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『ホース・マネー』(14)は、2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)を受賞した。その時の公式カタログにはペドロ・コスタ監督のこんな言葉が紹介されている。 『ホース・マネー』の出発点は、ヴェントゥーラが語ってくれた話にある。1974年にポルトガルでカーネーション革命が起きたとき、私たちは同じ場所にいた。幸運にも私は若き少年として革命に飛び込み、そこで音楽、政治、映画、女の子たち、こうしたものすべてを同時に発見し経験することができた。私は幸せだった。路上で声を上げ、学校や工場の占拠に加わった。13歳だったし、そのために私の目は曇っていた。友人のヴェントゥーラが同じ場所で涙にくれ、恐怖に苛まれながら、移民局から身を隠していたことを理解するのに、30年もかかってしまった。長く深い眠りに落ちていったその場所、彼が「牢獄」と呼ぶもののなかで過ごした時間
1948年、クリスマスシーズンにニューヨークのブルーミングデールズで売り子をしていたパトリシア・ハイスミスは、売り場を訪れた毛皮のコートを纏ったブロンド女性に魅せられ、その1年後の1949年、彼女をモデルにした小説を書き上げる。小説が最初に出版された1950年代のアメリカが、"赤狩り"の嵐が吹き荒れ、リベラルな価値観を抑圧するパラノイアが蔓延した時代であり、同性愛は精神病であるとすら見なされていたことは、トッド・ヘインズ監督2002年の作品『エデンより彼方に』において人種問題と共に詳らかに描写されているが、本作『キャロル』においては、アイゼンハワー大統領のスピーチや"Cold War"といった生々しい言葉を伝えるラジオの音声、キャロルの行動を巡る、夫ハージ(カイル・チャンドラー)の家族の振る舞いの中に、抑制を効かせながらも、したたかに織り込まれている。 フィルム・ノワールという例外を除けば
"世界最大の映画作家"(蓮實重彦)マノエル・ド・オリヴェイラが逝去したのは、2015年4月2日のことだった。それ以降、10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で『訪問、あるいは記憶、そして告白』と『ニース ジャン・ヴィゴについて』が上映され、12月には『アンジェリカの微笑み』がロードショー公開された。監督の生前と変わらず、オリヴェイラ作品を劇場で見ることは、観客にとって常に"特別な瞬間"であり続けている。そして、本格的な追悼特集上映が、2016年1月23日渋谷ユーロスペースを皮切りに始まろうとしている。 追悼特集上映PART1では、『アニキ・ボボ』(42)から『階段通りの人々』(94)まで、8作品のすべてが35ミリフィルムで上映され、そこには、日本初公開となる短編作品『レステロの老人』(14)も含まれる。 2016年夏以降に予定されている追悼特集上映PART2では、『フランシスカ』(81)な
開巻早々、「古来、"JAUJA/ハウハ"は、豊穣と幸福の地と言われ、多くの者がその地を目指した。そして、世の常であるように、時を経て伝説は膨れ上がっていった。だが確かなことが一つ、その楽園に辿り着いた者はいない。」というテロップが示される。簡単に言ってしまえば、"ハウハ"とは"楽園"の同義語と考えて良いのだろうか?邦題は、それが転じて『約束の地』とされている。 テロップの表示が終わるやいなや、角の丸いスタンダードサイズでフレーミングされた画面に目が釘付けになる。それは、もちろん、このフォーマットの効果というよりは、映されている画、それ自体の魅力によるものだ。キャメラは、互いに違う方向を向いて座っているディネセン大尉(ヴィゴ・モーテンセン)と娘インゲボルグ(ヴィルビョーク・マリン・アガー)を捉え、その背景には、広大な草原が広がっている。草原の明るい緑色と娘が着ている深みのあるブルーの衣装、そ
ドストエフスキーの原作小説「やさしい女」には"幻想的な物語"というサブタイトルが付与されている。このことについて、ドストエフスキーは、読者への断わり書きとして「作者より」という文章を冒頭にしたためている。それを要約すると以下のようなものだ。 自殺してしまった妻の遺体を前に、夫はすっかり動転している。何故こんなことになってしまったのか?神経症的病質を持つ夫は、自分自身を相手に喋り続ける。夫は、知りうる限りのことを語り、自分自身に対して事件を明らかにしようと試みる。夫の思考と心は粗いものだが、一方で、そこには深い感情が表現されている。思考の渦の紆余曲折を経た挙句、終いにはこの不幸な男にも"真実"が明瞭に見えてくる。ここに書かれた小説は、この夫の語りの全てを速記者が書き留めたものである、という仮定のもとに存在するものであり、それ故に、この物語は"幻想的"と名付けられている。 もちろん、ブレッソン
一組の女と男、ジョセット(エロイーズ・ゴテ)とギデオン(カメル・アブデリ)が出会い、愛し合った末に諍いを起こす。そこへ一匹の犬(ロクシー・ミエヴィル)が現れ、季節はめぐり、やがて二人は再会する。いつの間にか、犬はそこに居着いていて、登場人物は三者になっている。そこへ、女のかつての夫が現れ、すべてを台無しにしてしまう。第一章<自然>は、そこで幕を閉じ、第二章<メタファー>では、同じ物語が、姿格好の似た別の俳優、ゾエ・ブリュノー(イヴィッチ役)とリシャール・シュヴァリエ(マーカス役)によって繰り返し演じられる。そして、映画は犬の鳴き声と赤ん坊の泣き声で終わる。ジャン=リュック・ゴダール、自らが書き記した本作のシノプシスはそのようなものだ。 第一章<自然>と第二章<メタファー>で同じ物語が別の俳優たちによって演じられるという二重構造と、蓮實重彦が、邦題で「さらば」と訳されている原題の一部「adi
映画宣伝パブリシスト。2014年は、「スクリーン・ビューティーズVol.3ヒッチコックとブロンド・ビューティー」、「GET ACTION!!」、「シミラーバッドディファレント」、「シンプル・シモン」、「第7回爆音映画祭 THE LAST BAUS」、「イーダ」、「イエジー・スコリモフスキ“亡命”作家43年の軌跡」、「山口冨士夫/皆殺しのバラード」、「静かなる男 デジタル・リマスター版」、「駅馬車 デジタル・リマスター版」、「ジェラシー」、「没後30年フランソワ・トリュフォー映画祭」、「ポーランド映画祭2014」、「ヌーヴェル・ヴァーグSF映画対決!」などの宣伝を担当。 『アメリカン・ハッスル』の煌びやかなアンサンブル・キャスト(クリスチャン・ベイル、ブラッドリー・クーパー、エイミー・アダムス、ジェニファー・ローレンス、ジェレミー・レナーら)は、”映画”は俳優のものでもあるということを改めて
トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59)を初めとするアントワーヌ・ドワネル五部作(『二十歳の恋』(62)、『夜霧の恋人たち』(68)、『家庭』(70)、『逃げ去る恋』(79))、ゴダールの『男性・女性』(66)、『メイド・イン・USA』(67)、『中国女』(67)、『ウィークエンド』(67)、スコリモフスキの『出発』(67)といったヌーヴェルヴァーグの重要な作品の数々、そして、ヌーヴェルヴァーグ以降の”シネマ”を支えたヨーロッパの映画作家たち(ベルトルッチ、ユスターシュ、アサイヤス、ガレル、カウリスマキ)の作品に出演してきた、もはや伝説的存在というべき映画俳優ジャン=ピエール・レオー氏が、”フランソワ・トリュフォーのために”ついに来日を果たした。ジャン=ピエール・レオー氏が今回来日して観客の前で発した言葉には、フランソワ・トリュフォーと過ごした時間が如何に彼の人生において特別なもので
廣瀬純:モーリス・ピアラという映画作家はどういうわけか日本ではこれまでほとんど知られないままにとどまり続けてきました。フランスではそもそもどのような作家だとみなされてきたのか、その辺りのことをまず、ピアラについての著作(「モーリス・ピアラ事典」レオ・シェール社、2008年)もあるアントワーヌ・ドゥ・ベックさんに少し詳しく話してもらえればと思います。 アントワーヌ・ドゥ・ベック:今日はアンスティチュ・フランセ東京にお招き頂いて、モーリス・ピアラのお話しを出来ることをとても嬉しく思っています。モーリス・ピアラっていう監督自体は、パラドックス、逆説そのものの人なんですね。それが一つのパラドックスじゃなくて、色々な一連のパラドックスに満ちた人です。まず、ひとつ申し上げますと、海外では、日本に限らずアメリカでもモーリス・ピアラという監督は全く知られていない、作品自体も殆ど観られていない、そういう監督
2013年のカンヌ国際映画祭で満場一致のパルムドール賞に輝き、フィリップ・ガレルに「フランス映画を救った」とも言わしめたという、傑作『アデル、ブルーは熱い色』がいよいよ劇場公開される。 ジャック・ドワイヨンの驚くべき新作『ラブバトル』(12)で久しぶりに日本の観客を喜ばせてくれるであろうサラ・フォレスティエが、2004年に主演を務めたアブデラティフ・ケシシュ監督の長編第2作『身をかわして』(04)には、彼女の顔をクローズアップで捉える、はっとするほど美しいショットがしばしば紛れ込んでいるが、ケシシュ監督の集大成と言うべき『アデル、ブルーは熱い色』は、そうした美しいショットの連べ打ちで見るものを圧倒する。大家族の中で最も父想いの娘が父親を救うためにとった行動に涙が止まらない『クスクス粒の秘密』(07)の主人公(アビブ・ブファール)もまた“アデル”(アラビア語で”正義”の意)と呼ぶに相応しかっ
ゴダールの『ソシアリズム』(10)を思わせる深い青の海面を真上から捉えたショットと、海兵隊員フレディ(ホアキン・フェニックス)の顔を捉えるショットを経て、キャメラは、浜辺でヤシの実を割って、アルコールを注いで作った自己流カクテルをすする男の姿を捉える。同僚に向かって、毛ジラミの殺し方を、嬉々として饒舌にレクチャーする男の佇まいは、いわゆる"50年代アメリカのビーチ"から連想することのできる享楽的な明るさとはおよそ無縁な不穏さばかりを漂わせている。その不穏さは、ジョニー・グリーンウッドが奏でる不協和音が空気を震わせる中、不気味にハイテンションなフレディがあからさまに卑猥な行動をとるに至って、本作の基調トーンへと決定づけられていく。 ラジオからは、日本の降伏を伝え、第二次世界大戦の終結を宣言するマッカーサー元帥の声が聴こえてくる。この終戦は、日本における玉音放送が告げた敗戦とは裏腹に、合衆国に
主人公である高校生のアンドリュー(デイン・デハーン)は、アル中で暴力を振るう父親と病気で寝たきりの母親と暮らしている。家庭環境が影響したのか、引っ込み思案のアンドリューはクラスでもいじめられっ子的存在だが、自分の生活の全て(クロニクル)をビデオカメラで撮影し始め、いよいよ周囲から薄気味悪がられるようになっていく。ある日、アンドリューは信頼する従兄弟マット(アレックス・ラッセル)に連れられて行ったパーティーで、スティーブ(マイケル・B・ジョーダン)に知り合う。スティーブは、アメフト部のスター選手だが、気さくな男だ。パーティー会場の外で洞窟探検に出掛けた3人は、その中で不思議な物体に触れ、以来特殊な能力を持つようになる。 映画は、冒頭から、自らの生活を撮影するアンドリューのカメラ・アイで語られてゆくが、特殊な能力を得たアンドリューは、次第にそれを使いこなしてゆき、ビデオカメラのポジションを自在
韓国を代表する映画監督と聞かれれば、(今の僕ならば)迷わずホン・サンスの名前を挙げるだろう。もちろん、キム・ギドク、パク・チャヌク、ポン・ジュノなど、名前が挙って納得という監督はまだいる。だが以前キム・ギドクも嘆いていたように、彼らの作品はあまり韓国では支持されていないという。もちろん、それは興行収入という意味でだが。そんな彼らは世界の映画祭での人気がすこぶる高く、海外の映画好き、また欧米を筆頭に世界中の映画監督からよく名前が挙がる。だが逆に言えば、彼らの映画製作の資金は映画祭での評判にかかっていると言ってもいい。海外の資金を糧に好きな映画を撮っているのだ。 その中でもホン・サンスは特殊な立場を貫く監督だ。その登場人物はたいてい韓国人で、舞台もだいたい韓国。彼がアメリカで勉強し、パリで撮りたい映画に開眼したように、海外で暮らす韓国人が描かれることもある。男は揃いも揃ってダメ人間。女は優秀な
復讐三部作(『復讐者に憐れみを』(02)、『オールド・ボーイ』(04)、『親切なクムジャさん』(07))でブラック・ユーモアを漲らせながら”凶悪犯の涙”を描き、独特の哀しい感覚を緻密に映像化してきた韓国の名匠パク・チャヌク監督の新作がハリウッドで作られたという報せを聞いて、『復讐者に憐れみを』『オールド・ボーイ』という2つの傑作の後、『親切なクムジャさん』と『渇き』(09)でいささかやり過ぎな感じを覚えた自分にしてみれば、ハリウッド的な抑制はむしろパク・チャヌク作品を洗練に導くのではないか、という期待感が募った。 そうした期待と共に観た『イノセント・ガーデン』は、今もっとも旬な女優と言うべきミア・ワシコウスカと円熟味と艶かしさを漂わせるニコール・キッドマンが共演する、実にパク・チャヌクらしい様式美で彩られた、見事なスリラーに仕上がっていた。『イノセント・ガーデン』は、今までパク・チャヌクが
ついに公開される!レオス・カラックス、13年振りの長編映画『ホーリー・モーターズ』のジャパン・プレミアで実現した”カラックス来日”は、やはり、ただ事では済まなかった。ジャパン・プレミアの会場となった渋谷のユーロスペースには、夕方からの上映であるにも関わらず、早朝から長蛇の列が出来、10時から発売されたチケットはあっという間に売切れ、列に並んだにも関わらずチケットを買えなかった人たちの声がツィッターを賑わせた。そして、『ホーリー・モーターズ』上映後に行なわれた、カラックスと佐々木敦氏、岡田利規氏(チェルフィッチュ)とのトークショーは、必ずしも、『ホーリー・モーターズ』を観終わった直後の、半ば呆然としている満場の観客の期待に充分に応えるものであったかどうかは疑わしい。しかし、少なくともカラックスは語るべき事を語っていた。ここに採録して掲載するのは、その翌日に行なわれた記者会見の全文だが、トーク
ミア・ハンセン=ラブの長編第三作『グッバイ・ファーストラブ』は、初恋の切なさが、主人公カミーユ(ローラ・クレトン)の人生に深い影を落とし、やがて、時間の経過と共に深まるその影は彼女の人生の光の部分を照らし出す、光と影のコントラストが織り成す、大きな弧を描くような運動の中で、まさに”人生”と呼ぶしかない時間と場所、記憶された感情が瑞々しくスクリーンに溢れ出す、珠玉の名作である。 そんな珠玉の作品を撮り上げたミア・ハンセン=ラブが、東京日仏学院で行なわれた「フランス女性監督特集」のために来日したのは、2012年3月のことだった。エスパス・イマージュで行なわれた、ドミニク・パイーニ氏とミア・ハンセン=ラブのトークショーは、満員の観客で溢れかえり、個人的な体験が投影された『グッバイ・ファーストラブ』について語るミアのトークは、とても親密なものだった。映画作家とこれほど親密な時間を共有することはそう
ある日、突然、バレー部のスター的生徒”桐島”が部活をやめるという噂が校内を駆け巡る。”桐島”の親友菊池(東出昌大)や恋人である梨紗(山本美月)ですら、その事を知らされておらず、一体”桐島”に何が起きたのか?校内は不穏な雰囲気に包まれる。映画は、その不穏な雰囲気が広がっていく校内の、様々なクラスタ(バレー部、野球部、吹奏楽部、映画部、帰宅部、女子グループ)に分かれる金曜日の放課後という時間帯にフォーカスし、そこで生起する高校生たちの日常を捉えようとする中で、校内に厳然と存在する、生徒たちのヒエラルキーを緻密に炙りだして行く。 しかし、幾つか提示されているクラスタや、クラスでのポジションに自分の高校時代の記憶を重ね、その境遇にリアルに感情移入できるところが面白い、という部分ばかりがこの映画の本質的な魅力であるとは思われない。自分が、その組織(この映画の場合は高校のクラス)の中でどの程度の”序列
成瀬巳喜男『浮雲』〜もう1人の犠牲者〜 イーデン・コーキル 2時間の上演時間、あるいは登場人物の約10年間におよぶ人生描写、成瀬巳喜男監督による『浮雲』(英題:Floating Clouds, 1955)のその終焉で、元政府官僚の富岡兼吉(森雅之)は長年の愛人である幸田ゆき子(高峰秀子)に、ようやく愛情をみせる。しかしそのささやかな感情は、2人を夫婦だと思っている周囲の人々に半ば負い目を感じて表現されたのであり、瞬く間に生命を脅かす病に倒れた、ゆき子との間では、つかの間のものであった。 なぜ富岡はゆき子の愛に報いるまで、こんなにも時間を要してしまったのか? 優雅なフラッシュバックで、成瀬監督は1940年代日本軍進駐中のべトナムでの2人の出会いを映し出す。富岡は農林省の役人であり、ゆき子は同省の若い職員である。関係を持ってしまう2人。富岡はゆき子に妻との離婚を約束するが、その約束は戦争が終わ
北野武監督の最新作『アウトレイジ ビヨンド』は、ナンセンスでバイオレントな爆笑ブラック・コメディだった前作『アウトレイジ』を伏線に緻密な脚本を練り上げ、前作で撒き散らした暴力の”おとしまえ”を監督自らが着けようとしたかのような、因果応報が巡る秀逸な人間ドラマに仕上がっている。 北野武が明白に娯楽作品としての”面白さ”を追求した本作には、前作からの成り上がり組(山王会の加藤(三浦友和)、石原(加瀬亮)、舟木(田中哲司))と生き残り組(大友(ビートたけし)、木村(中野英雄))、マル暴の刑事(片岡(小日向文世)、繁田(松重豊))に加え、新たに登場する関西ヤクザ花菱会の面々(神山繁、西田敏行、塩見三省、高橋克典)や中尾彬、名高達郎、菅田俊、光石研、新井浩文、桐谷健太といった味のある俳優陣が嬉々として加わっており、この男の前で自分の演技を見せたいという彼らの異様なテンションが、21世紀的なリアリティ
ジャック・ロジェ奇跡の特集上映から始まった2010年は、その後、イーストウッドの『インヴィクタス』、北野武『アウトレイジ』、ベロッキオ『勝利を』、オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』、クリス・ノーラン『インセプション』、ペドロ・コスタ『何も変えてはならない』、そして、12月にはゴダールの新作も公開されるという、色々な意味で新たな10年の始まりを告げるのに相応しい1年になりつつある。そして今週末、その中でも最も重要な作品とでも言うべきひとつの作品がこの”新たな10年”の流れに名を連ねることになる。 2年前の東京国際映画祭、『シルビアのいる街で』上映2日前にヴィクトル・エリセから蓮實重彦宛に送られてきた一通のメールから始まったゲリンを巡る熱狂が、ついには日本でのロードショー公開、そして、来る秋の東京国際映画祭での新作上映という理想的な形で多くの観客に披露される運びとなったことをまずは大いに喜び
「オリヴィエにも何度か取材させてもらってます」会話のとっかかりにと思わず口をついて出た言葉だが、ミア・ハンセン=ラブは、いやな顔とまでは言わなくとも、あまり反応しなかった気がする。そのオリヴィエというのは、今や『夏時間の庭』でフランス映画を支える監督アサイヤスのことだ。そんな彼のパートナーであることからすぐ引き合いに出されるのをあまり快く思わないのも分かる気がする。何しろ、出発点がアサイヤス映画の『8月の終わり、9月の初め』で女優デビューした後、『感傷的な運命』にも出演したのは確かだが、映画に目覚めた彼女は、その後カイエ・デュ・シネマで映画批評を展開するようになり、映画監督としては、『すべてが許される』に続く、2本目の長編であり、彼とは本質的にスタイルが違うのだから当然かもしれない。 そんな彼女が実力を示す2本目の正直となるのが『あの夏の子供たち』。いつも携帯電話が手放せない映画会社ムーン
タル・ベーラ。このハンガリー人監督の名前がどの人の口からも滑らかに出てくるようでなければいけない。せめて、映画界の巨匠たちの何人かを挙げられる人たちには。7時間半に及ぶ超大作『サタンタンゴ』(94)で世の中に強烈な印象を残し、次作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(00)も3時間に迫る勢い、『倫敦から来た男』(07)はストイックなノワールの衣を借りた真実に満ちた傑作だった。そして新作『ニーチェの馬』が公開された。トリノの広場で馬の首にしがみつき、泣き狂う男。そんなニーチェの最後のイメージにこめられた、人、馬、そして目。そのうえ、これが監督の最後の作品であるという宣言が付いてきた。これまでも最後と言いながらその言葉を覆してきた監督は数多いるが、この映画を見ると、本当に最後かもしれないというのをひしひしと感じる。何ものにも動かされず、“堅い”というのがこの人の映画の印象だが、それはこの“最後”
真利子:そうです。アイドルグループが出て来るのははじめから確定してたんですけど、実際どういう人達に頼もうかっていうところで、その時点ではまだ時間もあったので、曲作ってもらってアイドルグループも作ってしまおうという話もしてたんですよ。で、なんだかんだと幅広く探していくうちに、ももいろクローバーのライブを見に行った。
『カルネ』『カノン』、陰鬱なおとぎ話の世界と、過激な描写で話題をさらって以来、本数は少ないながらも、特異な映画作家として君臨してきたフランスのギャスパー・ノエ。彼の映画こそ、好きか嫌いかがはっきり分かれると言っていい。そしてそれは彼にとって褒め言葉に違いない。そして次に撮った、既にスターだったモニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセル夫妻を主役に、レイプ・シーンから逆回転で物語を進めるショッキングな『アレックス』でさらに賛否両論の渦を巻き起こしたものの、それからオムニバスなどに参加しながらも、7年の月日が流れていた。そして萬を持して発表されたのが、東京を舞台にした新作『エンター・ザ・ボイド』。オーストラリアから日本にやってきて、最初は英語を教えていたものの、外国人ゆえの心地よさと匿名性から居着き、クスリの売人を始めながら、歌舞伎町に暮らし、生き別れていた妹を呼び寄せるところから映画は始まる。東
映画による抵抗運動を継続するジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ(ストローブ=ユイレ)。 その32作品を一挙上映し、47年間の軌跡を辿る。 ジャン=マリー・ストローブ(1933- )とダニエル・ユイレ(1936‐2006)は40年以上にわたって共同で挑発的な映画を作ってきた。ロレーヌ地方メス出身のストローブは、徴兵忌避のため58年に西ドイツに亡命、さらに69年にローマに生活・活動拠点を移した。彼らの作品の大半は先行する文芸作品に基づくが、その原典の本文の扱いは厳密で、叙述内容の伝達を効率化する改変は避けられる傾向にある。高度に文学的なドイツ語、フランス語、イタリア語の3か国語を用いて作られる彼らの映画は、その音声言語の含蓄、音楽的抑揚に重きをおいており、その厳密な画面構図と時間構成、計算された身ぶりと廃棄しえない偶発性の弁証法は、映画表現の革命的な潜勢力を示唆している。
ペドロ・コスタは、そもそも、彼自身がおもしろい。パンク・バンドでツアーを回り、『溶岩の家』など比較的、大規模な作品も監督してきた。しかし、小津や溝口やストローブ=ユイレなどを好みながら、ポルトガルはリスボンの貧しいフォンタイーニャス地区に目を向け、『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』など、一見、とっつきにくいが、映画、そして対象への愛情に溢れる映画を撮ってきた。彼のファンや同志は日本の映画界にも多く、今時珍しくブレない監督の一人だ。そんな彼が、一度フォンタイーニャス地区から離れ、フランス人女優のジャンヌ・バリバールを主題にした映画を撮った。リベットの作品に主演するなど、自分のスタンスを築きながら映画作りに参加してきた彼女が、コスタと気が合うのも自然のことのように思える。歌手としても活動する彼女が歌い、音楽を仲間と作る様を撮るというドキュメンタリー的な手法で基本的にはできあがっている本作
<以下、チラシより転用> 独創的な思想家であり現代随一のラカン派精神分析家であるスラヴォイ・ジジェクが、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』、デイヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ エピソード3/ シスの復讐』など、40本以上の歴史的名作の映像を引用して、映画の全く新しい見方を提示する。映画を通して我々の秘められた欲望が暴かれる!ジジェク氏によれば「人間」や「世界」を理解するには映画しかないとのこと。驚くべき逆転の発想が次々と鋭く畳み掛けられる、痛快で濃密な150分!
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