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パリ五輪
d.hatena.ne.jp/edoyaneko800
近年公開されたワン・ビンの『無言歌』においては、中国の強制収容所が描かれ、毛沢東に裏切られた人々の壮絶な生が映し出されていた。もはやわれわれはかつてのように毛沢東に熱狂することはできないように思える。革命の理想として語られた「文化大革命」もまた、そうであろう。このような現在において、津村喬を読むことはどのような意味を持ちうるのか。もちろん、津村は「文化大革命」に熱狂したひとりであったが、しかしそこに硬直した毛沢東崇拝は見受けられない。 津村喬は「文化大革命」におけるある印象的な光景を書き付けている。 一時期には数千人の紅衛兵が夜毎にあつまって来て、毛沢東バッジ――わたしが持ち帰っただけで実に百種近い――の交換を媒介に、白昼の、あるいは書かれたもののレベルでの排他的な党派性をこえて、情報交換したのである。(「複製技術時代の思想」) ここに津村の方法の核心があるように思われる。つまり、毛沢東を
綿野恵太@edoyaneko800
著者・レベッカ・ソルニットが描き出すのは、災害後に形成される人びとの友愛や協調である。サンフランシスコ大地震(1906)、ハリファックスの爆発事故(1917)、ロンドン大空襲(1940)、メキシコ大地震(1985)、アメリカ同時多発テロ(2001)、ハリケーンカトリーナ(2005)。これらの歴史的災害において、人びとは秩序だった避難を行い、すぐさま救援活動に身を呈し、物資を配給した。一方、政府や軍隊などの官僚組織は機能不全に陥り、また人びとの暴徒化を恐れ、被災者に対して武装するまでにいたった。無実の被災者が略奪者として撃ち殺され、隔離され、十分な救助を与えられないままであった。災害以上に人的な二次災害を引き起こすのは彼らである。ソルニットはそれを「エリートパニック」と呼び、その原因は被災者に対する間違ったイメージにあるという。ハリウッド映画などの災害スペクタクルに描かれるような、混乱した群
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