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アメリカ大統領選
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先週、「観察映画」で知られる映画監督の想田和弘さんと、実業家の堀江貴文さん(ホリエモン)が、ツイッター上で「原発を存続すべきか廃止すべきか」の議論を展開した。僕はたまたまそのやりとりをリアルタイムで読んでいて、大変興味深い議論だと思ったので、togetterを使用して『まとめ:想田和弘さんと堀江貴文さんとのやりとり』という形にまとめてみたところ、非常に多くの方に読んでいただき、多くの方からたくさんのご意見・ご感想をいただいた。→ http://togetter.com/li/538858 この「まとめ」を作るにあたっては、出来るだけ恣意的にならないように、また、僕自身の考えが「まとめ」に現れないように注意した。もちろん、このブログの過去記事を見れば、僕がいわゆる「脱原発派」であることはすぐにわかるし、その気になって調べれば、実は想田監督と僕とは親交があるということも、誰でもわかることである
喫煙者を救え! ●タバコは嗜好品ではない タバコそのものについても誤解されていると感じることが多い。タバコについては、中毒性が不当に隠されて情報が流布されているのではないかと思う。例えば、タバコは普通嗜好品に分類されている。断言するが、タバコは断じて嗜好品ではない。タバコ(正確にはニコチン)は「依存性薬物」である。依存性薬物は、摂取が一度習慣化すると摂取を中断した時に禁断症状が起こるようになり、やめにくくなる。タバコはこの性質を満たす薬物である。 他に嗜好品に分類される依存性薬物に、酒(アルコール)やコーヒー(カフェイン)があるが、アルコールは「酔う」という効果、カフェインは「目が覚める」等の効果があり、また酒やコーヒーには「おいしさ」がある。「おいしい」というのは、味付けに使われる、ということである。「お酒の入った菓子」や「コーヒー味のケーキ」などがあるのは、お酒やコーヒーにある種の「お
書籍『新・舞台照明講座』の動画版である、ビデオ版『新・舞台照明講座』を開始いたしました。 ビデオ版『新・舞台照明講座』 https://iLightLab.net/video/ このビデオ版では、書籍の内容を講義形式で解説した約20分ずつの動画を、7日~15日に一回程度のペースで配信していく予定でおります。 有料での配信となっていますが、元の書籍の内容だけにとどまらない、具体的な実例や図解・写真などを豊富に加えた、とても詳しい内容になっています。 また構成も、元の書籍の目次順序にはこだわらず、動画として視聴しやすい順番に再構成をいたしました。 紙の書籍では不可能だった、アニメーションを活用したスライド(パワーポイント)や、ビジュアライザー(舞台照明シミュレーション)による実演をふんだんに盛り込んでおります。 また、各回それぞれについて、30秒~1分程度の予告編を公開しており、それらは無料で
このシリーズで初めて政治の話を取り上げる。いきなり堅い話から始めたくないので、最初にクイズを考えていただきたい。 あるところに、鈴木さん、佐藤さん、岩城さんという三人の人がおりました。ある人が三人に尋ねました。 「来月一ヶ月間、パンかご飯かどちらか一方しか食べてはいけないことになりました。どちらを選びますか?」 それに対し、 鈴木さんは、「私はパン好きなのでパンが食べられないのは耐えられない。パンを選びます。」と答えました。 佐藤さんは「私は毎食ご飯で、パンはほとんど食べない。絶対にご飯を選ぶ。」と答えました。 岩城さんは「どっちか選ぶのはやだ。両方食べたい。どうしてもどちらか一方を選ばないといけないの?」と逆に突っかかりました。 さて問題です。上記の言葉だけで判断するとしたら、この中で一番賢いのは誰でしょう? 稚拙なたとえ話で恐縮だが、上記のクイズは、二大政党下の議会制民主主義を、私なり
もちろん違う。「左利き」は身体障害とは言えない。私の女房も左利きだが、彼女は「身体障害者」ではない。今さら言うまでもなく、法律や医療現場において「身体障害とは何か」についてはある程度明確に定義されていて、「左利き」はその定義に合致しない。したがって、左利きは身体障害ではない。しかし私はそんなつまらない結論を確認するためにこの話を始めたのではない。私はここで、「身体障害の定義」について議論するつもりは全くない。「身体障害」という言葉を見たり聞いたりしたとき、誰でもある「イメージ」を持つと思う。あなたが今持ったそのイメージは、多かれ少なかれ、身体障害の「定義」とは、ずれているはずである。私が問題にしたいのは定義ではなく、そのイメージのほうである。「身体障害」と聞いて、あなたは、私は、なぜそのようなイメージを持ったのか。そこを考えてみたいと思う。 仮にある人が、「左利きは身体障害だ」と発言したと
前に、若い照明デザイナーのためにと称して、「舞台照明デザインの考え方」という文を書いた。その中で、照明デザイナーがやるべきことは「良い照明を作る」ことではなく、「既に決まっているはずの照明を探索し、発見し、実現する」ことだと述べた。それを読んで、素朴に次のような疑問を持つ人がいることがわかった。 素朴な疑問:照明が「既に決まっている」とすれば、舞台照明デザインは、誰がやっても同じ結果になるのではないか。 たしかに、既に決まっている照明を見つけて実現するのだから、誰がやっても同じ結果になるのではないか、と考えてしまいそうになるのは、なるほど理解できる。しかし、もちろん実際はそんなことはない。上記の素朴な疑問は、誤解から生じるものである。既に決まっていることをやるのであっても、行う人によって違う結果は生まれるのだ。いやむしろ、一見同じことを行なう中にこそ、「オリジナリティ」というものの源がある
この文章の元となっているのは、1996年の秋頃、 NIFTY-Serve(現@nifty) のフォーラム「シアターフォーラム演劇館」の「演劇人ネットワーク」という「会議室」に不定期連載した記事です。それをほぼそのまま、このWebサイトに転載しました。その際に、NIFTY-Serve 固有の記述を若干削除したりはしましたが、それ以降は加筆や修正は一切していません。 まだ未熟だった自分が書いたものですから、今になって読み返せば、恥ずかしいと感じるのはもちろん、考え方も当時とはずいぶん変わっている部分が多くあります。しかし、この「青年団の照明の作り方」は、私がおおやけに向けて初めて、照明について真面目に論じた文章であり、今の私の原点とも言えるものです。 ですので、恥さらしは重々承知の上で、記念碑的な意味も込めて、このサイトに掲載し続けていきたいと思っています。
僕が照明を始めたのは1984年だから、もう19年も舞台照明をやっていることになる。最近では、僕よりも若い照明デザイナーも、業界でずいぶん活躍するようになってきた。もちろん、照明デザイナーとしては僕はまだまだ若輩だが、年齢ばかりはオヤジ世代に足を踏み入れたのだろう、悩める若き照明デザイナー達の仕事ぶりを見て、どうしてもアドバイスのようなことをしたくてしょうがなくなる時がある。そのオヤジ心を抑えきれずに、生意気にも「照明デザインの考え方」についての文を書いてしまったのが、これである。ここに書いたことを、笑うも自由、怒るも自由。若い照明デザイナーであるあなたが、ここに書いてあることに従おうが逆らおうが、僕には関係ないし興味もない。ただ、岩城保という人はこんなことを考えながら照明をつけているのか、ということだけでも、伝えることができれば幸いである。 若き照明デザイナーが照明をやっていて、色々と悩む
以前、「リンクの自由は憲法で保証されている」と主張する文章を書いた。それを書いた当時は、リンクは必ずしも自由ではないという主張もまだ根強くあり、それに対抗する意見を提示することは、ネット上の議論としてある程度の有効性を持つと思われた。しかし、この数年で状況は少し変わったようである。もちろん現在でも、リンクする際は事前に許可をとるように、と主張するサイトはあるが、それらはもはや少数派で、今や、リンクは自由というのはネット社会の常識となっており、「リンクフリーといちいち書かなければならないご時世のほうが問題だ」というような主張も多く見かけるようになった。 ところが、である。この時代の流れに乗じて、次のような恐ろしい主張が存在しているのを発見した。 「無断リンク禁止」という行為こそが、禁止されるべきである。 リンクは自由なものであり、「無断リンクを禁止します」という主張は誤っているので、そういう
「ホームページを公開したら、更新を欠かさないようにしましょう。」という意見をよく聞く。(この場合の「ホームページ」は「Webサイト」の意味)。更新しないページには誰も来てくれない、などという意見も聞く。ちょっと待っていただきたい。私は、Webページは定期的に更新するべきだ、という短絡的な意見には反対である。もちろん、わざわざ憲法を持ち出すまでもなく、ページ作成者には「ページを更新しない自由」があるわけだが、これからするのは「自由」についての話ではない。(Webにおける自由についての私の考えは、数回前に掲載した「仮説:リンクの自由は憲法で保証されている」や、「誤ったHTMLで迷惑するのは誰か」を参照されたい。) そもそも、WWWという仕組みは、最新ニュースを配信するようにはできていない。Webページが更新したかどうかは、そのページを見に行かない限りわからない。あらかじめ登録されたWebページ
今さら強調するまでもないことだろうが、世間ではタバコの悪口が増加の一途である。タバコによる健康障害、環境汚染、副流煙、受動喫煙...。 喫煙コーナーや喫煙席はますます狭くなり、禁煙の場所はますます増え、タバコや喫煙者に対する攻撃が日増しに強くなってきている。喫煙者は、ますます卑屈になり、嫌煙者はますます増長し、互いに反目するその姿は、まるで宗教対立の様相を呈しているようにも見える。 しかし、この争いは、実は巧妙に仕掛けられた罠である。少なくとも私は、罠だと確信している。それを言いたくて、この文を書いた。 喫煙者も嫌煙者も、お互い無意味な争いはやめるべきである。敵は別の所にいる。喫煙者と嫌煙者には、共通の敵がいるのだ。その敵の姿をあばき、喫煙者を不当な差別から救いたい。 喫煙者を救え! 彼らは被害者である。 もちろん、嫌煙者も被害者である。しかしその加害者は喫煙者ではない。嫌煙者は喫煙者に被
喫煙者を救え! ●嫌煙運動について 今の時代、さすがに「嫌煙権」という言葉はほとんどの皆さんがご存じだと思う。 この「嫌煙権運動」(嫌煙運動とも言う)の主張を簡潔に言うと、 タバコを吸う人は、他の人の迷惑にならないように吸って下さい。 他の人に迷惑をかけなければ、タバコを吸うこと自体はかまいません。 ということである。おそらく、日本の非喫煙者のほとんどが、この嫌煙運動の考え方に同調すると思われる。しかし、私は違う。私は上記の考え方には反対である。だまされてはいけない。嫌煙運動のような考え方をすることは、「死の商人」の思うつぼである。 嫌煙運動は、タバコを吸うのは自由意志である、ということが前提になっている。 しかしそれは違う。喫煙習慣は自由意志ではない。 趣向を変えて、こんなたとえ話を作ってみた。 ある駅に列車が止まっていた。試しにみんなで車両の中に入ってみた。行き先はどこにも書いていない
最近、ある横暴な特徴を持った人々の勢力が、急速にその数を増やしているように感じる。もともと多かったのだが、最近の10年ほどでまた急速に増加したらしい。いや、絶対数は変わっていなくて、単にその横暴さが目立つようになってきただけかもしれない。いずれにしても、その身勝手な言動や行動がますます目に余るようになって来たので、文句の一つも書いてみたくなった。今この文を読んでいる人の中にも、この勢力に属する人がいる、いやかなり多いだろうと予想される。そのような人たちは、この文を読んで腹立たしく思うかも知れないが、こちらとしても一方的にやられっぱなしでは悔しいので、批判を覚悟で勇気を出して書くことにする。 この勢力の人たちは、自分たちのことを指すとき「私たち一般市民」「我々普通の日本人」といった言葉で表現する。しかし、彼らの自称を使って話を進めると問題が不明確になってしまいそうなので、ここでは彼ら勢力のこ
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