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はじめまして! わたしは葛西祝といいます。 “祝”と書いて “はじめ ”と読みます。「ジャンル複合ライティング」というスタンスで、ビデオゲームを中心としながら現代美術から文学、映画から格闘技まで越境するテキストを商業のメディアで作っています。普段はIGNやGame*Sparkなどに寄稿しています。 さて本サイト「GAME SCOPE SIZE」は開始から12年続いている、ビデオゲームについてのテキストをまとめている場所です。代表的なテキストは、サイト上部の「PICK UP」にまとめていますので、もしよろしければご覧ください……。が、最近は商業メディアへの仕事にかかりきりで、ここに新しくテキストを書くことが遅れています。今回 “ゲームとことば”に参加するので、初めてわたしのテキストを読む方に向けた自分の紹介でした。 商業のライディングをやりながら、お金がもらえるわけでもないのに自分のサイトで
消えた天才 リチャード・ホフマイヤー 『Hotline Miami』や『Gone Home』を超えた評価の『Cart Life』を反復する人生 インディーゲームにて脚光を浴びながら消えた天才リチャード・ホフマイヤーの話。 ちょっと2012年~2013年ごろのインディーゲームについて振り返ることがあって、さらっと調べなおしていて驚いていた。代表的なタイトルのほとんどがマイルストーンとなっているからだ。 『Hotline Miami』、『Fez』、もちろん『風ノ旅ビト』。『Dear Esther』それに『Gone Home』。まだ足りない。『Kentucky Route Zero』、『スキタイのムスメ』。そして『FTL』。あの頃が現代につながる黄金時代のはじまりといって間違いはないだろう(そして2000年代の早期からインディーゲームを追いかけてきた人にとっては、このジャンルがポストコマーシャル
自分がとある小説を読んでいるあいだ、テキストから想像していた風景が、視覚メディアにそのまま登場する体験は初めてだ。それをまさかの話題作がハイクオリティで実現していた。 ここに書いてあることはビデオゲームと小説のふたつの作品を通して、歪んだ形である価値観から距離を取りながらも、その価値からは手を切れないことについてである。 (エンディングまでのスポイラー有) かつての“男らしさ”も変わりつつある時代のなかで批判されることも珍しくなくなった。様々な意味で害悪だと見られるそれは、どうすればどろどろとした毒や呪いのような姿が良く見えるのか? フランスの小説家、ミシェル・ウェルベックの作品を読むと、そうした男らしさの価値に捉われたままの男が落ちこぼれ、皮肉に見つめるテキストによって、厭世的な視点で、嫌な形でそれを浮かび上がらせているのがわかる。 「世界の終わりのあと僕は電話ボックスにいる」この言葉で
須田剛一が『Travis Strikes Again: No More Heroes』でおよそ10年ぶりにディレクターへ復帰した(共同ディレクターは山崎廉が担当)。2010年以降、長らくクリエイティブディレクターという、奇妙な役職にいた。しかし、どの程度クリエイティブにタッチしていたのかわからなかったし、拡大した規模でのゲーム制作がグラスホッパー・マニファクチュアにとって適正だったか?といえばそうではなかっただろう。『TSA』が発売された時には須田剛一は51歳にもなっていた。/1968年、フランスの5月革命をはじめ、世界で政治運動が展開されていた。当時、気鋭の映画監督だったゴダールは商業映画から撤退、ジガ・ヴェルトフ集団という先鋭化した政治映画製作を展開し、劇映画としてのロジックをすべて捨てた映画を作り続けていた。(Half-Life Modの『ESCAPE FROM WOOMERA』みた
現在のMMOメカニクスのシングルプレイRPGでは、ヘイトコントロールがキャラを立たせていたのかもねという小話です。 2017年はリマスター&ゲームデザインの調整、BGMの再録が行われた『ファイナルファンタジー12 ゾディアックエイジ』とモノリスソフトによる『ゼノブレイド2』が揃ってリリース。いわば2006年以降の日本のシングルプレイRPGにMMORPGのゲームメカニクスが入り込んでからの10年というちょっとした総括みたいなところがある。今年この2つを遊びつつ、そういえば未知であった「ヘイト」の概念を、今ではMMORPGから遠いゲーマーでも比較的理解されているよねと思ったのだった。 日本のシングルRPGのシステムとキャラ立ち 国内のシングルプレイRPGがストーリーを重視しているというのはよく言われるが、どちらかといえばマンガやらアニメ、ライトノベルと近いから「キャラクターが立つか立たないか」
長らくコンソール中心で遊んできた身なのでPCゲームに移るのはだいぶ遅かった。ちょうど国内でのコンソールでのゲームデザインが煮詰まってきたのを感じていたのもあって、移った当初は正直かなりの解放感があったのを覚えている。 そんなふうにPCで海外の様々なビデオゲームを遊んだ中で、最もコンソールとは異なると感じた点が一つある。非常にシンプルだ。こんなことは今更かもしれないけれど、PCとの対話である。あらためてPCとの対話という観点から振り返るとビデオゲームのストーリーテリングへの解釈がずいぶん様変わりすることに気付く。 人工のゲームマスターとの対話 そう、プレイヤーである自分が多かれ少なかれPCとなんらかの形で対話をしているのが前提なのは、現在のゲームデザインであってもそうじゃないか?特に欧米のRPGやADV、FPSを遊んでいてプレイヤー自身にダイアログを選択させたり、プレイヤー自身に決断を迫った
かなり前にちょっとした休みが取れた時に昔からの友人と埼玉県の秩父にある三峰神社に車で行った。国道140号線に入り、しばらく運転していくと本当に景色が山と木々というとてもシンプルなものになっていくのもあって、いろいろ会話をする。話題が途切れればみんな静かに窓の外の風景を眺めていたりする。 ドライブの最中というのは後になって思い出せないような本当にしょうもない話しかしない。よく考えるとドラマや映画なんかでやけに重要な話をするシークエンスにどこかしらの車中でなんてありふれているけど現実にはあまりないわけで、考えてみればタランティーノの映画がとくに伏線にも繋がらないような無意味な会話をあえて入れるというのは映画ではびっくりすることなんだけど、現実では毎日あたりまえに出くわしている。 映画はおおよそ90-180分くらいの尺の中で筋書きをまとめなきゃならないわけからほとんどの瞬間に意味があるからドラマ
Nintendo Switchで『聖剣伝説コレクション』がリリースされたのもあり、ひさしぶりに聖剣伝説シリーズ関連の音楽を聴いている。 スクウェアのピクセルアート技術が乗っていたFC-SFC時代。聖剣伝説シリーズの全盛期と言える3作目まではウェットな物語に感情移入を促すような作り方を特色にしていた。しかしあらためてゲームボーイの初代聖剣伝説のBGMを聴いていると、ひとつだけ異色の楽曲が存在する ことがわかる。最後の場所であるマナの神殿の音楽だ。 ゲームボーイのわずかなスペックながらも魅力的な演出と楽曲によってここまで感情移入させてきたなか、結末間近にきて凄まじくドライな世界に放り込まれる落差。そのミニマルな楽曲は、ある意味で当時のスクウェアが離れようとしていた生々しい(当時の)ゲームの構造そのものに引き戻される衝撃がある。 ところがこのドライさは以後のリメイクではほとんど再現されていない。
ゲームレビューでお金をもらうことを少しやっているし、ちょっと海外などの公式なメディアが行っているレビューも参照している。そこで気になっているのは、リプレイ性(Replay value Replayabilityとも。リンク先には今回記事の内容が大体詰まってる)という評価の使いどころだ。総評にリプレイ性の高さを挙げているレビューはよく見かける。 それにしてもリプレイ性とはこのジャンルらしい評価である。たとえば小説などで再読性という部分で評価が行われることはあるのか、とざっくり検索で調べると「再読に耐えうる」のが名作である、「謎を解くために再読してしまう」などなどで評価していくことは多い。 でもそれは二次的な評価であり、まず一次的な書評で「再読性が高い」とか、読者が読むごとに様々な読み方をすることを期待した評価は(自分の見た範囲では)そんなにはないはず。いっぽうビデオゲームのリプレイ性という
桐生一馬は『龍が如く』の世界では伝説の極道として長い年月を重ねている設定だ。しかし、プレイヤーである自分の目線からは年月による加齢なんてまったく見えないし描かれない。マリオやソニックみたいなあくまで記号的な存在と思う。最終章である6では48歳ということらしいが年齢に意味があるように思えない。加齢を描ききれていないのである。そこに現実で壮絶な経歴を辿ってきたビートたけしが立ちふさがることでいったい何が起こったか? 『龍が如く』シリーズは多数の俳優や芸能人・スポーツ選手をフェイスキャプチャーして採用しているということをちょっとした豪華演出とかそんなところに金をつかうなみたいな話が出てくるけども、広く見てみれば『LAノワール』や『クオンタム・ブレイク』、チョウ・ユンファを起用した『ストラングルホールド』、さらには小島秀夫の新作ではマッツ・ミケルセンが主演するなどなど、実際の俳優の存在感をビデオゲ
もぐらゲームスで再評価を行いました。 あらためて『シルバー事件HD』を振り返って心に残っていることは、真実と事実が違うという物語ではない。ウエハラカムイであるとか、FSOとTRO/CCOの政権争いであるとか、謎のままの部分以上のものがいつも印象に残る。それは物語全体に暗に漂っている重層的な父親像である。 『シルバー事件』はGHMの処女作にしてもっともテキスト量が多い。キャラクターも背景やプロフィールが作中で緻密に描写される。それは後の『花と太陽と雨と』や『ノーモアヒーローズ』みたいな刹那的な登場人物の在り方からすると、当たり前のことが異質にさえ思える。オレが初めてオリジナルの『シルバー事件』を遊んだときは、『killer7』や『花と太陽と雨と』を遊んだあとだったので、変な話だがあまりのわかりやすさに面食らったのだった。 登場するキャラクター描写の細かさから、奇妙なことに浮上してくるのはが父
中高生の青春物語とタイムトラベルの相性はよいと言われている。それはあの頃がささやかな後悔の積み重ねで出来ていて、それをどうにかしてしまいたいという感情が過去に戻るという意匠に重なるからだ。青春の光と影なんてありふれたテーマで、挫折を描いた映画も小説もたくさんある。だが、あの時代のほとんどの人間はボンクラで挫折を背負いたくはないし、そんな胆力もない。にもかかわらず、実際には何らかの挫折を背負わざるを得ない瞬間が数多く立ちふさがる。青春物語に時を戻すSFが絡むとき、たいていそんな影を帳消しにしようとする。 「さっきはああ言うことは言うんじゃなかった」「いや、ああ言っておけばよかったんだ」といったささやかな積み重ねは、それが大したようなことでなかったとしてもそう選択しきれなかった自分に降りかかってくる。今から振り返ればわずかな期間でしかなかったその時に、知識もなく度胸すらない中学生や高校生だった
お台場の日本未来科学館でやってる企画展「GAME ON」にいってきましたよ。気が狂うくらい面白かったですよ。 展示と歴史観 いきなりでなんだがこうした展示で真っ先に気にしちゃうのがやっぱ歴史観だったりする。この企画展はイギリスのもので、今年ようやく日本での開催が実現した、とのことらしい。 ちょっと前の東京ゲームショーだったかでビデオゲーム史の概略が貼られたコーナーがあるのだが、ざっと眺めてみるとやっぱり会の性質上日本国内のコンソール中心史観でファミコンが全てのスタート…みたいなことが少なくない。国内の産業が拡大するエポックということでは間違いないんだろうけども、”現代史を編むのは簡単じゃあないんだ”というのは誰が言ったか。様々な出自や様々な立場があるし、いまもまだリアルタイムで継続していることだから検証しきれない面もあると考えると、偏った歴史にならざるを得ないのかもしれない。 ではイギリス
デヴィッド・ボウイが今年の1月、69歳の誕生日を迎えるとともに、新作「★」をリリースした2日後に亡くなった。最先端のジャズミュージシャンをフィーチャーした遺作には、全編に渡り死の気配が敷き詰められており、生涯に渡り”架空のロックスターのキャラクターを作り上げ演じる”こと、”本当にポップスターになってしまう”ことや”やがて自身を晒すようにしていく”など多様な自己演出を続けた人間ならではの、終わりを悟ったパフォーマンスで埋められている。それは「Lazarus」のPVを観ればわかるだろう。目前に迫った死と、それすらも一つのパフォーマンスに演出しようともがく姿がそのまま映されている。 それから様々な形で追悼の言葉が残された。レディー・ガガはグラミー賞でジギー・スターダストの衣装を着込み、70年代のグラム期から80年代のポップスター期の楽曲を歌った。ベックとフー・ファイターズのデイヴ・グロールらは「
サイバーパンク。このジャンルのイメージは小説ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」と映画「ブレードランナー」が見せた雨の降る闇夜の都市に明滅するネオンサインが定着させたと言われている。 それは80年代から90年代初期にかけて、現実のテクノロジーが進歩してゆくのに歩みを合わせる形で映画から漫画、小説に至るまでそのビジョンは追及されていた。 だが現実のテクノロジーが成熟していくにつれ、当初のビジョンは陳腐化してしまう。90年代を過ぎるころにはギブスンもブレードランナーのビジョンもその影を潜めていく。 ところがニューロマンサー&ブレードランナーが当初見せたビジョンは、ビデオゲームでは一向に鎮まる気配が無い。それはAAAタイトルの「Deus EX」シリーズを挙げるまでもなく、それどころかバットマンシリーズの最新作「Arkham knight」でさえもそのビジョンを追従している。過去にない驚異的
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