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衆院選
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2017年10月21日、わたしは池袋の某出版社で打ち合わせをした後、立憲民主党の演説を聞くために新宿まで足を運んでいた。新宿は小雨が降っていて、やや肌寒かったが、路上に長い事いられないような天候でもなかった。 わたしは雑踏に混ざって、だれでもない人間になり、そこに集まった多くのひとびとと一緒に、どこか険の有る表情をした若者たちがそこかしこで演説の手配をする中、壇上に耳を傾けた。 福山哲郎の演説が始まり、わたしは雨を防水フードで遮りながら、そのことばに耳を傾けた。いま、インターネットにはその時の様子がすべて動画であがっている。だがわたしは自分の記憶を優先してその時のことを書いておきたいのだが、福山は、原発事故について当時の与党・民主党議員としての責任を痛感すると苦しいかすれ声でいったあと、途中に息継ぎをいれながら、脱原発という難しい課題について、次のようにいった。 「日本ならできる。日本人な
今日もひとびとがインターネットで罵倒を投げつけあっている。 もちろん、それをわざわざ見る必要はなく、少し視線をずらせば自分とはなんの関係もない世界ではある。だがその殺伐さにどこか胸が苦しめられるように感じる。「笑」や「w」を語尾につけてだれかと会話をしていて、「ひとの不幸」や「ひとの喧嘩」や「もめごと」を祭りとして消費しているはずなのに、こころのどこかからは血が流れている、という感覚。損ねられているのはことばであり、ことばによって構成されるかくされた気持ちやこころだ。 * * * インターネットで見知らぬ第三者に憎しみをぶつけること。それが、この建前だらけの社会において、相手とふれあうことができる数少ない方法であるということ。場合によっては、ゆいいつの方法であるということ。その事実にわたしたちは希望をうしないかける。あるいは、絶望のふちに立っている。もはや匿名で憎しみをぶつけ合う以外に、わ
雨が降っていて、雨が降っていて、雨が降っている。 プライバシー、ということを考えた時、本棚というものが頭に浮かぶ。自分の本棚にはひとに見られたくない本、より具体的にいえば子供に読ませたくない本がかなりの数ある。ある世代にとってはそれはゲームのパッケージであったり、同人誌であったり、その他もろもろの趣味のものであったりするだろう。これらをだれにも見せたくないと考えた時、そしてプライバシーがある空間に住んでいない場合、そもそも本棚をなくしてしまおう、というのは自然なことだ。より具体的にいうならばデジタル化したものをはじめから買えばよいのであって、スマートフォンの中に格納されているデータは本人以外には原則まず漏れることはなく、さらにいえばそれを閲覧するのに広い場所も必要とせず、たとえばベッドの中にこもって読むことができる。さらに具体的に想像力を働かせるならば、恋人が寝ているその隣で、こっそり読む
わたしたちの<こころ>はだれがつくっているのか。わたしたちの気持ちはだれがつくっているのか。それはわたしたちを取り巻く環境がつくっている。わたしたちをとりまく<インターネット>がつくっている。2017年、インターネットはすでに社会でありこういいかえることもできる、外部装置にすぎないインターネットがこころをわたしたちから強奪したのだと。 何か憂鬱で 何かも行き止まりの時代 そこからどこへ抜けだせば 光が見えるのか 確信がないまま 毎日がすぎていく (/) 憂鬱さが 僕らを支えている 今この瞬間を耐えることができれば その向こうに何かがあるのではないかと 無力なものは 無力なまま 価値のあるものとして扱われたい そんなことを夢見ることに 付け入られ 大切な生命を使い捨てられ 「行き止まりの時代から」 まったく知らないはずの書き手の人生が、自分の人生のある一日と重なる。それは裁判所で弁護士の笑み
いつでも脱ぎたがっている いつでも裸をみせたがっている いつでもほんとうの自分を知ってもらいたがっている いつでも《理解》してもらいたがっている なぜなら認めてもらえるから なぜならいまここにいる自分を認めてもらえるから 肌をみせるだけでお金になるから ふくれた財布からお金をしはらってもらえるから だがしかしほんとうはちがうのだった だがしかしほんとうにほしいものはお金ではないのだった 認めてもらうことができなかった自分をすくうこと ほめてもらえなかった自分をゆるすこと あいされることのなかった自分をたすけてもらうこと これらがゆいいつの目的であってお金は副産物なのだった だからいつでも脱ぎたがっていて いつでも裸をみせたがっていて いつでも魅力的な自分を知ってもらいたがっていて いつでも《理解》してもらいたがっている さまざまな衣をまとっていて さまざまな芸術的な意匠を身にまとっていて
わたしのことをおぼえていますか、という題名のスパムメールを眺めている。差出人はどこにでもある平凡な名前で、その本文には話したいです、とだけ書かれている。わたしはあなたのことなどおぼえていない——たとえおぼえていてもそれを口にすることはない。 どこかの世界でそれなりに有名らしき男性がリベンジポルノの被害にあった、という記事を読んでいる。女性が意図的な悪意をもった側というのはめずらしい。大量のリベンジポルノと思われる性行動画が星の数ほど閲覧できる2017年のインターネットの世界では、流出を行うのはほぼすべて元彼氏や元夫であろうと推測されるが、そうだとほぼ確信できるのは男性の側の顔が隠されているからで、そこには男性側の明確な悪意がある。一方、女性側がこれを行うということは、彼女のいかりの大きさ、あるいは傷の深さを示唆していると思う。わたしはこの男女のいずれも知らないし今後も知りえないが、この女性
金曜日。あまり一般の世間とは関係がない生活だが、土日にむけて仕事の密度は減る。 週末というものはいいものだ。 最近のネットの読者の印象として、薄く広く眺めてみると、短時間で読めるものしか読んでおらず、特定の作家名を帯びず、散逸した状態でも読めるもの(=匿名に類するもの)が好まれる傾向があると思う。読み手知らずの短歌や俳句、あるいは短い漫画はネットに最適な作品ということは言えるだろう。短歌がとくに盛り上がっているという話は某出版社のひとに聞いたが、そうだろうと思う。時系列に読む必要もないし、それぞれ自立している。 わたしのブログ、Tumblr、ツイッターはそれぞれ別々の目的と主題をもって製作しているが、基本的に読者からの反応というものはない。ごく一部の古い読者や一部の読み手に拾われ、それがかろうじて広まったりわずかに読まれたりする以外に、フィードバックというものはない。わたしは短時間で読める
今日もスパムメールが届いている。メールには"I need to be loved"と書かれている。だれもかれもが愛されたがっている。だれもかれもが認めてもらいたがっている。だれもかれもが褒めてもらいたがっている。だれもかれもが意味を求めている。だがそれはけして得られない。だがそれはけして手に入らない。 この社会はマイノリティに冷たい。いやこう言い換えよう。マジョリティに同化しないでとどまっているマイノリティに冷たい。さらにこう言い換えることができる。マジョリティに同化する「ふり」をするみんなのルールを守らないまたは理解しないマイノリティに冷たい。マジョリティはこういっている。なぜ同化しないのか。なぜみんなと同じ顔をしないのか。なぜみんなと同じことをしないのか。なぜみんなと同じ《ふるまい》をしないのか。マジョリティはいつもそういってマイノリティを攻撃している。あるいは攻撃的な抑圧を企図する。
土曜日なので近くのショッピングセンターまで買い物に出かけた。いつも使っている包丁のメーカーがセールで出店していて、手持ちの包丁を磨いでくれるというハガキが来たのでそれも持参する。毎日毎回使っているので刃こぼれなどがあるが、店の人間に見てもらったところ、さほど鈍っていないとのことだった。以前このメーカーの同じ担当者にまな板は木製でないと刃こぼれしやすいというアドバイスを受けて、それ以来気をつけるようにしておいたのが良かったのだろう。 包丁ももちろんそうだが、道具はきちんと使わないとその力を発揮できない。保管、保存といったメンテナンスもそうだ。わたしも年をすこしずつ取って、自分の肉体を一個の機械としてみなすようになり、どうせ必ず壊れるのだから、これはケアしながら、壊さないように使わねばならないと思うことが増えた。ひとの身体は機械にすぎないというのは祖父がいっていたことだということを憶えているが
悩んでいる時は考えこむよりも、ブログに向かったほうが答がでることが多い。もっとも、誰かから反応があるわけではなく、エントリフォームに向かうことは壁に向かってひとりごとを話しているのと大して変わらないが、おそらく書くことに意味があるのだろう。なぜなら他の誰でもなくまず自分がそれを読んでいるからである。 大分暑くなってきて、今日はとうとうクーラーをつけた。わたしは夏は大好きだがクーラーも同じぐらい好きだ。といってもまだ梅雨前なので夏の話は気が早い。まだまだじめじめとした季節がつづくはずだ。それはともあれ暑いのは気持ちがいい。生きる活力が湧いてくる。全力で遊ばなければならないという気になってくる。そういうことを考えながら地味に机に向かって作業をする。きわめて静的な運動だが、書いているときにこそいちばん遠くへとゆける気がする。 とはいっても雑務は多い。営業もしなければ食べてはいけない。誰でもしてい
「この国にほんとうの保守はいない」と、ある小説家はいった ほんとうの保守とはなにか そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか それは憲法か それは平和か それは子供らか それは誇りか それはプライドか それは世界一の技術か それは安倍晋三か それは自民党か それは沖縄の米軍基地か それは先進国か それはG7の地位か それはうつくしい国か それは東芝の原子力事業か それは台湾企業に買収されたシャープか それは教育勅語を暗唱させる幼稚園か それは共謀罪か それは言論の自由か それは性交の自由か それは性行為をインターネットにアップロードする自由か それは君が代か それは天皇陛下か それは男の男による男のための国か それは女のものではない女によるところのない女のためでもない国か それは自涜する自由か それはツイッターで自涜する自由か それはフェイスブックで自涜する自由か それはありとあらゆるS
現実はおそろしい速度で変容してゆくが、わたしたちの人生はなにも変わらずすぎてゆく。この取り残されている気持ち(レフト・アローン)を克服するために、ひとりぼっちのネット右翼(ライト・アローン)が連帯せぬまま台頭する、と冗談を書いてみたくなる。だが、冗談をいって冷笑していられる幸福な時代はすでに終わった。わたしたちは眼前に広がる、左右、男女、上下階級が毎日いがみあうまずしい空間、すなわち自らが作りだした業と向きあわなければならない。 『詩と思想』2017年4月号 にて、「現代詩の新鋭」なるものに選出されると連絡があったので、知己の詩人・ 井上瑞貴 さんに解説を書いてもらった。わたし本人といえばそもそも詩と現代詩の違いがわからず、さらにいえば文芸とそれ以外の違い(あるいはブログとそれ以外の違い)もわからない人間なのだが、第三者より評価してもらえるのはめずらしい機会なので、ありがたく思っている。快
現代詩と呼ばれるものを毎日書いてほぼ三年が過ぎた。さまざまなことが起こった。だれの人生とも同じような退屈な毎日のくりかえしだった。一方社会は大きく動いているように感じられた。だが社会が食べ物を恵んでくれるわけではなく、税金を払っていても事故や天災から守ってくれるわけでもない。社会が変わろうが(あるいは大統領という大家が変わろうが)飯の種を稼ぐ行為は変わるはずもなく、水は今日も高いところから低いところへと流れ続ける。 一方、書くことはおもしろい。一円の対価も(ほぼ)なくともおもしろい作品はおもしろい。このおもしろさをわたしから奪おうとする人間こそがわたしの敵であり、それはかたちのない「世間」という形をしている。創作に携わる者すべてがたたかっているものとわたしもたたかっている。しかしもちろんかれらを応援することなく、仲間も必要としていない。そんな連帯になんの意味もない。この考え方をある詩人は「
毎日一文にもならない文章を書いている。そのうちのいくつかは依頼された文章だったりする。乾いた笑がこみあげる。めざしていたものになっても、それは過去に自分が想像していたものとは違っている。若いころは、彼女ができたり、結婚したりしたら、ひとりぼっちではなくなるのかもしれないと思っていた。そういう愚かさから自由ではいられない。だがその愚かさを克服できるだろうか。ひとは自分で考えるほど、利口な生き物なのだろうか? 窓の外はよく晴れている。iPhoneの画面で見るニュース録画で、中高年受けする化粧と服装をした女性アナウンサーが、全国的に真夏日だと言っている。社内で決定権を持っている男たちへの配慮なのだろう。大変だろうなと思う。男は男で、おもに下半身にまつわる大変さを異性に説明するのは無理だと思う一方、男の、男のための、男による組織(=社会)でいきていく立場の大変さ、というものを想像する。だが肌感覚で
桜が咲きはじめている。桜という花は、日本語のうちで特殊な地位を持ち、さまざまな意味がその花びらにべったりとへばりついている。それを無条件に肯定的に受け付けることができるものは、この国で一般的な日本人として、春を学年の開始とする学校に通い、大学に入学し、就職をしたものたちだ――だがこれを受け入れることができないアウトサイダーは、この花のもたらす意味の洪水の前に、立ちすくむほかない。 以前、帰国子女について書いた。 あれは幼少期を海外で過ごした私の実体験に、同期の帰国子女たちの体験談を重ねたものだ(補足すると、それが「実話」かどうかは、読み手の側の判断にゆだねるものだ)。この社会で帰国子女として生活していると、日本で育った人々からは、「楽して英語がぺらぺらになってよかったね」や、「大学は別枠で受験勉強もせずに楽でいいよね」という見解がしばしばふつうに寄せられる。だからあまり自らの出自について語
この作品をゲームというより一冊のSF小説として読んだ。ゲーム性について適切に語ることができるひとが他にたくさんいるだろうと思うのでそれについては省略(また、カジュアルなプレイヤーに過ぎない私にその資格があるとも思えない)。本作はゲームなので基本的に「操作」しながら読み進めることになるが、これをマウスやキーパッドがいわば「進む」キーとして機能する長大な電子書籍として捉え、このFallout4をかなりおもしろく読んだ。とても楽しんだので以下その感想という名前の走り書きとなる。 本作は、(1)核戦争後の旧ボストン「コモンウェルズ」を舞台にし、(2)核戦争勃発前の200年前にコールド・スリープ装置で冷凍された主人公が、(3)一緒に装置で眠っていたはずの子供を誰かに誘拐され、(4)200年後の様変わりした世界に旅立ち、(5)町の復興に携わりながら、子供を取り戻すためにさまざまな勢力と協力または敵対し
「鎮魂せよ、いや無理である思いださねば 鎮魂せよ、いや不可である呼び戻さねば 鎮魂せよ、死んだものを死んだものとして 鎮魂せよ、新しき呪いの成就のために」 私は日本の古い街で生まれ、アジアの小国で育った。現地は先の対戦で日本軍によって一時的に占領されていた島で、街の中心部には虐殺された人々の魂を鎮めるための巨大な慰霊碑が立ち、日本人墓地にはからゆきさん(日本より売られた売春婦)の墓が並び、塹壕など戦争の遺構があちこちに残されていた。もっとも、当時の私は、外国語を覚えるのにせいいっぱいで、その歴史を何か遠いものとして眺めるほかなかった。日本に戻り、大人になってから、詳しくあの戦争について、調べたり読んだりした時、自分が住んでいた島で何が行われたのか知った。そのときの衝撃はちょっとことばにはできない。 ネットでは、そしてネットの生み出す空気に支配される現実では、総体としてのいわゆる行動す
考えてみよう。私たちが「日本を取り戻し」た世界。私たちの国が「うつくしく」なった世界。私たちはいまよりも幸せだろうか。私たちはいまよりも恵まれているだろうか。私たちはいまよりも許されているだろうか。いや、違う。私たちは、私たちの孤独をどうにもできないのだ。 また、雪が降っている。ここしばらく、東京と地方を往復する生活が続いている。電車に乗っているスーツを着た人々の顔を見て、昔、会社勤めをしていたころのことを思いだす。私には正社員勤務の経験はないが、一年単位で契約更新される専門職として、外注される業務を請け負う形で、とある大手企業に十年ほどいた。それは都心部にある大きなガラス張りのビルで、東京に行くと、その時のことが車窓のむこうによみがえる。 その会社は、仮にI社としておくが、悪い会社ではなかった。同じ部署にいる同僚たちは親切だったし、基本的に善意をもって人に接していた。それはいま考えれば、
本日は雪が降った。テレビのニュースは毎日昼に見ている。ネットでニュースも見る。そのどちらもきわめて偏向している、と感じる。そしてそこには何か重要なものが抜け落ちている、と感じる。それが具体的に何なのか。形にすることは難しいが、前者から抜けているのは本音、いいかえればほんらいは報道すべきであるが、さまざまな配慮の結果抜け落ちてしまうことであり、後者から抜けているのは建前であり、ほんらいは報道すべきではないことを、「言論の自由」を重んじるあまり垂れ流してしまう、と仮に置いてみることができるだろう。 法務省要請により ニコニコ動画の差別動画が削除された 事件があったが、その運営母体である会社の手のひら返し具合や、同じ動画を放置しつづけているYouTubeの運営母体である会社をきちんと批判することは重要だ。だが私はむしろ、たとえば前者から本を出していたり、あるいは、ニコニコ動画で動画を制作していて
2015-06-08 井戸に落ちた兵士 この国には匿名が必要だ。 ネットにあふれるありとあらゆる種類の、匿名による誹謗中傷、執拗な嫌がらせ、間違いを指摘するだけの揚げ足取り、きわめて安全な場所から発せられる冷笑の数々。 これを十分に見尽くし、これに心の底からうんざりした後も、なお匿名が必要だと考えざるを得ない。なぜなら匿名でなければ何も言えないからであり、匿名でなければ何もできないからであり、匿名でなければ「気持ち」を語れないからである。 「身バレ」を何よりも恐れる匿名の人々の恐怖を私たちはみな共有している。何かを言い、書き、語りたいと思うが、自分が何を考えているのか、たとえば職場や学校や家庭で知られてしまうのが恐ろしい。 「本音」は経済的、社会的に大きな不利益をもたらす。沈黙しているほうがよいというのは、この国では誰もが知っている処世術だ。この事実が、何かを公で発言することが容易
2015-05-10 新しい孤独 自分の家なのに、どこか自分の居場所がない。自分の学校なのにどこか自分の居場所がない。自分の国なのに、どこか自分の居場所がない。本来自分が所属しているはずのものから、いつのまにか自らが疎外され、のけ者にされ、つまはじきにされているように感じられる。 この曖昧模糊とした疎外感に形を与えることは難しい。これを「ソース」や「エビデンス」なしに、つまり一見客観的に見える恣意的な事象の取捨選択をすることなく、言葉にすることができるだろうか。 学者や評論家のように語るのはやめよう。私たち市井の人間は、一人の個人として、強いられた社会的状況の中で、自らによるものではない外的要因がもたらす苦しみや悲しみに形を与えることから始めなければならない。 しかし、「考える自由」は、様々な精神的・物質的拘束によって損ねられている。日本のネットに自由がないこと/なくなったことはすで
2014-05-21 つらい人生の過ごし方 夜降り始めた雨が深夜になって豪雨に変わった。私は机に向かいながら、窓の外を降る雨を見ている。仕事をしながらSNSを見るのが私の趣味だ。ツイッターは以前やっていたのだがまとめサイト(Togetter)の空気にすっかり嫌気がさしてやめてしまった。世の中の物事には簡単にはまとめられない何かがありそれこそが一番重要なものなのである。とはいっても集中している間、脇において見られる何かがあると逆に結構仕事がはかどることが多いので、Google+だけはやっている。昨晩そこで「楽になりたい」という趣旨の書き込みをみてしばらく考え込んだ。もちろんそこにどんな事情があるのか他人にはまったくわからないのだが、楽になりたいというのは私たち共通の願いであるように思えるからだ。というより誰でも楽になりがっており、苦痛から逃れようとする根源的な欲求によって無自覚に突き動かされ
2014-05-19 霧の中 深夜から朝にかけて突然街が深い霧に覆われることがある。五十メートル先が見えないような濃霧だ。もともとこのあたりは山だったらしいのでその名残だとは思うが、窓を開けるとあたりの風景すべてが白いもやに覆われているのを見るとぎょっとする。数時間前には何もなかったのだ。地獄がもしあるならばこういう眺めではないかと思う。ほとんど先が見えないような場所で永遠に出口を求めてさまよい続けるのだ。前も後ろもわからなくなり、霧の中で座り込んで、来るのかどうかすらわからない助けをずっと待ち続けるのである。 私は地方に住んでいるが、車は持たない主義だ。買い物はすべて徒歩で行っている。一番遠い卸は往復六キロ離れておりたまに肉をキロ単位で買いに行く。荷物が多すぎる時にはタクシーを呼ぶが基本的には徒歩だ。そのための足に合った靴、荷物を運ぶためのリュックサック、日除けグッズなどが必須である。
2014-05-09 相手が処女じゃなくてがっかりした童貞の皆さんへ がっかりしてしまいましたか、失望してしまいましたか、なぜあのひとは処女ではなかったのか、なぜ他の男に股を開いてしまったのか、なぜ身体を触れさせてしまったのか、ああがっかりです失望ですああ許せません、怒りがあります身体が震えますこころの平安が永遠に消え去ります、自分の気持ちがよくわかりません、ただただ言いようのないどろどろとした泥沼に全身が沈んでゆきます、これが嫉妬でしょうか、羨望でしょうか、妬ましいのでしょうか、元の男がうらましいのでしょうか、きっとそうなのです、でも一番つらいのはわからないことなのです、自分の胸がどうして痛むのか、それがわからないのがなによりもつらくくるしいのです、 IT業者のみなさまがつくってくださる便利で偉大なインターネット、ああどうして記録されてしまうのでしょう、他の男とのメールのやりとりが、チ
2014-05-08 検索するのをやめなさい この世が糞だからといってこの世がどうしようもないからといって日本に夢も希望もないからといって自分の居場所がどこにもないからといって検索するのはやめなさい苦しいと検索するのをやめなさい日本はダメだ日本人は終わってると検索するのをやめなさいいますぐやめなさい今日から明日から明後日からやめなさいなぜやめないのかいまやめなさい検索して何が見つかりますか検索して何を得ることができますかSNSで+1していいね!してfavして笑顔をつくっていればいいではないですか猫の写真でもアップロードしておけばいいではないですか綺麗事でお茶を濁せばいいではないですか誰でもそうしています誰でも見てみぬふりをしていますそれでいいではないですか検索してはならない検索して自分のような人間を探してはならない自分のようなダメでどうしようもない人間のクズがここにもいると思って安心しては
2014-04-08 花の落ちる道 ブログの真っ白なエントリフォームが目の前にある。書くことはいつでも白紙の前に立ちすくむことだった。何か考えてから書くのではない。何か目的があって書くのではない。空白が文字を呼び寄せるのである。 地方都市には自然だけは豊富にある。近くの中学校の桜並木も見頃だが、私のお気に入りは団地に植えられた椿の花だ。巨大なさなぎのようなつぼみが開くと、中から薄く透き通った桃色の生き物が姿をあらわす。グロテスクなその姿に、思わず足を止めて見入ってしまう。 近所に花を集める子供がいるらしい。買い物にいく途中など、よく道端に摘み取られた花がまとめられているのを目にする。先日は椿の花が五つぐらい路傍に並べられていて、わけもなくぞっとした。それは不吉な徴のようで、誰かの死を悼む名前のない墓標のようにも見える。 土地は余っていて野草があちこちで生い茂るような地方である。しかし
2014-03-09 大人になんてなりたくない:「若作りうつ」社会 「若作りうつ」社会 (講談社現代新書) アニメーション作品を観ていると、その大多数が中学や高校の部活動を舞台に選んでいることに驚くことがあります。いつまでも繰り返される楽しい部活の日々。そこには仲間がいて、友達がいて、一緒に果たすべき目標があり、あるいは繰り返される日常こそが大切なのだというナイーブな感性があります。しかしかれらが社会人になった後どうなるのか、それはほとんど語られません。 「若作りうつ」は、未成熟であることを強いられる社会の病気だと解釈してもよさそうです。未成熟にとどまりたい、ずっとこの楽しい場所にとどまりたい、なぜならそこを一歩出てしまえば、外は苦しく、残酷な現実しかないと思えてならないからです。それを直視したくはないし、未成熟なアドレセンスの場にとどまりたい。そう考える大多数の視聴者の欲望を、商業作
2014-02-14 「これから女になるあなたたちへ」刊行のお知らせ 「これから女になるあなたたちへ」、本日より発売となりました。こちら(Amazon Kindleストア)です。 本書仕様 電子書籍 (横書き) Kindle、及びKindleアプリ搭載デバイス 形式:手記、日記、ブログによる創作 価格:200円 文字数:原稿用紙60枚 ISBN:978-4-9906428-2-2 内容紹介(Kindle Store) ――こんな男とだけは結婚するな。 謝罪ができない男たち、いつも浮気をする男たち、そして罪の告白をしたがる男たち……本書は、妻子を持った平凡な29歳の男である「私」が、いかにその家族や幸せを失ったかという架空の物語とその告白を通じて、男はどうしてこんなにも愚かなのか、「男とはほんとうはどんな生き物なのか」、そして女性はそんな男たちをいったいどうやって愛したら
2014-01-18 謝罪ができない男たち(女性編) 今日も頭がいいと思っています。自分は「女」よりも頭がいいと思っています。こんなふうに考えている男たちを騙すほど簡単なことはない――女性のみなさんにとって、それは十分すぎるほど自明の真理ではないでしょうか。頭がいいと思う愚か者ほど油断し、相手の実力をなめてかかっています。頭がいいと思うほど、自分がやっていることの馬鹿さ加減をまったく自覚しないからです。 頭がいい男は謝罪しません。頭がいい男は謝ることができません。これは教育の問題ではありません。これは生まれの問題ではありません。これは所得の問題ではありません。なぜ謝れないか。なぜごめんなさいができないのか。自分が頭がよく間違っているのは常に女だからです。常に女だけが間違えています。頭が悪くて感情的で気持ちのことしか考えない女たちは欠陥品であり男よりも「劣った存在」だからです。 頭がいい
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