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大阪万博
blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005
高橋睦郎の朗読 私は音読(朗読)はしない。また朗読を聞くということもない。けれど、「音(音楽)」を想像するということは、ある。 04月18日に楊克『楊克詩選』についての座談会(?)があり、たまたまそこで高橋睦郎の朗読を聞いた。その朗読は、私にとっては、想像を絶するものだった。びっくりして椅子から落ちそうになった。 実際に朗読する前に、ことばと音楽という話題が出た。中国の音は豊かだ、というようなことが語られた。それに対して日本語の響きは音楽性にとぼしいというような意見も出た。私は瞬間的に高橋の詩の音楽はそうではないと思った。我慢できなくなって、「高橋さんは、いまの意見についてどう思いますか? 反論があるんじゃないですか?」と問いかけた。そのとき高橋は「カタローニャ(スペイン)で集いがあり、詩の朗読をしたことがある。翌日、新聞を見ると一面に高橋の詩(朗読)はすばらしかった、という批評が載った。
川上未映子『水瓶』(青土社、2012年10月10日発行) 詩は、どこにあるか。この問いは、「詩は、どこ(何)からはじまるか」と言いなおすことができる。川上未映子『水瓶』は、「詩は、ことばからはじまる」というだろう。 詩集の「帯」に、 少女はことばと出会い、/ことばとたわむれ、/ことばを食べ、/ことばを吐き、/ことばに乗り、/ことばと踊り、/ことばを操り、/ことばに操られ、/ことばに飽き、/ことばと別れ、/ことばと再会し、/ことばを愛し、/ことばを生き、/そして、/ことばを生みだしつづける……。 と書いてあるが、この帯の「定義(?)」が川上の詩のすべてを語っている。ほかに何を書いても、この帯以上の表現はないだろう。 そう知っていながら、私は、ちょっと書いてみたい。「戦争花嫁」。 ある女の子が歩いているときに、不意に戦争花嫁がやってきて、それ はいつもながらさわることも噛むこともできない単なる
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