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『シン・ゴジラ』は進化前で勝負して欲しかった!というのを書きましたが、また小学生的に「ウチの考えた本当に怖いシン・ゴジラ」を書いてみましょう。 (特にゴジラとは関係ない化けモンの絵) まずですね、ゴジラは東京なんか来ません。そんな記号化されて絵になる場所には来ないんですよ。 というか、予めお話しますと、これ別にゴジラじゃないです。なんかデカイ生き物ですね。巨大不明生物です。 それは『シン・ゴジラ』で最初に蒲田あたりをぶっ壊していた地面を這いつくばるヤツで、とにかく馬鹿でかいけれど知性も工夫もなく、ビームなんかも出せず、ただいたずらに地面を這いまわってゴロゴロしているヤツです。それでも十二分な破壊力で、蒲田なんか木っ端微塵です。行進なんかしてもムダ。蒲蒲線言うてる場合ちゃうで。 前の時も書きましたが、ゴジラ完成形のあの形になった途端、それは記号になって、閉じた物語に回収されてしまうんです。ゴ
除湿機を勧めるこういう記事がありました。 性格の暗い人には除湿機がおすすめ – ココロ社 我が家でも除湿機を使っています。 この記事にある「何もしないでも水が溜まっていく達成感」というのは、まったく同意です。なんというか、自分では指一本動かしていないのに何かが蓄積されていって、しかもそれが水、というのは、不思議に心を満たすものがあります。 このココロ社さんの記事でもあるように、加湿器を持っている人は多いものの、除湿機の普及率はそれほど高くありません。 しかし、家の環境にもよりますが、個人的には加湿器などより除湿機の方がずっと役に立つと思っています。 そもそも以前に加湿器は本当に必要なのかという記事で書いた通り、加湿器の必要性の方についてちょっと疑問に思っています。家の環境にも寄りますが、気密性が高くそれほど広くないマンション、キッチンやお風呂場などが居室からそれほど離れていない環境では、冬
最近読んでいるオススメのwebマンガやアプリで無料で読めるマンガを書いてみます。 まず、お約束で紹介する必要のない超メジャー作品。 ワンパンマン 無名の頃から読んでいて、あれよあれよという間に「村パン」が大ヒット、アニメ化。マンガワンで読める「モブサイコ100」も読んでいて、応援の気持ちで単行本を買っていたらこれもアニメ化。逆にもうお金落とさないで安心だと思うのでこの調子で遠くで頑張っておくれやす! ちなみにわたしは「村パン」ではなくONEさんの原作版がやっぱり好き。このヘロヘロの絵柄も愛おしい。圧倒的な画力の差がありながらこれだけ面白い原作は凄いです。漫画力というんでしょうか。 ヒトクイ これも原作の方が好きだったのですが、リメイク版も一応読んでいます。 でも正直、単行本を買うほどではないかな・・。 以下、本当にオススメなもの。 堕天作戦/天獄囚徒 マンガワンで月刊連載中。 最初は同人っ
スピリッツに連載されている薙刀マンガなのですが、マンガワンというアプリで読めるようになっていて、一気に現在までのところを読破してしまいました。初めてこのアプリで課金チケットを購入しました。読み直したいので単行本も買うつもりです。 高校の薙刀部を舞台とした青春スポ根群像劇なのですが、とにかくキャラがよくできてます。 モブに見えるようなキャラまでちゃんと掘り下げられる機会があり、それがわざとらしくないのです。キャラ自体の深みというか、そこにもっていくまでの展開や、キャラ同士の絡みに説得力があるのです。いや、もちろんマンガの話なので、冷静に考えれば現実ではあり得ないことなんて沢山あるわけですが、読んでいてスッと入ってくるのです。 主人公の東島旭は、チビでメガネで元美術部の冴えない女の子、という、少女漫画でありがちなキャラで、最初は「そんなヤツが高校で武道はじめて強くなるわけないやろ!」と思ってい
日本最東端の島、南鳥島を知らない日本人はいないだろう。 南と付くのだから元祖鳥島もあるだろう、と思うと、実際鳥島という島はいくつもある。この文脈での鳥島とは、八丈支庁の鳥島のことだ。南鳥島は鳥島から1600キロも南東なので、鳥島の南だから南鳥島というわけではなく、南の方にある「鳥の島」ということで命名されたらしい。 では八丈支庁鳥島や南鳥島における「鳥」とは何かと言えば、アホウドリだ。 しかし今、鳥島周辺のアホウドリは2000羽を越える程度しかいない。これでも保護活動の結果、やっと増えてきた数なのだ。 かつては数十万、数百万と、地面も見えないほどのアホウドリがいたのに、一体どこに消えてしまったのか。 人間、それもほとんど日本人が撲殺したのである。 この本、『アホウドリを追った日本人』は、この日本人によるアホウドリ乱獲の歴史を記した本だ。アホウドリについての最低限の知識は持っていて、現在の状
少し前にTwitterで書いたけれど、Mike Tyson Mysteriesというアメリカのアニメにハマッてしまい、Seson1のDVDを買ってしまった。Season2も発売されたら即買うつもりで、是非続きをもっとやって欲しい。 Mike Tyson Mysteriesを知ったきっかけはTL上に流れてきたこの映像。 アメリカで放映中のアニメらしいんだけど、ボクシングを引退したマイク・タイソンが義娘と幽霊と鳩と一緒に事件を解決するって内容で、タイソンのタトゥーに魔力が宿ってて魔法が使えたり(ほとんど拳で解決)もう色々とカオス 現在シーズン2放映中 pic.twitter.com/oRAiPzba9q — ダリルもん (@Geralt_senpai) 2016, 1月 15 このopにすっかりシビれてしまい、Mike Tyson Mysteries: Coming This Fall – M
何度も同じようなことばかり書いているけれど、「正義の蕩尽法」というのは現代的に非常にシビアな、わたしたちが向き合わないといけない問題だ。 あまりにも同じことばかり言っているので、先に関連してるお話を貼っておく。 正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代 理不尽に対する怒りと楽をしたい一心 人類の未来について心配したい欲 皆んな、びっくりするくらい「正しいことがしたい」。 そのこと自体は、責められるものでもない。誰だって「正しく」ありたい。問題は、この「正義欲」に多くの人が無自覚なことだ。それがある種の欲、自分を支えるために必要な営みの一つだとわからず、正義そのものが自分の外に頑然とあると感じてしまう。すると正義は身の丈を越えて、時々無制限に膨らみ暴走していく。 わたしたちはある程度「正しく」ないと生きていけないが、無限に「正しい」必要はない。そんなに食べても太るだけだ。 正しくないと生
およそ1965年くらいをターニングポイントとして、キツネが人を化かすような民族学的ファンタジーが日本から消えていった、という論考だ。かつての共同体意識が弱体化し、テレビが普及し、人々の情報伝達が「クチコミ」的伝承からマスメディアへと転換した時期と一致する。また正誤でものを考える教育が普及した、との言及もある。 わたしたちはもちろん、フィクションと共に生きている。本当のところ、フィクションと「現実」は合わせて一つであり、共通のフィクションこそが現実を構成している。 しかしそのフィクションの有り様は、情報の共有・伝達方式に強く縛られていて、テレビと近代教育の普及にキツネはついていけなくなった。 それが1965年。 一方、速水健朗氏に『1995年』という快作がある。 1995年はオウム事件、阪神大震災の年。そしてインターネットや携帯電話といった、今わたしたちの生きている「現代日本」を構成する基本
最近某タレントが高校の制服を盗んで捕まったけれど、この手の犯罪、ある種の性犯罪というのは、薬物中毒のようなもので、多分本人の意志だけでスパッとやめられるものでもないんだろう。 性犯罪のすべてがそうだというのではないし、「魔が差して」というのが多いと思うけれど、世の中には一定数、シャブ中とか制服盗む中とか痴漢中みたいな人たちがいると思う。 自分でも「もうダメだ、やめないと」と思っていても、もう制御しきれないような人たちだ。 これがもし、純粋に性的な志向・嗜好の話だとしたら、そんなものは当人の勝手であって、好きにやってくれ、ということになる。それすらも好きにさせてくれない人たちは大勢いるけれど、その場合は「俺の町」を手放せない人たちの方が「俺の町」中毒なので、今回は置いておく(正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代)。 で、ある種のタイプの人たちは、SMクラブでお姉さんの靴を舐めたりする
理不尽に対する怒りと楽をしたい一心やら色んなところで書いているけれど、正義と怒りというのは背中合わせのもので、何らかの「正しさ」(とその時その人だけは少なくとも信じているもの)なしに怒りというものはあり得ない。つきつめていくと、正義と必要悪というのはほとんど同じようなものだ。正義はなるべく少ない方が良いけれど、まったくなくしてしまうということもできないので、正義のうまい蕩尽法、正義の安全な燃やし方というのがキモになるかと思う。 非常に多くの人々は、びっくりするくらい「正しく」ありたい。 なんかこの例えを何度も何度も書いているような気がするけれど、シャーリーズ・セロン主演の映画『モンスター』の最後の方で、主人公が涙ながらに「わたしは・・わたしは良い人間なんだ・・」と言うところがある。この映画の主人公は連続殺人犯だから、常識的に考えて「良い人」ではない。映画のストーリーを追ってみれば、情状酌量
費用対効果が段々頭打ちになることをなんというのだっけ、と思って調べたら「収穫逓減(Diminishing returns)」というらしい。 投入仕事量などに対する効果や生産量が、一定の入力を越えるとあまり上がらなくなる、入力の割に出力が上がらなくなってくる、という現象のことだ。沢山入力すれば出力が上がるには上がるけれど、コスパが悪くなってくる、ということだ。 この法則が普遍的というわけではないけれど、かなり多くの事象に見いだせる傾向ではないかと思う。 なぜそんなことを持ちだしたかというと、例えば健康。健康的な食事で禁酒禁煙、定期的にほどほどの運動、などを心がけていれば、暴飲暴食で自堕落な生活をしているよりは健康になるだろうし、余命も伸びるのではないかと思う。ただ、永遠に生きるわけではないし、どの道人はそのうち病気になって苦しんで死ぬ。その前にドブに落ちて死ぬかもしれない。すごく不健康な人が
最近、ある殺人事件容疑者の部屋からアニメのDVDなどが見つかった、という報道がされて、「オタク=犯罪者」という構図を煽るものとして、批判を受けていた。 この批判はまことにもっともなもので、例えば容疑者が子供の頃に野球をやっていたからといって、「野球は犯罪の温床!」とかいう報道がなされることはまずない。 当たり前だけれど、「オタク」だろうが野球ファンだろうが、ほとんどの人は別に犯罪者ではないし、一定の割合で犯罪者が出ることはある。一万歩譲って、何かある特定の趣味における犯罪者発生率が有意に(少し)高かったとしても、その愛好者のすべてが犯罪者なわけがないし、こうした報道は慎まれるべきだと思う。 それは当然として、なぜここで「オタク」がやり玉にあげられているかといえば、本当のところスケープゴートにされるのは「オタク」でなくてもよくて、テキトーに叩きやすい材料をあげて「やっぱり○○は犯罪の温床!」
理不尽に対する怒りと楽をしたい一心とかあんまり納得しない方がいいで、「楽をしたい」という気持ちがすごく強く働いていることを書いた。本当は楽をしたいだけなのに、そのことを忘れてなんか高尚なことをやっている気分になると色々間違える。 なんというか、人の「楽をしたい」という気持ちはすごく強いものだと思うのだけれど、なぜか自分が「楽をしたい」のだ、ということを忘れてしまうことがよくある。やっぱり「楽をしたい」というと、いかにも怠け者な感じがして説得力がないからだろうか。 まぁ実際、あんまり露骨に「楽をしたい」と主張すると、誰も言うことをきいてくれなくて結果として楽ができない、ということはよくあるので、素直に言い過ぎるのはどうかと思うけれど、楽をしたい気持ちを隠すあまり、自分でもその本来の目的を忘れてしまうとややこしいことになる。 どんなことでも、ある程度やりこんでみるとその世界のディテールとか具体
「弱いヤツは勝手に死ね」という言説を指摘する、こんなTweetがありました。 例の画像はクソだが、海外で「レイシズム」と報じられていると聞くと、海をまたげば誤解も生じるものだなと。あれはレイシズムとは遠く、「弱者は国家や社会に助けを求めず大人しく死ね」という一種の実力主義の延長ですよ。同胞が外国で人質になっても自己責任で済ませる本邦を舐めてもらっては困る。 — ystk (@lawkus) 2015, 10月 15 まぁ確かにそういう流れ、そういう類の言説というのはあるかと思います。 で、以下はこの発言の主の意図とはあまり関係なく、わたしの勝手に連想したお話です。 そう言われてこの画像を眺めてみて、「なんやこのチビのオッサン、ほならウチと相撲でもとって負けたらお前弱いから死ねや!」などと直情的な感想を持ってしまったのですが、落ち着いて考えてみると、「(要するに)弱者は勝手に死ね」という言説
「世の中には色々な人がいて、共存しなくてはいけないから、お互いに理解を深めていきましょう」的なことが言われることがある。 あるいは、ある受け入れがたい価値観や行いに対して「理解できない!」という反応がある。 こうした言い回しを眺めるたびに、何か釈然としない気持ちになる。そこで問題になっているのは「理解」なのかしらん。 世の中に色んな人がいて、ぶっ殺すわけにもいかん、というなら、確かになんとかやっていくしかないのだけれど、別に相手の価値観やら何やらを「理解」しなければいけないわけではない。よく分からない、理解できない、そのままで結構なので、とりあえずぶっ殺さなければいいはずだ。 しばしば指摘されるように、「理解できない!」という人は要するに「嫌い!」と言いたいだけなのだけれど、「嫌い!」と言ってしまうといかにもキカンボウっぽくて説得力がないし、「生理的に受け付けない!」とか言うと女叩き勢にフ
最近の若い人たちが、リンクではなく画面キャプチャで情報をシェアしようとする、という話を目にした。 若年世代の情報シェアはリンクではなくキャプチャで行われる? | スラド IT これは非常に面白い! このリンク先でも、色々な理由が推測されて議論されている。 キャプチャで共有するのがスマホ操作上実は簡単だから、会員制ページなどURL共有で見られないものがあるから、ニュースサイトなどだとリンク切れになることもあり、そもそもリンクが禁止されていたりする、環境による差異、等々。 もちろん、実際にキャプチャで共有している人たちにも色々いるだろうし、大方はそれほど深く考えずに慣習的にキャプチャを使っているのだろう。 それでもやはり、URLが本来の同一性を(仕様で期待されたほどには)保てていない、ということがまずあるように思う。ニュースサイトのリンク切れはもちろん、一つのURLの中で何を特に指示したいのか
前に何かで、人をウザいとか邪魔だとか思う背景には、対象から「無視されている」という感覚があるからだ、という指摘を目にした。 たとえば、車を運転していて歩行者が邪魔だ、と思ったとしても、のろのろあるいているそのおばあさんがこちらを見て会釈して「あなたに気付いていますよ、すいませんね」というメッセージを送ってくれるだけで、大分苛立ちが緩和される、という。 無視されている、というか、関係のなさ、というものが、怒りや苛立ちを過剰にエスカレートさせる、ということはあるように思う。 頭のなかである人に対してムカムカしていても、実際にその人と話してみると、実は思ったほど問題は大したことはなくて、そこまで怒るほどでもなかった、ということがある。問題自体はあって、怒りの原因そのものに正当性があったとしても、程度の差異というのがある。対象から隔絶されると、感情が勝手にエスカレートすることがある。 前にもどこか
大学一回生の時、あるゼミ、というかはっきり言えば忘れもしない冨田恭彦先生の教養向けゼミに出席していた時、「検証可能性を明示できない言明は無意味である」という分析哲学系のお話をするのに、「現フランス国王はハゲである」という、確かラッセルか誰かの例を出した。 その時、同じ一回生の別の学生が、きょとんとして「ハゲなんですか?」とボケをかましてくれた。 これには冨田先生も苦笑い。 ウチも若かったので、内心「こいつアホか!」と思ったのだけれど、今思うとこの状況はなかなか味わい深い。 念の為にクソ無粋なことを言えば、現フランス国王なんてものはいないので、それがハゲとかハゲじゃないとかそんな言明は真偽以前に意味がないッスよ、みたいな話をしたかった訳だけれど(本当はそれで話は終わらないのだけれど)、この学生は要点が掴めず、「フランスの王様ってハゲてるのかなぁ?」とポワーンとしたことを考えていた訳だ。 でも
どっちでもいいんよ! 大概のことは! でもどっちでもいいことを、どっちかがいい、と言いたがる人が沢山いるの。 そういう弱さを、人間は持っているんよ。 つぶあんかこしあんかとか、賃貸か持ち家か、みたいな。 好きにせーや! いや、つぶあんこしあんなら、(大抵の人は)基本「好きにせーや」だと分かって話してるから、それはそれで問題ない。単にワキャワキャ言いたいだけだし、そういうのは大変よろしいことかと思う。楽しいし。 だけどね、本気で「どっちかがいい」と思われてることも沢山あって、それが本当に恐ろしいわけよ。 「どっちでもいい」というのはキツイのよ。試練なのよ。世の中厳しいのよ。 それが辛いから、「どっちかがいい」と言いたいし、それは正しさへの欲に負けてるということなのよ。 ほとんどの人は、自分でもよく分かっていないくらい、正しくありたいのよ。 それはもう、抗い難く正しくありたい。 正当性というも
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