サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
iPhone 16
aquarian.cocolog-nifty.com
タイトルとした本が出版されたので読んでみた。原爆が日本人に対する人種差別意識のもと広島・長崎に投下されたことを示す『覚書』があること、その事実に基づき原爆を犯罪として糾弾するべきであること、それを起点に核廃絶運動を再出発すべきことを訴えている。 一読してその主張の正当性に疑問を抱いた。原爆開発の進捗状況と戦況の推移とを両にらみしながら原爆投下がどのようなプロセスで決定されたか。その全体像についての客観的理解なしに一文書だけを取り上げ、さらにそれをかなり曲げて解釈して問題だ、問題だと騒ぎ立てているように思える。 その覚書の中に 〈when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese" 〉との一節がある。「日本に対して」ではなく
地球温暖化が人為起源のCO2によることが、多くの科学者のたゆまぬ努力によって、次第に明らかになった来た研究史の中で、金字塔ともいうべき画期的な業績がいくつかある。ハワイ・マウナロア山でのキーリングのCO2濃度観測などがその一つだが、コンピューターを使って気候予測をする分野で画期的な仕事をしたのは、日本人の真鍋淑郎(プリンストン大学)であった。1967年、真鍋が共同研究者と書いた論文について、ワートは『温暖化の〈発見〉とは何か』の中で(143頁)、 温室効果による温暖化のモデル計算が、専門家に理にかなったものだと見られるようになったのは、このときが初めてのことだった。温暖化に本質的な要因が十全に計算に取り入れられたと認められたのだ。専門家の一人であるブロッカーがのちに振り返って言っているが、この1967年の論文こそが、「これ(温暖化)は憂慮すべき問題なんだと、私を確信させたもの」だった、と。
【この機会に、古い写真をお目にかける。71年秋、子育て真っ盛りの時期。長男:小4、次男:小1の頃である。私らは36歳】 今日は、私たち夫婦にとって、結婚50年の記念日である。格別のことはないが、私たち夫婦の50年を回顧してみる。 50年前、昭和34年(1959年)の今日、父が牧師をしていた東京渋谷区にある教会で結婚式を挙げた。日曜日だったから、午前の礼拝の終わったあとだった。伯父の静岡教会牧師・深町正勝に司式してもらった。式が終わったあと、同じ会堂で、ベンチの配置換えをして、質素なティーパーティで披露をした。会場の準備ができるまで、屋外でおいでいただいた人々に囲まれて談笑した時の記憶が鮮明である。晴れた、初夏に近い日差しを感じる日だった。とても暑かった。学校の友人、職場仲間、教会の友らをお招きしていた。 その一年前に大学を卒業し、茨城県東海村にある研究所に物理の研究員として勤めはじめていた
現在の経済危機の中での雇用問題を、一部のエコノミストが分析しているのを聞いたり読んだりした際に覚えた疑念を、この分野については素人だが、自分なりに考えてみたいと書きはじめている。前回は素朴な疑念をそのまま書いてみた。エコノミストが経済問題を論じる際に使うツール(経済理論)は、経済現象の事実にもとづいて構築されたもので価値中立的だ、というのは本当にそうなのか、ということだった。「事実」というのは、現実に起きることはかくかくしかじかだ、ということである。それに対して、現実に起きていることは、良くない、間違っている、このようにす「べき」だというのが、「価値」である。経済理論は、そういう「べき」に中立的であるというが、それは本当か。 このような問題に気づいたのには、じつはきっかけがあった。今回はそのことについて書いてみる。池田信夫という人のブログのある日のエントリが気になった。このエントリには事前
ブッシュが記者会見の席でイラク人記者から靴を投げつけられたことは、ブッシュのアメリカに対するイラク人の気持ちをあからさまに表現するものだった。ブッシュ・アメリカは、イラクへの侵攻の理由を,イラク人を圧政から解放し、イラクに自由と民主主義をもたらすことだとした(当初の大量破壊兵器の秘匿という理由が立たなくなったあとで)。しかしイラク人の本音は,そんな西欧側の価値観の押しつけなど要らない,むしろ大迷惑だ,多くの人が死傷し,治安は悪化し,生活の基盤が奪われた、出て行ってくれ、ということだろう。ブッシュのバグダッド最後の訪問の際に,一人の記者がその気持ちをあのような形で表したことは、劇的で,象徴的な出来事だった。 この事件に対する反応は,さまざまでありうる。一国の元首に対し失礼だ、シークレットサービスは何をしていたのか、ブッシュはよく避けた(抜群の運動神経をしている)、そのあともゆとりのある対応を
アメリカ大統領選の行方は、オバマでほぼ決まり、らしい。現今の経済危機にどちらが適切に対応できるかが、決め手となったようだが、マケイン候補の陣営にいくつかの失策があった。最大の失策は、ペイリン・アラスカ知事を副大統領候補に選んだこと。一時的な人気を博したが、すぐに落ち目になった。一本調子のオバマ攻撃が、ひどく曲げられた、嘘に近い事実の羅列であったことはすぐにばれた。演説やインタビューを重ねるごとに、副大統領としての資質があるとはとうてい思えないと、ダメを押されてしまった。マケインは、経済危機について、最初の発言を誤った。アメリカのファンダメンタルズは強い、だから心配はいらないと。それを取り戻そうと取ってつけたような危機対応策を発表するたびに信用を失った。 敗色が濃くなるにしたがって、オバマの人格攻撃を強めて、ますますイメージダウン。この人の売り物は、本来フェアな正義漢。それをすっかり損なって
最近米国を中心に原子力先進国で「原子力ルネッサンス」が到来している、といわれる。意味合いはさまざまだ。これまで停滞気味だった原子力発電所の新設がこれから盛んに行われる時代になる、というのはおおかたの理解である。それに加えて、再処理とプルトニウム・リサイクル、さらには新型炉による長寿命放射性物質(超ウラン元素、TRU)を始末してしまおうという計画までを含めて、原子力新時代という向きもある。「日経サイエンス」08年10月号に、F.N.フォン・ヒッペルが、上記のタイトルで書いている論文(ここ)をもとに、この問題を考えてみよう。 著者の主張は、まとめていえば、原子力による発電は、米国でも、世界中でも増やしていかざるをえないが、再処理ー核燃料リサイクルまで踏み込むことには賛成できない。その理由は、莫大な費用がかかり経済性が成り立たないこと、プルトニウムの拡散に歯止めがかからないことである。当面の処置
須原一秀の書いた『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』(新評論、2005/2刊)を読んだ。本のタイトルの誇大なことにまず驚く。「現代の全体をとらえる」とか「一番大きくて簡単」など、よく言うよ、といいたくなる。しかし、読み進めてみると、いちいち納得のいくことばかりである。そうだよな、と読んでいるうちに、ふだん漠然とこうだな、と考えていたことを、的確な表現で、ズバリ言い当ててくれているのに気づく。私だけではなく、ほとんどの人が、本音のところ、こう考えているのではないか、と思える。著者のいうことについて行けない、引っかかる、と考えるとすれば、知識人の悪弊として著者が指摘している「否定主義」(以下参照)にいまだに囚われているからだと考えてみた方がいい。 著者の主張を、ひとことでいえば、現代の大衆社会を丸ごと受け入れるのがいいんだ、ということである。現代の大衆社会を作っている柱は、民主主
核兵器の開発史については、これまで数多く語られ、文献、書籍の類も多数ある。開発スタートから60年もたったこの時期に新たに出版されたバーンシュテインのこの本(Jeremy Bernstein: "Nuclear Weapons, what you need to know", Cambridge Univ. Press 2008)は、その系譜に属するものだが、いくつかの点でユニークであり、現時点での出版の意義は大である。紹介しよう。 ニューヨーカーという雑誌 The New Yorker という雑誌をご存じだろうか。もともとはニューヨーク・シティのタウン誌的なものだが、市内の話題とか、催し物案内などのほか、エッセイや短編小説を載せている週刊誌である(現在は2週の間をあけることがある)。といっても馬鹿にできない。80年を超す歴史があり、独特の文化の香りを持っている。しゃれたというか、エスプリが
長生きはよくない、危険だ、もっといえば、悲惨だ。そんなことを堂々と主張している本を読んだ。一年以上前に出版されていたものだが、余丁町散人さんのブログに紹介されるまで知らなかった。さっそく読んでみた。久坂部羊(くさかべ よう)「日本人の死に時」(幻冬舎新書、07年1月刊)である。副題に「そんなに長生きしたいですか」とある。先進国の中でぬきんでた高齢化社会となっている日本では、高齢者が世界一、二の長寿を楽しんでいる。あらゆる場に元気な高齢者が溢れている。各種のスポーツ施設、ショッピングセンター、公共施設、海外旅行などなど。健康に長生きすることはいいことだ、が世間の常識である。そんな中で、長生きはよくない、苦しい、悲惨だ。長生きを望まず、死に時をわきまえ、早々と死ぬがよろしい(とまでは書いてないが、そう取れる)と主張しているのだ。元気な高齢者ばかり見ていると見損なってしまう陰の部分が、老いに伴っ
一冊の書物がある。読み終えたばかりだ。それについて何かのまとめをここに書こうとする。しかし始めて見ると、何かを書けるほどの理解に達していないことに気づく。もう一度丹念に読みなおす。さらには周辺に拡げてみる。関連したいくつかの論考などを、雑誌やネット上に見つけて読むのだ。それでも、やはり書くモティベーションが高まってこない。これは書けそうもないな。あきらめるか。でもこの山を越えないと、ほかに何もできそうにない。精神的窒息状態というか。頭のなかのパイプにプラグが詰まった感じで、それをなんとか抜かないことには、どうにもならない。そんな状態にときどき陥る。何かをブログエントリ上に排出しないことには、前に進めない。そんなエントリが、私のには、ままある。読者には申し訳ないが、自分のためのガス抜きである。これもそれになるだろう。 宗教(私にとっては、それはキリスト教だが)にも、哲学にも、思想にも、私がた
少し間が空いてしまったが、予定していた「迷い道にいるのか、物理学」シリーズの第3部を書いてみた。自然法則の究極を求める理論物理の最先端が、スーパーストリング理論という迷い道に入り込んでしまっている(らしい)。それはいったいなぜなんだろう。関心はそこにある。今回は、「なぜ」を端的にいえば、1)「自然法則は美しい」という信条と、2)未踏峰を登はんするこの集団作業が、それがあまりに難路ゆえにカリスマ的なリーダー(一人、あるいは少数)に依拠しすぎた、というあたりにあるらしい。そのことを書いてみよう。書いているうちに例のごとく長くなったので、今回は、1)だけにしておく。 問題視する理由 再度断っておくが、私は、物理の研究者であったといってもとうの昔のことだし、今問題にしている物理分野の専門家ではない。この分野では難解で精緻な理論研究が積み重ねられている。その詳細については何も知らない。それだのにこん
現代物理学の最先端、素粒子物理学、は、どうやら現在、どうしようもないへんてこりんな迷い道に入り込んでしまい、身動きもならないらしい。しかもその状態が過去20年とか4半世紀続いている。物理学者の中でとびきり頭のいい連中が挑戦しながらも、その分野は何の解決策を生み出さないまま、無駄と思われる議論を続けている。全員が集団思考に囚われているため、内部から批判や研究方針の転換を促す声が出ない。高度な数学理論を寄せ集めて、蜘蛛の巣が張り巡らされたようになっている議論の中身には、外部から批判の向けようがない。しかしいくら何でも、そんなに長い期間かけて何の成果もあげていないのはおかしいではないか。それでいて最も優れた若い理論物理学者の頭脳と有名大学や物理学研究所の理論物理学講座のポストという人的資源と、研究助成金という資金的資源とを独占し続けることは間違っている。そのような批判があちこちから出るようになっ
C型肝炎薬害問題の解決を難しくしているのは、「線引き」らしい。製薬企業がフィブリノゲンの製造工程を変えたため、感染危険度が高まることになった85年8月から、厚労省が危険を認識して緊急安全性情報を出した88年6月の期間。この間については責任を認め救済しようというのが「線引き」である。製薬企業については製品を流通させたままにしたわけだから、もっと広い範囲に責任があるだろうし、政府にしても、書類一つを出しただけで、放置しておいた責任はあるだろう。線引きについても、各地の裁判所の判断はまちまちらしい。今回、大阪高裁は和解勧告するに当たって、最も範囲の狭い線引きを採用したうえで、そこから先は政治判断ですよと、政府の対応にゆだねたようだ。その後の混乱からすると、なまじ線引きについての判断を出さない方が政府は柔軟な和解案がが出せたのかもしれない。法律というのは冷たいものだ。責任範囲を線で決める。実際にそ
税金が高い。所得の70%もとられる。消費税率は25%もある。組合が強い。社会民主主義的な政治が支持されている。そんな国がグローバリゼーションの進む中で競争力を維持できるはずがない。それが最近の常識である。ところがデンマークはそのような国でありながら、高い国際競争力を誇っている。 一つ前のエントリ「先送りでいいのか」(07/11/27)で、日本の国の将来の形を考えるさい、税制の問題は避けて通れないのではないかと書いた。念頭にあったのは一つのモデルとしてのデンマークなど北欧諸国、高福祉・高負担の国である。このモデルについては、さんざん議論があり、小泉構造改革以降の政治は、ある意味、逆の方向を目指していることは承知している。しかし、その結果としての格差が大きく問題になってきた。遅かれ早かれ年金制度の抜本改正と消費税が絡んで論じられることになるだろう。こういう状況のなかで、デンマークのような国のあ
かねてから「安全」をいうとき、「安心」という言葉を添えて、「安全・安心」というようになったことに嫌悪感を抱いてきた。最近、ますますひんぱんに聞くようになってきた。テレビコマーシャルにも登場する。東国原知事も、宮崎県の食の安全を訴えるとき、何のてらいもなく「安全・安心」を繰り返す。各地の行政機関に「安全・安心なんとかかんとか」というような組織や委員会ができている。いまや行政機関などで大はやりの言葉のようだ。しかし、「安全」と「安心」をつないで、「安全・安心」と連語にして使うのは、間違っている。最近依頼されてあるところに寄稿した際、それを書いた。それがまだ出ていないので、先取りして書くことはやめておきたいところだが、昨日(07/10/1)の福田新首相の所信表明演説で、それが連発された。やはりひとこと書いておきたくなった。 福田新首相の施政方針演説について、まあ無難だという受け止め方のようだが、
著者・槌田敦は、異論を唱えるのが生きがいの人である。最近では地球温暖化問題での通説を攻撃しているらしい。地球温暖化が産業活動などによるCO2の増加によることがほぼ明らかになった、対策が急務だ、との気象学者たちの結論に異を唱えているらしい。またやっているな。無視してもいいのだが、この問題にずっと関心を持ち続けてきたものとして気になる。タイトルに書いた彼の著書(ここ)を取り寄せて読んでみた。案の定おかしなことがいっぱい書いてある。どこがおかしいか、きちんとした反論はすでに専門家によってなされている(たとえばここ、本エントリの末尾にもリンクあり)。私は、槌田の致命的な誤りを1,2取り上げて、一般向きに書いてみよう。 専門家はようやく共通認識に達したというのに 地球温暖化が、産業活動などによるCO2の排出によるものであることは、ここ数十年の気象学者らの観測とモデル計算との積み重ねによって、専門家の
昨夜(04/12/22)のNHK「クローズアップ現代」で、04年のしめくくり番組の2回目(最終)として「アメリカー超大国の不安」を放映していた。国際社会という観点からアメリカをよく知る緒方貞子は、9/11によりアメリカの何かが壊されてしまい、その結果、彼らの最も良い面であった寛容さが失われてしまったと、単独行動主義に走るアメリカの基底に、アメリカ人の心の変化があることを指摘していた。アメリカ全州を車で訪ね歩いた詩人長田弘は、こんなことを言っていた。アメリカ人の家を訪ねて気がつくのは、玄関のドアが内向きに開くことだ(日本では、玄関がドアの場合、外向きに開くことが多い)。これはアメリカ人が、外から来た人々を、自分の家に迎え入れる、開いた心の表れであった。それが今ではすっかり変わってしまい、彼らの心は内向きに閉じてしまっていると、近年のアメリカ人の変化を指摘する。 ブッシュを再選し、イラクでの戦
リチャード・ローティが亡くなったことについては、先にちょっとだけ書いた。75歳での死。思想家として、もっと長く生きて、語り続けてほしいと思ったが、彼はすでに語るべきことは、語り尽くしたのだろうと、そこでは書いた。しかしここ何年か、私が物事を考えるさいの「導師」ともいえる存在だったこの人の死について、改めて何かを書いておきたいという気になった。そう試みているうちに、私が駄文を書くよりも、ドイツの思想家ユルゲン・ハーバーマスが書いている追悼文の抄訳と紹介をしたほうがよかろうということになった。以下がそれである。 すい臓癌だったという。そのことをすでに1年前に彼は知っていた。思想的に同志でもあり論敵でもあったハーバーマスに、そのことを電子メールで打ち明けていた。ハーバーマスは、彼に対する追悼辞 "Philosopher, poet and friend" の中で、そのときのメールを紹介している。
メールアドレスのブログ掲載の件(ここと、ここ)は、私が現実的な対応をしたことで、一件落着と思っていたが、ニフティはしつこい。今度は1週間の時限つきの最終通告が来た。 大変恐縮ではございますが、弊社からご連絡したにも関わらず、当該ココログ上に連絡先メールアドレスの記載が行われていない状態が継続された場合、開設者たるお客様が当該ページに関する管理責任を十全に果たされていない可能性があるものと判断せざるを得ません。 つきましては、「2007年 6月 7日(木)正午」までに、下記の項目(メールアドレスをココログ上に明記することなど、引用者注)について対応いただきますようお願いいたします。期限までに対応を行っていただけない場合には、同規約に基づき、お客様のココログを閲覧できない状態にさせていただきますので、あしからずご了承ください。【太文字にしたのは引用者である私】 私は、HP本館に詳しいプロフィー
外国旅行中にたまった数百通のメール(迷惑メールやジャンクメールは別に振り分けたあとの実質メール)を整理していて驚いた。このブログとHPを置いているニフティから、会員資格を停止するかもしれないという警告が来ていた。理由は、ブログのトップにメールアドレスを明記していないのは利用規約違反だから、というのである。なぜそんなことになったのか。ある閲覧者が「このブログは、規約違反ではないか」とニフティに連絡するという、嫌がらせをしてくれたらしい。どうやら、あの人が動いたようだ。まったく情けない。 利用規約 ココログという、ニフティがサービスしているブログを利用している。開設したときに利用規約なるものがあるのを見たような気がするが、一条一条読むなどしない。ソフトのアップデートをダウンロードするさい、規定など読みはしないで、「同意します」というボタンを押すのと同じである。 あらためて読んでみた。6条の3項
保守点検中の原発から制御棒が数本抜け、原子炉の一部が臨界状態になったという(北陸電力・志賀第1原発、東京電力・福島第1原発)。なぜそんなことになったか、それはそれで大問題である。だが、もう一つ釈然としないことがある。臨界状態が長時間続いたと報道されているが(志賀では15分、福島では7時間半)、それはどんな状態だったのか。ちょうど臨界というようなことが長く続くというようなことがありうるのだろうか。もっとひどい事態があったのではないか。当事者は実情を隠蔽せずに語るべきではないか。原発安全の専門家は考えられる事態を「臨界」などという言葉でごまかされずに、実際にどういう過程が起きていたかを追及すべきではないか。原子炉のことを少しでも知っているものなら、誰も持つであろう疑問を書いてみる。たぶん識者には推定のついていることだろう。それを当事者発表の「臨界」という言葉で覆い隠すという、もう一つの隠蔽があ
今さらという気もするのだが、現代科学技術の基本理論である量子力学と、仏教の基本的考え方に親和性があるという言説が一部で行われている。私はこのような主張をすることに疑問を感じてきた。まず、科学は科学、宗教あるいは宗教思想はそれ、それぞれの目的も方法も違う。無理にこじつけない方がいい、と思う。また仏教者が重視する量子論の意味合いと、科学技術の現場での量子理論の使い方、それは意味を棚上げして道具として使うということだが、その間に大きなずれがあることを指摘したい。 まず、仏教者が、どんなことを言っているか。一例を挙げると、玄侑宗久「現代語訳・般若心経」(筑摩新書、2006)では、しきりに量子力学の解釈が引用されている。一箇所を引いてみるとこうだ。 量子力学では物質の、ミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とします。測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけですが、端的に、それが「色」と「空
製薬会社として最大のファイザーが、日本での研究所を閉鎖することが話題になっている。全体としてのリストラの一環らしいが、新薬開発しか将来のないはずの製薬会社が、なぜ研究所を閉鎖するのか。ファイザーは日本に限らず、米仏などの研究所5カ所を閉鎖するという。ファイザーだけではない。他の外資系製薬会社も同じように研究所をすでに閉鎖していたり、予定しているという。研究所閉鎖は、リストラという経営上の問題だけではないらしい。薬品開発そのもののスタイルが変わってきたのが原因のようだ。新薬開発手法は、古いやり方から、新しいものへと革命的に変化しつつあるらしい。私の現役時代の最後のころ、すでに耳にしていた。力ずくのスクリーニング法から分子設計へと、新薬を見つける方法が変わるのだと。 病気は体内のタンパク質が関係して起きる。そのタンパク質にとりついて、その原因を直すのが薬だが、それはちょうど鍵穴と鍵の関係にたと
軽水炉使用済み燃料から抽出されたプルトニウムから原爆ができ、かつ核実験も行われていることについて先に書いた『軽水炉使用済み核燃料からの原爆は実験済み』07/1/6)。技術評論家・桜井淳は、このエントリに対する反論のつもりだろう、自分のブログに「世の中には軽水炉の高燃焼度燃料から抽出したプルトニウムで兵器級並みの爆発力が得られると錯覚している「ひとたち」(当初「」内にはバカとあった)がいる-まだ、実験的に証明されていない-」(07/1/19)のタイトルを載せたが、中身を書いていない(ここ)。書くほどの論拠も内容もないのだろう。私のブログの読者は、またもや「桜井淳もの」のくだくだしい議論を見るのもいやだろうから、桜井の唯一のネタもとと推察される、今井隆吉・報告書の問題点と、私の見解を、別サイトに詳しく書いた。こちらをご覧いただきたい。 軽水炉使用済み燃料から抽出されたプルトニウムから原爆ができ
政府のエネルギー・環境会議が決めた「エネルギー・環境に関する選択肢」 に対するパブリックコメントを募集している。 私もコメントを投稿した。以下の通りである。長く書かない方が良かろうと,要点だけを書いた。ブログ掲載時に一部補筆した。 【概要・100字以内】 原発ゼロとする。地震と津波が想定を超え同様の事故が起きないと断定できない。さりとて即全廃はエネルギー需給上困難。代替エネルギー開発に注力し可及的速やかに原発から撤退すべき。 【意見詳細】 福島原発事故により原発への国民の信頼は崩壊した。回復不可能と考える。原子力は長期的視点で新規まき直しを図るしかあるまい。原子力そのものに手をつけたことが人類として間違っていたとは,私は考えないが、現行の大出力高出力密度の軽水炉型は地震国には向かない。 原発を全部即時停止せよとの国民世論が高まっていることは、福島事故の影響が甚大・広汎だっただけに理解できる
技術評論家・桜井淳が、自分を星野芳郎と対比して書いたエントリにコメントを書きたい。周知のごとく、彼のブログはコメントを実質拒否しているから、こちらに書く。エントリ全体については、私なりの感想はあるが、それは置いておこう。コメントするのは、彼が原子力の世界の表も裏も知り尽くした無比の立ち位置で原子力について技術評論ができると書いている部分の事実関係についてである。少なくとも私の知っている彼のキャリアからして、それは言い過ぎだろうといいたい。 私は星野先生とは異なった経緯と方法で技術評論を開始いたしました。日本でも代表的な巨大科学を推進する日本原子力研究所に就職し、10年弱、研究論文を書く過程を通し、組織のメカニズムだけでなく、監督官庁・大学・主要企業との相互作用メカニズム、さらに、欧米の政府機関・大学・研究機関・企業とのメカニズムも把握いたしました。 さらに、通産省管轄の原子力安全解析所で、
若いときから異常な才能を発揮し、学校や大学をドロップアウト、起業して成功を収める。そんなキャリアをたどる異才の人がハイテク業界には何人かいる。とくにアメリカ。マイクロソフトの Bill Gates、アップルの Steve Jobs などの名が、すぐに頭に浮かぶだろう。本エントリで話題にする Aaron Swartz (以下、アーロン君、と書く)もそれだ。この人は、つい先ほど20歳になったばかりである。ローティーンのころからコンピューター・プログラミングの分野で頭角を現し、上昇気流に乗っている。次の世代の Bill か Steve になるかもしれない。いや、Bill や Steve はハイテクと企業経営の異才だが、アーロン君は、もっと多才だ。インターネット上の発言者として、既成のジャンルにはまらない存在になるのではないか。それが私の注目点だ。彼のブログを2年半ほど追っかけてきて、その多才ぶり
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で、もっとも有名なフレーズは、最後の一文「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(論考.7)であるが、私には、その少し前に書かれている次の一節(6.52)がいつも頭にある。 科学の道を選び、物理学科に学びながら、科学と生の問題との狭間に悶々とするものを覚え、科学哲学の門を叩き、そこで出会ったのが、大森荘蔵先生であり、ウィトゲンシュタインであった。1957年。大森先生は、当時2度目の米国留学から帰ってまもなく。耳新しい分析哲学のエースとして知られていた。まだウィトゲンシュタインが何者であるか、日本ではほとんど知るひともなかった(「論考」の和訳が1968年)。先生は、わずか数人の学生を相手に、タイプ印字ガリ版刷りの "Blue Book"(「青色本」) をテキストに、ウィトゲンシュタインがケンブリッジでしたように、行きつ戻りつの思索を、私たちの面前で
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Aquarian's Memorandum』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く