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技術進歩の激しい時代には、新技術をいち早く導入した者が、多くの人々の仕事を奪い取って失業させることになる。それはある程度やむを得ないものではあるのだが、その変化が激しすぎると各地で内乱が起こるなどして社会が不安定になりかねない。 教科書などには何も記されていないのだが、明治政府の相次ぐ革新的な施策に反発していたのは武士だけでなく、農民や一般市民も同様であった。そのことは、このブログで何度も紹介している『新聞集成明治編年史』の目次を見るだけで、各地でかなり大規模な反乱があったことがよくわかる。 『新聞集成明治編年史』は全巻が『国立国会図書館デジタルコレクション』で無料にて一般公開されており、まだ利用されていない方は、是非次の記事を参考にして確認していただくとありがたい。
GHQ焚書リストから、タイトルに「歌」を含むものを絞ってみると、多くが短歌集で、中には兵士が詠んだ秀逸な作品を集めて解説している本もあれば、軍歌を収録した本もあり、南方民族の歌の歌詞を訳して紹介している本もある。またアジアが欧米に侵略され、祖国奪還のために戦った人々の悲惨な歴史を綴った『南方の悲歌』という本もある。この本はいずれこのブログで詳しく採り上げる予定なのでここでは書かないが、最初に『短歌戦記』という本を紹介することと致したい。 『短歌戦記』 前回のGHQ焚書カテゴリーの記事で、自らの支那における従軍体験を自作の俳句と共に記した『俳句と戦線』という本を紹介したが、今回はビルマ戦に従軍した兵士が戦場で詠んだ短歌とともに自らの従軍体験を記した『短歌戦記 : 軍旗を奉じて』を紹介させていただく。 著者の山上次郎は大正二年に愛媛県に生まれ、昭和五年に県立三島中学を卒業後農業のかたわら短歌を
明治の初めのころ「文明開化」の名のもとに、わが国で極端な欧化主義的な考え方が支配したことはこのブログで何度か書いてきた。 わが国が近代国家として西欧に対抗するためには、西欧の技術や科学や文化などをそのまま取り込んで自分のものとして利用していくこともある程度は必要であったろう。しかしながら、昔からの伝統文化や風習などを否定して多くを破壊し、なんでもかんでも西洋のやり方をまねようとする政府のやり方に国民の不満が高まっていく。その結果、わが国の歴史や伝統・文化を見直そうとする考えが強まっていくことになるのだが、その流れはその後のわが国の教育に大きな影響を与えることとなった。 明治初期の学校教育は欧米の教育制度の模倣 まず最初に、文明開化期における我が国の学校教育がどのようなものであったかを記しておこう。 明治五年(1872年)八月二日に、政府は太政官第二百十四号にて日本最初の近代的学校制度を定め
GHQ焚書リストの中に俳句に関する本が六点あるのだが、焚書処分された理由は兵士たちが戦場などで詠んだ作品を多数採り上げている点にあるからであろう。 私も含めて戦後に生まれた日本人のほとんどは学校やテレビ新聞で繰り返し解説される自虐史観に洗脳されていて、わが国が侵略戦争をしたと思い込み、日本軍兵士として戦争を体験した人の生の声を聴く機会があったとしても殆ど関心を持たない時期が随分長く続いた。私の場合、四十代になってようやく自虐史観に疑問を持つようになったが、陸軍や海軍で貴重な体験をされた方の話をしっかりと聞きたいと思った頃には、重要人物は既に鬼籍に入っておられてそのようなチャンスは訪れなかった。 しかしながら国立国会図書館が所蔵する本や雑誌などのデジタル化を推進して「近代デジタルライブラリー(現:国立国会図書館デジタルコレクション)」の一部公開を開始した平成二十三年(2011年)以降、戦前の
鹿鳴館外交を推進した伊藤博文と井上馨 明治政府が採用した欧化政策のなかで、最も極端であったのは鹿鳴館の舞踏会騒ぎであった。 明治十六年(1883年)八月に伊藤博文がヨーロッパ諸国の諸制度を調べる外遊から帰国すると、太政官制度を廃止して内閣制度を創設したのを手始めに、制度万般のヨーロッパ化を図ろうとし、また、自らが内閣総理大臣となり、当時最大の外交問題であった条約改正を解決しようと、井上馨を外務大臣に据えた。 この二人がこの問題解決の為に考えたことは、西洋の文明を積極的に取り入れてわが国を文明国として印象付け、外国人の好意を得ることで彼らと対等の立場に立つというものであった。 楊洲周延『貴顕舞踏の略図』Wikipediaより 菊池寛は当時のことをこう評している。 書方改良、日本語改良、小説改良、音楽改良、美術改良等々、改良改良の声は天下に満ち、貴賤上下翕然きゅうぜん *として洋風を模倣し、甚
GHQ焚書リストの中には、なぜこのような本を焚書処分したのかと思うようなタイトルの本が少なからず存在する。軍事のことを書いたわけではなく思想書でもない本の多くが焚書処分されているのだが、「日本語」に関する本まで多くが焚書処分にされていることは意外であった。 『日本語の世界化』 最初に紹介させていただくGHQ焚書は、言語学者の石黒修が昭和十六年に著わした『日本語の世界化』である。石黒は、昭和初期に於いてエスペラント語の教育者として何冊かの著書を出しているが、その後大東亜共栄圏を始めとする外国への日本語教育に関与した人物である。彼は多くの著作を残しているが、GHQの焚書処分にかかったのは、この一冊のみである。 大東亜共栄圏における共通言語として日本語の普及が図られたのだが、そのことによりアジア世界に日本語が急速に広まって行った。同上書には次のように記されている。 日本語は、満州国において事実上
桜の季節になると有名な、観光地はどこも観光客が多すぎて心静かに桜を鑑賞できないところが多いため、毎年なるべく観光客の少ない所を選んで旅程を組むようにしているのだが、今年訪れた大原野は素晴らしい桜を静かに楽しむことが出来た。 勝持寺と願徳寺 勝持寺 南門 最初に訪れたのは勝持寺しょうじじ(京都市西京区大原野南春日町1194)。駐車場は南門の東に、隣の願徳寺と共用の駐車場がある。 寺伝によると、白鳳年間に天武天皇の勅によって役小角が草創し、延暦十年(791年)に桓武天皇の命で最澄が伽藍を建立し、後に薬師仏を安置したという。足利尊氏の庇護を受けて栄えたが、応仁文明の乱で焼失したのち衰微したが、江戸時代に入り将軍綱吉の生母桂昌院けいしょういんの援助により堂宇の修復が行われた。 勝持寺 阿弥陀堂(本堂) 阿弥陀堂の右に瑠璃光殿があり、本尊の薬師如来像(鎌倉時代、国重文)、金剛力士像(鎌倉時代、国重文
戦前・戦中には「日本精神」に関する書籍が多数出版されており、その多くがGHQによって焚書処分されている。「日本精神」という言葉にはかつては結構深い意味を含んでいたようだが、戦後の日本人は本来の「日本精神」を理解しないままに過ごして来ているようである。今回はGHQ焚書リストの中から、日本精神に関する書籍を採り上げることと致したい。 『自然景観より観たる日本精神』 戦前・戦中の日本人は「日本精神」という言葉を、どのように理解していたのであろうか。 木崎晴通 著『自然景観より観たる日本精神』の序文に、著者は「日本精神を語ることは畢竟惟神道かんながらのみちを語ることである」と述べているのだが、惟神道とは自然に逆らわず、先祖に感謝して生きる知恵を感得することと言えばよいのだろうか。著者の木崎晴通についてはネットでは情報がほとんど無いのだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」で他の著作を調べると『
改暦の詔書下る 『新聞集成明治編年史 第一卷』p.512 明治政府が太政官布告第三百三十七号『太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス』を出した日付は明治五年(1872年)十一月九日のことなのだが、それによると「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とあり、わずか二十四日後から年が変わって太陽暦の正月になることを発表したのである。毎年新年の準備で忙しくなるはずの十二月が、明治五年にはわずか二日しかないことが急に報道されて、多くの国民は戸惑ったことに違いない。 伝統行事や祝日の廃止 『新聞集成明治編年史 第一卷』p.514 年末年始は、それぞれの家で日ごろお世話になった方に挨拶回りをしたりするのが普通であったのだが、『新聞集成明治編年史. 第一卷』を開いてみると明治五年十一月の新聞雑誌七十に、「従来新年祝儀、年玉と唱え、扇子並びに菓子折あるいは家業品等携贈」することを止めるようにとの布達が府庁よ
GHQ焚書リストの中には日本人の生きる姿勢や心構えに関する書籍が少なからず存在する。前々回及び前回に「武士道」及び「武道」に関するGHQ焚書を採り上げたが、今回は「臣道しんどう」(臣民の道)に関するGHQ焚書を紹介させていただくことにしたい。 「臣道」(臣民の道)という言葉は今ではほとんど用いられなくなっているのだが、一言で言えば「臣下としてあるべき心構え」という意味である。どうしてこのような本をGHQが焚書にしたかと考えながら何冊かを拾い読みすると、GHQが嫌がりそうな文章を結構見つけることが出来る。 『臣道読本』 最初に紹介するのは、竹内浦次 著『臣道読本』。たとえば英国の紳士道、あるいはキリスト教精神というものがいかなるものであるかについて述べている部分がある。 …過去の精神文化を誇ったアジア民族は、科学と武力と財力とを背景とする狡猾なる欧米人に、政治的に、経済的に、思想的に征服せら
郵便事業が開始される前は飛脚が信書を運んでいた 前回記事で明治時代の電信業の始まりの苦労について書いたが、今回は郵便事業の始まりについて書くことにしたい。 明治政府が郵便事業を開始したのは明治三年(1870年)のことなのだが、それ以前に信書はいかなる方法で運ばれていたのだろうか。 東海道五拾三次 平塚 安藤広重画 石井研堂の『明治事物起原』には次のように解説されている。 …不完全ながらも、全国中重おもなる都邑には、飛脚屋の設けあり。各所の飛脚屋互いに気脈を通じ、私わたくしに信書の逓送ていそう業を営めり。之を三都大飛脚と名つけ、江戸にては京屋、島屋、江戸屋あり。各藩にては、各自分屋敷より国許へ定期飛脚を出し、又政府の公文書は、政府特ことに使いを発する習いなりし。王政復古と同時に、明治政府は、駅逓司えきていしを置き、逓信事務を管理せしめたれども、諸事草創の際なれば、私信は依然飛脚屋の手に委し、
前回の「GHQ焚書」で、武士道に関するGHQ焚書を紹介させていただいたが、剣道や柔道などの武道に関する研究書や解説書、指導書などもGHQによって焚書処分されている。処分された理由は武道の技術的な面というよりも、おそらくはその精神的な面ではないかと思われる。 『国民武道講話』 最初に紹介させていたただくのは、武田寅男 著『国民武道講話』。読み始めると、GHQが焚書処分した理由が何となく見えて来る。 いま我々が日常口にしている「武道」のようなものは、世界のどこの国にもない。武術に類したものは、ヨーロッパにも、支那にも、国々によって、各種のものがあると思うが、日本の武術のように精妙な発達を遂げているものは、他に一つもない。それは、日本の武が、単に殺傷攻防のための形而下の技術として発達したのでなく、極めて高度な精神内容を本体として、所謂技心一体の体系を具え、その本質が、日本民族に特有の大和魂に発し
ペリーが徳川将軍に贈った電信機 前回の「歴史ノート」で、嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に横浜で汽車の模型を動かしたところ、幕府の役人が子どものように喜んだことを書いたが、ペリーは同時に電信機のデモンストレーションをも実施していた。その時の日本人の反応について、ペリーの『日本遠征記』には次のよう記されている。 …電信装置は真っすぐに、約1哩マイル*張り渡された。一端は条約館に、一端は明らかにその目的のために設けられた一つの建物にあった。両端にいる技術者の間に通信が開始された時、日本人は烈しい好奇心を抱いて運用法を注意し、一瞬にして消息が、英語、オランダ語、日本語で建物から建物へと通じるのを見て、大いに驚いていた。毎日毎日、役人や多数の人々が集って、技手に電信機を動かしてくれるようにと熱心に懇願し、通信を往復するのを絶えず興味を抱いて注意していた。 *1哩:1.609km
「武士道」をキーワードにしてGHQ焚書リストを調べると、結構多くの書籍が引っかかる。よく似た言葉に「士道」という言葉があり、多少ニュアンスは異なるが、ほぼ「武士道」と同様な意味で用いられるようなので、それらを加えると「武士道」に関するGHQ焚書は42点存在する。 『武士道と武士訓』 今日のわが国では「武士道」という言葉はほとんど死語のようになってしまったが、その理由は連合国が日本軍が勇敢に戦うことに怖れをなし、「武士道」に関する書籍の多くを焚書処分したことと無関係ではないだろう。 『武士道と武士訓』という本の序文には次のように書かれている。 比島に惨敗した米兵は、彼等が日頃の傲岸不遜に似ず、我が武士的敢闘の下に辟易し、捕虜となってからその時の物凄さを思い起こし「日本軍は五十人が十人になっても攻めて来る。十人が五人になっても激しく攻撃して来る。そして最後の一人となると、より激しく突撃して来る
ペリーが持ち込んだ汽車の模型 嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの『日本遠征記』に残されている。 ペリー 小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子どもをやっと運び得るだけであった。けれども日本人は、それに乗らないと承知できなかった。そして車の内に入ることが出来ないので、屋根の上に乗った。円を描いた軌道の上を一時間*二十哩マイルの速力で、真面目な顔つきをした一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながら、ぐるぐる回っているのを見るのは、少なからず滑稽な光景であった。 *1哩=1.6km 『
寿長生すないの郷さと 梅が咲いているのを期待して寿長生の郷(滋賀県大津市大石龍門4-2-1)を三月七日に訪れたのだが、今年は寒い日が続いたので紅梅が少し咲いているだけで、残念ながら白梅はまだ蕾の状態であった。見頃を迎えるのはおそらく三月中旬以降だと思われる。 寿長生の郷は、四十年前に和菓子で有名な叶匠寿庵かのうしょうじゅあんが千年の歴史を持つ里山を受け継ぎ、六万三千坪の広大な敷地に菓子の材料として約七百本の梅が植えられており、さらに見事な庭園や茶室があり、近江の食材を用いた食事も楽しめる人気スポットである。 菓子売り場の隣にホールがあり、三月中は叶匠寿庵の創業者が収集したひな人形が展示されている。上の画像は江戸時代の享保の頃のひな人形だが、約三百年も経った古いひな人形が大事にされてきたことに感心してしまった。会場には様々な時代のひな人形が小物や道具類を含めて約百二十点ばかり展示されていて結
西欧文明に傾倒した森有禮 森有禮もりありのりは弘化四年(1847年)に薩摩藩士森喜右衛門の五男として生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所に入学して英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに密航し、ロンドンで学んでいる。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治元年六月に帰国後外国官権判事に任じられ、明治三年秋に少弁務使としてアメリカに赴任。明治六年夏に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。 森有礼 森有禮は、明六社のメンバーの中でも特に西欧文明に傾倒した人物として知られているが、彼が明治六年に帰国する二ヶ月ほど前に英文で著した『日本の教育(Education in Japan)』に、外国語を日本の国語にせよという趣旨のことを書いている。『森有
神道関連の書籍は大型書店に行ってもわずかしか並んでいないのだが、戦前戦中には結構多くの書籍が出ていて、その多くがGHQによって焚書処分されている。よく似た内容のものが少なくないが、ユニークな研究も存在するので、そのうちの2点を紹介させていただくこととしたい。 『海外神社の史的研究』 最初に紹介させていただくのは、民俗学者の近藤喜博 著『海外神社の史的研究』で、わが祖先たちが海外に移住した際に現地に建てた神社についての歴史が記されている。著者は支那事変のために召集されて中支の戦線に参加した人物だが、支那に建てられていた神社は支那兵や暴民たちによって少なからず破壊されたそうだ。一方、昭南島(現在のシンガポール)に建てられたシンガポール太神宮は原住民によって保護されたという。 なぜ日本人は海外の移住地に神社を造営したのであろうか。著者は次のように記している。 わが民族の海外に発展伸長するに伴いて
前回の「歴史ノート」で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館ろくめいかん時代であることを書いた。 鹿鳴館は明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治十六年(1883年)十一月二十八日に落成した建物で、国賓や外国の外交官を接待するため外国との社交場として使用されてきた。 尾崎行雄の鹿鳴館外交批判 鹿鳴館 Wikipediaより そもそも鹿鳴館が建てられた最大の目的は、欧米諸国との不平等条約を改正する点にあったのだが、肝心な条約改正はほとんど進展せず、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治二十年(1887年)九月に外務大臣を辞すことになる。今回はその経緯について書くこととしたい。 尾崎行雄 鹿鳴館外交を痛烈に批判した尾崎行雄は、『日本憲政史を語る・上巻』のなかで伊藤博文・井上馨の外交について次のように記している。 は
中国思想に関するGHQ焚書を探してみると、中国の春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)に現れた諸子百家に関するものばかりで、大半は孔子が創始した儒教、あるいは孫子の兵法に関する書物である。孫子が焚書処分されたのは理解できるのだが、孔子や『論語』に関する書籍が多数焚書処分されており、児童用の絵本である講談社の『コウシ』まで処分対象にされているのは意外であった。 『儒教と我が国の徳教』 諸橋轍次 諸橋轍次てつじ 著『儒教と我が国の徳教』という本がある。著者は漢学者で、漢和辞典の最高峰である『大漢和辞典』の編者代表として知られているが、彼の著した儒教に関する本が二点GHQにより焚書処分されている。 著者が儒教とはどのような内容であるかについてまとめている部分を紹介したい。 ごく平易に申しますれば、儒教というものは古人にもすでに論じております通り、己おのれを治め、人を治める学問で、修己治人
極端な欧化主義が推進された 文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したあと、次のように述べている。 当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸入することをもって最善の急務としたのである。而して、それは何をおいても、実利という標準から離れることが出来なかった。 今日から見れば、其の皮相浅薄は、笑うべきものであるが、急激に欧米文化の圧力に対抗するに足るべき武力と富力とを得んと焦慮した。当時にあっては、欧米文化の断片を早呑み込
『シャカ』 仏教に関するGHQ焚書を探していると、仏教の開祖である釈迦に関する子供用の絵本がリストにあるのに驚いた。この絵本は講談社が「大東亜の偉人」を集めたシリーズの中の1冊で、全10冊のすべての作品がGHQによって焚書処分されていることに注目したい。 ちなみにこの絵本シリーズで刊行されたのは、『ウ・オッタマ』、『トヨトミヒデヨシ(豊臣秀吉)』、『ホセ・リサール』、『ジンギスカン』、『コウシ(孔子)』、『シャカ』、『トウゴウゲンスイ(東郷元帥)』、『ソンブン(孫文)』、『ノギタイショウ(乃木大将)』、『ヤマダナガマサ(山田長政)』である。戦後はあまり知られていない人物がいるので補足しておくと、ウ・オッタマはビルマ(現在のミャンマー)独立運動創設者の一人で、ホセ・リサールはフィリピンの独立運動で活躍した人物である。 釈迦が活躍した時代については紀元前7世紀とか紀元前6世紀とか紀元前5世紀と
文明開化とその反動 前回の「歴史ノート」で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。 『文明開化』の時代に、政府は日本土着の習俗や信仰などを「悪弊」「旧習」と呼び、彼らが無用無益と判断したものはどんどん破壊していったというのだが、同様なことが記されている本は少なくない。例えば、歴史学者・斎藤隆三の『近世世相史概観』には次のように記されている。 明治初年の我が当局の執ったところは、当然の域を超えてその度を失したものであった。三四の勝すぐれたもののあるの故をもって一切万事西洋勝れたりとなした。自ら卑いやしんでは未開野蛮としたが、彼を尚んでは文明国とし、苟いやしくも碧眼にて赤髯ならんには一切無差別に之を尊敬し、崇拝し、称して優良人種優等国民と呼び、その風を移しその俗を模し、一日も早く一歩も近く、之に接し之に頼らん
イスラム教は七世紀にマホメットが創始した宗教で「マホメット教」と呼ばれることもあるが、漢字圏では古くから「回教」あるいは「回々フィフイ教」と呼ばれて来た。わが国では最近では「イスラム教」と呼ばれることが最も多く、「回教」と呼ばれることは少なくなっているのだが、昭和の初期に於いては「イスラム教」よりも、「回教」あるいは「回々フイフイ教」と呼ぶことの方が多かったようである。 このイスラム教について出版された本でGHQにより焚書処分されたものが八点存在するのだが、いったい何が書かれているのだろうか。 『大東亜の回教徒』 日本人はイスラム教のことを詳しく学ぶ機会はほとんどなかったのだが、イスラム教徒の移民が増えて各地で様々な問題が起こっているわが国の現状を考慮すると、もう少しこの宗教のことを知る必要がありそうだ。笠間杲雄 著『大東亜の回教徒』の冒頭にある「回教概説」は非常に判りやすく書かれているの
欧化主義的実利思想 文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』に、廃藩置県以降の政治について次のように記している。 廃藩置県後における政府の事業は、復古的、保守的よりも、むしろ革新的、進歩的の色彩を多量に帯びていた。祭政一致主義や、神祇官を儲け、官制を大化革新の昔に擬したのは、主として、反動的作用と一部の国粋的、尊皇的思想に胚胎したもので、その勢力、影響はむしろ一時的であった。これに反して、革新的、進歩的の事業は、大正の今日に至るまでも影響し、持続しているのである。 然らば、当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸
『支那事変とローマ教皇庁』 GHQ焚書の中でキリスト教に関係する本は決して多くはないのだが、いずれの本も戦後の史書には書かれていないような情報が満載で、戦後に出回っている史書とは全く異なる視点を提供してくれる。 ピウス十一世 例えば『支那事変とローマ教皇庁』という本には、結構興味深いことが記されている。 ちなみに、文中の「ピウス十一世」はミラノ大司教を経て1922年にローマ教皇に選出された人物で、19世紀以来断絶関係にあったイタリア王国との関係を修復し、イタリア政府にバチカンを独立国として認めさせたり、バチカンの絵画館、ラジオ局、ローマ教皇庁科学アカデミーを創設した人物である。また「支那事変」というのは、昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を発端とする大日本帝国と中華民国との間の武力衝突を指し、当初は「北支事変」と呼びその後「支那事変」と呼んだが、戦後になって「日華事変」と呼称が変更され、
急激な洋装の普及 江戸時代の日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化していったのが明治の初期のことである。 和装のままでも生活に支障があわけではなかったと思うのだが、周囲の人々の洋装化が進んでいくと、誰しも洋服や革靴が欲しくなるのは仕方がないだろう。しかしながら服装の組み合わせというものは、和洋折衷では決して見栄えの良いものではない。 坂本龍馬 羽織袴に洋靴 上の画像は坂本龍馬だが、よく見ると靴を履いている。見慣れていないからそう感じるのかもしれないが、和服に革靴は似合わないように思う。 岩倉使節団 中央が岩倉具視 上の画像は明治四年の岩倉使節団で、中央の岩倉具視も和服で靴を履いているのだが、和服にはやはり下駄や草履がよく似合うと思う。 逆に、洋服を着て下駄・草履を履くのも似合ず、ちょんまげをして背広を着るのもおかしいと誰でも思うのでは
『日本文化の支那への影響』 GHQ焚書のリストの本のタイトル・副題を「文化」「文明」というキーワードで絞り込むと、73点の図書が引っかかったのだが、タイトルがユニークであったので『日本文化の支那への影響』という本の冒頭を読み始めて驚いた。あれだけ排日のスタンスを貫いたあの国が、学芸や文化方面では真逆であったことが記されている。 実藤恵秀 著『日本文化の支那への影響』蛍雪書院 昭和15年刊 著者の実藤恵秀さねとうけいしゅうは早稲田大学で教鞭をとった中国研究者で、戦前から戦後にかけて多くの著書や翻訳書を残しているのだが、GHQによって焚書処分されているのはこの本だけである。 この本の冒頭の部分を紹介させていただく。 今回の支那事変は申すに及ばず、中華民国の初年以来、日支両国は、政治経済的にはしばしば摩擦が繰り返された。換言すれば政治的経済的には憎悪せられ反対せられ、「打倒」せられ、侮辱さえもさ
五箇条の御誓文 慶応四年(1868)三月十四日、明治天皇は京都御所の紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である「五箇条の御誓文」を神前に奉読され、その場に伺候する全員が署名した。 幟仁親王が揮毫した御誓文の原本 Wikipediaより 一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。 一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。 一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。 一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。 一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。 いつの時代にせよこのような政権交代があった時には、新政権によって旧来の価値観が否定され、新しい価値観を広める動きが生じることが多いのだが、「旧来ノ陋習ヲ破リ」と言っても旧来の価値観のすべてが誤っているわけではなく、また「世界ニ求メ」た「智識」が誤りでないという保証はどこにもない。 むやみに伝統的な価値観
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