サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
deepbluedragon.hatenadiary.com
自由エネルギー原理は神経科学者や哲学者や心理学者などの様々な分野の学者によって議論されている注目の理論だ。日本でも紹介され始めて研究が進みつつある。ただそれらを見ていると自由エネルギー原理についての議論がいかに曖昧かが十分に理解されていないように感じる。実際には自由エネルギー原理は必ずしも明確な科学理論とは言い切れず、その解釈も様々である。そこで注意すべき点をここでは幾つか示すつもりだ。 自由エネルギー原理は理論についての理論だ 自由エネルギー原理とはフリストンによって提示された脳に関する理論であり、脳に関する統一的な理論だと言われる。初期の頃は予測符号化と強く結びついていたが、強化学習などとも結びついてより射程の広い理論となっている。さて、ここで最初に問題にしたいのは自由エネルギー原理と予測符号化との関係だ。予測符号化とは感覚運動について説明する数理的な科学理論である。自由エネルギー原理
認知科学のベイジアンモデルはただいま勉強中で、直接に解説できるほどの理解には達していない。とはいえ、以前に比べればベイジアン・アプローチについて何となくのイメージは掴めるようになったので、地道ながら進歩はしていると思う。ただ、私がベイジアンについて勉強するにはその道がちょっと険しいので苦労している。 ベイジアン(ベイズ主義)とは、これまで長い間主流であった頻度主義とは対照的な統計学の考え方である。私が学生時代に授業で習った心理統計はもちろん頻度主義の統計だったが、21世紀に入ってから統計のベイズ主義が台頭してきて隆盛を極めつつある。個人的にベイジアンには興味があったので勉強するのは構わないのだが、私のような認知モデルに興味がある人間にはその道は案外険しい。 ベイジアンといっても、その用途は統計的検定、機械学習、モデリングと幅広い。それぞれに用途に合ったベイジアン解説書はいろいろあるのだが、
去年に「いま世界の哲学者が考えていること」を読んで興味を持ったマルクス・ガブリエルについて記事に書こうとはずっとしていたのだが、ネットで調べて考えた結果として私にはそれほど興味が持てなくなり書く気が失せていた。以前までかろうじて持っていたインターネットへの幻想もすっかり失せて、インターネットは単なる日常の一部としか思えなくなった今となっては、わざわざ良心的に丁寧に説明するネット記事を書くのも馬鹿らしくなったせいもあってますますやる気は失せていた。それでも何も書かないでいるとモヤモヤが残ったままなので解説でなくただの紹介と感想程度なら書いてもいいかなぁ〜と思えてきた。 ネットにある論文としては「新実在論とマルクス・ガブリエル」(PDF)や「なぜ今「実在論」なのか?」(PDF)がお勧めなのでそれを読んでもらうとして、あとはただの私の感想になります。 『いま世界の哲学者が考えていること』はいろい
「国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源」 「国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源」 国家繁栄の原因を歴史的分析によって政治や経済の制度のあり方に求めた労作 世界に豊かな国と貧しい国がある理由を政治と経済の制度のあり方に求めた著作。自由や公正さが実現された包括的制度においては経済発展へ向けて人々が動けるようになるので豊かになるが、権力や利益が独占された収奪的制度の元では経済発展へ向けた動きが起こり得ないので貧困であり続ける。政治的制度と経済的制度の両者とその関係についてバランス良く論じた著作としてとても優れている。ただし制度そのものの形成原因については結局よく分からないまま(歴史の偶然?)で、そこが人によっては悲観主義的とも評される理由かもしれない(私自身は制度を人為的に安易に変えられるとする考え方の方が気持ち悪いのでそれが欠点だとは思わないが)。 これは日本
「自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?」 近代批判的な思想史を描いたテイラーの代表作だが、無駄に長大なので読み切るには覚悟が必要 政治哲学者サンデルにも影響を与えた、共同体主義者の一人とされるチャールズ・テイラーの代表作。「距離を置いた自我」を生み出した近代哲学への批判を主題として西洋思想史の本。内容は悪くないのだが、それに比しては分量が長大過ぎる。たとえ思想史に興味があっても読み切るのはかなり大変。同じような知識を得たいなら他の良い本を読むべきで、あくまでチャールズ・テイラーの思想に興味がある人向けの著作。ただし、これを読んでもテイラー思想の共同体主義としての側面は(少なくとも表面的には)分からない。 以前チャールズ・テイラー思想の解説書「テイラーのコミュニタリアニズム」を読んで(→レビュー)以来、気になっていたのでこの代表作に手を出した。結果としては、チャールズ・テイラーの思想
「トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論」 著者の言語学界への恨み節まで付き合わなければ、トートロジー文の言語学的分析として有用 これまでのトートロジ文に関する言語学的分析を批判的に検討し、その結論*1に伴って言語学の持つ哲学的前提をも批判している著作。言語学的分析はこのテーマに興味を持っていて専門的な議論にも馴染んでいる人にはとても参考になるだろうが、言語学への哲学的批判から生じた言語学界への恨み節には不毛感が漂うので、あまり律儀に付き合う必要はない。その辺を割り切れば悪くない本だと思う。 トートロジーとは「イチローはイチローだ」のような主述で同じ語を繰り返すだけの、論理的には当たり前なだけの文だが、日常ではそれが様々な意味を持って使われる事(例えば今のイチローと昔のイチローとの比較)を言語学的に議論している。この著作の中間部分に当たるそうしたトートロジーの言語学
専門の学者さんのブログ(→こちら)に長々と素人見解を書くのは僭越で恥ずかしいと思ったのでそれはやめたのですが、せっかく書いたのにもったいないのでここに転用します ダメットの言語哲学は日本語ではめぼしい情報が手に入りにくいのですが、私が今現在おそらくこうではないかと構成したものを書きたいと思います。素人の戯言だとでも思ってお付き合いいただければ光栄です。ちなみに、ここでするのは意味論の話(例えば世界と言語との関係)なので、語用論的な例(例えば含意や命名)は枠外において考えてください。 言語への直観主義的な理解法 ダメットの主張可能性条件*1は正当化条件*2とも言われますが、こちらの方が本質を示した分かりやすい呼び名だと思います。まず、ダメットがこれを主張した基盤となった直観主義数学の話から。数学的命題(たとえばフェルマーの定理やゴールドバッハ予想)は証明によって真偽が確かめられます。数学的命
(承知済みだったとはいえ)前回の記事があまりにひどかったことに後から反省。きちんとした解説はid:optical_frogさんが訳した「レカナティ「語用論と意味論」」を読んでください。以下はあくまで私的見解としてお読みください。ちなみに、最近はやる気がないのでブログの更新は(めったにしそうにもないが)たとえしたとしてもこの程度のメモぐらいがやっとだと思います。 オースティンとグライスとの差異 とりあえず手元にある文献から思いつくところを適当に引用してみます トラヴィスは、私が言う二つの「哲学的構図」を、自然言語における発話の意味論とはいかなるものかをめぐる相異なる見解として提起する。一つは(ポール・グライスに代表される)「古典的」見解、そして―よりなじみの薄い―もう一つはウィトゲンシュタインおよびオースティンに帰せられる「発話状況に敏感な意味論」である。(p.127-8) 私の知り合いのあ
まとまりがなくて自信がない文章だけど面倒なので出しちゃう 言語行為論の哲学的貢献は、言語は記述に関係すべきという(道徳的説教と変わらない)哲学の傲慢を批判したことであり、その延長で言語と現実との関係はそれに関与する人間によってこそなされるとする主張だ。言語と現実との関係にも二つあって、オースティンが提示したのは言葉の記述役割を相対化する語用論的関係であって、文脈主義による意味論的関係とは分けないといけない。ところで、言語行為論は論理実証主義との対抗関係で成立しているが、言語行為論的な批判をそのまま日本に持ってきて主張してもむなしいところがある。つまり、日本では逆に言語と現実との関係が無責任であることの方が問題なのだ。言語行為論の普遍的意義は(歴史的意義とは別に)認めるべきだが、いい加減に特殊な文脈で意義を持つ輸入品をそのまま日本で使おうとするような愚はやめてほしいと思う(日本には記述至上主
原文 ELIZABETH SPELKE Sources of Human Knowledge http://www.institutnicod.org/lectures2009_outline.htm エリザベス・スペルク「人の知識の源泉」(講義概要) 講義1:人の思考の認知科学へ:なぜこんなにも遅いのか プラトンの時代以降、物理学や生物学の現象への理解は、人の知覚や活動の理解と同様に、科学者によって大変革をもたらされた。これとは対照的に、人の高次認知への理解は、現代の研究者が古代の資料から真面目に引用できるものからほとんど進んでいない。この講義では、なぜ人の心のもっとも重要な側面が科学的な分析に抗しているのかを考え、その抵抗を乗り越えるための戦略を述べたい。中心的な戦略は二つの提案にある。まず、人の認知は核となる少数の知識システムの元に築かれていること:そのシステムは奥行きの知覚や物に手
シンボルとアレゴリーとメタファーとアナロジーの違いは分かりにくい。アレゴリーは比喩と訳されることもあるが、それだとメタファーと区別がつかなくなる。レトリック(修辞)としてのメタファー(比喩)とは区別しないとしょうがない。認知科学ではメタファー(比喩)とアナロジー(類推)はセットで扱われる。つまり二つの事柄の持つ性質を比較対照する点で共通点を持つ。ただし、アナロジーでは性質の対応が明示に行なわれるのに対して、メタファーでは性質の対応は暗黙のうちに行なわれる(太陽系と原子構造、王様の勇敢さとライオンの勇敢さ)。しかしアレゴリーを比喩とするのは(一部を言い当ててはいるが)問題がある。 シンボル(象徴)の典型例は言葉である。言葉は別の何かを表している。これに対して、アレゴリー(寓意)は抽象的な何かを表すとすることがあるが、これだと問題が生じる。「鳩は平和の象徴だ」と言い方をするが、平和は十分に抽象
分裂病(強度)と神経症(抑圧)が善と悪の戦いに重ねあわされるグノーシス的世界観(ニーチェをプラトンに対置し闘わせる)。ドゥルーズは新たな世界観(幻想)を提示してしまっている点でニーチェとは異なる。ニーチェの哲学者への態度は憐憫だが、ドゥルーズは批判に留まる。ニーチェが自己に魅惑されているのに対して、ドゥルーズはニーチェの観念に魅惑されている。永劫回帰を抑圧なき幻想とすることは、ニーチェのハイデガー化でしかない(想像が象徴化される)。ニーチェは体験する人だが、ドゥルーズは読む人である(哲学書を小説のように読む)。実在的層と潜在的層の間を循環する対象=xという構成は現実界と象徴界に関するラカン(およびベルクソンの純粋過去)に由来する。「世界の外から来る」ものとしての不吉な反復はあらかじめ意味づけられた「謎」として提示される(倒錯!)。これこそがドゥルーズの哲学的統一を可能にしている方法論である
今年のジャン-ニコ賞が決まったようです(受賞講義そのものはまだ先ですが)。Elizabeth Spelkeは知覚や発達を研究する心理学者です。調べてみると、最近では性差の話題で有名なようです。科学能力*1の男女差について心理学者のピンカーと論争をしたこともあるようです(下記リンク参照)。この論争はハーバート大学学長のLawrence Summersの発言(女に科学なんてできねぇ!みたいなの)がきっかけで起こった論争だ。 ネット上にこの論争の記録があるのですが、私は面倒なのでスライドだけを見たのですが、それだけでも大体の内容は分かりましたので紹介します。ピンカーは様々な証拠から男女の科学能力の差は社会化や偏見だけで説明するのは無理があると言っています。ピンカーは男女には生まれたときから差があるという証拠(実験や調査)を示した。ひとつは人の興味には生まれつき性差があるという話で、赤ん坊の段階か
但し書き:以下の文章は気に入らないところを多少含むのですが、直せそうもないのでもったいないので出しちゃいます。適当に割り引いて読んでください。 最近読んだある本で、市場を出しぬくことはまずできない(できたらそれはインサイダーだ)とあった。これは経済学の考え方から導けるものだが、これを行動経済学を投資に都合よく利用できると考えている人に当てはめることができる。(誰でも知ることができる)行動経済学の成果によって他人の投資行動を見通して出し抜くことができるとしたら、他の人も同じことをするに決まっているので結果として出す抜くことはできない。行動経済学で儲けようとするなんて、市場の効率性(都合のいい情報は価格に反映されるに決まっている)から考えてもありそうにないが、しかしそもそもにおいて心理学的に考えても儲けるのは難しい。実際には、学習の転移が困難なこと*1などから無意識的な認識過程を変えることはそ
近年トゥービー&コスミデスが提示した進化心理学の理論的内容は次のようなものだ 脳とは自然淘汰によってデザインされた環境から情報を抽出するするコンピュータである 個々の人間の行動はこの進化したコンピューターによって環境から抽出した情報に応じて生じる。行動を理解するには、行動を生んだ認知的プログラムを明瞭にする必要がある 人の脳の認知的プログラムは適応物である。これらが存在するのは、祖先が生き残って繁殖することができるような行動を生み出すためである。 人の脳の認知的プログラムは今では適応ではないかもしれない。これらは祖先の環境において適応的だった 自然淘汰によって生じたのが、脳は多くの異なる特殊な用途のプログラムから成り立っており単一の一般的な構造物ではないことである 進化した計算する構造物である私たちの脳を描き出すことは文化的社会的現象をきちんと理解するのに役立つ Evolutionary
進化心理学への批判記事があるというので楽しみにしてたけど、なんか物足りない。進化論特集なのに紹介記事でなく批判記事ってところにどんな意図があるのかはよく分からないが、そこはとりあえず脇に置く。 この記事の著者は、進化心理学にも科学的に慎重な研究もあるとしながらも、一般に流行ったものに対してはポップ進化心理学と茶化した呼び方をしていたのだが、その文献表の中には(デヴィット・バスなどに混じって)ピンカーやトゥービー&コスミデスの(90年代の)有名な著作が挙げられていて、近年における進化心理学の進展に批判的だった私でさえ違和感があった。同じピンカーならもっとひどいのがあるだろうし(残念ながら"The Blank Slate"は褒められたものではない)、だいたい"The Adapted Mind"が駄目なら進化心理学の根幹が駄目になるんじゃないのか。でも私から見ても、著者はこうした正統派の進化心理
はっきり言って生成文法も認知言語学も認知科学では有名だけど、その割に基本を理解してない人は結構いる。というか、そもそも分かりやすい紹介が日本ではあまり見当たらない。以下の議論では最近の専門的な傾向は無視してます。私だって詳しく知りません。それより一般にはそもそもの基礎さえ理解されてないんですから。あくまで素人による素人のための紹介ということで。 生成文法の基本は主語-動詞関係を基盤にした入れ子構造(または再帰構造)にある。分かりやすく日本語の例で説明しよう*1。一番単純な文は「俺は、うれしい」と主語と動詞との基本構造からなる。典型的な単純な句として「俺の、娘」のような所有格-名詞関係という基本構造も考えられる。こうした基本構造を理解すればあとは簡単だ。これを受け入れてもらえば後は同じような構造を繰り返して無限に文を生成できる。「俺は、娘が合格したのが、うれしい」。この場合は、「俺は、うれし
はい、表題の通りです。私がここでハイデガーについて何か書くとろくなことがありません。私がハイデガーを擁護しようが批判しようがどっちにせよ起きたのはろくでもないことばかりです。はっきり言ってこう思った、もうハイデガーのことなんか金輪際かくもんか! 実は今回でハイデガー関連のうんざりする出来事は二度目だ。一度目は、某学者の書いたハイデガーに関する記事に言及したのだが、そこでおそらくその某学者本人からと思われるコメントが来た。一つ目のコメントは冷静な批判で問題はなかったのだが、連続ですぐに来たコメントが論者への誹謗中傷だった。そのあとにトリマキっぽい人たちからの誹謗中傷が続いてすっかりうんざりしてしまった。それ以来ハイデガーのことなんかもう書くもんかと、分析哲学の話ばかりするようになったするようになった。 それがこの前、つい解禁とばかりに気が緩んでハイデガーについての記事を出してしまった。今回は
この前(12/3深夜)テレビで見たCBSドキュメント(アメリカのドキュメンタリー番組の日本語版)は面白かった。殺人の容疑者スタンコが裁判にかけられるのだが、そこで被告の責任能力が問われる場面になる。そこで弁護側が被告の脳画像を用いて被告の責任能力のなさを立証しようとしていた。つまり、被告の脳画像は一般的な脳画像と違って前頭葉が活性化されていないことを示し、それは生まれつきの障害であって被告の社会的能力に欠陥があった証拠であるというのだ。それに対して検察側は、被告の日常の言動はいたって普通で特に異常が見られたわけではないとし、さらに検察側も専門家を連れてきて、被告の脳画像は正常な範囲内であると証言させた。争点になっている被告の責任能力はほぼ脳画像しか証拠がないも同然だが、これは受け入れられるだろうか。果たして、容疑者は有罪か無罪か、有罪ならば刑は軽くなるのか。 さて、この裁判では陪審員の決定
どうもクワイン以後の分析哲学には、奇妙な結論を引き出して話題になる哲学者が時々見受けられる。彼らは奇妙な結論の裏側に重要な哲学的問題を隠し持っているのだが、奇妙な結論ばかりが有名になって哲学の専門家の間に話題を提供することにはなるのだけれど、その奇妙な結論のせいで却って当の問題提起は見えにくくなってしまっているところがある。そうした哲学者とはデヴィッド・ルイスやリチャード・ローティやジョン・マクダウェルのことである。可能世界は現実世界と同じように実在するとか科学も芸術も政治も解釈学的には同じとか知覚内容はすべて概念的なので幼児や動物は知覚しないとか、奇抜な見解で知られる。しかし、その奇妙な結論に注目するのは実は誤りで、その裏に潜む哲学的難問に気づかないとしょうがないような気がする。つまり、デヴィッド・ルイスなら実在論問題、リチャード・ローティなら認識論問題、ジョン・マクダウェルなら超越論問
理性を解明し規定することが正当に且つ必然的に《論理学》と呼ばれるかぎり、西洋的な《形而上学》は《論理学》であるとも言える。存在者たるかぎりの存在者の本質は、思惟の視圏のなかで決定されるのである。 ハイデガー「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」isbn:4582761844.78-9より カテゴリー論と形而上学の関係 ハイデガーの大きな問題点は、科学と技術を安易に同一視しているのと同じように、論理学と形而上学をも一緒くたにしてしまうことだ。この場合、形而上学とはアリストテレス的なカテゴリー論のことであり、トマス・アクィナス経由で西洋哲学が受け継いでる思考法でもある。実際にハイデガーは(若き時分にブレンターノの論文で出会った)トマス・アクィナス的なアリストテレス理解への批判を出発にしているところがある*1。ところで、カテゴリー論とは何か。カテゴリー論とは物事をカテゴリーに分類する議論のことだ。
基本的にネット上で手に入る学術的な資料ばかりから判断してるので注意 現代の普遍論争について調べてみて困ったことは、学者によって概論的な見解があまりに異なることだ。心の哲学における心身問題の扱いが教科書的に比較的整理されているのに比べると、形而上学における普遍問題の扱いはうまく整理されていない。もちろん基本となる概念や文献はあるのだけれど、それをまとめる段になると意見が一致しない。例えば、D.M.アームストロングは普遍説とトロープ説を排他的に対立させて考えている。しかしア−ムストロング自身が認めているように、普遍とトロープを両立させている哲学者は存在する。それに対して、アームストロングはオッカムの剃刀を振り回して、余計な概念の共存を一切認めない。しかし、どうもこれは偏った見解に思えてならない。 現在の普遍論争でよく知られている問題として束説と基体説の対立がある。中立的な言葉である性質を用いて
ある分析哲学の本の訳者解説を眺めていたらおかしな言葉の使い方を見かけた。論理記号付きの引用は面倒なので、普通の言葉に直してみます。 xが藍トロープを持っているならば、そのxすべては青トロープを持つ これを認めてしまったら、トロープ概念を普遍問題に持ち込む意義が失われてしまう。トロープとは(主に私たちに感じられるような)物の具体的な特性である。赤っぽい色合いとかふわっとした風合いがそうである。これだとクオリアと似ている感じもするがもちろん違う。トロープは存在論的な用語なので、むしろトロープがクオリアの源と考えた方がいいくらいだ(ただし実際にはそういう議論はあまり見ない)。だから誰にも感じられていないトロープも存在する。ここで重要なのはトロープは普遍概念的に分類される以前の物の具体的な特性であることである。だから、色トロープや形トロープなどはまだありえても、藍トロープだの青トロープだのはありえ
あくまで単なるアイデアです 1.情報レベル(または素人レベル) いわゆる科学に対して素人の段階。日本のジャーナリズムも下手するとこのレベルが多い。理科教育を受けたかさえ怪しい人から、科学に関心はあっても理解する努力までする気のない人まで。科学に幻想を持つのもこのレベル。ただし科学幻想と言っても、過大期待と過少期待のどちらもあり。中途半端に情報だけは持ってる場合は、自分が理解していないことを自覚できないことが多いのでかなり厄介。 2.知識-理解レベル(または教科書-解説書レベル) 一般教養として望まれるレベル。高校卒業から学部教養までに達せられるのが理想(ただし現実は厳しい)。教科書や解説書で勉強できるので、独学でもこの辺りまでなら何とかなる。ただし、知識レベルで終わりか深い理解のレベルまで進んだかで違いがある気もする。このあたりは考えがはっきりとしない。しかし、具体的な研究法までは知らない
いきなり追記:内容に自信がなくて書いてから公開をしばらくためらっていたのですが、思い切って出しちゃいます。適当に割り引いて読んでください さらに追記:勘違いと思えるところを一部削除(横棒の入った部分)しました(08/10/11) 注 こちらのブログのコメント欄に書こうとしたコメントを、長大で難解な文章になったので、別にしてそのままこっちに転用(文体が滅茶苦茶なのはそのせい)。一切分かりやすく書いてないので、理解できなくても全く心配ありません(むしろ矛盾や論理の破綻がないか心配なくらい)。 理解するコツは「様相命題→普通命題→モデル」の三段階であることを考慮することです。本来のモデル論的論証は「普通命題→モデル」レベルの話だが、モデル論的論証による批判が強烈になるのは様相命題を持ってきたときである(なぜなら可能世界意味論が指示の因果説や選り抜きの集合に頼っているからだ)。ちなみに、この文章で
神経経済学に関しては、入門書が最近翻訳されたようなのでそれを読んだ方がいいとは思うのですが(日経新聞の書評は読んだが)、いろいろと億劫に感じてきているのでいつ読むか分からない。でも、どうでもいい単なるおしゃべりぐらいは書いてみたくなる。 ネットで調べて困ったことは、行動経済学と神経経済学と実験経済学とニューロマーケティングがごっちゃになっていることだ。まず、ニューロマーケティングはビジネス受けを狙ったっぽいところがあって、安易に神経経済学と一緒にするのは真面目な研究者にとって迷惑そうなのでやめた方がいいと思います(Neuromarketing - Wikipediaも参照)。実験経済学は最後通牒ゲームのような既存の心理学には収まりにくいタイプの実験をする領域だと私は理解している。問題は行動経済学と神経経済学の違い。まず行動経済学とは経済行動を認知心理的に調べる領域である。wikipedia
認知科学(つまり認知的研究一般)が単なる一時的な流行を超えて今でも受け入れられている最大の理由は、具体的な研究の方法論は各専門分野に任せることによって研究分野の自律性を保ち、それでいて理論的には分野を超えてのコミュニケーションを可能にしていることだろう。専門分化と学際化の両者に対応できている領域なんてそうめったにない。 主な方法論については、認知科学の初期六大分野の例で挙げると、心理学は実験や観察、言語学は言語学的分析、人類学はフィールドワーク、哲学は概念分析や思考実験、人工知能はシュミレーション、神経科学は臨床研究や脳画像研究など。最近は参入分野も増えているが、研究手法の問題は各分野に任されている実情に変わりはない。方法論の問題は各研究分野に任せることで、各研究分野の自律性を保ちかつ新たな分野からの参入もしやすくしている。認知科学が学際領域として今でも(かろうじて?)生き残っているのはこ
ルーマンの晩年の著作からのある程度まとまった引用を見つけたので、ちょっと読解してみようと思います(日曜社会学>出不ろぐ de√Blog http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050805)。ちなみに、私自身はこの著作を読んだことありませんので、引用部分だけの読解となります(だから、読めるテキストは読者と一緒)。読解するのは、「機能」とはなんでしょう:、より以下に引用されている二つのテキストが基本。引用ページからみると、下のほうがページ数が若いので、そちらから読みますです(じゃないと、読みにくくてしょうがない)。 [p.227]から まずは、芸術はそもそも誰のものか、と言う話。それは上流階級のものであるという。そんな、俺は貧乏だけど芸術に興味あるよ、とか言わないで。これは歴史的に見てという話。生きる事ばかりに精一杯で芸術なんて、と言うのがもともとの下層階級の人
ハイエクは有名な経済学者かつ社会思想家であり、全体主義への批判や自由主義の擁護のために自生的秩序なる概念を持ち出した*1。自生的秩序とは人々によって自然に作り出される秩序であり、ハイエクは分散した知識の考え方によって自生的秩序の発生を説明している。この点からハイエクをグーグル的秩序の擁護者のように指摘する人がいるが、これは誤りとまでは断定できないが少なくとも誤解を招く。むしろハイエクはネットに載せられるような文書化できる明示的知識への偏重を批判しており、客観的に明示化できない暗黙知(実践的知識)の重要性が強調されている*2。ハイエクが分散された現場の知識と言っているときには暗黙知(実践的知識)が想定されているのであり、これはすべての知識や情報を集めて計算できるとする設計主義への批判にもつながっている。そして、ハイエクのこうした考え方は、今日の認知科学に見られる考え方─手続き記憶や分散化され
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学-』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く