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大阪万博
krokovski1868.hatenablog.com
「もろびとこぞりて 民みな喜べ 主は来ませり」 ―クリスマス・キャロルー *** 諸人挙りて迎えまつれ、とは、だれの訳かは知らんがセンスが迸りすぎている。油断すると鳥肌が立ってしまう。 つくづく翻訳にはセンスがでる。トランスレーターは立派なクリエーターである。創作者になることをゆるされないのは通訳者のほうだとおもう。彼らがどのように表現欲求を発散しているのか、わたしには見当もつかない。 このところボブ・ディランが数年まえに交わした契約書を読んでいる。かんがえてみれば、ファン向けでない直筆の署名を見る機会というのも、そうないのかもしれない。 もちろん、重要なのは本文なのですけれど。契約書の英文はとかく難解である。やれやれ、連絡おわり。
5年ぶりに都の歯医者へ行くと、なんと両方の下の奥歯が分岐部病変になっていた。向うでも定期的に見てもらっていたので、ショックはおおきい。 うちの家系は虫歯はないが歯周病をくらうので、気をつけてはいたのだけれど、歯に気をつけても、噛みしめつづけると歯ぐきは下がってしまうらしい。理屈は知らない。 10年まえからの歯のレントゲンを見ていると、あきらかにさがってきている。それとともに、骨化がおこり、くいしばりでサーベルタイガーのごとく剣歯が尖っている。 むろんストレスによる。都会暮らしでストレスをへらせといわれても、ストレスフルなのが都会であるため、解決はむずかしい。 さぬき暮らしで骨化はとまったとおもっていたが、生来、力をだすのが好きで、またスプリント的に何かに集中してしまうので、岩を登ったり、力仕事をしたりするときは、くいしばってしまう。やめろといわれてもむずかしい。 奥歯の根っこの合流点のとこ
エマソンのことばを引くまでもなく、人生は旅路である。可能性に向けた投射である。その可能性を夢と呼び、ちいさなものからおおきなものまで、ひとをうごかすちからがある。おおきな夢は、おおぜいを巻き込み、影響を与える。ちいさな夢を目標であるととらえても一向に差支えない。 夢や目標をそれと意識しないまま行くこともある。そのひとの資質の方向性による。わたしは目標は立てたいし、自分が何をしているのか、自分でわかりたい。 できれば長期戦にしたい。できるだけながく生き、ながくトライしたい。自身があきらかに瞬発系よりなのに、そうおもう。 とにかく、急いてはならないし、逸ってもいけない。ベーコンのいうように、らせん階段をのぼっていく。折々らせんのイメージにぶつかるのは、わたしは偶然ではないとおもっている。 グッとくることにつきこむ。幸福もその過程にある。曰く「悠々として急げ」。以上、連絡おわり。 ランキング参加
「朝は毎日、机に向って何かを描くようにしています。それが仕事の依頼を受けたものでなくても、とにかく描く。何かが生まれるかもしれないから」 ー沢野ひとしー *** レベルはちがっても構造はおなじということで、とにかく書く。頼まれごとがなくても、何かを書く。 書いていれば引きずりだされることもあるし、そもそも書いていないと、書けなくなっていく。弾いていないと、弾けなくなっていくし、登っていないと、登れなくなる。ふつうのことだ。 精進していくなかで、距離を置くこともあるだろうし、それではじめて見えることもある。のめりこんだまま行くひともいるし、散らかしぱなしなひともいる。さまざまである。 書くことについては、フィジカルな要求はほとんどないといっていいので、技術的な衰退はほぼなく、また、書かなくても、暮らしているかぎりおもいつくことはなくならないため、つねにシミュレーションしていることにはなる。じ
限定された人生の、限定された範囲の、限定されたことがらについての不完全な記述、それがブログである。というより、記録全般がそういう性質を帯びているとしたほうが、実情にちかい気がする。 ブログにかぎらず、一般に、書かれたものが断片化していく傾向は、今後ますますつよまっていくだろう。そのなかにあって、いかに個人的綜合をつづけていけるかを問われているのが、令和の世のなかではないかとおもう。 そのために必要なのは時間より精神力である。時間が精神を解放する側面もあるが、それだけでは足りない。 Q. 精神力はどうして生まれるか。 A. つきこみたいところへつきこんでいるときに。 Q. 精神力はどうして充実するか。 A. 負荷をかけているときに。 ある意味、精神も筋肉とかわらない。いやいやながらに鍛錬しても、ある程度キャパシティはふえる。のぞんで精進すれば、そのぶん応えてくれる。 精神力は技術とおなじで、
先日、実家で学生時代のノートやレジュメの類を片づけていたところ、おもいのほか大量の英文を読んでいておどろいた。中身がまるで身についていないのにも愕然とした。 タスクとして横のものを縦にしていたにすぎないのだから、当然といえば当然である。「本というのは、こちらに求める気持がなければ、いくら読んでも通り抜けるだけである」と新藤兼人が『老人日記』に書いている。 何かしらの目的をもって、それに生かすという観点がなければ、通り抜けていくしかないのである。 「テーマがない」はうちの学科の宿病であり、そこへきて何かを体系的に身につけることを避けようとしていたのだから、手のつけようはない。鍛錬はしていても、それを方向づけることができない。字がうまくならねばならないのに、おもたい岩をせっせと担ぐようなものである。ガムシャラというよりは馬鹿であり、馬鹿というよりはノーカンである。 院試の結果を見た担当教授に「
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