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ドラクエ3
yamaki-nyx.hatenablog.com
Written by Man In Black (Alternative Journalist) Published at the present day, present time. "All Reset" 魔法の言葉だ。私たちは随分前にそれが宣言されたのを聞いた気がしているかもしれない。しかしこのリアル・ワールドで、その言葉を聞きたくはない。 そもそもそんな事が人間によって為されるものなのだろうか。私たちの多様な価値観、思想、そして記憶――全てをリセットなど―― 可能なのだ。いや、それを可能にすべく、周到にテクノクラートたちは準備をしてきているのだ。 ワイヤードという“もう一つの世界”がリアル・ワールドとレイヤーで重なった時から、私たちはコミュニケーションを飛躍させてきた。情報の共有はビットの単位ですぐさまに広まる。しかし無尽蔵な情報の奔流の中で、「たった一つの真実」に触れる事など、と
ACT.3は再びサイベリアが舞台となる。 玲音はPsycheをどうしたらいいか情報を得る為に、サイベリアへ向かう。 今夜は地味な格好。 家を出る時、黒塗りの車の中から玲音を観察するレーザー光点が二つに増えているのが判る。 誰か訊ける様な人はとクラブ内を歩…
夏のクラブサイベリアが終わった頃だったか、disk Unionのシネマ館レーベルの人からフォロー要請があり、DMを貰った。 「Duvet」を放送20周年の今年、かつては出された事のないアナログ・レコードで発売したい。ついては本ブログの文章をライナーに転載してよいか、という要請だった。 本ブログは「Duvet」についてから書き始めている。今も尚、気軽に聴く事が出来て「serial experiments lain」シリーズ全体を思い返そうとした時、この楽曲ほど強力な装置は無いからだ。 ブログの1エントリだけではライナーとして収まりが悪いと感じ、多少の加筆をした原稿を送った。 ただ、それから結構間が開いた。 案の定と言うべきか、権利元との交渉に時間が掛かっていた。交渉に時間が掛かるというより、交渉する相手に行き当たるまでが難関だった様だ。 しかし企画・担当者の人の熱意は結果を導いた。 この人が
夏のクラブサイベリア、冬のクラブサイベリア大阪と、リアルに「今、lainに強い関心を抱く人々」に触れあう機会があり、その度に放送時の視聴者層よりも若い事に驚いてきた。 作品自体が視聴者それぞれ異なる受け止め方をされる様な作りになっているのだから、それは視聴者層もそれぞれだ、と思いつつ20年を過ごしてきたが、ちょうど放送20周年という節目なのだし、実際のところどうなのだろうという好奇心が強まった。 そこで簡単なWEBアンケートをGoogle Driveに設置してから一週間が経った。 告知は私のアカウントと、ライター・廣田恵介さん(設置したのは彼からインタヴュウを受けた日の夜だった。インタヴュウはややして公開される予定)のFacebookアカウントからのみ。今、Twitterなどでlainについて関心が強い人に限定されている。従って何らかの統計的な価値はあまりないとは思う。しかし概要は何となく
11月26日、プレイステーション用ソフト「serial experiments lain」が発売20周年を迎えた。 12月1日、再びシオドア(@teodoro_m9)氏が中心になって呼び掛け、シオドア氏の地元大阪で、ゲーム版「lain」をフィーチュアしたファン・イヴェント「クラブサイベリア Layer_2」が開催された。 夏のクラブサイベリアは200人規模のクラブで開催されたが、今回は100人規模の小さなライヴ・スペースになる。 シオドア氏を始めとしたサイベリア開催陣は、夏のイヴェントで20年分の全てのエネルギーを注ぎ込んで、直後はもう二度とやらないとまで一旦は言っていたのだが、ややして「大阪でもやってみようかな」という様なツィートがあったので、「交通費持ちで私も行きますよ」とは声を掛けてあった。 暫くして大阪イヴェントの陣容が、WASEI "JJ" CHIKADA(近田和生氏/JJ役声優
凄いな4Gamer記事の注目度は(と言ってもこの記事を面白がったのはヴェテラン・ゲーマーだろうけれど)。 PS版「serial experiments lain」のディレクター、中原順志氏とはここ10年近く連絡がとれていなかったのだけれど、記事を読んだ人が当人に伝えてくれて、久しぶりに連絡をくれた。 忙しく仕事をしているそうで何より。 で、幾つか記事に訂正が入った。 > ATRの人工知能を研究していたところにお邪魔して > サインしてもらったのはトマス・S・レイ氏(Tierraという 人工生命プログラム の人 )です。 > アランケイでは有りません。 だったそうです。 考えると、NOëL絡みで話をという事なら成る程こちらが関係がありそう。 20年前の話なので、みんな記憶が錯綜しているのは致し方ないところ。 Tierraだと、「lain」よりはデジモンテイマーズな方向性で親和性がある話なので
放送開始時は誰も見てないのではと思いながら、次第にスタッフは検索で「lain」に言及しているサイトや掲示板を読んで、ちゃんと見てくれている人がいる――と、モティヴェーションを上げた事は前に記した。 シナリオはもう視聴者の反応を受けてどうこう出来る余地は無かったが、画面の作り込みについては、間違いなく視聴者に「最高の映像を見せよう」という目的意識となっていた。 最終回が放送されると、私がコンタクトをとっていたファンの人達から「玲音がウチに来ました」というようなメールを貰って、安堵したと共に、玲音がもう我々の手から離れたんだな、という寂しさを感じた事は確か当時サイトに記したと思う。 まだシナリオ本やヴィジュアル・エクスペリメンツ(ムック)の作業があって、完全に終わったという実感が無かったのだが、やはり毎週放送していたものが終わったのだから熱は徐々に冷めていく。 当時のネット・ユーザの一部で人気
ぶぉおおおんと一際ノイズが高鳴り、 極限的なフォーカス・イン・アウト そして久しぶりに縦書きの「黒味にスーパー」 「しまえばいい」の行はゆらゆらと定まらないまま。 そして、これまでの毎週冒頭にあったノイズ―― 「プレゼント・デイ、プレゼント・タイム HAHAHAHAHA」 アバンのバンクはフルでノーマルに流れるが、ヴォイス・オーヴァーはなく効果音のみ(これもノーマル・ヴァージョン)。 そして――、 彩度が落とされた渋谷の街、東急本店通り。 人も車もいないそこに独り佇む―― 当たり前だ。自分が最初からいない世界にリセットしてしまったのだから、玲音は悲しんでいる。 空を仰ぎ―― あまりの胸の苦しさにしゃがみ込んでしまう。 そこにもう一人の玲音――「れいん」が現れる。 前話に登場した、初夏のワンピース姿の「れいん」 前話のシナリオでは「玲音」、13話は「lain(便宜上)」と記していたが、隆太郎
最終話の回顧に入る前に、やはりオープニングについて詳しく触れておかねばなるまい。 OP曲bôa「Duvet」については本ブログ初期既に記している。 恐らく2話とほぼ同時期にこのオープニングはコンテが描かれ、豪華な作画陣と極めて精緻な編集を経て作られた。 だからシリーズがどういう展開をし、如何なるエンディングを迎えるのかについて中村隆太郎監督はまだ見通せていない時期に作られている。 しかし、どういう「終わらせ方」にするかについては、もうこのオープニング演出の時点で隆太郎さんの中には抽象的にではあっても既に見えていたのだろう。 私はこのオープニングを「いいなぁ」とは毎週思いつつ見てはいても、このオープニングが何を表しているのか、積極的に解釈をしようとは思っていなかった。しかし結果的にはこのオープニングに収まる様な物語の閉じ方へと進む事になった。 この事に気づいたのは本当につい最近、放送20周年
ファンによるファンの為のイヴェント、「クラブサイベリア」が無事、大成功となった。 メディアの方も来ておられたし、レポ担当の方も撮影担当スタッフもいたので、詳細なレポはいずれ上がると思う。 当日の午後一開場の様子をTweetで見ていたら、既にフロアは立錐の余地も無さそうという。GoPro HERO6+4Kモニタ+LEDライトで展示ファンアートやDJ/VJの様子を撮ろうと思っていたのだが、到底現場で組み立てるのは不可能そうなので、結構離れたところしか空いていなかった駐車場で組み立て、裸でケージごと持ち込んだ。 だが、それでも動画収録など到底不可能という入り。 スタッフ込みでCIRCUS TOKYOのキャパ上限(180)で、フロアでは収容仕切れず地上階のラウンジ(ファンアート展示場)にも人が溢れていた。 ここで近田和生さんと20年ぶりの再会。 今回のイヴェントはこの方無しでは成立し得なかったし、
シナリオ本を見て貰えば、この場面の描写が如何に簡潔に記されているか判るだろう。 玲音対英利の描写は、ほんの一瞬、派手な事が起これば良いと思い、ト書きには何も記していない。 だが中村隆太郎監督がこの場面を簡潔に描く筈が無かった。 ショウちゃんの場面をオミットしてでも、この場面を膨らませたコンテを描いた。 そうした場面が成立するという目算無ければ隆太郎さんはコンテに描く筈がない。 英利は「感覚だって脳の刺激でどうにでもなる。嫌な感覚など拒絶すればいい」と言う。 玲音は振り向き「そうなのかな」と答える。 ありすには英利の姿も声も判らないので、玲音が誰と話しているのか判らない。 「その子が好きなら、どうして繋げてあげない?」 「判んない」 ありすは動揺して、「誰と話してるの!?」と訊く。 再び心を閉ざした玲音に英利は、「バグっている。いいよ、時間をかけてデバッグしてあげる。さあおいで」と、手を差し
ナイツのメンバーを暴き出す為に、玲音は自らの身体にワイヤーを巻き付け、唇にワニ口クリップをつけてまでワイヤードに没入せざるを得なかった。それはしかし、身体の機械化というよりも、自縛というメンタリティに陥っていた精神面の方が大きい。 MIBの二人が玲音の部屋に訪れてくる。 林とカールには態度の違いが見られる様になっている。 「どうしてあんな事をしたの……?」 玲音は、自分が暴いたナイツのメンバーが抹殺されている事を知っていた。 カールは静かに、ワイヤードの神を崇める者達は除去されるべきで、世界中の彼らの仲間がその任務を遂行中だと言う。ワイヤードに神など必要ないのだと ワイヤードは特別な世界ではあってはならない。あくまでリアル・ワールドのサブシステムであるべきだとも。 シナリオでは、玲音はもっと強く異議を申し立てているのだが、この描写では強い言葉は言えまい。岸田さんの設定画で「ぐるぐる玲音」と
リアル世界では全く面識無い同士が、ネット内で共謀する悪意あるハッカー(クラッカー)という存在は実際に実例は無かったものの、「いても不思議ではない」とは思っていた。 デウスを信仰し、様々な意味のある無しに関わらずミッションを遂行するオンライン秘密結社の名称を「東方算法騎士団」にしようとしたら、上田Pから猛烈なクレームがついた。「何で駄目なの?」「ダサいから」 全く納得がいかず抵抗したが、「ダサい」という「感覚」は変えられず。 仕方なく妥協点で、劇中では「ナイツ Knights」とする事にした。 知識がある人には容易に想像がつくだろうが、全く異なる部類から同士の引用なので、判らない人の方が多いとは思う。 アレイスター・クロウリーが後年に属していた魔術カルトである東方聖堂騎士団 Ordo Templi Orientis(略称 O.T.O.の方がオカルト界では知られる)と、ラムダ算法騎士団 Kni
「serial experiments lain」シリーズの監督を探している時期、トライアングル・スタッフの浅利社長と、当時はフィールド・ワイに属していた鈴木誠二氏の推薦で中村隆太郎さんが監督に迎えられる。劇場作品は既に何本も手掛けていたが、テレビ・シリーズは初だというので驚いた。 振り返ると上田Pにとっても賭けだったとは思うのだが、1話のコンテを見て完璧に信頼を勝ち取った事は以前に記した。 ただ、ホン打ち(脚本打ち合わせ)では発言が少なく、実際のところこの監督はこのシリーズをどう思っているのだろう、と考えていた。 シナリオ的にはもうちょっと後だった気もするのだが、この辺りの時期、トライアングル・スタッフの忘年会が開催された。50人以上はいただろうか、荻窪駅南側の大きな居酒屋に多くの関係者が集まった。 私は酒を呑めないのでこういう会合は避ける事が多いのだが、中村監督と話せるかなと思い、出向
中村隆太郎監督参加以前の構想と参加後の全体構想とでは、結末以外は大きく変わってはいない。しかしナラティヴの面では180度近く変わった事は間違いない。 シリーズに着手し始めた1997年はドラスティックな変化がある時期だった。神戸連続児童殺傷事件が起こり、テレビ番組の表現は著しく制限を受ける事になった。 佐伯日菜子さん主演版の「エコエコアザラク」は、私が構成を担当した第一クール(というか、そもそも第二クールがあるなんて聞かされてもいなかった)は影響を受けなかったが、血の表現が多かった第二クールは途中でオンエアを打ち切る。 アニメであっても、平野俊貴監督の「吸血姫 美夕」は妖魔ですら躯を切られる様な描写は、コンテ段階で削除要請が代理店から来て、監督が切れているのを間近で見ていた(私担当話は問題なかった)。 私はホラー作家ではあるが、「死霊の罠II ヒデキ」を書いて以来、もうスプラッターはやりたい
意識変容状態で気づくと、美香は渋谷交差点の真ん中でへたり込んでいた。 その美香を見ている、歩道の人々はまるで人間ではない何かに変容していく。 魚眼レンズ接写はこのシリーズで度々導入されるカットで、リアルに像を歪ませている(Distortion)。 キャメラが引くと、ナイツの紋章が地面に染みのように描かれている。シナリオではプリント基板の様なテクスチュアと書いていた。 美香の人格破壊はナイツの関与したものも契機の一つではあったのだが、本質的には彼女自身が招いたものなので、ここでナイツの存在を強調する意味は実のところ、あまり無い。 ハッと気づくと、今度はありす達が居たファミレスで、コーヒーを前に座っている自分に気づく。記憶に欠落が生じている事に恐れた美香は、思わずカップを倒して濃い色の液体をテーブルに零してしまう(タロウのコーラと反復している)。 慌ててティッシュで拭おうとすると――、液体がテ
同時視聴会の話数も進んできた。 4,5話は中村隆太郎監督参加以前に書いたが、1クール構成なので既にセットアップも終わる事になる。 こうして回顧を書くのは、20年という長い長い時間が経っているからで、そもそも抽象的な物語を言葉で説明する事自体は実に格好悪いものだという自覚がある。 こうして書いている事は、20年後に当時の事を思いだしての記述であって、記憶違いや忘れてしまった事は少なくないだろう。 そして、「serial experiments lain」シリーズの物語は、私なりにはロジカルな組み立てをしているが、異なる物語を読んだ視聴者の過去の体験を否定したくない。なので本ブログの回顧は決して「答え合わせ」なのではない事を今更ながら宣言しておきたい。 「なるべくアウト側に偏心」する事を心掛け、中村隆太郎監督、岸田隆宏さんらのワークから可能な限りフィードバックを受けて、演繹的に作り上げる事を理
名前すらない「少年」がアクセラという精神高揚剤を摂取する。 最初は普通に薬物にしていたのだが、当時でもテレビでそういう描写は駄目だったので、だったらメカにしておけばいいや――という問題では無かったのだが、一応これで通ってしまった。 アクセラという名称はアクセラレーター(加速させるもの)から採っており、当時のPCでは映像表示力が弱く、ビデオ・アクセラレータというデヴァイスがあった。厳密には違うのだが今のGPUの様なものだ。メカという発想はそこから来ている。 安倍吉俊君がデザインしたのだが、これがトゲトゲで(いやまあ『刺激する』裝置なのだから正しいのだけど)、どう見ても呑みにくそうで、カプセルに入れるしかないのだが、そうすると薬物と外見は全く変わらなくなってしまう。 どうしようと言っていたら、3Dをモデリングした中原順志君が「じゃあグミに入ってる事にしたらいいんじゃん」と極めてスマートな解決法
視聴者に異様な体験をさせるのが1話なら、2話からは徐々にドラマとキャラクターを(比較的には)判り易い語り口で提示していく。 しかし勿論、判り易いレヴェルというのがこの作品の場合は通常とは異なるのだが、それでも「ああいかん、判り易過ぎる」と揺り戻す。シリーズを書いている時の生理はそういった揺り戻しの振幅をしていた気がする。 テレビ・アニメには「バンク」という概念があって、今の視聴者には「毎回流れる変身場面や決め技描写」と了解されているのだが、本来商業作品ならそれでも少しは表現を変えるのが送り手の理想だった筈だ。しかし現実的ではなく、ならば、全く同じ場面を流す事で寧ろそれ自体をイヴェントとして愉しんで貰うものへと進化した。 「デジモンアドベンチャー」の進化バンクは、それ専用の、そこでしか流れない歌を流す事でそのイヴェント性を高める事に成功した作品だったと思う。 だが本来業界用語の「バンク」は「
さて長々と記してきた1話の回顧もここまでとなる。 最後のくだりについては、もうシナリオ云々ではなく、中村隆太郎監督の演出パワーに尽きるのだが、言及しておかねばならないのが、鶴岡陽太音響監督と音響効果の笠松広司氏の作り上げる音響デザインである。 シナリオでは確かに電線が「わーん」と音を唸らせるという描写は書いたものの、普通の住宅街の電線に音が鳴っていたら生活出来る筈がない。 玲音は電波/電線過敏症なのだというイメエジでの描写だったから、どんな効果音がついても構わなかった。 しかし笠松さんは変電所まで行ってコイルが唸る音を録音してきた。 シナリオにもコンテにもない、ハードディスクがシークする微かな音もつけてきた。 「serial experiments lain」は決してカルトな作品にしようという意図を抱いていた訳では無いが、カルト的な要素があるとするなら画面以上に音響のもたらすトランス感は大
玲音の「父」役・康雄をどういう存在として描くか、その結着のさせ方は、大林隆介さん(当時:隆之介)の演技を聞いてから決めた――と私は記憶しているのだが、1話のアフレコ後に終盤のシナリオを書いている事など有り得るのか、と考えると錯覚なのかもしれない。 ともかくも、大林さんの演技には強い感動を覚えた。 帰宅してからすぐさま、PCパーツ(多分この頃だとEISAバスの拡張カード)を増設する作業を始める父の部屋に、玲音はくまの着ぐるみパジャマを着て様子を伺う。 このくまパジャマの設定が描かれてきた時(シナリオ打ちには岸田さんは来なかった)、私個人の動揺についてはシナリオ本注釈に書いたのだが、何より上田Pが「こんな媚びた服を玲音は着ねえ」とか言い出さないかハラハラした。 ここで中村隆太郎監督は、「いやこれは冗談で描かれたものじゃないんだ」と、上田Pと私に説明をする。 玲音は自分の家族にもおずおずとしかも
シナリオ本が手元にあったら当該箇所を読んで比べて欲しいのだが、玲音が「千砂ちゃんからのメール」が心の中で大きなものになって、どうしても確かめたくなって初めて子ども用NAVIを起動するまでの流れを、シナリオではあっさりと書いていた。 中村隆太郎監督のコンテで、そこに至るまでの流れは極めて濃厚な「溜め」を作られている。テレビアニメなら短いカットを重ねていくところを、劇場アニメの如く長いカットで描かれており、このシークェンスは1話、いやシリーズ全体を通しても白眉と言えるものだ。 玲音は孤独を自ら好んでいる少女ではない。そう隆太郎さんは解釈して、窓際に多くのぬいぐるみを並べた。 (今は)空虚な部屋に帰ってきた玲音が、肩を下げてリュックを降ろし、制服の上着を脱ぐまで。暫しベッドで物思いに耽り、ややしておもむろに勉強机の上を片付け始め、奥に押しやっていたNAVIを前に持ってくる一連の長回し。 Powe
シリーズの玲音以外のキャラクターに安倍原案は無く、岸田隆宏氏がゼロから全てデザインを起こされた。後にAX連載などで、安倍君によるありすや英利の絵も描かれる事になる。 ありす、そして級友の麗華、樹莉はいずれも「ありす in Cyberland」のヒロイン3人と名前を共通させている。勿論岸田さんはそんな事情は全く知らずにデザインしているのだが、何となくキャラクターのバランスは近いものがあって興味深かった。 勿論、こんな成立事情は視聴者が知る由もない事で、無視して貰って構わないのだが、私がこういう「スターシステム」を用いていた事についてはいずれまた改めて書こう。 ここで書いておかねばならないのは「ありす」についてである。 物語を書いている時には何ら意識していなかったが、距離を取ってシリーズのストーリーを見返してみると、一種のラヴストーリーと読めなくもない事には気づいていた。あまり指摘された経験が
1話目だけは、何年かに1回は見返す機会があった。だがどちらかというと「見せる」というシチュエーションで、自分自身が没入して見返す感覚ではなく、冒頭の渋谷センター街の描写やコギャル(死語)など、流石に「古さ」を感じてしまうなぁという印象だった。 しかし、NAVI機材など部分的には風化していても、普通の生活環境、学校描写などは案外今と左程変わらないのではとも思った。 「serial experiments lain」の物語は、千砂という少女の自殺から始まる。 冒頭登場間もなく姿を消す少女――という在り様は、「Alice6」と重なると気づき、四方田千砂という名前になった。 「予め失われた少女」が即ち四方田千砂なのだった。 死んだ子からメールが届く――、というフックで始まるこの1話のストーリーは、言うまでもなくホラー仕立てとなっている。 ここで私が用いる「ホラー」は、原理主義的な意味でのホラーであ
20年前に1クールだけ放送したアニメだが、今尚現行商品が流通しているというのも今更ながら驚く。 シナリオエクスペリメンツ レイン 小中のシナリオに膨大な注釈を入れたもの。ソニーマガジンズ版を元に、復刊ドットコムが2008年に複写復刻し、上田P、安倍君、私の鼎談が新規に収録されている。一回の刷数が少ないものの、こまめに増刷されているので、品切れの時は少しお待ち戴きたい。 ヴィジュアルエクスペリメンツ レイン こちらは写真製版の原板が残っており、そのまま復刻されていて、細かいディテイルもそのまま。Hazukiルーペ必携(50代以上の人は)。 岸田隆宏氏や、原画参加されたスーパーアニメーターの方々の版権アートが収録されている。 an omnipresence in wired 『lain』 画集 安倍吉俊画集。AX誌に連載していたグラフィック・ノヴェルもこちらに収められている。――のに、復刊され
という事で各話回顧に入るのだが、1話はあれこれ説明事も多く、到底1エントリで書ける分量ではない(ので分記する)。 オープニングの入る直前、ノイズから「プレゼント・デイ、プレゼント・タイム」というタイトルが入る。 シナリオではあくまでト書きの扱いで、どういうスタッフが読むのかは判らないので明確にこのシリーズは近未来ではなく「現代」です、というマニフェストのつもりで記していた。 これをネイティヴ・スピーカーにハイテンションで言わせた挙げ句、高らかに笑い声まで付加され仰天した。 当初は「悪趣味だなぁ」という印象だったのだが、短い「素」(す)があって、bôaの「Duvet」が始まり、あのオープニングが流れると、何やらまとまり感が生まれる。 アニメのオープニングは通常1分30秒で、楽曲によってはこのサイズに編集するのに苦心惨憺するものだ。 「lain」OPの、最後のグリーン地の玲音のバスト・ショット
「serial experiments lain」を各自所有するディスク、或いはAmazon Prime Videoなどのストリーミングで同時に再生し、Twitterで実況しようというネットならではのイヴェントが開催された。 7月に「クラブサイベリア」という20周年イヴェントを企画しているシオドアさんがプレ・イヴェントとして提案したもので、そこそこ盛り上がるだろうとは思っていた。 22時ちょうどを過ぎると、リアルタイムで #lain20th のTweetを流していたら、恐ろしい速さでスクロールしていき、短い時間に3000以上のTweetがあって、トレンド入りまでしてしまった。 私は自分の過去作の事はよく言及するが、実際に作品を(一人で)見直すというのが実に苦手で、2010年にリリースされた「lain」のBD Boxも封を切らずにいた。 中村隆太郎監督は既に当時フルに監修出来ない状態だった。
各話を見直して行けば思い出す事もあるのだろうが、オンエアのどれくらい前にシナリオを書いていたかという感覚が思い出せない。 この頃の1クール深夜アニメは、作画イン時に全話のシナリオが上がっている――という前提ではなかったと思う。 製作の円滑さを考えるまでもなく、脚本は全部先に上げておくのが望ましいのは判っているのだが、特に原作となる物語のないオリジナル作品なら、どういう演出をされ、どう画面設計がなされ、如何にキャラクターが芝居をするかを知ってからフィードバックさせないと、私の創作性は萎んでしまう。 13話構成を最初にシリーズ構成として書いた文書はもう手元にないのだが、サブタイトルと三行程度の概要を記した程度に過ぎず、中盤からは全くそれとは乖離したものになっていった。 私が記憶する限り、シナリオ執筆は大きく2期に分かれ、最初の5話までと、それ以降となる。3話を上げる辺りで中村隆太郎監督が参加す
「ウルトラマンティガ」の放送が始まって数ヶ月後(まだ初期クールだったと思う)、ゲーム会社からシナリオを書いて欲しいという依頼が来た。 で、その年の内には「ありす in Cyberland」はPlayStationゲームとして発売になったのだが、それが可能だったという事は、ゲームとしての基本設計も大体出来ており、グラフィックもある程度出来ていた筈だ。 中学生の少女三人が、サイバー世界に「ダイヴ・イン」して冒険をする――という概要も有りきで、私が考えたのはメイン・ルートのシナリオと、設定の名前などくらいではないかと思う(にしても凄まじい速度で開発された事に違いはない)。 アイソレーション・タンクで没入する――というと「エヴァンゲリオン」もそうではあったのだが、私は先ずジョン・C・リリーというか「アルタードステーツ/未知への挑戦」(1979)というケン・ラッセルの迷作(個人的には大好きだった)を
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