自分を、男の前では出さないようにしている」 う〜ん、たしかにそうかもしれない。ゆっくり説明しよう。 男というのは、女と比較するとあまり人目を気にしない生き物だ。大雑把とも言える。 例えば、着ている服だって、女の子は異性の目以上に同性の目を気にする。自然、仲の良い子どうしは、同じような服装をすることになる。友達をえらぶときの判断基準に「どんな格好をしている子なのか」

    男女論 - uumin3の日記
    aozora21
    aozora21 2007/07/09
    『一口に男といい女といっても、年齢や投げ込まれている集団、立場の違いによってはいろいろ傾向が変わってしまうもの。あまりまとめて語っても(安易に全称命題にしても)なかなかうまくいくものではないという例』
  • 不快認定したブロガーが書くことはなんでもかんでも悪い - REV's blog

    不快認定したブロガーが書くことはなんでもかんでも悪いんだと手抜きをして決め付けているが、手抜きの作業自体が自明でない。 第一段階 不快に感じるエントリー → 全人格否定 → 全エントリー否定 第二段階 不快なエントリーをぶくまする人 → 不快感を共有できない → ぶくまする人の人格否定 → ぶくまする人のエントリー全否定 嫌いなものはなんでもかんでも嫌いなんだという謎の思考連鎖。美意識は自分の心には響かないものだろう。 http://anond.hatelabo.jp/20070624062022 論理的に無意味(と、私が思っている)論法に、[ジャングルは地獄][不良少女白書]、高い倫理基準の恣意的適応、なんかがある。 あなたが逃げるのは、後ろ暗いところがあるからだ。つまり、あなたはべトコンだ。逃げなければ、あなたが逃げないのは、訓練された証拠だ。つまりあなたは、べトコンだ。聴いた人間は、

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  • 2007-06-01

    三浦展氏の(これは編著ですが)は読んだのが『下流社会』についで二冊目です。書店に置いてあったのをパラパラ立ち読みして、具体例が面白そうだと買ってみました(朝日新書720円)。 面白い考察が諸処に見られ買った価値はあったと思いましたが、一つの難点は氏の着想の「ファスト風土」がまだ思いつきの域を出ていない感があるというところでしょうか。アイディアが先にありきで、そのデザインに沿ったところの例をいろいろ集めてみました…という感じを全般に受けるのです。 このでは三浦氏が実際にアメリカなどを視察しインタビューをとって、その現状などの分析もしようとしているのですが、その中で典型的かなと思われる次のやり取りがあります。 ズーキン教授の意見は、日頃私が考えていることとまったくと言ってよいほど同じだ。そこであえて、私はさらに聞いてみた。 「たとえば、郊外の大型店ばかりの、アイデンティティのない地域で育っ

    2007-06-01
    aozora21
    aozora21 2007/06/03
    『自説*1の補強になるところだけ採り上げて、そうじゃないところには注目が向かないというのは、たとえ新書だという点を割り引いても少々強引に過ぎる』別の本で、事実らしさと物語が同居していると言う印象がした。
  • 『「帰る場所ない」&「心の闇」一般化は危険』

    『犯罪不安社会 』の共著者のおふたりの記事が相次いで、新聞に掲載されているのでご紹介します。浜井浩一先生から。先日学会で発表された分析です。 --------------------------------------- 満期釈放受刑者の4割超、「帰る場所ない」 2007年05月26日 朝日新聞 http://www.asahi.com/national/update/0526/OSK200705260041.html 刑務所からの満期釈放者のうち、30年前には9%だった「帰る場所がない」人が、05年には4割を超えたことが、龍谷大学矯正・保護研究センターの浜井浩一教授の分析でわかった。厚生労働省研究班調査で25日、知的障害がある受刑者の約半数に引受人がなく、生活苦が再犯につながっていると明らかになったばかり。浜井教授は「社会に居場所がないと、刑務所に戻るために微罪を重ねる累犯につながりやす

    aozora21
    aozora21 2007/06/02
    なににしてもカテゴライズとレッテル貼りの横行が目に余る。社会学の理論が人を分別して疎外したり排除したり差別するのに使われちゃっている気がする
  • 道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。

    発端。「「当は、できるでしょう?」の原初的風景」@G★RDIASより。 たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。/目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。/それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。/このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。/仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。/私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。/これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。

    道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。
    aozora21
    aozora21 2007/04/23
    『少なくとも僕は「「答えることが無理」な責任を一般的な責任として提示する」ことに賛同しているつもりです。』
  • うぃーちきまーちき - 「価値観を押し付けるな」という主張

    私が不思議でならないのは「価値観を押し付けられてしまう」と感じる人が多数いることである。 これは「間接的な人殺し」という話のときに何度か目にした意見であり、近い発言をしたかな、という方はどなたでも反論していただいていいのですが、私は不思議なのです。 というのも、そういう人は「よほど自分の意見に自信がないのかな?」と思わざるを得ないわけです。 そもそも、意見の主張や議論などは、もちろん単なる発言であっても、自分の価値観を相手に押し付けるものです。 意識していなくても、相手に好意的であれ敵対的であれ、同調してもらいたいがために、コミュニケーションをとるものです。 もちろんそれは相互的であるわけですが、相手が相手の価値観から全く動かしたくないのであれば、そもそもコミュニケーションをとる必要がありません。 意思疎通の相互確認も厳密に言えば、同調のための行為です。コミュニケーションと言うのは、ほとん

    うぃーちきまーちき - 「価値観を押し付けるな」という主張
    aozora21
    aozora21 2007/04/21
    例えば、価値観の押付けに感じるのは自分に自信がないのだろう、というように、未確認で未知の他者を憶測する行為に自分の視点の正しさを疑いもしない、自分の価値感以外許さない息苦しさを感じる、ことがあります。
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