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20世紀後半を規定した政治対立軸の一つが冷戦構造だとすると、「ポスト冷戦」、すなわち1990年代以降から現代までの時代はポスト東西対立、換言すれば左右対立...Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。 by akai1127ohi 20世紀後半を規定した政治対立軸の一つが冷戦構造だとすると、「ポスト冷戦」、すなわち1990年代以降から現代までの時代はポスト東西対立、換言すれば左右対立の相対化の時代、とひとまずはいえよう。 とはいえ、ヨーロッパでは冷戦崩壊後も「保守/社民」で政治対立を区分するナラティブは根強く、1990年代はむしろブレア政権やシュレーダー政権など欧州社民中興の時代でもあった。 他方、日本はどうか。1990年代以降の日本は、東西対立由来の「左右対立」をほぼ全面的に捨て去
福田歓一、「日本における「国民的なもの」の形成」(1961年) 同、「国民国家の諸問題」(1976年) いずれも『福田歓一著作集』第4巻(1998)所...Modest Comments on contenporary politics by Akai OHI (Twitter:@AkaiOHI)。 by akai1127ohi 福田歓一、「日本における「国民的なもの」の形成」(1961年) 同、「国民国家の諸問題」(1976年) いずれも『福田歓一著作集』第4巻(1998)所収。 「日本における「国民的なもの」の形成」では、日本におけるnationalなものの形成の特異性が指摘され、それがinternationalなものとの連関の上で再形成されるために、「所与における国民性の不在の確認」と、とくにアジア諸国に対する国民的個性への尊重を自らの内的規制原理とする、確固とした国民的主体の
海老坂武『加藤周一:20世紀を問う』(岩波新書2013)拝読。 全体の印象は、日記や時代考証を基にしながら時に『羊の歌』の「誇張、矛盾」に言及するなど、一定の「加藤神話」の相対化を孕みつつ、「嘘つき光っちゃん」ならぬ「嘘つき周ちゃん?」の横顔を友人の立場から追う、というもの。 加藤周一氏に対して、私は微妙な態度でいて、尊敬しつつも、ある種の「加藤周一信仰」には適切な距離が必要とも感じてきた。加藤に比して、不当な過小評価をされている現代日本知識人がいるから。たとえば「近代」との格闘では荒正人が、「マルクス主義」との格闘では日高六郎が、文章の洒脱さでは林達夫が、それらの点では加藤よりも優れていると思う。 *** 海老坂武『加藤周一』で興味深かったのは、第一に1947年の加藤周一と荒正人との「論争」。1947年、加藤は論文「IN EGOISTOS」で荒正人
「左翼」のイメージをめぐるインタビュー(新宿BERG店長のブログ)を、興味深く読むと同時に、複雑な気持ちになった。 「左翼=反権力、権力にアカンベー」というイメージは非常に日本的だ。それは、肯定点もあるが限界もあろう。左派が国家権力を禁忌し、なぜかそれを自慢さえするようになった。左派的なものが「任せて文句を垂れる文化」(宮台氏)のイメージになってしまった。日本でなぜこれほど、デモなるものが多数の人々から嫌悪されるかの遠因とも関係しよう。 やはりその背景には、1968年以降(1960年ではない)の学生運動が示した未熟さや暴力性、無責任さがあり、それをパターン化して繰り返し消費してきた「語り/言説」があろう。また、68年に端を発する学生運動・社会運動の内実が、アングラ的な「ちゃらんぽらんさ」のスタイルの称揚に流れ込み、今はそのような文化左翼の実践としてのみ生き残っている、という点もあろう。 若
菅直人前内閣は、近年で最もリベラルな内閣であった。 私が菅前内閣を評価するのは以下の点だ。(1)内閣府参与へ湯浅誠氏を起用したこと、(2)浜岡原発を止めたこと、(3)「脱原発依存」を明確に表明したこと、(4)二年続けて閣僚が一人も靖国参拝しなかったこと、(5)死刑制度に相対的に懐疑的立場をとったこと。 もちろんこれらを不十分とする意見もあるし、私自身の理想からも程遠い。しかし、ならばなおさら括目すべきは、われわれ日本の有権者は、「この程度」の政権さえ維持する力量を持たなかったということだ。「この程度」の政権さえ持続化させえず、「この程度」でさえ掲げた目標を達成させえず、良識保守からリベラル、穏健左派、社会運動まで、「脱原発」を望むわれわれ皆が、居酒屋でもツイッターでもあれほど気炎を上げながら、野田政権という「旧権力」への回帰をまんまと目の当りにしているということだ。 私は菅氏を支えられなか
若輩の政治学徒による、政治思想史を中心とした読書記録です。ヴェネズエラでチャベスによる憲法改正が否決された。韓国で大統領選が迫っている。 反米左翼の大統領なら政治的自由を制限しても許容する? 金大中、盧武鉉とこれだけ急速に社会が動いた韓国で、また次も革新の大統領を選び出すべきなのか?・・・・・・激動する政治状況のなかでの選択は、安易な政党帰属party affiliationを許さない。自分の頭で考えなければならないだろう。 日本の古い「革新系」の信条を持った人たちが、ヴェネズエラや韓国のような針路なき政治情勢のもとで、「指導部」から与えられた公式見解なしに、どのような自律的判断が出来るのか、少し疑問だ。安易な政党帰属party affiliationなど無いほうが、その人の政治的判断力と政治的自律は、鍛えられるのではないだろうか。 *** ①金光翔、「〈
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