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ドラクエ3
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先日来ハマっておりましたiPhone4のバッテリー消耗が激しい件、恐らくこれが結論です。 仕事サボりまくって調べた所、急にバッテリー消耗が酷くなった件に関して、3G/3GSをiOS4にアップデートした方々にも多く見られる事が判りました。それによると無線LANとリンクが繋がったままになり、ハードリセットで解決するという情報があちこちに…。コレは、と思い無線APでクライアント情報を見てみると、確かに私のiPhoneもスリープ状態でもリンク確立のままになっています。 各種機能をオン・オフしながら試していくと…、FaceTimeの仕業だぁぁぁぁぁぁぁ!!! 位置情報、通知機能はオンのままでもスリープにすれば1分程度でリンクが切れますが、FaceTimeがオンの場合何をやってもリンクが確立したままです。この状態で無線APが不安定だったりゴミパケットを吐き出しているとiPhoneが常にアクティブな状態
kiyaさん所の「見捨てないで」という言葉の裏に潜む強者の論理という記事へのブクマコメントについてです。 2006年09月16日 umeten 非モテ, 身体と精神, 批評 幼少期の愛情不足云々という議論には感心しない。幼児期健忘という現象もあるし、育児や教育という視点の強化は、むしろ自己中心性を強化し、他罰的志向を強めることもあるのではないか。 2006年09月16日 rangelife422 人間 性向的な部分もあるが、この心理状態は多くの場合幼少期における愛情に対する飢えから生まれる。即ち幼児期の全能感が失われる際の周囲の状況が強く影響する。本質的に別物と考えるべき。 これは私へ宛てた物という事でちょっくら書きます。 umetenさんの危惧は尤もだと思います。そういうミスリードになるのは私としても本意ではありません。ただこの「幼児期の全能感」と言うのは、記憶するしないに関わらず、等し
ここ最近あちゃこちゃで結婚ネタを見かけますね。『オタにはオタ趣味にある程度以上理解を示してくれるパートナーで無いと』とか色々。読んでて感じるのが、何だかみんな『結婚しなくちゃ!!』みたいな意識があるのかなー、と*1。これがすっごい不思議。既婚者の私が言っても反発されるのかもしれませんが『別にしなくても良いじゃん』と思うんですよねぇ。 趣味をある程度以上優先させたいのなら結婚はしないのが吉。万が一趣味に理解を示してくれる、または理解できるようになれそうな相手が見つかったらその時考えれば良いじゃない。 結婚って面倒なものですよ。趣味の相違に留まらず日々の生活リズムや食事の好み、果てはトイレの紙の使い方まで違う2人が生活を共にするのです。そりゃぶつかるに決まってるじゃないですか。結局はどこでお互いが妥協するかでしょう。趣味では絶対に妥協したくない、とお考えなら多くの場合結婚しない方が幸せなんじゃ
ツンデレ喫茶なるものも出来たと聞く昨今、オタ業界の最先端はツンデレなのか?なんて事をぼんやり思ってたら思いついたんでメモ。 ツンデレの芸風って、古くは硬派男性のものですよね??? 野球部主将のAくん。女の子には人気があるけど彼は野球一筋。しかしちょっとだけ気になる女の子Bさんがいる。授業中ふと目をやると窓の外をぼーっと眺めているBさん。Aくんが暫しその姿に見入ってしまうと、ふとこちらを見たBさんと目が合ってしまう。笑顔を送るBさんに対し、Aくんは照れ隠しにぷいっと横を向いてしまう。 ある日Bさんが手作りケーキをAくんへプレゼントしようとすると『そんな甘いもの食えるかよ!でもまぁ仕方ねぇな。捨てるのも勿体無いから俺が食ってやるよ。』そして翌日、帰り際に下駄箱で会ったBさんに小さな声で『結構…美味かったぜ…。じゃぁな!』また作ってあげるねーっ!の声に『俺は甘いもの嫌いなんだよ!』 ほぉらぴった
むかーしちらっと書いたけれど、私は「本当の自分」という言葉が嫌いだ。CMで『ホントの自分、デビュー♪』とか言ってるのを聞くとイラッと来る。コンタクトをする事で「ホント」になる程安っぽい人間なのかお前は。つーかそれで「ホントの自分」と言うのならば、ホントなのはコンタクトだけだ。お前=コンタクト。アホか。 本当の自分なんてのは何処を探しても見つからない。自分の中にのみ存在する。探すまでもなく今あるまま、そのままが本当の自分なのだ。過ちを犯して悔いている自分、思った通りに行かず納得できない自分、それら全てが「本当の自分」だ。 そして同時に他人とっての本当の私も、他人の中にしか存在しない。そのギャップに悩まされる事も多いだろう。それがどんなに一面的で極端な人物像であっても、相手にとっての自分はそうなのだ。それを「本当の自分を理解していない」などと詰るのはナンセンスだ。自分の考える「本当の自分」の像
コミュニケーション能力はもういいよ(from hopeless worldさん)でのコメントの遣り取り以来、コミュニケーションスキルとは何ぞや、と再度引っ掛かってしまいました。で、もう一度「コミュニケーション」に戻ってみる事に。 はてなではこんな感じ。 日本語では「意思疎通」などと訳されることもある。 デジタルツールの普及した現代では、それらを利用した他人とのコミュニケーション能力は進化しつつあると言われると同時に、直接会うなどの方法によるコミュニケーション能力は逆に衰退しつつあると危惧されることもある。 NLPでは、「コミュニケーションとは、相手の意欲を引き出すこと」と定義 Googleさんで調べるとこんなのも。 相互作用過程説:相互作用としてのコミュニケーションが社会の基本的単位である 刺激−反応説:コミュニケーションは刺激,反応,学習の連続によって習得されるもので社会調節,管理の手段
Leiermannさんの所のこの記事についたトラックバック(kusamisusaの日記さん・烏蛇ノートさん)で出てきた話題について思った事を幾つか。 「恋愛」がある一人(若しくは特定範囲)の人間を特別扱いする行為である以上、それが差別的側面を持つ事は否定できないでしょう。しかしヘテロセクシャルである男性が恋愛を否定するからと言って、それが即ちミソジニー(女性差別・女性蔑視)になると言うのは余りに短絡的ではないですかねぇ? ミソジニーは、女性の持つ個別的事象を捨象して女性というセックス全体を差別・蔑視するものですよねぇ。私は、Leiermannさんがこれまで記事の中で繰り返し否定してきたのは、セクシャリティにおける「男」や「女」に含まれる「ジェンダーに根差したモテ志向」であると受取ってます。彼の主張は、仮に彼がホモセクシャルだったとしても、セクシャリティに対する嗜好として特に破綻は無いですね
劣等感って嫌な響きの言葉ですよね。『劣る』という言葉そのものが与えるイメージが良くないし、ルサンチマンの源泉とされたりもしますし。でも私は劣等感こそが人を成長させると考えています。 私は子供の頃部屋に篭って本ばかり読んでいて、運動がとても苦手でした。ぽっちゃり体型で走るのは遅い、野球のフライは捕れない、ドッジボールはキャッチできない。スポーツそのものが私に劣等感を抱かせるものでした。 しかし、小学校の終わりの頃でしょうか。体育の時間にバスケットボールをした時の事。思ったよりもゲームに参加できたのです。初めて体育の時間に周りに必要とされたのです。気を良くした私は中学校入学と同時にバスケ部に入ります。それまで「運動オンチ」と散々馬鹿にされ続けた私は、皆を見返してやろうと練習に熱中しました。そして1年生チームの中ではレギュラー扱いを受けるまでになりました。その後転校を機にバスケ部は辞めてしまいま
大人になってからの脱ヲタは難しいのではないか(from outsider reflexさん)のコメント欄より「はるじん」さんのコメント ファッションの種類・傾向は何パターンもあるので、いろいろ試して見てください。 まぁ、何よりまずは関心のアンテナに情報をぶち込むために、いいなと思うファッション誌を買ってみてください。 ですからね、ファッションに時間や金銭を割かない人にとっては、対象に興味が無いんですから『関心のアンテナに情報をぶち込』まなければならない理由がないですよねぇ。仰るように趣味の範囲が広い方が世界が広がる可能性は高いです。しかし趣味の範囲が狭い人にとっては、その趣味を思いっきり深める事によって判る物ってのがあります。一長一短で、どちらが正しいなんて言えませんねぇ。また、何事にも関心のない人がいたとして、『関心のアンテナ』にファッションをぶち込まなければならない理由、それがファッシ
偽うつ病患者は、誰にも見破れない危険性が有る(from heartbreakingさん) 最後に名前を出されたので私からのお返事です。 まず最初に申し上げておきますが、私はあなたの『鬱病という病気は存在しない』というご意見には全く反対する立場です。ご自身でもある程度以上の知識はあるとの事ですが、τさんやLeiermannさんの示されたサイトで明確に書かれているように『鬱病』という病気は存在します。何故否定されているのか理解に苦しむほど、お二人のコメントで述べられている通りです。脳の器質的な問題として(セロトニンの不足等)『鬱病』という病気が明らかであるのに、それを『無い』とする論理は飛躍としか云い様が無いと感じます。 ゆがんだはしごさんが考えているのは、『診断』の問題ではないかと感じたのですが如何でしょうか。実際鬱病になってしまった人の脳内では、セロトニン等の分泌が阻害されて病状が現れてい
続:「オタクにオシャレな服を売る」ための発想 (from Heartlogicさん) ●機能を売る、とは 機能で売るといえば、昔はお前はどこの釣り師か従軍カメラマンか、みたいなポケットの多いベストを着たオタクがいっぱいいた気がするけど、近年は見なくなった気がする(そういえば以前、山に写真を撮りに行こうと思ってその手のベストを買ったんだけど、着た姿を鏡で見たら「これからコミケに行く人」にしか見えずブルーになった。これは単に自意識の問題だけど)。あと、無駄にでかいバッグをいつも持っているのも、機能性重視の結果ですよね。 それはともかく「通気性が高くてムレず、突然の雨を防ぐ機能もあり、ポケットが大きく、金が取り出しやすく、地図が取り出しやすく、スリに遭いにくく、紫外線対策もバッチリ。しかも長時間並んでも疲れません」みたいな服があったら夏コミ用の服として売れるかもしれない。が、「じゃあ買おう」とい
前回記事「モンダイは何処に?」へのコメントに応えて。 まず、素朴な疑問さんのコメントについて、私も大いに同意いたします。ただ、現状そのまま適用出来るのかという部分で、Leiermannさんの仰るように『「モテない事をモンダイとする」価値観に取り込まれている面がある』事と、ラブハラスメントが「モンダイ」としては一般的に認知されていない事が障害になると考えています。*1 「非モテ」を扱っているサイトで良く見られるコメントとして『モテたいんでしょ?だったら〜云々』という類のものがありますが、この理解自体が偏っている事に気付いていらっしゃらない方が多いようです。無論「モテたいけどモテなくて不満たらたら」な人もいますが、「非モテ」全体をそう捉える事は、事実を歪曲しているとしても云い過ぎではなく、ラブハラスメントの問題が隠蔽されている事に他ならないでしょう。これを告発する手段として「非モテ」を称する意
非モテが死んだ日〜予言〜(from Welcome To Madchesterさん)を読んで。 非モテは「弱者」なのか?断じて違う。黒人やユダヤ人や被差別部落の人々が「弱者」では無いように、謂れの無い「差別」の結果「弱者」という地位に貶められるに過ぎない。「モテない」事は「弱点」では無い。他者からそれを「弱点」だとされ、「弱点」を克服するよう明に暗に強いられる事が、当事者に劣等感や怒り、恨みを募らせるのだ。それが「差別」という問題の本質ではないだろうか。 モテない事はモンダイでは無い。モテない事をモンダイとする事がモンダイなんだと、そう思うんですよねぇ。
前回から引き続き『電脳ポトラッチ』さんに対してのエントリになります。 普遍なものは何か 前回記事にて『普遍』が誤解されたとの事で今回のエントリを挙げられたそうです。が、誤解が高じて決定的な亀裂にまで行きそうな気配。 (1)普遍性があるもの→他者とのつながりを欲する気持ち・それを持たなくてさみしい気持ち・孤独感・好きな相手のために何かしたいという気持ち で、私は懲りもせず飯の話で喩えます。 前回は恋愛をカレーに喩えました。で、それより一歩引いた『他者とのつながりを欲する気持ち』を喩えるとすると、それは『食事』そのものです。人間が生きていく上で欠かせない『食事』。社会的生物としての人間にとって『人との関わり』というのは、切っても切れないものでしょう。その意味で『普遍』と言いたい気持ちは良く判ります。 しかしね、拒食症の人はどうするの?食わないと生きていけない、けれども食えない、食いたくない。そ
私カレーライスが嫌いなんですよねぇ。あの臭いと味、見た目も含めて兎に角嫌い。子供の頃から苦手で、家で出てくるときは私だけ焼き魚。給食のカレーなんて地獄。教室中にカレーの臭いが充満するわ、食べ終わらないと遊べないわでそりゃぁ堪らなかったですねぇ。も一つ言うと豚汁も同じ様に嫌い。 でもみんな好きじゃないですかカレーと豚汁。で、みんな私に言うわけです。『カレーの美味しさを知らないなんて、お前は人生で大きな損をしている』とか何とか。いらん世話なんですよ。『カレーの何が嫌いなんだ』と問われれば『臭いが嫌い』だとか『味が嫌い』と答えます。と、『あの臭いが食欲をそそるんじゃないか』や『美味いじゃん!』と帰ってくる。全く噛み合わない。最終的に『カレーが大好きな皆さん』は私の事を『何て愚かなんだ』ってな顔で見て話が終るんですよねぇ。 『恋愛』も同じじゃないですかねぇ。カレーと恋愛は普遍的に素晴らしいものなの
当事者問題を殊更に取り上げて排除する動きが嫌。別に私が既婚者だからという理由なんかではなく、完全に当事者にしか存在しない・理解できない問題であれば、現在のような問題意識の共有なんて起こらない訳で、問題意識が一部でも共有されるという事は共通した問題が存在するって事じゃないですかね。それは現在においても当事者であるか、以前当事者であったかによって、切実さの程度において違いはあるだろうけど、ある種の問題として等しく共有する事は出来るだろう。 ついでに言えば、問題に対する解は一つでは無くて、色々な中から個々の必要とする解を選択して行く事が望ましいと思うんですよ。個々の背景や理想が違うからこそ、解の選択肢は多い方が良い。その上で、解を選択する過程で自らが「好ましい」と感じる解以外を、「好ましくない」という理由で排撃するのはホントに不毛だと感じる。相容れなくても良い。けれども「相容れない」と感じる物を
そろそろ一段落してきたんじゃないかと思って影でコソコソ書いてみる。これまでの話の流れは、こんな僻地を覗く人はご存知だろう、と言うことで割愛。個人的な覚え書きみたいなもんですねぇ。大まかなはてブの問題点は以下かな。 『一般ユーザーの閲覧は可能であるが、はてなユーザー以外所在に気付かない場合がある』 『一方的にコメント出来る為荒れやすい』 『50文字制限によって意図が伝わらない事がある』 むー。コメント欄に書く、もしくはトラバで全て解決な気がする。暫く前ブクマコメントに関してぽそっとコボしてみたんですけどね、こんな事になる気がして。コメント欄に引っ張り出そうとしてブクマコメントに返答するエントリ立てたり。 ただ私自身はてブ使いながら、覚え書きと併せて一言コメントや批評的な事も書いてるんで、人の事は言えませんかそうですか。議論に発展させて対論するほどの興味までは無い場合なんて、一言コメントはとっ
emulated mind : キモオタの生きる道 (from児童小銃.456さん) ネィティブな共感性の欠如を、他人の心をエミュレーションすることで補うということだと思う。キモオタの実態がなんであれ、大人になってから共感性そのものを養うことが困難なら、脱キモオタにはこのやり方しかないのかもしれない。 じゃぁ『普通の人』*1が持っている共感性ってのは何なの?という疑問がむくむく。 共感するってのは例えば『自分が相手と同じ経験をしたならば、同じ様に感じるであろう(その逆も)』と考える事ですよねぇ。それこそがエミュレーションではないですか?共感って精々そんなもんだと思うんですよねぇ。 「相手に共感できない」と言う場合、「経験的に類する物が無くエミュレーション不可の為」なのか、「エミュレーションしたが別の感想を得た為」の2種類な訳ですよねぇ。前者の場合脳の器質的な問題もあって「経験からの帰納的結
先日のエントリ『脱「脱オタ」』に対して、sivadさんより次のようなブクマコメントを頂きました。 『外見に感情が左右されること自体はどうしようもない。必要なのは多様化。』 仰るとおり『外見に感情が左右される事』それ自体の存在は否定できません。ファッションと言う徹底して外部化されたツールは、我彼の差異を一瞥しただけで認識させる事に適した道具ですし、そこには好みがあるでしょうから。上掲のエントリ『脱「脱オタ」』にて『差別されることが問題なのでは無く、侮蔑される事が問題なんですよ。』と書いている様に、私は他者との差異を求める感情を否定しません。自我を意識する際、そこには常に自我とは異なる他者が存在し、その差異を持って自己たらしめる事になるからです*1。そしてこれはファッションにおける差異化でも同様だと考えています。 服飾と言うのは本来、社会的行事におけるルールとして存在しました。それが階層の多様
最近あちこちで言われてますねぇ。『脱オタの目指すものはオタク趣味を放棄することではなく、脱コミュニケーション不全とか脱非モテと呼ばれるものだ』って話。まぁ、現実的には『オタク趣味が一般的認知を受けたから』放棄しなくても良い、って話になってきたと言うことでしょう。 んでもね。最終的に目的とするのは何なのか、と。それが肝心じゃないの?と思うわけです。誰かに愛されたいのか。それともあれやこれやの差別を受けなくなりたいのか。どうもその辺りが混ざった状態で話が進んでいる気がしますねぇ。 愛されるってのは、他の誰かと区別して自分だけを特別扱いしてもらうという事で*1、ある種の差別を容認せざるを得ない。これは同時に、差別を完全に否定する事は個として愛される事を否定する事でもあります。そう。どちらも問題の本質では無い。差別されることが問題なのでは無く、侮蔑される事が問題なんですよ。 この侮蔑感情の根っこに
前回のエントリ「恋愛する事は不幸なのか、それとも幸福なのか」へのブックマークコメントにて、id:memoclipさんより『社会に関わらないと人間は細り弱っていく。おかしくない、必要だ。』との言葉を頂きました。『社会的承認との相互作用にて人は生かされており、社会的承認は否定されるべきものではない』との意図と解釈しましたが、これでよろしいでしょうか? 取敢えず、この解釈を前提としてお答えしたいと思います。 さて、社会的承認の存在意義については私も否定いたしません。寧ろ自己実現や自己承認の過程、自己不全感の超克において多くの場合必要とされ、プラスに働くケースも少なくないと考えています。人間は「社会的生物である」と言われるように、自己承認と社会的承認は密接な関係にあり、相互に作用しあうものでしょう。 『仕事』で考えてみると、会社という共同体=社会の中で自己実現するには社内の社会的承認が必須ですし、
「白痴でいること」は不幸なのか、それとも幸福なのか (from ゾゾコラムさん) 『ガンスリンガー ガール』って読んだ事無いのですが、ちょと読んでみたくなりましたねぇ。 で、毎度恋愛ネタに持って行って申し訳ありませんが、今回のid:zozo_mixさんのエントリのこちら 自我がない彼女たちは、公務である「殺人」を、淡々とこなす。殺人が「うまくできる」と、誉められるから嬉しい。殺人が「うまくできない」と、失望されたり嫌われたりするから悲しい。義体たちの価値基準は、これだけだ。生きる目的が「人殺し」であること、その目的のためなら自己犠牲も厭わないこと、そのことに疑問すら感じないこと。集約するとつまり「自らで判断する自由」を奪われた少女たちは、限りなく不幸である、と思う。 この『殺人』を『恋愛』に置き換えてみると 自我がない人々は、公務である「恋愛」を、淡々とこなす。恋愛が「うまくできる」と、誉
「○○しなくてもいい」という言葉の残酷さ (from hopeless worldさん) ん〜〜〜〜〜。 色々考えてたんですけどねぇ。結局『恋愛が普通にできることが社会的承認を得る最低条件』に同意できないので、ちゃぶ台返しにしかならないんですよねぇ。やっぱりこの前提条件が成立している(と受け取る事が出来る)事が一番の問題なんじゃ無いかと。 例えば、中国に行ったことの無い人が中国の事を語ってはいけないのか*1、と聞かれれば殆どの人が『そうではない』と感じるんじゃないですかねぇ。同じ様に、恋愛経験の有無は関係なく恋愛を語っても良いし、そこに主観による評価があって良い。そして恋愛なんてどうでも良くて、全く無視したって構わない。 勿論、経験の有無で知っている事や感じ方に違いはあって、そこに差異は生まれるけれども、それは『自らの経験、知識が全てでは無い』ときちんと認識し、決め付けさえ行わなければトラ
先日のモテ-非モテの分類を行った際に、喪人さんよりこんなコメントを頂きました。 モテ/非モテ軸を、「恋愛至上主義の指向/否定」軸にして、状況的に「モテる/モテない」軸を加えてマッピングの分類にしてみてはいかがでしょう?個々人の思考に対して個々人の環境がどうなっているかの乖離によって色々と分類しやすくなるのではないでしょうか。 それに対して私は『「恋愛至上主義」と「ルッキズム」は別軸にしないと、現実との齟齬が大きくなるかと考えてますので、3軸になるんですよ。ごめんなさい。おっつきませんでした。』という風にお答えしていたのですが、その後「恋愛至上主義」という言葉についてもう少し掘り下げてみたい、と考えてましてねぇ。 現在恋愛至上主義といえばモテの帝国、悪の巣窟と言う事で、ラブハラ問題の本丸になっていますねぇ。この点での異論は余り無いでしょう。んでもですね、電波男からその語義を拾っていくと 『ル
最近散々ぱら非モテ界隈を散策していて思ったんですけどね。非モテの分類は数あれど、それに対応するモテの分類って皆無に近くないですか?それがまた反モテの方々の怒りをかってる側面もありますよねぇ。ってな訳で、恋愛を軸に全体を分類してみようかと。尚Niemals-Gasseさんの分類を(思いっきり)お借りしてます。その方が判りやすいかなぁ、と。因みに非モテの文脈で語られるモテは、非モテ以外全てを指しているケースが殆どですが、これは現実に即していないと考えてますから「一般人」を間に置きますね。 非モテ ネガ喪(反モテ):内実としては恋愛否定派、恋愛忌避派、恋愛トラウマ派、恋愛憧憬派*1を含む。 未分化非モテ:モテたいがそこまでしたくない。ひょっとすると最大派閥。一部の恋愛憧憬派はここかも。 ポジ喪:そこまでやってでもモテたい。経験によってはネガ喪(トラウマ派)へと転向。 一般人 脱非モテ:非モテより
【非モテ(あるいは喪男)とカテゴライズする事の難しさ】 前回のエントリにて質問をさせてもらいまして、あちこち不備もあってご迷惑をおかけしつつも、沢山のコメントを頂きました。ありがとうございます。 頂いたコメントを読んで感じた事は、「非モテ」と一括りに語られる方の中には、矢張り様々な人がいるのだな、と言う事です。これは非モテを「喪男」と言い換えた所で同じであって、「女性にもてない」というモノサシ一つで測った言葉でカテゴライズする事自体の問題を感じざるを得ませんでした。頂いたコメントやあちこちのサイトを廻って私が受けた印象で分けさせていただくと(1)恋愛不要派、(2)恋愛トラウマ派、(3)恋愛忌避派、(4)恋愛憧憬派、という形になります。更にカテゴライズする形になるので、気分を害される方もいるかもしれませんが、あくまで私見と言うことでご理解いただきたい。 (1)恋愛否定派 3次元における恋愛そ
引き続き元非モテvs非モテ議論の中から、メタな話題を。 現場となっている世界のはてさんでの、覚悟さんによるコメントですねぇ。 喪男側に攻撃的な姿勢の存在が決して少なくない事は 理解してもらえると思います。 彼らとて「喪男、オタク」という仮想敵(というか差別主義)を持って 我々を攻撃しています。 それに対して我々が「DQN、大多数の女」という仮想敵を作って、 反撃しても「やられた事をやり返している」に過ぎません。 私は平和的に理解しあうなどというものはありえないと 認識していますので、こうやって「叩き叩かれ」で結果的に どっちもどっちの状況でパワーバランスを保つ事が良いと思います。 一方的に殴られてばかりだとストレスがたまって 現実世界での暴走に繋がりかねないので。 (中略) 私は争う事で憎しみが募るというのは半分は嘘だと思います。 相手と互角に殴り殴られというなら「お互い様だ」という心理が
前回のエントリに引き続き、世界のはてさんでの恋愛は醜いにおけるコメントでの遣り取りについて。 こちらでは「女性は醜いか否か」の話になっていたのですが、私、どうしても納得いかなかったんですよねぇ。元々覚悟氏の「自分が出来る事、相手に求める事」のエントリにて「こういったムーブメントに乗る女性が如何に醜いか」といった話から始まったわけですが、何時の間にか「○○な女性が醜いか否か」ではなく、「女性は醜いか否か」になってしまった感がありましてね。 女性の醜さの根拠として[高校3年生のSEX経験者数」ですとか、[妊娠中絶率]等が挙がった後、当の覚悟氏の『上記のような論拠(中絶率、浮気率)から導いた「女性の醜さ」に対して反証となる根拠とは?ということでした。』と言うコメントの流れで、『○○な女性は醜い』から、『女性と言うものは○○をするものであって、醜いものだ』という考え方を生む土壌ができつつある、と感
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