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井奥陽子『近代美学入門』筑摩書房、2023年 ご恵投いただいたもの。いい本なので宣伝も兼ねてレビューする。 全体の感想 本当の初学者(たとえば学部一年生)でも十分に理解できる程度の易しさで書かれている。構成がわかりやすく、言葉づかいや文体もするっと読めて、それでいて重要なポイントがどこかがはっきりわかるようになっている。出てくる例もわかりやすい。 概して帯文はオーバーだったり嘘をついていたりするものだが、この本の「難しいと思っていた美学が、よくわかる」は偽りのない宣伝文句だと思う。 本書には、「読者はこういう理解をしているかもしれないけど、そうじゃなくてこうだよ」というかたちで、想定される誤読をあらかじめていねいに防いでいる箇所がけっこう多い。これはたとえば佐々木『美学への招待』などと比べたときの、本書の際立った美点のように思う。 美学(あるいは哲学全般)は、問題意識や議論の内容が初学者に
MDAフレームワークを提示した2004年の有名な論文を全訳しました。PDFをオープンアクセスで公開します。 日本語訳:MDA:ゲームデザインとゲームリサーチへの形式的アプローチ(v.1.0) 原文:MDA: A Formal Approach to Game Design and Game Research MDAフレームワークは、ゲームデザイン分野でよく知られた理論のひとつです。「メカニクス/ダイナミクス/エステティクス」という3つのレベルを区別するやつですね。おそらく日本での知名度はいまいちですが、ゲーム開発者にとってもゲーム研究者にとっても知っておいて損はない理論だと思います。 論文の最初のほう(「MDA」という節の手前まで)は抽象的な物言いばかりで、おそらくぴんとこない人が多数だと思われるので、初見では飛ばしてもいいと思います。 大量の脚注はすべて訳者による補足・推測・疑問などです
「フィクション」という語には複数の使われ方があるという話。よく聞かれることなので、整理もかねてまとめておきます(以下の内容は『ビデオゲームの美学』におおむね書いていますが、読むのが大変だと思うので)。以下「ゲーム」は、ビデオゲームとそれ以外のゲームの両方を含みます。 A. 虚構世界を表すもの いわゆるフィクション作品のこと。映画、演劇、小説、マンガといった芸術形式の作品の大半はこの意味でのフィクション(以下フィクション(A))であり、フィクションの哲学が論じているのもこれである。 フィクション(A)は、「虚構世界を表すもの」として特徴づけてもいいかもしれない。この特徴づけはあまり正確ではないと思うが(たとえば、世界を持たないフィクション(A)はどうするのか、虚構世界とは何か、フィクショナルキャラクターの指示の話はまた別なのか、といった疑問がありえる)、だいたいの意味と外延は伝わるという意味
Twitterに書こうと思ったが、長くなったのでこちらで。以下の銭さんによる映画の倍速視聴擁護の記事と、森さんによる倍速視聴批判の記事を読んで思ったこと*。 映画を倍速で見ることのなにがわるいのか|obakeweb|note 映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀 一般的な話として、作者の意図に沿わない/失礼な/正当でない鑑賞を「回復可能性」で擁護するという銭さんの筋は説得的だった。汎用性があるので別の話題でも使えると思う。 一方で、映画の倍速視聴(少なくとも何倍速か以上)に関してそれが言えるという主張にはあまり同意できない(まったく同意できないわけでもないが)。森さんが書いているように、作品鑑賞にとってクリティカルな面の少なからずが回復できないケースが多いと思う。エモーショナルな面はとくにそうだろう*。 これは「取りこぼす」というのとはおそらくちょっと違う
授業でおおむね以下の内容の質問をもらって、自分でも気になっていたので長めの文章で答えたのですが、よくある疑問かもしれないので公開しておきます(質問・回答の文面は少なからず変えてあります)。 Q. たいていの芸術はメディアを持っていると思うのですが、なぜメディア芸術は「メディア芸術」と呼ばれるのでしょうか。また、たとえば絵画がメディア芸術に含まれず、マンガがメディア芸術に含まれるのは、どういう意味でなのでしょうか。あるいはそもそもここでいう「メディア」とは何なのでしょうか。 「たいていの芸術はメディアを持っている」はその通りですね。なので「メディア芸術」を「メディアを持っている芸術」という意味でとるとおかしいということになります。ただ、それは「青信号は実際は青くない」とか「鯨は魚へんなのに魚じゃない」みたいなつっこみに近いかなと思います。概念やカテゴリーの名前は、その内実に必ずしも対応してい
※ちょっと調べただけです。ちゃんと勉強してません。 「バーチャルなもの」の存在論はゲームスタディーズでも前からあるが(e.g. Aarseth 2007)、2017年にデイヴィッド・チャーマーズが「The Virtual and the Real」という論文を出して以降、哲学者が本格的に参入している感じがある。VRデバイス/コンテンツの浸透も関係なくはないのかもしれない。 チャーマーズの論文は、ナンバさんとシノハラさんがそれぞれブログでまとめてますね。 ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、存在論、価値 - Lichtung デイヴィド・チャーマーズ「ヴァーチャルとリアル」 - logical cypher scape2 PhilPapersやGoogle Scholarでチャーマーズの論文の被引用を見ると、最近いろいろな論文が出ているのがわかる。とくに2019年にオンラインの哲
文献を読まずにインターネットだけでお手軽に分析美学について知りたい人向けです。以下すべて私見です。 分析美学とは何ですか? 美学とは何ですか? 芸術哲学とは何ですか? 大陸美学とは何ですか? 分析美学の「分析」とは何ですか? 分析美学を使って作品を分析したいのですが 分析美学を使って批評したいのですが 大陸美学/美学史研究/表象文化論などと仲が悪いのですか? 分析美学は流行ってるのですか? 分析美学とは何ですか? いくつか答え方があります。個人的には、めんどくさいときには1つめを、実質を伝えたいときには3つめを答えます。 英語使用圏を中心にした現代の美学・芸術哲学のことです。言い換えると、よくも悪くもグローバルに支配的になりつつある、美学史ではない普通の意味での美学・芸術哲学です。 分析哲学の美学・芸術哲学版です。 美・芸術・感性などについて哲学的に考える特定の学統です。具体的には: ジャ
必要があって様式(style)という概念について多少勉強したのでメモ代わりにまとめておきます。「様式」(文学だと「文体」)という言葉を問題にしたいわけではなく、芸術学まわりで頻出するあの概念の中身を問題にします*。具体的には、「ロマネスク様式」や「定朝様」や「8bitスタイル」などと言われる場合のそれです。 学部生時分の自分が読んだらためになったであろう内容を意図して書いてます。注は詳しく知りたい人向け。 文献 目を通した文献は以下*。 Elkins, J. 2003. “Style.” Grove Art Online. https://doi.org/10.1093/gao/9781884446054.article.T082129. Gombrich, E. H. (1968) 2009. “Style.” In The Art of Art History, 2nd ed., ed
帯にでかでかとあるように、拙著『ビデオゲームの美学』の主張のひとつ(中でもあまり重要ではないもののひとつ)は「ビデオゲームは芸術だ!」なんですが、諸概念の関係が複雑で議論もねじれており多くの人にとってわかりにくいと思うので、できるだけ簡単な言い方でまとめておきます(正確さよりもわかりやすさを優先します)。該当箇所は第3章の2~3節。 本に書いてないことを自由に読み込んだうえでなされる疑問・批判・反論(たとえば「じゃあビデオゲームは娯楽ではないのか?」みたいなやつ)に対してはとくにフォローしません。まず文章を読んでください。 芸術形式と芸術作品の区別 「ビデオゲームは芸術か?」という問いはよく問われる。この問いはふつう、「特定のビデオゲーム作品が芸術かどうか」と問うているのではなく、「ビデオゲームという表現媒体が芸術かどうか」を問うている。なので、この場合に使われている「芸術」という語は、「
オンラインジャーナル『Game Studies』のチーフエディターであるエスペン・オーセットが、新しい号で「立派なゲーム研究者になるための10の心得」という副題のエッセイを書いていた。 Espen Aarseth, "Game Studies: How to Play -- Ten Play-Tips for the Aspiring Game-Studies Scholar," Game Studies 19, no. 2 (2019), http://gamestudies.org/1902/articles/howtoplay. いろいろ面白かったので以下適当な抄訳。ゲーム研究に関心ある方はどうぞ。 1. 「ルドロジー対ナラトロジー」に言及するべからず 「ルドロジー対ナラトロジー」という常套句は、書き手がゲームスタディーズについて多少の知識があることを示すのに使われるわけだが、書き手
フランク・シブリー(Frank Sibley, 1923–1996)という美学者がいる。美学を専門にする人であれば誰もが名前を知っている(かどうかはあやしいが、少なくとも全員知っているべき)偉大な美学者である。20世紀の英米の美学者の中では、ダントーやグッドマンがなぜか日本ではよく知られているっぽいが、少なくとも美学の領域での貢献度でいえば、シブリーのほうが圧倒的に上だと思う*。以下も参照。 シブリーが挙げる美的用語の一覧 - 9bit シブリーの何がえらいかというと、美学の中心テーマである「美的なもの」(美的判断、美的概念、美的性質など)*が持つ独特の特徴を明確に示し、分析美学における美的なものについての議論のスタンダードを確立したところだ。異論も含めて、美的なものについての現代美学の議論はすべてシブリーの仕事をスタート地点にしていると言っても過言ではない。 従来、美学専攻の学生が自分の
2016年はゲームの歴史に関する本が豊作でしたが、2018年はゲームに関する理論や批評の本が豊作でした。引き続き2019年も、把握しているかぎりで複数のゲーム論集が出ることになっています。日本のゲーム研究の実質的な夜明けが来た感じがあります。 以下、2018年分をまとめます。漏れがあったらお知らせください(ゲーム開発の本や、ゲームを扱った文章は収録されているが全体としてはゲームの本ではないというものは外しています)。 神田孝治・遠藤英樹・松本健太郎編『ポケモンGOからの問い―拡張されるリアリティ』新曜社、2018. 『ポケモンGO』から問う本です。学際的なアプローチの論集。 Florent Gorges『スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く』徳間書店、2018. フランス人の著者が西角さんに聞く本。見聞きするかぎりでは、往年のゲーム開発者のオーラルヒストリーのプロジェクトはそれな
限界研編『プレイヤーはどこへ行くのか―デジタルゲームへの批評的接近』(南雲堂)をご恵投いただきました。所収の論考をいくつか読みましたが、まさに現在進行形の作品・ジャンル・事象が取り上げられていて、「2010年代のゲーム批評の結節点」という帯の文句にたがわぬ内容だと思います。 そのうちのひとつ、草野原々「デジタルゲームのむなしさと人生のむなしさ」は明晰で論点も面白くてすばらしい論考だと思いますが、重要なところ(かつ自分の専門に近いところ)で気になる点がいくつかあったので、以下コメントします(アカデミックなスタイルで書かれた原稿だと思うので、そういうつもりでコメントします)。 (a) 2節でビデオゲームには現実的ストーリーと虚構的ストーリーがあると主張し、それを前提として3節でビデオゲームのむなしさが両者の「競合」「矛盾」から生じると主張しているが、単純にこれだと抽象的なゲーム(フィクション要
おかげさまで拙著『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)が10月20日に刊行されます。 目次が長すぎるおかげで、目次の詳細情報がウェブに出ていないので、(公式ページにも出ました)目次をこちらに載せておきます。本の内容紹介はおいおいします。 (追記)内容紹介を書きました:『ビデオゲームの美学』はこんな本 - 9bit 序章 1 ならではの特徴 2 問いをはっきりさせる 3 方法をはっきりさせる 4 意義をはっきりさせる 第Ⅰ部 芸術としてのビデオゲーム 第一章 ビデオゲームとは何か 1 定義とは何か 2 ビデオゲームとビデオゲーム作品 3 ゲームとして定義する 4 選言的に定義する 5 選言的定義を改訂する 6 ビデオゲームの媒体 7 「ビデオゲーム」の類義語 第二章 ビデオゲームの意味作用 1 意味作用と行為 2 受容とは何か 3 作品と適切なカテゴリー 4 ビデオゲームと芸術の存在論
以下の論考について。読んだ人向けなので要約は省略します。 ナンバユウキ「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, May 19, 2018. Twitterでナンバさんとも少しやりとりしたが、この論考からはVTuberと他の文化形式の関係がいまひとつわからなかったので、ちょっと考えていた。具体的には、この論考で言われている「三層」がどこまで他の文化形式に言えるのか/言えないのかがいまいちはっきりしない。 以下、俳優、コスプレイヤー、着ぐるみ、アバター、VTuberがそれぞれどういう「層」を形作っているのかを試しに整理する。その過程で、何かを「演じる」という言い方に複数の意味があるかもしれないことを示す。 なお基本的に具体例は出さないので適当に補完してください。 前提 ナンバ(2018)および松永(2016)にしたがって以下の
画像の内容についての諸理論を整理します。もともと美学会の発表に組み込む予定だったのですが、本筋にあんまり関わらないということで、発表内容からは除外しました。かわりにブログに載せておきます*。この手の話に興味がある人には、きっとそれなりに有益なはず。 1. 用語 画像(picture):絵や写真。 描写(depiction):画像がそれ特有の仕方で何かを表象すること(pictorial representation)*。 描写内容(depicted content):画像が描写するもの(what a picture depicts)。画像は描写内容以外にもさまざまな内容を持ちうる(たとえば、図像学的内容、寓意的内容、表出的内容)。描写内容以外の内容はここでは扱わない。 2. 描写内容の先行諸理論 以下、先行理論のそれぞれについて、①どんな理論概念を提示したか、②その概念をどんな事例に適用して
ファッションの哲学の論文集Philosophical Perspectives on Fashionが届いた。目次と書評は以下。 Philosophical Perspectives on Fashion: Giovanni Matteucci: Bloomsbury Academic Philosophical Perspectives on Fashion — The Fashion Studies Journal とりあえず収録論文のLars Svendsen, "On Fashion Criticism"を読んだ。ファッション批評とは何か、それはなぜあるべきか、どうあるべきか、といった内容。Noël CarrollのOn Criticism(近々邦訳がでるといううわさ)を参照しているせいもあると思うが、ザ・美学というかんじの批評観で、ごくまっとうなことが書いてあった。 まとめます(
ハーフリアル勉強会関連。ちょっと時間が経ちましたが、羊太夫さんの以下の記事について思ったことです。 ビデオゲームの規範について - 仄聞社ジャーナル 思ったことは以下の通り。 ビデオゲームにも構成的規則はあるが、羊太夫さんの出している例はちょっとちがうのではないかと思う。サールの概念は便利だが、ビデオゲームに適用する場合はややこしい。 ゲームプログラマーの規範のアナログゲームにおける対応物は、プレイヤーの規範というより、直接にはルール運用者(審判)の規範だろう。 それぞれ説明します。 羊太夫さんが持ち出している統制的規則(regulative rule)と構成的規則(constitutive rule)は、ジョン・サールが『言語行為』(Searle 1969: ch.2.5, ch.2.7)のなかで提示した区別。とくに構成的規則のほうは、のちのサールの社会存在論のなかでも重要な役割を果たし
ネルソン・グッドマン『芸術の言語』の邦訳がおかげさまでようやく出版されます。『ハーフリアル』に引き続き名著の翻訳にたずさわることができて、非常にありがたいやら勉強になるやらです。感謝。 本体に入れるスペースがなかったので、ここにあとがき的なものを書いておきます。内容の解説ではありません。章ごとの内容は、本書付録の「概要」を読んでいただければおおまかにわかると思います。 内容や訳についてのご質問やご指摘はTwitterかask.fmにお願いします。誤字・誤表記・誤訳などは以下に追加していきます。 『芸術の言語』1版1刷正誤表 『芸術の言語』1版2刷正誤表 『芸術の言語』1版3刷正誤表 簡単な紹介から。『芸術の言語』は、初版が1968年、2版が1976年に出た本で、まちがいなく20世紀美学の古典のひとつ。プロパーな美学者だけでなく、文学や音楽学や美術史といった関連領域の研究者のあいだでも重要な
時事ネタついでに「マジックサークル」概念についてまえから思っていることを書く。 サレンとジマーマンの『ルールズ・オブ・プレイ』に「マジックサークル」(邦訳では「魔法円」)という有名な概念がある(Salen & Zimmerman 2004: ch.9)。簡単に言えば、ゲームの内外を境界づけているなにかのことであり、この概念によって「ゲームに参加する/ゲームをやめる」という事態が説明される。 ホイジンガ由来の概念と言われる場合もあるが(そして実際サレンとジマーマンはホイジンガから借りたと書いているが)、ホイジンガはなんらかの理論的概念として持ち出しているわけではない。そういうわけで、実質的にはサレンとジマーマンのオリジナル概念だ。 「マジックサークル」の2つの意味 しかし、サレンとジマーマンの記述にしたがうかぎりは、この概念はかなり曖昧だ。少なくとも、明確に区別できる(そしてすべき)2つの意
シノハラユウキ『フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ』(logical cypher books, 2016)(目次と概要)をご恵投いただきました。電子版を買う気まんまんでいたところだったので、たいへんありがたいです。以下、所収の以下の論文についてレビュー。 シノハラユウキ「フィクションは重なり合う: 分離された虚構世界とは何か」『フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ』所収, 5–113. logical cypher books. 2016. 分析美学的な議論の良さと面白さがはっきり出ている論文だった。個人的に非常に面白く読めたが、それ以上に人に薦めたい論文だった。いいところは少なくとも4つ挙げられる。 描写の哲学とフィクションの哲学の入門として 先行議論のレビューとして 分析美学的な枠組みを使った批評として オリジナルの枠組みとして 1. 描写の哲学とフ
イェスパー・ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する: 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』(Bスプラウト訳、ボーンデジタル、2015)の見本をご恵投いただいたので、レビューします。 原著は、Jesper Juul, The Art of Failure: An Essay on the Pain of Playing Video Games(MIT Press, 2013)で、MIT Pressの「Playful Thinking」シリーズの一冊。このシリーズは、ゲームや遊びに関するユニークな議論をコンパクトなサイズで出すというコンセプトらしい。内容と文体からして、研究書と一般書の中間くらいの雰囲気がある。個人的にもこのシリーズには注目している。 ユールの著作の邦訳が出版されるのは初めてだ。人文系ゲーム研究の本格的な研究書の邦訳も初めてと言えるかもしれない。ゲームデザインの本
先日ナラティブ関係の発表をした。レジュメは以下。 ナラティブを分解する――ビデオゲームの物語論 このなかで以下のように書いた。 ゲーム関連であるかどうかにかかわらず、英語圏で「narrative」という語それ自体に「物語」という以上の特殊な意味合いを持たせて使っているケースは、いまのところ見つからない。 英語圏で「narrative」と「story」を対置するような日常的用法も見当たらない。少なくとも、それらをテクニカルタームとして定義する物語論(後述)の文脈を除けば、両者はほとんど交換可能な言葉として使われる。 そういうわけで、英語の「narrative」に特殊な含意を読み込む必要もなければ、わざわざカタカナで「ナラティブ」と訳す必要もない。つまり、特殊な意味合いを持つ言葉としての「ナラティブ」は日本語である。 この見解に対して、いくつかコメントをいただいた(ありがとうございます)。指摘
以下のツイートがなんかたくさんRTされてたので、ちら読みの感想を書いておきます。 「なぜ美術史家は美学の学会に出ないのか」って論文があってうける https://t.co/I9c4KnUNlK — matsunaga s:3D (@zmzizm) October 22, 2015 論文は以下。『美術史 vs 美学』という煽るタイトルの本に収録されている。 James Elkins, "Why Don't Art Historians Attend Aesthetics Conferences?" in Art History Versus Aesthetics, ed. James Elkins, 39–49, New York: Routledge, 2005. 著者は美術史の人のようだ。もとになった講演が1996年らしいのでかなり古い。内容は、ざっくりいうと「美学者が関心をもつ問題は美
先々週くらいに、ゲームプレイの定義について井戸里志さん(@kan_jiro)とTwitterのDMでいくらかやりとりした内容が有意義だったので、転載します。 背景 まず背景を説明しておきます。きっかけは以下のツイート。 ゲームとは、プレイヤーにゲームプレイをさせることを意図して作られた仕組みである。 ゲームプレイとは、以下の条件をともに満たす思考または行為のことである。 1]ある目標の達成を意図している 2]楽しさがともなう ルールやインタラクティビティは本質ではない。 — 井戸 里志 (@kan_jiro) September 23, 2015 最初の文で井戸さんは、ゲームを〈ゲームプレイさせるもの〉として定義しているわけです。つまり、「ゲーム」概念は「ゲームプレイ」概念によって定義されると主張している。これは、ある意味で「ゲーム」よりも「ゲームプレイ」のほうがより本質的な(より分析のす
『分析美学基本論文集』所収のビアズリー「視覚芸術における再現」のまとめです。 明晰で整理された内容のわりに、文章は読みづらかったというか、長くてしんどかったので、まとめる意義もそれなりにあろうかと思います。 モンロー・ビアズリー「視覚芸術における再現」相澤照明訳、西村清和編・監訳『分析美学基本論文集』所収、173–243、2015(Monroe C. Beardsley, "Representation in the Visual Arts," in Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism, 267–317, New York: Harcourt, Brace & World, 1958.) 絵についてなにか言うときの諸概念や焦点が整理・分類されている章です。たとえば美術史の人が絵の構造を記述・分析するときの基本的な概念的枠組
榊祐一「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム――『バイオハザード』を例として」 押野武志編『日本サブカルチャーを読む――銀河鉄道の夜からAKB48まで』所収, 北海道大学出版会, 2015, pp.253-286. 榊さんは、「〔ビデオ〕ゲームを自律した文化領域として論じるための方法論をいかにして獲得するか」という問題意識のもとに、「①ゲームをその固有性を尊重しつつ論ずることを可能にするような理論的枠組みの提示と、②その枠組みによるゲーム分析の実践例の提示」(榊 2015: 254)をすることを試みている。 ようするに、ビデオゲームの特殊性を論じるための理論的枠組みを定義したうえで、それを具体的なケース(『バイオハザード』)に適用するというものである。わたしの博論もほとんど同じ問題設定なので、モチベーションと方法にとても共感できる。 切り口としては「ゲームと物語」という古典的な
というか私の役割について。 先日モリス・ワイツの古典的論文を訳してアップしたんですが、その結論部分でいかにも美学ってかんじの上から目線の文章があって、あらためて美学と自分のお仕事について反省しているところです。 M. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが|note われわれ哲学者としては、芸術の定義とその背後にあるものの区別をいったん理解したなら、伝統的な芸術理論に寛大な態度で接するのが適切だろう。〔…〕理論の役割を理解することは、それを定義――論理的に言って失敗が運命づけられているもの――として理解することではない。 ここで「芸術理論」と呼ばれてるのは、「芸術とはxxなんである」という「定義」を主張する俺理論みたいなやつで、哲学的に洗練されてないような理論のこと。ようするに、ワイツは、「そういう俺理論が言ってることは定義としてはおかしいんだけど、それはそれでそれなりの役割と意義
以下の山根さんの記事に関係する話。 IGDA日本アカデミック・ブログ: ゲームサウンド研究の成立 ゲームサウンドにいわゆる「ダイエジェティックサウンド」概念を適用することについてなんか書こうと思ったが、そのまえにいくつか概念的な整理をしておいたほうがいいだろうということで長々と書きます(この件についてのまともな日本語のオンラインソースがないというのもある)。 "Diegesis"の2つの意味 英語の「ダイエジェティック」(diegetic)*は「ダイエジーシス」(diegesis)の形容詞なのだが、めんどうなことに「diegesis」にはまったく異なるふたつの用法があり、さらにめんどうなことに両方とも物語論関係の文脈で頻出する。 語ることとしての"diegesis" 第一に、「diegesis」は、物語(あるいは表象一般)のモードのひとつを指す語としてつかわれる。物語のモードには、語り手が
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