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黙示録論 (ちくま学芸文庫) 作者:D・H ロレンス 発売日: 2004/12/09 メディア: 文庫 情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む (ポストモダン叢書) 作者:ドゥルーズ,ファニー,ドゥルーズ,ジル メディア: 単行本 「他人を裁かずにいられない」という現在の「懲罰社会」は、かつて画家のクールベが語った、夜になると目を覚まし、「裁きたい、裁かずにおられるものか」という人々のことを思い出させる。ドゥルーズは、この「裁きたい」という「審判」のシステムを、キリスト教に導入した『黙示録』を論じた、D.H.ロレンス『黙示録論』の仏訳版序文に、したがってクールベとロレンスは「似たところを持っている」と書いた(『情動の思考』)。 もともとキリスト教=福音書には、個への関心しかなかった。そこに「衆の心」を導入したのが『黙示録』だった。 いずれにしろ、純粋なクリスト教精神なるものは国家、ある
資本主義リアリズム 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉出版社/メーカー: 堀之内出版発売日: 2018/02/20メディア: 単行本(ソフトカバー)この商品を含むブログ (2件) を見る 著者は1968年生まれ、私と同年である。最後までうつ病と闘った著者は、2017年1月に48歳で自ら命を絶った。 後期資本主義イギリスにおける新自由主義的教育「改革」を体現するような、「継続教育カレッジ」(中等教育を終えた者を対象とし、職業訓練や成人教育が提供される)で、「事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっている」「再帰的無能感」に覆われた十代の学生を相手に教鞭を取ってきた著者は、半ば必然的に「風土病」たるうつ病に見舞われた。次のような記述は、身につまされる。 学生に数行足らずの文章を読むように指示したとしよう。そうすると
梶谷懐「「リベラル」な天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」(「現代中国研究」第40号)を院生らと読む。現在、院の授業は、中国、台湾からの留学生がマジョリティなので、特に中国における左派・右派の捉え方についてはさまざまな議論が出て啓発された。それについては継続的に考えていく必要があろうが、ここでは、論文のタイトルにもある、「リベラルな天皇主義」というアクチュアルな問いに注目しておきたい。 …今の日本で「リベラルな天皇主義」が一定の支持層を持つことにはそれなりの根拠がある、と言わなければならない。それは言うまでもなく、東アジアの近隣諸国との関係悪化にともない、多くの日本人にとってそれらの国々が仲良くすべき「隣人」ではなく、厄介な「脅威」として認識されるようになったことと対応している。つまり、一方では近隣のアジア諸国を警戒すべき「脅威」として認識し、その脅威に対抗するのに不十分な憲法第9条を
東浩紀の新刊『観光客の哲学』とは、「必然性」の最後の領域と思われてきた「家族」にまで、「偶然性」を導入した「思想」にほかならない。 世界は「偶然性=確率性」で覆い尽くされていると見なすこと。そこで言われる、「「まじめ」(必然性)か「ふまじめ」(偶然性)かわからないテロリスト」とは、まさにイスラム原理主義のテロに「感染」した、本作の真犯人のような人間であろう。繰り返すが、確かに現代は、この「犯人」から逃れられない。この「犯人」の「時効」は成立し、その「思想」は野放しになっているのだ。 だが、冷戦終焉以降(スターリン批判以降というべきか)、歴史の「必然」は崩壊し、もはやそれが作動していないならば、世界が「偶然性」で覆われると見なすことに、何か「思想」的な意義があるのだろうか。それはただ、世界の現状をそのままなぞっている「リアリズム」にすぎないのではないか。「偶然性」は、鉄のような歴史の「必然」
おそらく、本書において、最も疑問や批判を呼ぶのは、戦前から戦後の転換期に、フロイト「トーテムとタブー」のごとき「王殺し」を見ようとするくだり(第三章)だろう。もちろん、この「王殺し」は、天皇主権から国民主権への移行に「革命」を見るという、いわゆる「八・一五革命」説に、「もし整合性があるとしたら」、これがあったと見なすほかないという、あくまで思考実験であり作業仮説である。 だが、それにもまして重要なのは、このように「八・一五」に「王殺し」を見ることで、かつてあった一度目の「王殺し」である「大逆」事件(1910年)を、必然的に視界へと浮上させてしまうことだ。 おそらく、本書が「あえて」八・一五に「王殺し」を見ようとするねらいもここにある。本書を読んで思ったのは、戦後(憲法)の「象徴」化とは、一度目の「王殺し」によって露呈した共同体の、いや近代世界全体の「穴」を、大正期から戦前、戦後にかけて、共
アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男 (筑摩選書) 作者: 絓秀実,木藤亮太出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2017/04/12メディア: 単行本この商品を含むブログ (5件) を見る 7月8日(土)、本書の刊行記念トークイベント「アナキズムと柳田国男―「戦後天皇制民主主義」をめぐって」に参加。共著者の一人であるすが秀実によるトークは、バトル・イン・シアトル(1999年)や、日本においては3・11以降の反原発運動、SEALDs、直近の「安倍やめろ」に至るまでの諸運動を見渡しながら、そこに趨勢として存在するクロポトキン―柳田的なアナキズムを批判するというものだった。 「『アナキスト民俗学』に言う「アナキズム」には、1980年代以降の現代に瀰漫しているアナキズムへの批判も含意している」(当日資料より)。本書は、柳田国男論でありながら、それ以上に現在の運動への思想的介入である(農を軸に
2月25日に行われた、上記講演(二松學舎大学における公開ワークショップ「大西巨人の現在 文学と革命」にて)を拝聴。聴衆の誰もが感じただろうが、きわめてスリリング、圧巻の内容だった。今後、何らかの形で活字になる可能性もあるだろうから、ここでは私的な感想のみを。 一言で言えば、転向問題の、したがって革命概念のパラダイムチェンジが提起されたのではないか。 無謬の人のように思われてきた大西巨人に「転向」を見出すという視角が、まず挑発的だ(それはいまだ定まらぬ、大西の年譜問題にも関わろう)。もちろん、同時にそれは、「転向」者によってのみ、「革命運動の革命的批判」(中野重治)が可能なのだということを、より明確にすることでもある。 おそらく、このことは、すがと渡部直己による大西へのインタビュー「小説と「この人を見よ」」(『批評空間』Ⅱー24、二〇〇〇年)において、すでにすがが次のように指摘していたことで
思想としてのファシズム 作者: 千坂 恭二出版社/メーカー: 彩流社発売日: 2015/07/24メディア: 単行本この商品を含むブログ (6件) を見る 戦後が忌避してきた、軍や戦争、死への思考をとり戻そうとする本書は、安保法案反対を、「戦争反対」のロジックと言葉でしか表現し得ない「国民」の現在を目の当たりにするにつけても、極めて刺激的な試みである。例えば次のような一節。 言葉はすべからく比喩だとすれば、戦後は、その当初から、戦後以降とされる今日まで、明らかに言葉の対極にあった。戦後は比喩ではなく、言葉の真実を求め、そして発見した「真実」という事実の中に言葉を溶解してきた。行為そのものは、行為に加えられる言葉とは別であり、そして他者の行為はすべて言葉だとすれば、蓮田(善明)や三島の「死」もまた、比喩ではなく、事実の中に解消されてきた。(中略)戦後ならびに七〇年代以降の日本が封印し、隠蔽し
江藤淳と大江健三郎: 戦後日本の政治と文学 (単行本) 作者: 小谷野敦出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2015/02/25メディア: 単行本この商品を含むブログ (13件) を見る 上記の書評が、「週刊読書人」4月24日号に掲載されています。 以下、本書の内容とはまた別につらつら考えたことを。 本書を読んでいて強く思ったのは、「非現実的」で「感情論的」な「反米右翼」と化していくという、本書が描く江藤淳の末路は、やはり江藤が平野謙を批判したときに、すでに決まっていたのではないかということだ。 江藤は「青春の荒廃について」(1962)で、平野の「青春」の根幹をなすプロレタリア文学運動を批判した。中村光夫にならって、プロレタリア文学運動に、「青年たちの心を根こそぎにしていったひとつの強力なロマン主義の運動」を見出したわけだ。 江藤に言わせれば、だとしたらそこからの「転向」は、「敗北して青
模範的な「囚人」同士を、最高の栄誉として結婚させる、いわゆる「表彰結婚」の両親から生まれたシン・ドンヒョク。彼は、生まれながらの政治犯として、外の世界を知らないまま育った。そこでは夫婦になるといっても、共に生活することなど許されない。だから、両親の愛も知らない。 彼は、脱走を図っていた母と兄を密告する。だが、彼自身も脱走を企てたとして、誤って(だが本当にそうか)拷問を受けてしまう。彼は、重い口を開いて、ひじが曲がってしまった腕を見せながら拷問の記憶を語る。インタビュー映像の中で、唯一彼が感情をあらわにした場面だ。だが、それもすぐに影をひそめる。襲いくる疲労の中で、彼はあらゆる感情を諦めてしまったように見える。 だが、ここで声を大にして言わねばならない。この作品は、北朝鮮の非人道性――いまだに収容所が存在し、など20万人以上収容されているという――を告発するのみのドキュメンタリーではない。
天皇制の隠語 作者: スガ秀実出版社/メーカー: 航思社発売日: 2014/04/21メディア: 単行本この商品を含むブログ (9件) を見る 一言でいえば、最近の著者は、『吉本隆明の時代』、『反原発の思想史』と、(広義の)アナーキズムの蔓延に対して、ボルシェビズム、すなわち「党=普遍性」の復権を追究してきたといえるだろう。 例えば、『白水社』の連続インタビューにおいても、 http://www.hakusuisha.co.jp/topics/taisho/suga01.php 「アナに比べて、ボル的なものはどうも日本に合わないのではないか」という問いに対して、著者は次のように答えている。 それは、3・11を過ぎても変わらない68年以降の「気分」ではないでしょうか。丸山眞男は、「日本の思想」の「精神的雑居性」を原理的に否定し、「世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想」たり
今月号の『新潮』に、一月号に掲載された私の書評に対する鈴木貞美の反論が出た。案の定、完全に議論はすれ違っている。 はじめに断わっておくが、私は書評とは解説や概説ではないと考えている。そもそも、紙幅は限られているので、切り口は限定的とならざるを得ない。鈴木は、反論のはじめに自著(『「日本文学」の成立』)のポイントを解説しつつ、「中島は、この骨格がまるで把握できないまま、「批判」を試みている」と述べるが、鈴木のいう「骨格」は、ほぼ本書の「はしがき」が引用された「帯」の文句そのままだ。 さすがに、「帯」をなぞる程度の解説で貴重な紙幅を費すのは失礼だと考えただけで、その代わり、「近代を支えてきた概念総体を批判的に検討しなければならない」という鈴木のモチーフについては冒頭でそれなりに触れ、それに関わる問題点に絞って論じたのが、私の書評だったはずである。 以下、本をまとめた著者としては不満もあろうが(
ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス) 作者: 毛利嘉孝出版社/メーカー: NHK出版発売日: 2009/07/28メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 12人 クリック: 177回この商品を含むブログ (62件) を見る たちの悪い冗談なのだろうか、今「思想」が来ているらしい。おそらく、それには、本書もいうような次のような背景がある。 「けれども、現在のポストモダン的な状況では、どれほど強力なイデオロギー批判もやはり相対的なものでしかなく、けっして真実の言説にはなりえない。かつて近代を規定してきた真なるもの、善なるもの、美なるものといった絶対的で普遍的な目的が崩壊してしまった結果、どれも相対的なものでしかなくなったのだ。それに代わる新しい基準は、正しいかどうかではなく、おもしろいかどうかである。今では、人は正しいけれどもおもしろくない世界よりも、多少正しくな
本当は、モライヨーリの『湖のほとりで』に触れようと思っていたのだが、あまりに凡作だったので書く気が起こらない。イタリアのアカデミーと言われるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で史上最多の十部門受賞、さらに監督は、あのナンニ・モレッティの弟子だというから、かなり期待していたのだが…。 そこで急遽、別の話を。先日、ある機会があり、久々に『探究?』を読み直した。 探究(1) (講談社学術文庫) 作者: 柄谷行人出版社/メーカー: 講談社発売日: 1992/03/05メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 61回この商品を含むブログ (66件) を見る 中高の教員の参加者が多かったこともあり、話は自然とそこで論じられる「教える―学ぶ」という関係をめぐって終始したのだが、結局「当初(刊行は1986年だ)、これを読んだときは衝撃的だったけど、今やこれが当たり前だからなあ」という感慨で何となく一致をみた。
しばらく映画を見に行く暇がなかったので、学生から質問があった志賀の小説について少し。 といっても、触れたいのは、作品そのものについてではない。この機会に目を通してみた、『文学界』(7月号)に掲載された座談会「文学的模擬裁判――法の言葉で殺意を語れるか」について、である。 これは、裁判員制度の導入に合わせて、文芸評論家の伊藤氏貴、元判事の川上拓一、小説家の中村文則が、志賀の「范の犯罪」を素材に模擬裁判を行うという企画なのだが、小説作品をとりあげる以上、必要最低限の歴史性はふまえられねばならないはずである。ところが、座談は、この作品が1913(大正2)年に書かれ、したがって、その直前に起こった1907(明治40)年の刑法改正による、犯罪や法をめぐるパラダイムチェンジを背景としていることなど、まったくの無視なのだ。 詳細は省くが、旧刑法から新刑法への移行とは、要するに、それまで犯罪は、絶対的な「
『貨幣空間』(2000年)の仲正昌樹は、ゾーン=レーテルの「貨幣」を、マルクスよりステージの進んだ位相で「社会的諸関係の総体」(以下の引用の「社会関係=X」に当たる)を捉えようとした試みとして論じている。長くなるが引用しよう。 〈労働力〉から〈富〉へと価値形式がシフトしていくことは、価値の妥当性が〝自然〟から完全に切り離されて、もっぱら社会的な関係性の中で規定されるようになったことを意味する。肉体労働の直接的な生産物の場合と違って、その反省化された形態である〈富〉は自然界の偶然性に左右されることがなく、少なくとも当該の〈社会〉の中では、いついかなる状況においても価値として〈妥当する〉のである。具体的な自然物ではなく、社会的な関係性という全く無定形で、抽象的な〝もの〟が価値として〈妥当〉するようになるわけだが、〈実在的反省=反照システム〉の中での弁証法的具体化プロセスでは、逆に、そうした抽象
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