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blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan
■妄言。それを支持する者たち、それを許容しつづける者たち 発言者の本質を示す決定的なコトバがある。 政治家や軍人やイデオローグたちの本質を示す決定的なコトバを無視あるいは軽視して、かれらの他の発言から何かを学ぼうとすることはもちろん、その発言を分析することも無意味である。 一九四五年八月以前において、形成期いらいの国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪を問おうとしないで、多くの日本人文筆者が発言してきた。その発言は、国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪を支えてきた。かれらは、主体的に国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪に加担してきた。同じことが、多くの日本人文筆者によって、一九四五年八月以後もつづけられてきた。 国民国家日本の他地域・他国侵略の尖兵であった日本人文筆者の多くは、一九四五年八月以後も、日本国家と自分自身の侵略犯罪の実態を明らかにしようとせず、日本人が国民国家の他地域・他国侵略、植民地支配の
■9月6日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会第2回集会で検討された説明文案2は、つぎのとおりです。 来年3月28日に除幕する追悼碑のそばに、2枚の説明板を置こうと計画しています。これは2枚目の説明板の案文です。 紀州鉱山と石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行 紀州鉱山で、朝鮮人が働かされていました。紀州鉱山は、1934年7月に石原産業が経営をはじめた銅鉱山でした。石原産業は、1938年10月に、紀州鉱山の銅鉱石精錬をおこなうために四日市に精錬工場を建設しました。この四日市工場でもおおくの朝鮮人が働かされました。 朝鮮人のおおくは、故郷の村や町から連行されてきた人びとでした。 1939年2月に、日本軍が海南島に侵入すると、石原産業は、海南島南部の田独鉄山の鉱石を日本海軍とともに奪い、奪った鉄鉱石を日本八幡製鉄所に送りました。 1939年7月に日本政府は、「朝鮮人労働者募集要
20年前のきょう(1989年6月4日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会が創立されました。 その翌日、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで20年間、求めつづけてきました。 しかし、熊野市も熊野市教育委員会も、日本人町民集団による朝鮮人襲撃・虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とする記述を、いまも、取り消していません。http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/kmsisikaki.html 熊野虐殺の事実を明らかにし、犠牲者を追悼し、その責任を問いつづけてきた会は、20年の間に、国民国家日本の侵略犯罪を総体として把握し、その歴史的責任を実践的に追求していく民衆運動の基盤を、すこしづつではあるが確実に強めてきたと思います。 わた
2009年2月14日から4回にわたって予定されていた大阪人権博物館のリバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」の2回目、2月21日に、海南島近現代史研究会会員であるキム チョンミさんが、「日本占領下の海南島で(1939年~1945年)」という題で報告することになっていました。 この公開セミナーの案内チラシは、昨年12月はじめまでに刷り上っていました。 しかし、2009年1月20日、このセミナーの企画責任者である大阪人権博物館の担当者から、大阪市市民局人権室から2009年1月5日付で、「(このセミナー)の目的、内容等が適正とは認められないので」、「不受理」とするという文書が届いたので、セミナーを中止することになったという連絡がキム チョンミさんにありました。 それにたいし、海南島近現代史研究会は、2月28日に、つぎのような質問を大阪人権博物館の秋定嘉和館長に文書でおこないました。 1
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