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パリ五輪
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こんな奇譚がある。 その昔、東アジアに覇を称えたオランダ船が、深夜台湾海峡を航海中に一隻の賊船を発見した。指揮官の合図の下、百戦錬磨のオランダ兵たちは賊船に一斉射撃を行った。ところが、賊船からは一発の銃声も上がることはなく、ただ彼らの周囲をぐるぐる周航するばかりであった。よもや無人船かと勘繰ったが、船の上には確かに人影のようなものが見える。やがて夜の帳が薄いオレンジ色に染まった頃、オランダ兵たちは再び正体不明の賊船に向けてジッと目を凝らした。 船には誰もいなかった。 巨大な船内には色とりどりの紙糊で作られた大量の人形と、得体の知れない数柱の神像だけが載せられてあったのだ。オランダ兵たちは大いに驚き、慌ててこの不気味な無人船から身を引いた。彼らは一様に口を噤んでいた。いったい、その不気味さをどのように形容してよいのか分からなかったのだ。 数日後、賊船に向けて発砲したオランダ兵の半数は、まるで
はじめに 書籍として出版する際には、最初に「序章」を置いて、まずはカント哲学全体の私の眼から見た概観を与えたいとも思うが、それは最後まで書いてからのほうがよいと思うので、この連載にかんしては、いきなり個別的な議論から始めることにしたい。これは、そのようにカントの個々の議論に即して私の観点からの疑念を提示していき、結果的に全体を「掘り崩す」ためのものである。掘り崩すことによって、カント自身が夢にも思っていなかった(であろう)その真の意義が掘り出される、と信じてのことである。 したがって、これをカント哲学への入門として使う方はあまりいないとは思うが、そのように使うこともできることは強調しておきたい。そういう入門の仕方こそが、ある哲学への最も有効な入門の仕方であるともいえるからだ。始めから解説言語で語られた平坦な説明からは哲学的な何ごとも学ぶことはできない。ちょうど芸術批評がそれ自体芸術作品でな
一切皆苦。ドイツ語には、Leben ist Leidenつまり「生きることは苦しむこと」と訳されます。 もう少し控えめに解釈すれば、この世に生まれるのも、歳を取るのも、病気して死ぬのも、どれも自分の意志でするわけではない。また、自分で選んだこの人生に対して「ああ、ほかの人生ではなく、この生老病死でちょうどよかった!」と思うこともまずない。「生きることは苦しむこと」が言い過ぎなら、生きることはなんとなく物足りないと言えば仏教の脱出ゲームに参加したくなる人も多くなるのではないでしょうか。 もちろん、仏教の脱出ゲームに参加したくない人や、そもそもその意味が分からないという人もいるでしょう。たとえば、こういう反論が予想されます。 ①「生老病死のうちの老い、病と死に関してはなるほど、あまり楽しいイメージはない。しかし、その根本にある『生』は違う。僕は生まれたこと自体に文句はない。人生って、総じて考え
音楽を言葉によって表そうとする際の「歯がゆさ」──しかし、音楽の記述はそれなくしては音楽活動が成り立たないほど、真剣な検討に値するものである。そこで音楽の記述をその状況とともにとらえ直していくことにあえて愚直にこだわってみたい。カラオケやスタジオでの会話、調律、拍手、……こうした「音楽の余りもの」を記録・収集し、直接分析。「ふるまいのアナリーゼ」がいま、はじまる。
この連載は書籍化されました。→永井均 著『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3』 はじめに 哲学探究3の連載を始めるにあたってまず、今回の連載がこれまでとどう違うかを述べてみる。 今回も主題は前二回とまったく同じである。まったく同じ問題を、またまた最初の第一歩から、新たに考え直すのである。私はこの問いを、少なくとも五十年以上、捉え方によってはすでに六十年以上も考えてきたのだが、ここでまた新たに最初から考え直さねばならない。だれも気づいていないように思われるが、この問いは恐ろしく奥が深い。これまでも今回も、私がその首根っこをつかまえることに成功しているかどうか、それは心もとない。この問いに、私がつかまえ損ねているさらに奥があることは疑う余地がない、と私は感じる。しかし私自身は、私がかろうじてつかまえているかぎりで、この問いをさらに深く探るほかには何もできない。 この問題に関し
感染 新型コロナウイルス感染の不気味な広がりのなかで、「ステイ・ホーム」という行政の一方的な要請には従うつもりがなくても、伝えられる重篤な肺炎症状や免疫過剰反応による多臓器不全などの容態を聞くにつけ、やはり感染症には罹りたくないものだと、いわゆる「三密」とかを避けていやでも家に籠らざるをえなくなる。出かけたくて、というより人とコンタクトをとる機会を絶やすまいと、出かけようにも会合や会食の「自粛」でそんな機会がなくなっているのだ。 ところが現代では、インターネットという疑似的なコミュニケーション空間ができていて、SNS(Social Networking Service)とかで情報交換をすることができる。そのコミュニケーション空間そのものはデジタルIT技術でできているので、そのインフラやプラットホームさえあれば生身の体にはまったく依存せずにすむ(キーボードを打たねばならないし、イメージの元は
「わたくし、つまりNobody賞」(主催:NPO法人 「わたくし、つまりNobody」)は、文筆家・池田晶子さんの意思と業績を記念し、ジャンルを問わず「新しい言葉の担い手」に贈られる賞です。第13回の受賞者である伊藤亜紗さんが、2020年3月3日、都内の日本出版クラブホールにて表彰式にのぞみ、記念講演をおこないました。 賞をいただくことが決まって、すぐに「わたくし、つまりNobody賞」のホームページを確認しました。すると、この賞は「言葉と討ち死にすることも辞さないとする表現者」に与えられるものだ、と書いてありました。この文言を読んで、私は戦慄しました。なぜなら、私は言葉と討ち死など絶対にしたくないからです。加えて、「Nobody」という言葉も気になりました。体について研究をしている私が「No-body」つまり「体がない」賞をいただくとは、いったいどういうことでしょうか。「この賞がお似合い
1 神話の中の鳥たち ◆神話時代の鳥の位置づけ 人間と自然との距離が今よりもずっと近かった古代。人々は、地震や津波、雷、大風などの自然現象にも、太陽や月などの天体の内にも、神や、神に類する霊的な存在をはっきりと感じ、その現象や運行に「神の意思」を見ていた。 そんな時代に語られた、神々や英雄の物語を、我々は「神話」と呼ぶ。 多くが世界の創造――「創世」から始まる神話の中で、神々は人間と同じような生活を営みながら、ときに争い、ときに冒険をした。強い力をもった怪物や、物語の中心に座す神々とは異なる神族が登場し、神々や人間を脅かすこともあった。 神の世が崩壊し、神々が地上から消え去ったのちに人間の時代が始まったとするのが、多くの神話に見られる物語の流れだ。そんな世界の神話群にあって、神々は滅びず、世界が再生されることもなく、神が自然に人間へと変化へんげして、今も地上に生き続けていると綴るのは、日本
単行本になりました 信田さよ子『〈性〉なる家族』 定価:本体1,700円+税 少し緊張した面持ちで、A氏はわたしのまえに座った。仕事を抜けてきたらしく背広姿だが、少し不調和な色彩のネクタイがくたびれた雰囲気を漂わせている。 四〇代半ばの彼は、妻が息子と娘を連れて家を出てしまい途方にくれている。離婚を避けるために、とにかくカウンセリングに行ってほしいという妻からの要求に沿って来談したのである。 「ほんとにいけないことをしたと思っています」 「心から反省しています」 開口一番そう言うと、A氏はふかぶかと頭を下げた。このような出だしは定番すぎるほどだから、正直またかという感じである。痴漢行為で逮捕され、示談や和解の条件として、再犯防止や被害者への謝罪の意思表明のひとつとして、カウンセリングに訪れる男性は多い。弁護士からの紹介がほとんどである。とにかく反省している姿勢を見せなければという彼らは、こ
単行本になりました 信田さよ子『〈性〉なる家族』 定価:本体1,700円+税 男性の性被害 専門家のあいだではよく知られていることだが、性虐待被害は女児だけでなく、男児にも多い。加害者は父・兄・祖父・従兄弟のような男性の場合と、母や姉といった女性の場合とがある。アメリカの映画を見ていると、父からの性虐待を大人になってから告白する男性が時々登場するが、母からのそれについてはなかなか語られることはない。まして日本では、「男性=加害、女性=被害」という固定化されたジェンダー観から、男性の性被害者の存在そのものが幾重にもタブー化されて不可視にされている。能動的で性的主体である自分が、母(性に関しては受動的で性的対象である女性)から性被害を受けるのである。そこには女性の性被害とは別様の強烈なスティグマが想定される。 前回述べたように、レイプを伴うような性虐待は、やっと海面から顔を出して声を挙げられる
単行本になりました 信田さよ子『〈性〉なる家族』 定価:本体1,700円+税 「おひさしぶりです」と言いたくなるほど、前回から大きく間が空いてしまった。理由は9月9日に「公認心理師」の第一回試験が実施されたからだ。今回はこの資格について触れながら、日本の心理相談・カウンセリングの現状について説明したい。それは本連載のテーマでもある性にまつわる諸問題(中でも家族における性暴力・虐待の加害・被害)の相談に大きくかかわってくると思うからだ。 公認心理師と聞いてもピンとこない方のほうが多いだろう。一言で言えば心理職の国家資格のことである。その元となる「公認心理師法」は、2015年9月9日に議員立法により成立し、9月16日に公布された。2年後の2017年9月15日に施行され、第1回公認心理師試験が今年の9月9日に実施された。この法律に関して詳しく述べることは省くが、一説によると全国で7万人近くが受験
単行本になりました 信田さよ子『〈性〉なる家族』 定価:本体1,700円+税 2018年をセクハラ元年と位置付けることができるだろうと前回述べたが、正式にはセクハラ30年と呼ぶべきだというご意見が読者から寄せられた。たしかに1989年の流行語大賞を獲得したのが幕開けだったと思う。それらは女性団体「三多摩の会」などや弁護士や研究者など、いわゆる専門家によって先鞭をつけられた。しかし、30年後の#MeToo運動は、被害当事者からの告発や発言が原動力となったことが決定的に異なる点だ。それに刺激されたのか『現代思想』(2018年7月号、青土社)が「性暴力=セクハラ――フェミニズムとMeToo」特集を組み、『アディクションと家族』(日本嗜癖行動学会誌 第33巻2号)が「性暴力――被害と加害をめぐって」を特集している。 異なると書いたが、正確ではない。あらゆる女性運動は、専門家であろうとなかろうと、女
私たち人間は、この世界は「物語」によって駆動していると信じている。画家ポール・ゴーギャンはタヒチに滞在していた一八九八年、のちに代表作とされるようになった大きな油彩画に、こうタイトルをつけた。 「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」 これが、私たちが求める根源の物語だろう。なぜ私はここに存在していて、何のために生きているのか。なぜ人生は苦しく、悲劇が多いのか。それに納得するためにこそ、私たちは物語を紡いできたのだ。 人の創る物語は、はるか有史以前から存在している。口承で語り継がれてきた神話がそうだ。ハーバード大学の比較神話学者マイケル・ヴィツェルは、世界の神話には二つの流れがあったことを指摘している。現人類は二十万年ぐらい前にアフリカで生まれ、長いあいだアフリカで暮らしていたが、十万年前になってアフリカを出て移動を開始した。初期の移住者は、アフリカから南
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