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ドラクエ3
d.hatena.ne.jp/mellowmymind
自由の本質は選択肢の多寡ではなく、誇りの有無なんじゃないかという気がしている。誇りもへったくれもない状況で恣意的な選択肢だけ与えられて、しぶしぶ選びとった結果を「自己責任」とあたかも自由意志による結果のように呼ぶなんて、マジでクソだと思いませんか。だから自分の誇りのありかについては常に自覚的でいなくちゃね。肝心なところを見失ったままではいくら選択肢を与えられても幸せになんかなれないよー。かえって孤独を深めたり、無力感を覚えたりしかねない。自由ならなんでも素晴らしいってわけじゃないよ。自由は目的じゃなくて手段だよ。誇りをもって生きるための。そのかわり、誇りを奪うような自由の制限があったら、そこは屈したりしなくていい。全力で抗っていこうじゃないの。見せかけの自由・不自由なんかに釣られちゃダメだよ。問題を見誤っちゃいけないよ。とかいうことを5年ごしでぼんやりと考えていたんだよ。
自分が少しでも損するのを嫌って目先の損得勘定に振り回されている人ほど、けっきょくのところ大きく何かを損なっていることが多いような気がしてならないんすよね。そういうのを見ると(自分にも心当たりがあるだけに)すごく怖い。なんかねえ人は「自分だけ損をすると感じる」のと「自分だけがマヌケだと感じる」のがすっっごい嫌いなんだよね。もうそれはほんとに想像をはるかに超えて大っ嫌いなんだよね。ポイントは実際に損してるかとかマヌケかどうか、じゃないの。そう感じる、ってことが重要なのね。というかそういう人ほど主観的にしか考えられないからね。だからその不快感を払拭するためならもうなんだって、どんな不合理なことだってやるんだよね。これもまた想像をはるかに超えて、なんでもやる。だから人のそういう気持ちをなめちゃいけないです。(逆にいうとそこを満たしてあげれば先に進めるかもしれないということでもあるんだけど……簡単で
幼少期に家に図鑑があったOver30の中年男女のみなさん、この図鑑に見覚えはありませんか。講談社の『プログラム式 こどもカラー図鑑』。昭和45年10月20日第1刷発行、わたしの手元にあるのは昭和52年5月15日第29刷発行となっています。これは外箱の画像ですが、このレインボーカラーを見て、ギャーなつかしい!と記憶のフタが開いた人もいるのではないでしょうか。全13巻でラインナップは以下のとおり。1.どうぶつ・とり2.こん虫3.うお と かい4.しょくぶつ5.大むかしのいきもの6.うちゅう・きしょう・ちきゅう7.えねるぎー・えれくとろにくす8.さんすう9.こくご・えいご10.しゃかい11.こうつう と のりもの12.ずが・こうさく・おんがく・たいいく・かてい13.ひと の からだ中は巻ごとに色が違っています。タイトルのフォントもピクトグラムも今見るとなかなかおしゃれ。本文はこんな感じ。1ページ
どんなに好きっていったって、相手のありのままを認めること、安心・安全を与えることを何よりも優先できないんだったら、その「好き」は「愛」じゃなくて、支配とか依存とか逃避とか甘えとかでしかなくて、ようするにただのエゴですよね。いうまでもなく「好き」と「愛」はまったくの別物なのに、好きという気持ちはそれだけですばらしい、なんておめでたいイデオロギーが意外とまかりとおっちゃっている。どっちかというと危険なシロモノだから、取り扱いは慎重にしたほうがいいですよ。好きになるにしても、なられるにしても。愛は「好き」の熱量で量るものじゃなくて、相手をどれだけ理解しているかという現実で量るものだと思う。理解というのはマニア的に相手のデータを収集することじゃないよ。お互いの距離感や関係性も斟酌したうえで、きちんと関わることができるということ。よく知らない相手だったとしても「よく知らない」という事実をわきまえて尊
自分が母親になるにあたってひとつ覚悟のようなものがあったとすれば、それは「親とはうらまれるものなんだろーなー」ということでした。でもそれでいいやーと思った。そういうもんだから。自分もそうだから。親って子にとっては呪いをかける人ってことだから。わたしが自分の子に望むことがあるとしたら、意識的にしろ無意識的にしろうらみをないことにしようとして抑圧されるぐらいなら、ちゃんとうらんでほしい、ということです。感謝なんかはいいから(してくれてもいっこうにかまわんが)、ちゃんとうらんで、そのうえでがんばって自分で呪いを解いておくれよ、とカーチャンは思う。 ただ、おとうさんにくらべておかあさんのややこしいところは「女は女ってだけでうらまれる」ということもセットになっているところなのでした。女は女ってだけで、社会にうらまれているフシがある。自分自身にすらうらまれたりする。カーチャンなー、そこは抗っていきたい
昨年図書館で借りて読んだ清水真砂子さんの『幸福の書き方』という児童文学について語った本がとてもよくて、いまだに折にふれて思い出します。特に印象に残っていたのがともあれフィリパ・ピアスという作家は悲しみを内在させたよろこびというものをよく描いています。言いかえれば、幸福というものはけっして悲しみと対立するものじゃない。そういう幸福のありようがあるんだとピアスは作品のなかでくり返し言ってきているんですね。( 『幸福の書き方』P.33)というあたりで、「幸福というものはけっして悲しみと対立するものじゃない」ってところに強く惹かれたのでした。幸福って、つい、一点の曇りもないピカピカした何かのようにイメージしてしまいがちだけど、そうだった、そんな単純で貧しいものじゃなかったわ。悲しくたって、胸が痛くたって、それを幸福と呼んでいい瞬間はたしかにあるんだよなあ、と。そうやって考えると、純度の高い幸福こそ
整理整頓の本もいろいろな方向性がありますが、これはストレートで力強いタイトルの通り、余分なモノを持ちすぎている暮らしに活を入れるための一冊。モノを所有しているだけでもそのスペースの分だけコスト(家賃)がかかる。快適な生活を犠牲にしてまで抱え込んでいるその膨大なモノたちに、本当にそこまでの価値があるのか?ということについて、さまざまな角度から見直していきます。モノの絶対量が多くて、かといってすごく気に入ったモノに囲まれているというわけでもなく、雑然とした部屋でなんとなく居心地の悪い思いをしている人にはすごく効くんじゃないかな。「余分なモノを持たない」という一点にのみ焦点を合わせてガンガン攻めてくるので気持ちがいいです。どんなに整理整頓の技術を学んだとしても結局は空いているスペースとの戦いですし、まずこの本を読んでモノを減らすことから始めるのが一番合理的で、片付けにもはずみがつくと思います。こ
玉子と牛乳と砂糖だけで作れるシンプルなアイスクリーム!少しシャリっとした、昔ながらのなつかし〜い、あっさりめのミルク味。意外と売ってない味ですね。味見したときに、あまりにいい感じだったので思わずニヤッとしてしまいました。レシピはこちら。http://tinyurl.com/22nckmv作ってみたうえでの注意点など。牛乳と玉子に火を通すときは、鍋の縁がフツフツとしてきたら素早く火からおろすこと。火が通りすぎると固まってしまいます。ハンドミキサーを使うときにけっこう飛び散るので、周囲に注意。大きめのボウルで作った方がいいです。レシピには容器は約500mL容量が目安と書いてありますが、それだとちょっと足りないかも。わたしは1000mlの平べったい容器でちょうどよかったです。凍らせている途中でかき混ぜなくても大丈夫とのことですが、念のため混ぜた方が底のほうがカチカチにならなくてベターです。アイス
先日の月曜日にミス・スパンコールがうちに遊びにきてくれたのですが、そのとき作ってきてくれたオートミールクッキーがすばらしくおいしかったので、さっそくレシピを送ってもらい、自分でも作ってみました。ひかえめな甘さと、オートミールのサクサクした食感がクセになるおいしさ!【材料】<DRY>薄力粉100gベーキングパウダー10gオートミール100gカレンズ(レーズン)45gココナッツファイン15g <WET>菜種油(キャノーラ油/サラダ油)50gメープルシロップ50gリンゴジュース15g 【作り方】1.オーブンを170℃にあたためます。2.DRYの粉類をボウルにふるって入れ、オートミールとカレンズ、ココナッツファインを合わせておきます。3.WETをボウルでよく混ぜておきます。(面倒ならワンボウルでDRYのなかに油とシロップを混ぜても問題ナシ)4. 2のボウルに3を一度に入れ、ゴムベラでさっくり混ぜ
みんな大好き伊集院光さんが昨晩のTBSラジオ『伊集院光 深夜の馬鹿力』の放送で、名作カードゲーム『ワードバスケット』と超イカすボードゲームショップ「すごろくや*1」について言及していたので該当部分を勝手に文字起こししちゃうよ〜。ゲームの遊び方や面白さがわかりやすく伝わるナイスなトーク、カードゲームに興味ある人もそうでない人もご一読あれ。ゲームの詳細や関連情報も後述します。(文字起こし部分、権利関係とかで直接おこられたら消しまーす)(奥さんがエロ知識に疎い、という前置きのあとに)えーっとね、ワードバスケットっていうカードゲームがあって。僕カードゲームすごい好きで、このワードバスケットってすごい昔、俺いくつぐらいのときかな、二十歳そこそこぐらいのときにハマったんだけど、絶版になってて。けっこう人気のゲームだったのに絶版になってたのが、最近になって再販されましたっていうのが、自分のよく行くカード
最近キノコ類をはまり食いしています。キノコおいしいよキノコ。うまくて安くて安定供給、食物繊維たっぷりローカロリー、和洋中と何でもござれ、こんなによい食い物はありません。中でも、よく作っている常備菜。キノコを3種類ぐらい用意する。まいたけ、しめじ、しいたけ、えのき、ブナピー、エリンギ etc. そのときあるもので。適当な大きさに切ったり裂いたりしたキノコをさっとゆでる。10〜20秒ぐらいで充分。余熱でも火は通ります。湯を切ったアツアツのゆでたてキノコに醤油とだしと少しの酢をふりかけてよくまぜる。冷めて味がしみこんだらOK。タッパーに入れて冷蔵庫で数日持つよ。ものすごい簡単に作れちゃうヨ! でもこれが、歯ざわりシャキシャキ、ご飯にもうどんにもパスタにも合ってンマイんす。冷や奴や、大根おろしや、納豆にのっけてもイイ。手軽なつまみやおかずになります。キノコ3パック使って作るとけっこうな量になるので
ルイ・ヴィトンが2003年に作った短編アニメーション「SUPERFLAT MONOGRAM」。少女が不思議なパンダと出会って異世界で短い冒険をする様子を描いた、たいへんキュートなアニメです。それもそのはず、この作品、村上隆とのコラボレーションということばかりが謳われていましたが、実際には監督:細田守、キャラクターデザイン&作画監督:中鶴勝祥、原画:山下高明、橋本敬史ほか、美術:行信三といった東映アニメーション(当時)の超豪華スタッフが手がけたもの。短い中にもアニメーションとしての魅力がみっちみちにつまった傑作です。ひとことでいえば、超センスのいいアニメ! さすが高級ファッションブランドはやることが違うナー、なんて、当時、表参道のルイ・ヴィトンショップにのこのこと見に行って感心していたものでした。あれから6年(はやっ!)。なんとその続編「SUPERFLAT FIRST LOVE」が、きのうか
女性全般のことを「女子」っていうのってもうすっかりあたりまえになったけど、10年15年ぐらい前はもっとフックのある言葉だったよねえ。「女子」なんて言い方、学校ぐらいでしか使わなかった。それをあえて成人した女性に対して使う新鮮さや諧謔心、みたいなニュアンスが、たしかにあったはずなんだよね。でも今はすっかり「女」「女性」という言葉の生々しさをぼやかすための言葉になりかわって、すっかり定着しちゃいましたね。あと今、女性誌見ると「大人かわいい」ってフレーズをやたらと見かけないすか? Over30対象の雑誌でよく見かけるような気がします。これもよく考えると、必要に迫られて生まれたわりと切実な言葉だ。もういい歳なんだという自覚はさすがにしなきゃいけないと気づいているから「大人」、でもいつまでも少女のつもりでいたいから「かわいい」。思いっきり引き裂かれてる30代の気持ちそのままじゃないですか。「女子」「
いま話題の草食系男子の先を考えてみました。断食系男子度チェック 1 メガネ男子だ2 独立心が旺盛だ3 非暴力主義者だ4 あだ名が「インドの父」だ5 衆生救済を願っている6 土中に埋められた箱にこもって鐘を鳴らしながらお経を唱えるのが趣味だ7 鐘の音が聞こえなくなったら箱を掘り出してもらい、遺体には柿の渋を塗ってよく乾かしてもらってミイラになりたいと思うことがある8 出羽三山に奉られがち キミはいくつあてはまったかな!?半分以上あてはまった人は立派な断食系男子です。(断食系男子っていいたかっただけ)
前にも書いたけど、やっぱり、うーんうーんと考え続けていたことは2年間もあればなんとかなるのだな、自分の場合。1年じゃ足りなくても、2年経てばぜったい前に進んでいる。大丈夫、わたしもう大丈夫。「人間万事塞翁が馬」という言葉が好きで、実際、生きる支えにしておるのですが、馬齢を重ねてきただけあって、馬の乗りこなしもだいぶうまくなってきたような気がします。その比喩は間違っている気もしますが、ああ、自分がたのもしい。最近ちょっとしたことが原因で、だいぶヤキが回っておりまして、ぐらぐらになったりオチたり人知れずめそめそしたり、けっこうな感情の浮き沈みがありました。しかし、うーん、つらいわー、しんどいわー、と、ぐらぐらしている最中も、それを自分で楽しんでいるフシもあり。「ああ、自分はこういうときにオチるのか」とか「あれっ、こういうことをしてるってことは本当は自分、こう思ってるんじゃないの?」「うわあ、自
もしかしたら『崖の上のポニョ』のネタバレとか先入観につながるかもしれないので、『ポニョ』未見でまっさらな状態で見たい人は華麗にスルーしてください。あれはなるべくまっさらな状態で見た方がぜったいおもしろいです。↓↓↓↓↓↓↓↓ 『崖の上のポニョ』見て、アニメとしてはすげえし、見方によってはものすごくおもしろいなと思ったんだけど、映画としてはうーん、あんま好きじゃない、どころか、かなりイヤだ、ってとこがあって、それって何かといったら「公共性の欠如」なんだよね。あの物語にとってはささいなことかもしれないけど、人としてものすごい大事なことがけっこう驚くレベルででたらめで、こんなの真に受けたらいかん、大変なことになるぞ、って感じで。でもそれが「子どものために作ったアニメ」って作った側が公言してて、世間もそのままに受け取ってるっていう。わたし、そういうのってダメなんだ。全然好きになれない。自分の経験で
なにももっていない自分と向き合うのがイヤな人は、奪われたふりをするのが得意です。「はじめからなにもないんじゃなくて、本当はたくさんあるはずだったのに奪われた。 なにかをたくさんもっている自分が本当で、今の自分は不当におとしめられているだけだ」そうして、まぼろしの「本当の自分」を夢想して時間を食いつぶすわけです。なにももっていない自分に気づいて受け入れた人は、そこからでも時間をかけて積み重ねていけば、なにかを育てることができる。やがてはなにかをもった人になることもできるかもしれない。一方、奪われたふりをしている人は、自分ではなにも積み重ねず、まぼろしの収奪者からの奪還を叫ぶだけで、自分の時間をすっかり止めてしまいます。奪われたふりをする人はよく「大人(あるいは世間とかそんなようなもの)は自分に○○をしてくれなかった」という話法でいかに自分が被害者であるかを語ります。そして被害者顔をして時間を
「女性自身」といえば下世話な話題を好む女性週刊誌というイメージ。ときどきコンビニの店頭や中吊り広告で気になる記事の見出しを見かけても、買うのはなんとなく恥ずかしい。でも美容院や銀行の待合席に置いてあるとついつい読んじゃうこともある。で、やっぱすげえなーとその下世話さにクラクラしたりする。でも同じ光文社のファッション誌の「JJ」って「女性自身」からとった名前なんだよね。現在の両誌のイメージはあんまり結びつかないんだけど、まあ、とにかく、「女性自身」ってそんな雑誌。(最近の号の表紙)さて、1ヵ月くらいまえ、高田馬場のキノコノクニヤ書店という、たまにいい掘り出し物のある古本屋さんで、とてもかわいらしくてオシャレな表紙の古めかしい雑誌か何冊かまとめて売られておりました。実はそれが「女性自身」だったのです。今見ると現在のイメージとのギャップにびっくり! 興味があったので1冊捕獲してきました。315円
にわかにおもしろいそがしくなってきたアルヨ。図書館で借りた本を読むヒマがねえー。ネットで予約すると簡単に読みたい本が取寄せられるのがうれしくて、ついつい余計に借りてしまうんよね。自分は常にどっか間違っておるのだ、という残念にして当然の事実は、認めておいて損はねえですナー。まあ、なんだって認めたほうが話がはやい。何かが滞ってるようなときっていうのは、つきつめていくと「何かを認めたくない」っていう意思がどこかを塞いでる、それだけの問題じゃないすかね。
■[メモ]知恵のはなし 2 きのう「知恵は自分の心を自分で決めて、世界を受け入れないと身につかない」と書いたのはどういうことかというと、知恵というのは「こういうときにはこうするものだ」「こういうときにはこうなるものだ」という形で語られるものである、ということです。 だから、若い頃の自分を思い返すと「きっとこうなるはずだ」という無根拠な甘い期待と「こんなはずじゃない」という現実の否定、その堂々巡りで、当時はそれでも自分なりに一生懸命考えていたつもりだったけど、それはやっぱり知恵ではなかったんだよね。 現実を認めて、さあ自分はどうするか、と肚を決めるのが知恵だからね。 あのときいくら考えても答えが見つからなかった理由はいまとてもよくわかーる。 前に、「何かが滞ってるようなときっていうのは、つきつめていくと”何かを認めたくない”っていう意思がどこかを塞いでる、それだけの問題じゃないすかね」と書い
「自分は他人を必要としない」ということを他人に認めさせたがる人っていうのは、実は「認めてほしい」という形でばっちり他人を必要としているわけだけど、本人はそういう矛盾になかなか気づかない。そういうことを標榜したがる人がもれなくめんどくさいってのはそういうことです。よい意味で他人を必要としない人は、そもそも他人のことでイライラしたりなんかしない。
なんにしたって自意識の檻っていうのがもっともめんどくさくて頑丈だし、でも考えようによってはいますぐにでも抜けられる簡単なからくりともいえる。わたしはもういい大人なので可能な限りは後者の立場をとっていきたい。去年の後半あたりから無駄な罪悪感というのは本当に無駄だな!と思いいたり、そこは意識してなくす方向で考えるようにしています。罪悪感が素直に反省となって、その後、ストレートに何かよい行動に昇華されるならいいのですが、そうじゃない罪悪感をいつまでも抱え込んでいるのって、無駄に自分を責めてコンフリクトさせるばっかりで、何もいいことないなーと思って。しかも意外とエネルギーやリソースを食うんだよね! ストレスもかかりますし。それで動けなくなってうーうーってなる。それイクナイ。行動に反映されない罪悪感ってけっきょくのところただの言い訳だからなー。自分の中で無理矢理つじつま合わせるためだけのもので、どん
感情を加工するくせがついてしまうとどんどんさびしくなっていくので気をつけようの巻。その最たる例が「死にたい」だと思う。シリアスかつカジュアルに「死にたい」と口にする人は、でも、「死ぬのちょーたのしみーッ! 死にたくて死にたくてたまんない! どうやって死のうか迷っちゃうなー! あー早く死にたい!」という感じにはあんまりならない。だいたいの場合「死にたい」は皮をはいでいくと「もっと楽しく生きたい」「もっと充実感をもって生きたい」になる。「もっと楽しく生きたい」→ だけどそれは自分には無理ぽい → だったら「死にたい」、そういうことだと思うんだけど、これが感情の加工です。出だしから「死にたい」だったら「死ぬのちょーたのしみーッ!」ってなるはずなんだよね。そうならないってのは、欲望と直結してないってことで、それはつまり加工された感情ってことです。「死にたい」という人には加工のプロセスが当たり前すぎ
さよならだけが人生さ、というのはいささか気障すぎるぜ、と思っていたけれど、歳を重ねているうちに、人生ていろんなものと上手にお別れするレッスンのようなものだという気がしてきたのであった。上手にお別れするのに必要なことはなんだ。それは何よりも、しっかり出会うことだ。とわたしは思う。そう考えるといろんなことが思ったよりこわくなくなるんじゃよね。別れをおそれて出会いを避けるなんてまるであべこべなはなしでした。ちゃんと出会ってないから引きはがされるときに念が残ったり(ざんねーん)後で悔やんだり(こうかーい)するんよね。だからってしがみついてしまうのもよろしくなくて。いま自分がいる席は時期がきたらだれかに明け渡されるべきものだ。そのときがきたら気持ちよく明け渡して、わたしはまた新しいものを見にいくのでげす。自分の時間を止めていた時期が長かったせいか、そういうことに気付くとうわーってなりますネー。春だし
先週の土曜日、ラジオ*1聴きながらヒマだったのでひさーしぶりにクッキー焼きました。そんな凝ったことするつもりなかったんですが、抹茶とココアをそれぞれ混ぜた生地を作ったら、なにやら思うところがあり、気がついたらこんなんやってました。焼成中。(ただ回ってるだけ…)焼き上がり。レシピや作り方その他についてはすべてこちらに準じます。http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20060212/p1今回もホットケーキミックス使用の生地でした。他のメーカーのものを使ったせいか、マリオのときと仕上がりのテクスチャーがちょと違う感じ。マリオのほうがきれいに焼けたかなー。でも味はこっちのほうがよかった気がする。サバミソちゃんにもらったオーブンレンジでクッキーに初挑戦でしたが、なかなかよく焼けて使い勝手よかったです。前のオーブンレンジはでかくてあったまるのに時間がかかったのよね。こう
世界を回しているのはいつだってボケの方なのよなー。ツッコミばかりでボケられない人は弱い。ここでいってるのは面白おかしいことをいうとかどうとかじゃなくて、自意識の水準の話です。ツッコミ、ようするに何かに対するリアクションや反応の中にしか自分がない人ってやっぱり越えられない壁があるなーって。何かあったらうまいこといってやろうと待ち構えているような、そういうタイプ。待ち構えてるくせに自分から動かない。なんだろな、そういう人って刺激に対する反応で自分を表現しようとするから、強い刺激を求めたがるし、ギャラリーも必要なんだよねー。そんで、もはや自分の人生と関係ないような話題でいかにも深刻に噴き上がってみせたりする。でも絶対に何かの当事者にはなれないんだ。立場は上のつもりで主体がない。なんだろうなこれ。ツッコミ自体の否定ではなくてツッコミが目的化している人の空虚さについて、の話よ。本当におもろい人ってボ
プライスレスっていうのは値段がつかないということで、じゃあプライスって何かというと他人と交換するときの価値の目安となるものさしで、つまり本当のプライスレスの価値っていうのは自分の主観の中で決定されるものであって、決して他人と共有されない。だから「これってプライスレスだよね〜」「ね〜」っていうのもちょっと違うっていうか。値段をつけられないほど高いからプライスレスなんじゃなくて、値段っていう土俵にそもそも上がらんし、上げたらいかんのがプライスレス。他人と共有できない価値だからこそプライスレス。自分を人質にして取引をしようとする人がときどきおります。「わたしと仕事、どっちが大事なの!?」とか「じゃあ、辞めます!(辞表バーン!)」とか「死んでやる!」とか。まあ、そんな大げさな例じゃなくてもさ。自分という価値を担保に他人をコントロールしようとする行為のことです。あれは「自らを賭して」というとかっこい
自分はどうしたら気が済むのか、どうなったら満足なのか、いつもしつこく自分に問い続けていないと、惰性で必要のないことや本当はどうでもいいことにしがみついて、気がつくといろんなものを抱え込んだり、逆に浪費していたりする。それはあんまり幸福なことではないね。人は簡単に濁るし、簡単に大切なことを見失うものでげす。とかいうことを昨年の11月頃から、ずーっと考えていて、食生活にも適用してみたら、特別なガマンも運動もしてないのに、2ヵ月半で5kgやせました。わはは。こんなに楽に一気にやせたの初めてだ。本当に気が済むって大事ね。身をもって知った!
歌舞伎における黒子(くろこ)といえば「実際にはそこに居るのだが、観客・演者たちの“暗黙の了解”として劇中では『居ないもの』として扱われる存在(Wikipediaより)」。観客と演者の間にそういうお約束が成立しているからこそ安心して舞台を楽しむことができるわけです。自分の意思にかかわらず存在してしまうもの、どうしたって逃れられないもの、たとえば感情とか欲望とか関係とかを、自分の都合でないことにしようとする人っていうのは、そういうものを勝手に黒子化させて、自分主演の舞台を演じているようなものだなあと思う。でも歌舞伎のようにそのお約束について見ている人とコンセンサスが取れているわけじゃないから、接する側としてはどうにも違和感をおぼえる。会話自体は成立したとしても、どことなくディスコミュニケーション感が拭いされない、ってのは、そういうことなんだろうな。うっかり黒子についてふれるとすっとぼけられたり
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