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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」。 本書の答えを乱暴にまとめれば、新自由主義に内面を侵され、コスパ意識きわまったためだ、という事になる。このせいで、現代日本の会社員は仕事以外の文脈、自分から遠く離れた文脈(p.234)を含むもの、すなわち「ノイズ」を多く含む読書をしなくなった。 代わりにコントロール可能な自分の行動にターゲットを限定した自己啓発書と、「今」ここの知識でのみ勝負し、自分の外部にある文脈や社会を「ノイズ」として排除する、ひろゆき的論破で済ますようになったという(p.204)。現実の複雑さ、自分にとって未知なるもの、言い換えれば「ノイズ」を体験できる事こそ、読書の真価であるのに……という論調だ。 「本」とは、自己啓発書等ではなく、主に小説を指すようだ。冒頭で『ゴールデンカムイ』も挙がるので、漫画も、労働すると読まなくなる書物に含めてよいだろう。『花束みたいな恋をした』とい
「統計的差別という概念は、矛盾している」という話をする。 1.「統計的差別」の概念的矛盾 「統計的差別」の概念を、私なりにかみ砕いて説明しよう。ある人が、人種や性別といった集団の属性にかんして推測や憶測したものごと、つまり特徴や値や何となくのイメージを、特定個人や個人一般の特徴でもあると仮定(=帰属)して、この個人に対する何らかのアクションのために活用する事で「統計的差別」は生じるとされる(参考)。 例えば、雇用者が「女性はしばしば育児休暇を取るし、キャリアアップに熱心ではないから、この人は不採用にしよう」と扱うこと。大家や金融機関が「外国人はしばしば家賃やローン払わないから、この人には家やお金を貸さないでおこう」と扱うこと。こうした判断とアクションが、統計的差別の典型例だ。 もともと経済学で使われる用語である「統計的差別」だが、今ではインターネット上で多様な状況に当てはめて使われている。
(小ネタ)『「社会正義」はいつも正しい』は、フランクフルト学派陰謀論や、文化的マルクス主義陰謀論にどう言っているか 『「社会正義」はいつも正しい』は、「文化的マルクス主義陰謀論」の書か? 批判者によると、『「社会正義」はいつも正しい』の著者リンゼイは、右翼の陰謀論である「文化的マルクス主義陰謀論」に染まっているらしい。文化的マルクス主義陰謀論は、フランクフルト学派を現代の進歩的運動、アイデンティティ政治、ポリティカルコレクトネスの流行に責任があるとし、また伝統主義保守主義のキリスト教的価値を、文化戦争により破壊しているとみなす*。 これと大きく重なるフランクフルト学派陰謀論は、マルクス主義の理論家やフランクフルト学派の知識人から選り抜かれた精鋭たちが、西洋社会を転覆させつつあるとする*。 「文化的マルクス主義陰謀論」批判者のポイントは、「フランクフルト学派」のアイデンティティ政治、ポリティ
私は、足を大股開きにする男を底の方では信用しない。 ジェームズ・リンゼイと極右問題 『「社会正義」はいつも正しい』について最近、「共著者の一人ジェームズ・リンゼイは、反ユダヤ主義的・極右的な言動をする人物だ」と非難されている。 上記記事の「友達の友達がアルカイダ」型のルーズな論証に対する疑義に、文字数を費やすつもりはない。それを踏まえても私は、大まかには上記記事の著者の見方にかなり同調する。 リンゼイの発言が、私の基準で見れば「一線」越えているのは確かだ(「批判的人種理論で白人虐殺されかねない論」、「レインボーフラッグを『敵の旗』と呼ぶ」)。今年9月頃に「リンゼイってヤバくない?」と友達から話しかけられ、事態を知った。 かつて「新無神論者」でありオバマ大統領を支持したリンゼイは、極右のモラルパニックのブレーンとして再出発した。https://t.co/3PTopb0w4P リンゼイ氏のツイ
はじめに 国連の要職に就くリーム・アルサレム Reem Alsalemは、先日スコットランドが進める性別認定改革法案について、イギリス政府に書簡を送り懸念を表明した。いわく、この改正案では「暴力的な男性による制度の『悪用』を許す恐れがある」。BBCやThe Times、The Guardianなど英大手メディアが次々報じるニュースになっており、↓本人のTwitterにも少なくない反響が寄せられている。 My letter to the UK Government concerning the #GenderRecognitionReformBill of #Scotland currently before the Scottish parliament is now public and can be accessed here: https://t.co/Av2tpJIrqR. . —
謝罪がありました詳細は省きます。 (※追記:経緯等を追記しました) 私は、これで全て終わると思えるほど楽観的ではありません。 これが最後になるかもしれないし、ただの通過点かもしれない。そのような記録です。
はじめに 少し前の8月17日に、「性別のない作家」山崎ナオコーラによるツイートがちょっとした物議を醸した。氏の「性別でトイレを分ける必要があるのか」、「私はトイレを性別で分けなくてもいい派でして」と問題提起した下記ツイートがそれだ。 「もちろん、それぞれのお考えや、いろいろな危険や、経験があるんだとは思うんです。ただ私はトイレを性別で分けなくてもいい派でして、それは7年ほど前の自著『母ではなくて、親になる』でも書いていおりまして、引用すると、「性別でトイレを分ける必要があるのか。 排泄行為は恥ずかしいもので、同性同士なら恥ずかしさが薄れるということはない。性犯罪抑止の観点があるのかもしれないが、同性同士の性犯罪もある。性別でトイレが分けられていると、 LGBTの当事者など、どちらのトイレに入ったら良いかで困る人も多い。」(Webarchive) https://twitter.com/na
はじめに 去る7月27日、イギリスの雇用審判所は、「生物学的性別が重要であると信じる女性の権利を擁護する」判決を公開した。刑事弁護法を専門とする弁護士にしてLGBアライアンス創設者のアリソン・ベイリー[black lesbianでもある]は、彼女の「ジェンダー・クリティカル[TERFの中立的な呼び名]」な信念に基づく差別を会社から受けたとの主張が認められ、£22,000[約360万円]を手にした。※TERFとはトランスジェンダー、特にトランス女性に対して排斥的な立場とみなされたフェミニストの事で、一般的に蔑称である。 またベイリーの次のような信念が、平等法で保護される哲学的信念であると認められた。 ・セックス[Sex・生物学的性別]は現実的で観察可能だ。ジェンダー[Gender]は主観的なアイデンティティであり、観察できず、客観的根拠がない ・「トランス女性は女性である」という一審被告であ
要点「キャンセルカルチャー」の起源を、人類学の「処刑仮説」から考える。 危害恐怖とフェミニズム 個人的な話にはなるが、私の知り合いに、二次元美少女ものが好きなオタクがいる。同時にかれはオンライン上のフェミニストの振る舞いにもしばしば賛意を示し、このためいつの間にやら、厄介な立場に置かれるようになった。フェミニストによる「女性」表象批判と、それに対するオタクの反批判が激化する2010年代以降の激動において、しばしば板挟みに遭うようになってしまったのだ。 一度かれに、「どうしてフェミニズム寄りなのか。立場をどっちかに振り切らないと、苦しくないか」と尋ねた事がある。帰ってきた答えが、私には意外だった。いわく、「自分は誰かにうっかり危害を加えてしまうかもしれない、という不安や恐怖が強い。だからフェミニストが二次元イラストに対してする『女性に対する加害だ』との非難には、強い恐怖を感じて従ってしまう」
某宗教団体への批判が強まっているので、私の主張に同意しない人がいるかもしれない。しかし衰退していくだろうもの。それはある種のラディカルさだ。 「警察いらない」系の思想も、「議会いらない」「暴力革命」系の思想も、日本のマジョリティの感覚から完全に乖離した。精確に言えば、特に暴力系は「こいつらはあかん」とマジョリティに意識・敵視された。「暴力革命」は、これまでは記号やパフォーマンスに過ぎなかったんだけど、もう人々の集合的な記憶に、黒い血糊がこびりついてしまった。 あの暗殺を超える「ラディカル」さは、これからも滅多に無い。超えても意味がない。 ほらみろテロには意義があるじゃないかと盛り上がる人物も見かけた。でも、70年代以降の極左と同じ衰退ルートだ。 これから10年は何度も、事件の映像や言説が反復されるだろう。何がどうなろうとも、後に残るものでやっていくしかない。
元タイトル:『むずかしい女性が変えてきた』 販売停止に賛同する人の、エリート意識がもたらす大きな反作用 を変更(2022/07/27) はじめに 大阪のtoi booksという書店が、ヘレン・ルイス著、田中恵理香 訳『むずかしい女性が変えてきた あたらしいフェミニズム史』(みすず書房 2022年5月16日)を「いったん販売停止」にした事が、Twitterで話題になっている。販売停止の理由は、ヘレン・ルイスが「トランスフォーブ」「トランスフォビック」(トランスジェンダーの人に対する不寛容、否定的な態度、言動、嫌悪)であるとの指摘を重く受け止めたためだと言う。 先のツイートについて、経緯や140字では書ききれなかったことなどの説明文を書きました。 さまざまなご意見あるかと思いますが、お読みいただけましたら幸いです。 https://t.co/ZrV0PTEMNY pic.twitter.com
Google検索に見る、「女性専用車両 特権」の意味 Google検索で、「女性専用車両 特権」でググると何件もの記事が引っかかる。「まあやはり女性専用車両の存在は、『特権』概念で擁護されてるよね…」と思っていたらどの記事も、私の想定する内容と真逆で驚いた。 検索上位2ページで確認できたほぼすべての記事が、「女性が男性よりも優遇されている」事例として女性専用車両を挙げていた。何件か引用してみよう。 「よって,女性専用車両は女性に特権を 与えているものであり,男性に対して不公平 であると認識されている。」 「よく「レディースデーや女性専用車両があって女の方が得だよな」なんて声も上がりますが、実態は逆ですよね…。」 「「女性専用車両」は名目上「痴漢対策」とは言え、表面上は女性だけの特権である。」 「男性がいないと安心だから・空いているからなどといった特権意識を持って女性専用車両を利用し、車内で
今回論じる告発文私が今回補足したい事実は、告発有志による6つの告発の4番目に関わる。 かれらは、ピンカーの下記ツイートを、ピンカーから地位を取り上げる根拠になるものとして主張した。 The idea that the UCSB murders are part of a pattern of hatred against women is statistically obtuse | http://t.co/ZbWuSVLy6p — Steven Pinker (@sapinker) June 1, 2014 ピンカーの「UCSB[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]の殺人事件が、女性に対する憎悪のパターンの一部であるという考えは、統計的に鈍感 statistically obtuseである」というツイート。このツイートに対し告発有志は次のように、女性差別を批判する声を弱めるものだと批判し
もくじ 1.Vtuberは脱資本主義なのか 2.認知をめぐる競争 3.足るを知ること 1.Vtuberは脱資本主義なのか twitterではてなのあままこさんに突っ込んで、ちょっと田原総一朗みたいな感じになってしまった。私が言及したのは「「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある」というタイトル記事の一部内容についてなので、詳しくはリンク先を読んで欲しい。あままこさんは記事でVtuber文化の持つ解放性を、こう述べている。 ====================== 僕は最近VTuberという存在にはまっているのですが、VTuberの多くは、自らを「社会不適合者」と自嘲し、「VTuberにならなきゃただのダメ人間」と言ったりします。実際、遅刻常習犯だったり、コンプラ無視の配信を繰り広げる彼・彼女らは、現実社会ではまともに生きていけないでしょう。 ですが
人に貸して頂いた。ざっと読んだ。ある意味で評価が難しい。知人はいろいろ言及してるから、感想を書いといたら役に立たないこともないだろう。 この本の語り口に、私はイヤな感じがした。 基本的に、経済学の「合理的経済人」というモデルを批判する本だ。 著者の経済学批判の特徴は、語り口が感傷と道徳的ニュアンスを帯びていることだ。「経済人(働く男)は女性を抑圧することで成り立つ」「経済人には愛がない」「経済人にはケアがない」とないないが続く。 流行りのケアの倫理とフェミニズムで、「合理的経済人にはXがない」という批判が続く。 この語り口が解放的と感じる人と、「イヤな感じ」がする人に分かれるだろう。私は後者だ。 著者の指摘が間違っているわけではない。 経済学は家事労働をGDPにカウントしない。確かにそうだ。 経済学的には環境破壊しても富が増える。確かにそうだ。 人間は、経済学が言うようにインセンティブだけ
最近アナキストのB氏と話して、どうにも話が噛み合わないと思った。その理由は、官僚機構についての考え方の違いにあるように思われる。彼は官僚機構一般の存在が、悪しき国家主義や全体主義に加担すると考えているようだった。 私の認識はその反対だ。司法など特定の官僚機構の独立性が弱く、政治に従属する国のほうが、そうでない国よりも反体制派の権利が守られにくいと思われる。世界には反体制ジャーナリストが殺害されたり、政権批判者が弾圧される国がある。殺害される国では、指導者の政治的利害がダイレクトに「官僚機構」に反映される傾向がある。 ベネズエラでは、権力均衡が骨抜きにされている。例えば政権の意に添わぬ判決を下した裁判官をいきなり何年も刑務所にぶち込むといった間引きをして、国のすべての領域が、「政治権力者にとって敵か味方か」で決まる政治的領域へと変えられていった。 国家の全領域の政治化への歯止めの一つが、「法
「重たい皮膚病の知らない男性に話しかけられた。助けてほしいと言ってたけど、すがりつかれそうだったので逃げた。ふだんマイノリティの人権が大事だと言ってるのに、自己嫌悪に陥った」ということを話してる人がいて、正直な人だと思った。 実は私は、「共感はナンセンス」という意見はナンセンスだと思っている。そういう人は大抵、「自分が共感できないタイプの共感(典型的にはリベラルな感じの)が嫌い/共感できない(このためおそらく疎外感がある)」というだけで、真に感情的孤独を好んでいるわけではないからだ。 確かに、認知バイアスが問題だとかそういったマクロな話は重要だけど、今言いたいのは、そういうことではない。 より深く他人から共感されることや、他人に共感すること。またはより深い「自己理解」に達することが、人生の最重要目的の一つなのかもしれない、と思う。私は他人と比較するとそういう傾向が小さいとは思うが、その感じ
さえぼう先生の『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』 (ちくま新書 2021年)で取り上げたい点が一つあって、それは「批評理論とは『社会的条件付け』を暴くものである」ということ。なお返却してしまったので、この文は精確な引用ではない※1。 「条件付け」という言葉は、フェミニズムの論文でも使われるようだが、私は心理学用語を思い出した。条件付けにも古典的条件付け、オペラント条件付け、社会的学習など幾つか類型があるが、どれも「何らかの認知や行動のパターンを習慣的に身に着けること[…てしまうこと]」である点が共通する。 認知や行動のパターン[習慣]には、個人がまわりの状況に上手く対処できるようになる適応的なものと、そうでないものがある。例えば外出するとき、玄関のカギを閉めたか閉めてないかと不安になって、ガチャガチャと何度も確認する。酷い日は、通勤のため途中まで歩いたのに、遅刻を気に
詳細は省くが、江永泉さんとひと悶着あった。 約1年前、『反逆の神話』を読んで調子こいてたのは確かだ。でもそれだけではない。そもそも2020年頃まで私自身が明らかに反抗的な人間で、上司と衝突してはすぐ仕事を辞めていた。会社なんて搾取の道具でしかなく、上下関係は不当な抑圧でしかない。当然、威圧的に振る舞う上司は悪でしかない。だから納得いかないことに反抗して会社を辞めることは、社会のためになる善行でもある。このような認識でいた。30後半という自分の年齢を考えると、よくここまで(色んな方面への流れ矢を配慮したやわらかな表現で言えば)「未成熟」なまま生きてこれたと思う。この時期までなら、『ブルシット・ジョブ』やマルクス主義系の資本主義批判本の内容を、快く思ったことだろう。 『反逆の神話』を読んだのは、いつも仕事が続かないのは、自分の振る舞いのせいもあると反省を感じ出し、変わろうと思った頃だった。私の
https://t.co/QZa3JsuKok なぜオタク産業にリベラルが放火するようになったのかの答えって、まあこういう構図だったんだなと、色々腑に落ちるというか、いわゆる「反転可能性テスト」で明らかにおかしいことはわかるが、この文章は半端じゃないほどに精度が高い。 — 鐘の音@32kgダイエット目標まであと-14kg(18kgダイエット中) (@kanenooto7248) November 2, 2021 この展開は、予想してなかった。私が想定していたのは、例えば認知科学や心理学をベースにして倫理や政治を論じることを「なんか危険だ」「差別的だ」と否定したがる人々と、それに反発する人々双方に届くことだった。 書評記事への反応を色々みてあらためて確認したが、「いわゆるリベラル = 二次元創作物の『表現の自由』の敵」とのイメージが、大々的に定着している。 宇崎ちゃん、キズナアイ、碧志摩メグ
はじめに柿埜真吾『自由と成長の経済学』(PHP新書 2021年)を読んだ。 大雑把に言うと、「資本主義やグローバリゼーションのせいで、世の中はどんどん悪くなってる」といった思想を、様々な統計データと角度から批判した本である。ハンス・ロスリング『FACTFULNESS』(2019年)など類書は多いものの、日本の論壇を強く意識した点が希少と思われる。第7章の斎藤幸平『人新世の「資本論」』批判は、一読する価値がある。 しかし先進国中間層の苦境については、ほとんど触れられていない。「資本主義やグローバリゼーションのせいで、世の中はどんどん悪くなってる」と批判する、マルクス主義系書籍が大きな支持を集めるのは、先進国中間層のの苦境に敏感だからである。 どちらかと言うと、大局で同意できるのは柿埜さん>斎藤さん なのだが…。 グローバリゼーション肯定論と否定論、それぞれにおける盲点について、この機会に解説
オリジナル版『ルックバック』のよさは、能力主義と格差の描写にあった。修正版は、敵が安っぽいネオリベ風に改変されて悪くなった。 はじめに「『ルックバック』の描写は、精神疾患患者への差別である」。こうした批判をジャンプ+編集部が受け入れ、新たに修正版を公開しました。編集部としては、「作中の描写が偏見や差別の助長につながることは避けたいと考え」た結果であるとのことです。 私は修正版を読んで、率直に言って問題のシーンが「かなり気の抜けた表現になってしまったなぁ」と残念に思いました。どこがどう違うのかを「勝者と敗者」「格差」「能力主義」といったキーワードから語ります。 オリジナル版にあった犯人の創作コンプレックスが消えてしまった。「オリジナル」版の殺人犯は、京本に対し、「自分の絵をパクりやがって」と非難を浴びせていました。また学内に飾られている絵画から、自分を罵倒する声が聞こえた、と新聞で凶行の動機
はじめに当ブログ読者はご存知の通り、小山田さん問題が炎上したためではなく、それ以前からカウンターカルチャー的思考や、これを汲む「悪趣味/鬼畜系」へと批判的関心を向けておりました(URL)。 現状で史料の大量精査は難しいので、ひとまず私なりの初期報告、教訓をまとめます。幾つかあるのですが、今回は「不道徳性のチキンレースとか、ワルについての差異化ゲームの危なさ」についてのみ説明します。 不道徳な差異化ゲームの加熱は危ない同時代を知る雨宮処凛さんと中村佑介さんは、どちらも"差異化ゲーム"として、90年代の「鬼畜」「露悪」な文化圏を捉えています。 あ、私、この手の話するとなんかヤバくなる。普段の感覚とか吹き飛んで、「より鬼畜な方が偉い」みたいな90年代サブカルの感覚に支配される、と。 貧乏で、お先真っ暗で、自分以外の同世代の女子たちはキラキラ輝いて見えて、中学のいじめ以来ずっと対人恐怖で人間不信で
はじめに90年代鬼畜系文化は、日本における「抑圧と自由」の問題を考える上で学びの多い対象と言えます。といっても私は殆どこのテーマについて知りません。というわけで手に取ったのがロマン優光『90年代サブカルの呪い』(コア新書 2019年)。……かなりの良書でした。 著者のロマン優光さんは鬼畜系に対し、「昔は何でもありでよかった」というスタンスではなく。一定の良識を持って対峙しています。このため単に対象ベッタリよりも、読者がともに思考できる有意義な語りになっています。 鬼畜系とは何か特に90年代後半に盛り上がったサブカル・ムーブメントです。「徹頭徹尾加害者であることを選び、己の快楽原則に忠実に生きる利己的なライフスタイル」(同書Kindle版 No.73)が、鬼畜系ライター村崎百郎さんによる鬼畜の定義です。こう書くと怖そう、不愉快と感じる人もいるでしょう。半分はその通りです。この定義は村崎さんと
シャアとアムロ、ラディカリズムと改良主義とっつきやすい話から始めましょう。『逆襲のシャア』におけるシャアとアムロの対比は、「ラディカリズム」と「改良主義」をイメージする上での、便利なコンテンツです。 私が信頼を置くフォロワーさんの一人は、こう申してしております。「圧倒的にアムロに共感する」が「インターネッターは『シャア』好きが多すぎる」。どういう事でしょう。 未見の方に解説しますと、『逆襲のシャア』では環境問題が大きなテーマになっています。雑に言うと、環境問題を解決するためにでかい隕石を落とそうとする男と、それを阻止する男の喧嘩です。 現実世界に引きつけて語ると、『逆襲のシャア』に連なるガンダム世界は縦軸と横軸、2つの対立軸に整理できます。また2つの軸は、現実世界の時系列では「1960年代末の若者たちの世界的反乱」以前に支配的だった論点と、後に支配的となる論点、という区別に被せる事ができま
反逆者のネオリベ嫌い?『闇の自己啓発』著者の一人、江永泉さんから反論をいただきました。私のこの記事への批判的応答ですね。 ゲバラのTシャツと、マーク・フィッシャーの自殺 「本質の99%を込め」た一言が「異常者マーケティングうざーーーーーー」であると表明して注目や拍手を集めていた記事の書き手が、その記事の内容を「マーケティング手法に、「ちょっとやりすぎなんじゃない?」と物申す」ものだったと回顧する記事を書いており、その要約は論調に対して控え目すぎでは — 江永泉 (@nema_to_morph_a) June 29, 2021 リプライツリーになっているので、詳細は上記ツイートをクリックして読んで見て下さい。 私が書いていないこと(「お前らのような書き手に人道を云々する資格はない、お前らのようなやつ相手ならそういう書き方をしてもいい(「冷や水を浴びせてやる」くらいで十分だし、自業自得だ)」と
はじめに最近びっくりした出来事の一つに、とある人のツイートがあります。 一瞬なにが問題になっているのか、うまく捉えられませんでした。「自由意志」を特集することは、何か不味いことなのでしょうか。(※注:後のTLを辿ると、「うわ、これは…」の方は本当にこのツイートのみでした。もう一人の方と他人との会話を見ると、どうやら女性の人数が少ない事に異議申し立てしていたようだ、と分かります。) 自己紹介文や経歴をみると、どうやらフェミニズム寄りの人であるらしいです。そしてこの雑誌の執筆陣は、名前からすると殆ど男性です。 ここから言外の意図を憶測すると、 日本人口の約半数は女性である。なのに執筆陣が殆ど男性なのは不正だ。といったことを言いたいのでしょう。間違っているでしょうか。でも明言されていないので分かりません。 もしそうであるなら、ある程度共感できます。「自由意志」の有識者に"生来の" "自然な"適性
ゲバラのTシャツ現象書籍『闇の自己啓発』のマーケティング手法に、「ちょっとやりすぎなんじゃない?」と物申す記事を書いてしばらくたった頃。 『闇の自己啓発』の異常者マーケティングがうざい件について:でも「ほとんど無害」 https://note.com/rakkoblog/n/n762dff7cb61e 書店に行くと色んな本に、「闇の読書会」という黒いラベルが貼ってあったんですよね。 https://twitter.com/kikuya_kokura/status/1387299136043577345 https://twitter.com/akirams/status/1385395686183604227 『闇の自己啓発』著者がPR。 このnoteでも、早川書房さんが仲介して読者を広げる活動をやっています。読書会を活発にして読者層を増やす。『闇の自己啓発』著者たちは、こうしたマーケティ
『現代思想』2021年6月号の特集「いまなぜポストモダンか」。 ミチコ・カクタニ氏やリー・マッキンタイア氏は、自著でポストモダン思想がトランプ現象を生む要因になった、と批判しています。この特集ではこうした解釈を一蹴する記述をしばしば見かけます。 例えば乗松亨平「ポストモダン右翼は哲学の夢をみるか?」は、次のように述べています。 "『ポストトゥルース』(二〇一八)でリー・マッキンタイアは、かつて左派の展開したポストモダン理論が、二〇〇〇年代以降の右派によるポストトゥルース的な実践を準備したと論じ、そうした右派を「ポストモダン右翼」と呼んでいる。この見立てが「ポストモダン理論」の粗雑な理解にもとづくものであることは、監訳者の大橋完太郎が附論で詳らかにしているとおりだろう。だが一方で、粗雑なレベルでは、マッキンタイアと同様の印象を抱くのも事実ではないか。[省略]"(同書85頁)これで少し思い出し
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