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インタビュー
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[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 遭遇したケースで、当方とは性が合わないのが「法律学者のTRPG」とでも言うべきもの。 「ルール」にあるから、ないから、といって、ロールプレイ(役割演技、またキャスト的な演技も含む)がおかしくなるもの。 TORGで一向に戦闘を終わらせず、シナリオが終わるまでとっておくと成長に有利なドラマカードが全部出尽くすまで長引かせる。 DEADLANDSで射撃時、考えうる最悪の事態のファンブルによってGMがPCに失明のペナルティを与えた。にもかかわらず失明は「ルール」にないからと、普段どおりの能力を発揮する。 このような考えはTRPGの「ルール」をガイドラインとして捉えておらず、法律体系のようなものとして、審判というより判決を導くようなものとして捉えているのだと思う。 「ルール」を法律扱いして
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 (メタ理論について、個人的覚え書きです。) TRPGの喩えとしてキャッチボールを出します。 キャッチボールではまず相手のグローブの近く、又は胸元に投げます。フライを投げるにしても落下地点は相手のいる位置からそんなに遠くないところに投げるのです。 つまり、「受けやすい球を放る」わけです。 身長を飛び越える球やゴロや変化球は投げないで、相手の力量に合わせます。コントロールが悪ければ距離をつめます。 要するに、「(自分の)投げやすさを優先しない」のです。 なぜならば、フォロー(リカバリー)が大変だからで、守備力の高い者であっても関係なく、後ろが川だったりすると、大変な思いをするわけです。 さらに気に食わない奴や体力をつける必要がある奴には、悪球を投げます。これは、特に、変なふざけた危な
世紀末からTRPGユーザーの時代は、ゲーム性が大事なのだと一部のユーザーがスローガンを掲げて「困ったちゃん」になった。馬場txtと回覧されたペーパーは、TRPGのコンベンションで、マルチ商法や宗教勧誘に実際に利用された。 はた迷惑な、権威に弱い卑しい彼らにとって、ゲーム性を語る理屈を信奉するのは、「卵であり鶏」のようなものであった。 それを目ざとく翻訳した人は一向に、ゲームをデザインしていないどころか、ゲームをプレイすることがデザインだとのたまい、デザインする気力を殺いで、なんと、オリジナルワールド設定さえも糾弾しようとアジテートし、ロールマスターなど個人で世界設定を創作するTRPGを拒絶させた。 コスティキャンが論じたゲーム性は、TRPGを「味噌汁」に例えた場合、「味噌」の話。「味噌」の良いものができれば「味噌」だけでも酒の肴になる。だし汁に、「味噌」を溶いたら沸騰させないという手順的ル
「メモリー」と「デザイン」 ※この記事では「デザイン」を「ゲームをプレイする」という意味合いで用います。 TRPGが唯一、ゲームを「デザイン」することができるとして、TRPGの独自性としている論考が見られますが、それは誤りです。 その理由を説明します。 僕は、へっぽこのチェス・プレイヤーでもありまして、チェス関係の本も読み漁っています。そのなかに、こんな本があります。 チェスの技術は「メモリー」ではない。 自分で「デザイン」する、チェスの考え方教えます。 と、表紙には、あります。 ゆえに、「メモリー」と「デザイン」を用いて、ゲームに遊ぶことは、はっきりと、他のゲーム(チェスほか)にも存在する考え方なのです。 ナイトを何手で、あるマスに移動させられるか、これは完全に「メモリー」です。 これを用いてチェスのプレイ中にまず再現はできません。相手の利きマスに入ると取られてしまうからです。そこで、変
この西村清和先生は、美学者として哲学を用いて、近代美術論の根底にある「芸術=遊び」や「仮象論」などに明晰に切り込んでいく。 読了しました。内容の使えるところをまとめると、以下のようなものです。 「芸術=遊び」を美学者の立場から否定する。 「遊び」とは「遊隙」である。歯車の「遊び」と同様、あるかぎられた範囲内での運動の自由、算定不能な多義性をもった「遊動」の空間とする。ある状況「に・遊ぶ」のであって、独特の存在様態指示する自動詞・状態動詞で用いる。 「芸術」の熟練と「遊び」の僥倖には大きな差がある。 美的体験と言うのは仮象論が陥穽するように、二重性といった分裂もない独立したわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。 遊びもまた訓練とか能力開発の土台づくりではなく、遊びの規定性(ルール)のうちでとり行われるわれわれのあり方であり、コミュニケーションである。 ごっこ遊びは型にはまった動作
ところが、ファクターのどれを伸ばすかという「訓練分析理論」であって、勝敗を予想しうる「勝利分析理論」ではないのです。 TRPGは、「訓練分析理論」の方を経験値などで成長・訓練をする理論のままで、そのまま「勝利分析理論」とは一致しないことを忘れて、成否判定に適用しているのではないでしょうか。 そんな「疑似体験」をわれわれは望まないはずです。 ついでにいえば、「ゼロサム」は「零和」が訳語です。零和だけ外来語読みするのは、僕が知る限り(妹は経済学をやりましたので、その教科書も読みました)では後の時代のこと。完全情報とか逐次手番とかも外来語読みしないのがおかしい。おそらく、馬場氏は論考に必要な教育を選ばなかったのでしょう。 僕が勉強中、ノーベル賞を取った統合失調症患者で同性愛者のJ・ナッシュ氏の均衡解など合理的選択論なのであって、ゲーム理論はゲームが何故楽しいのかという、答えを与えない。楽しいゲー
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