サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
chanm.hatenablog.com
ブルーレイディスクを保管する際に、ディスク収納用のジュエルケース(厚さ10mm)やスリムケース(厚さ5mm)などを使用するか、スピンドルケースでディスクを重ねて保管することはディスクの記録面がケースに接触しないので問題ありませんが、いわゆる不織布ケースで保存することはおすすめできません。 数ヶ月前にネットでも話題になりましたが、ブルーレイディスクを一般的な不織布ケースで保存するとあまり良くないよという話。 不織布は表面がデコボコしているので長期で積んでおくとエンボスが刻印されちゃうのでしょうかね。 (ブルーレイのスピンドルを買うと、不織布ケースで保管するなと必ず注意書きがある) かといってジュエルケースやらスリムケースやらは場所取って無理です。うちは。 正直詰め詰めにでもしない限り縦置きしておけばそんなに圧力かからないんじゃないのと思ってスルーしてたんですが、最近、一応ブルーレイ対応を謳う
子供のころからやる気であるとか、精神力であるとか、エネルギーとかと無縁で 思い出すとあだ名が「平和」あげく「省エネ」だったことすらある私ですが、 ついにここ数年ですかね、起きると全てがリセットされていて、シャワー浴びながら 「自分はなんで生きてるんだっけ?」と問いかけるところから一日が始まるようになりました。 別に鬱ではなくてですね(極端に盛り上がらない代わりに盛り下がりもしない情緒の幅よ)、 寝てたら幸せだったのに私なんでいま起きてるんだっけ?みたいな。 まあシャワーを浴び終わると解決してるんですけどね。 答えを思い出したとかじゃなく、シャワーで体温が上がって身体が起動するので、起動するまえに感じていた「なんで」とか忘れる。 で、毎朝自分に問いかけるのもどうなのとやっと最近、違う人種だと思っていたエネルギーのある人たち、を観察するに、 やっと気付いたんですが世の中、自分が好きなことをやっ
自己啓発書というのは、私の世代だと、100社受けても採用されないのは自己責任と言われた就職氷河期の子達が 藁をも掴む思いで読み漁ったもの、というイメージだった(自分が悪いなら自分を変えなければいけないので)。 私も(単に趣味だったこともあり)色々読んだけれども、大体数人のアメリカ人が源流で後はバリエーションなので、一通り読むと落ち着く。 感想としては、それを他人への批判に使わないのであれば、大変に有用だと思った。 効率のいい思考方法というのはある。思想とは別に。無駄な怒りや落胆を持たないとかも含め。 で、もう若くもないのですっかりその辺のことは忘れて過ごしていたところ、 何年か前から「意識高い系(笑)」というネットスラングを目にするようになった。 「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書) 数年前からネットスラングにもなった、この「意識高い系」という言葉は、
こうやってブログ(じゃないのかダイアリーなのか)を書くのも久しぶりです。 (書き方忘れたのでだらっと行きます。) 大変遅ればせながら、finalventさんの本を拝読しました。 考える生き方 作者: finalvent出版社/メーカー: ダイヤモンド社発売日: 2013/03/11メディア: Kindle版 クリック: 12回この商品を含むブログ (17件) を見る 私がfinalventさんを知ったのは私がまだ全力ではてなを使っていた頃で、私が知るくらいだから多分既に有名人でした。 最初、思想の先生みたいな印象でした。ちょっと仙人っぽい感じ。 わたくしももうすぐ36歳らしいんですが、まだあの頃は20代だったりで、もうちょっと元気でした。 finalventさんのコメント欄やブクマで知った人とかとも仲良くなったりして、その縁はTwitterなんかで緩く繋がっていて、 自分にとってネットの一
社会学的にどういう名前が付いているのか知らないのだけれど、 ある組織内の弱者と位置づけられる人たちが、体制側の論理を身につけて、または内面化して、自分を納得させることがある。 ひどい待遇で働いている非雇用者が、経営側から自分を見て、 コストを抑えるためには自分の時給換算の給料がこのへんに抑えられなければならないと納得している、とか 正社員の半分も生活の保証も手当もないバイトの人が、その人の生活を慮りもしないその組織の成果物の品質向上に邁進するとか 金を作り出す手段のない人が、そういう人を安く使って成り上がった成功者を礼賛したりとか。 本当は、「私は大変だ。虐げられている。搾取されている。寄越せ!」 と言っていいような人たちが、言わずに、体制側の理論を自分にインストールしてしまう。 これは一つには、クラスチェンジへの布石として行っているように見える。 資本主義社会において雇われである限り、ス
書評 新しい労働社会―雇用システムの再構築へ(濱口桂一郎)―極東ブログを読んで興味を持ったので読んでみた。 新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書) 作者: 濱口桂一郎出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2009/07/22メディア: 新書購入: 18人 クリック: 401回この商品を含むブログ (84件) を見る 生まれてから一度も正規社員であったことがないせいか、 日本において労働する上でどう立ち回ったらよいのか未だによくわかっていない私の社会人人生ですが、 その中でも2つ、とびきり意味のわからなかったことがあった。 ひとつ、昔、上司に昇給を打診したときに退けられつつ言われたこと。 chanmさん別に生活困ってないでしょ。 えっ 実家だし独身だし、ということだろうか。 しかし、仕事量や生産性とのみ相関を持つはずの給料ではないか。 その社員が生活に困っているかどうかが給料に
『時間についての十二章』という本で、著者の内山節さん(哲学者)が、 季節が巡り、同じ仕事が姿を少しずつ変えながら循環していく農村の時間と、 時計に管理され、直線的に進んでいく近代的な労働の時間を対比している。 時間についての十二章―哲学における時間の問題 作者: 内山節出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1993/10/27メディア: 単行本 クリック: 3回この商品を含むブログ (10件) を見る(昔の自分のblogですが言い足りてない感じの内容紹介⇒時間についての十二章 | 本とか。物とか。) 今より明日がよくて、過去より未来がきっと素晴らしくて、努力すれば実って、 そういう高度成長期的な熱狂から覚めて久しい私たち、 でも今は自己責任、自己成長、自己啓発、 結局やってることは同じ、今に目をつぶって明日を夢見てる、 そんな私たちが本当に疎外されてるのは何か、そういうことを考えさせられる
友達にヒアリングしてみると、案外子供がほしい人は多い、ということがわかった。 まあ旦那さんの仕事が比較的安定しているか、 自分が産休取れる可能性がある人が多いけれど。 自分の知っている中では学校の先生(私立)の子が最長かな? 1年とか。だから保育園の予約すごいがんばったって言ってた。 ちゃんと決まって復帰できることがわかったときは本当にほっとした模様。 ちびちゃん1歳から働くっていうのはとても大変だとは思うが、 そのくらいで復帰しないと仕事を繋ぎとめてられないのよね。 偉いなと思う次第。 最近のネットで学習したところによると、専業育児も大変らしいので(あんな鬱陶しいのと毎日一対一じゃ息も詰まるであろう核家族)、働いてるから大変ってこともないんだろうけど。 私は(ほしいかどうかは別として)産休もなにも、まあ孕んだらお仕事終了だろうなというだけの雇用のされ方なのだけど、 産休が取れるような安定
人が何かやるとか、何か持つっていうのは、 純粋に対等にそれが好きな場合と それにかかわることで自分にメリットがある場合とがある。 たとえば夫は好きだからゲームをする。 私は痩せるかもしれないからWiiFitをやる。 子供は自分の好きなものをほしがる。 親はそれを持つことによって子供のスペックが上がるものを与えたがる。 ある大学生は自分の疑問を解決したいために本を読む。 違う大学生はそれを読むとモテるのではないかと考えて本を読む。 あるダメな30代は楽しいからTwitterをする。 ある堅実な30代はTwitterで「役に立つ」「情報」が「得られる」と踏んでからTwitterを始める。 ・・マーケティング用語とか心理学用語とかいろんな分野でたぶん名前が与えられているんだろうけどつまり、 私たちが何かほしかったり、何かやりたかったりするのは、 それが純粋な欲求である場合と、自分の優越に寄与する
インターネットのコミュニティ、特にここ1,2年はTwitterを見ていると、 東京に移住する人が多いように思う。 逆は、(転勤や結婚を除いては)あんま見ない。 インターネットは情報の地域格差を解消したか、といえば テキストや動画のコンテンツという意味では解消したと思う。 昔は田舎に回線も来てなくてそういう意味での格差はあったけれど、大体今はADSLまでは通ってるし。 ネット上に乗っけられないコンテンツ、たとえば単館上映の映画、ミュージシャンや楽団のコンサートツアー、キー局のニッチ寄りテレビプログラム、服だの雑貨だの本だの、というものについては 解消されたとは言わないが、 ある程度の人口がないと集客なんぞ到底見込めないものを地方でやっても売ってもしょうがないので、ここはまあどうにかするところではない気もする。 買い物については通販も充実してきたしね。 インターネットが普及して、私たちはこれで
自分の物理的な(自分以外のものとの)境界というのはこの身ひとつなわけだけど、 社会的に、概念的に、どこまでを「自己」とするかは、 人は適宜決めている。 学問的にどういう言い方をするのか知らないけど、 精神は自由であるので、「自己」というその定義を、 自分の物理的な境界を越えて、他者や家族や組織やコミュニティに 結構フレキシブルに拡張している。 自己の拡張、というと説明しづらいので、もうちょい大きい、 家族という概念の拡張について例をいうと、 いわゆる血の繋がっていたり戸籍が繋がっている家族以外に ある部族が丸ごと大家族という認識だったり、 田舎のある地域が家族同然だったり、 社員はみんな家族だという認識の社長がいたり。 人がほかの人を単なる他人ではなく「家族」という認識をした場合に 何が起こるかというと、 まず心を許す。 親しき仲にも礼儀ありなんて恐ろしい心の構えがなくなる。 損得の勘定を
うちはインターネットを介して知り合って(先日は某所でご取材いただきありがとうございます)、 おかげさまでノーストレスでえっらいのんびり暮らしています。 ネット婚はさして珍しくもなく、まあこれからは自然な流れかなあと思います。 近くの6割(気が合う人)よりインターネッツ上の9割(10割はおもしろない)ということですね。 地元じゃゆるく浮いてた感がある自分ですが、 世界を広げれば拾う神あり。 まあもう一つ、よかったなあと思ったのは、30代で出会ったことです。 なんかもういろいろ落ち着いてから会うっていう。 恋愛経験に限らずいろんな人を見て、自分の価値観が半熟くらいまでになって、 もう変われない部分もあるかもしれないけど、 社会的には若年だからまだまだ変われる、みたいな年代。 晩婚化が嘆かれているけど、いいと思うんですよね。 20代でケコーンして上手くいってる人たちはもちろんそれでいいけど、 私
ちょっと空いたららblogの書き方を忘れてしまった。 やっぱり自分の関心をある程度の長さの文章で残しておくのは わりといいリズムだったかもしれない。思考の。 だらだら。 最近Twitterがまた流行りだしたという。 国内でミニブログブームが起きたのは2年くらい前だけど、 結局先駆者のTwitterがやっぱり一番なのね。 企業や政治家や芸能人、有名人のアカウントが少しずつ増えてきた模様。 相手がどこのだれだろうがどんな肩書だろうが何歳だろうが そんなのはお互いどうでもよくてフラットに気軽にドライにオープンに無責任に 楽しく使えるこのツール、 要はリアル社会で年上であったり権威があったりする人たちのほうが 日本のリアルではあんまり出会わないような不躾に対する寛容さ、フランクさが要求される場なわけだけれど、 「一般人」との線引きで自分たちの価値をある程度保つ必要がある人たちが、 うわべだけのフレ
お家にいて洗濯してくれる人のいない(=我々の世代ではほとんどの)家でみなさんどんなサイクルで洗濯してはるのかしらんと思って調べたりTwitterで聞いてみたりしてみた。 今私はニートなので、朝起きてから余裕こいて洗濯をし、3時とか4時の一番ドライな時間に取り込めたりするわけですが、 働き始めるリミットが来てしまったので、さてどういうスケジュールにしようかななどと考える次第であります。 いろんなパターンがあるねー。まずは外に干すバージョン 朝干し/夜取り込み いちばんオーソドックスですねえ。 メリット 普通に太陽が昇るので普通に乾く 朝洗濯機を回す分には多少早くても近所迷惑と言われない デメリット ただでさえ朝忙しいのに洗濯までとなると鬱陶しい 遅く帰ってくると夜の湿気を吸っているかも 日差しが強すぎたりわりと都会な場所だと、1日中干すことによって色あせたり埃っぽくなったりなどするかも 干す
いろいろな物に首を突っ込んだり試したり情報収集したりして、 ああこれは割とどうでもいいな自分にとって、 ということが分かってくるとさっぱりする。 そんなことが増えてきた気がする。 30代になったら、20代であれもこれもってかき集めてたものが だんだんそげ落ちていくような動きがあって、楽しい。 私は昔は自分がもう少しくらいはスマートだと思っていて、 インデックスを眺めただけで最初から自分にとって最適な物が 選べる気でいたりもした。 けど全然そうじゃなかった。 あれも試してこれもやってみてってさんざん大騒ぎしてやっと 何か一つに落ち着く感じだなあ。何でも。 私はそんなに活動的ではないけれど、 一つ、格好悪くてもやろうと思っていたことは 「あがく」ということだった。 昔、ブログ(みたいなもの)を書き始めた頃、まあ、若かったから、 もう少し分かったような事を書き並べてたかもしれない。 でもそれを読
人が自分に向けて怒ったことを形容して、 「怒られた」という場合と、「怒っていた」という場合がある。 前者は自分が怒らせたと感じている、というか、 怒りますよねーそれは、と納得、というか共感できる時。 後者はたとえば相手が相手の都合で思い通りに行かなくて怒っている、とか、 あーそれはあなたの問題ですよねー、という時。 怒るときはひたすら動機を探す。その人の。 悔しいのか、悲しいのか、嫉妬なのか、抑圧したものを刺激されたのか、 狭量なのか、頭が固いのか、勘違いしているのか、誤解しているのか、嘘を隠しているのか、 拗ねているのか、他人を利用しようとしていた計画が崩れたのか、 キレているのか、どん引きしたのか、納得いかないのか、理解できないのか、 愛しているのか、そして、 本当に、怒っているのか。 怒るというのは素の性格に基づいた脊髄反射も多いけど、 第一次感情を隠蔽した、二次的な行動な場合も多い
目標を決めて、それを叶えるために人生を送る人がいる。 それをこそ人生と、名づけて生きる人がいる。 私はずいぶん前に、そう見えていた世界を外れてしまったけれど、 本当は演じる役割をこの今の生で、 はっきりと与えられている実感があるほうが「充実」するのだろうと憧れはする。 未だに少しは。 夢なあ。特にないなあ。なんだかなあ、と思ってたころ出た本。 ふと買った。まだ本棚にあったことに昨日気づいて今読み返しながら打ってる。 悲しい題名と、情熱の赤。 夢を叶える夢を見た 作者: 内館牧子出版社/メーカー: 幻冬舎発売日: 2002/12メディア: 単行本この商品を含むブログ (1件) を見る 内館さんが3年にわたって「夢」に向かって「飛んだ」人、「飛ばなかった」人、 両方の人たちを取材した本。 「夢」に向かって「飛び出す」時、人は誰も揺れる。揺れない人もいる。 留まる人、飛ぶ人。留まった人のその後、
「仏様に感謝」「神に感謝」信仰を持つ人の感謝の頻度というのは多く、美しいものだと思う。 特にそれが苦境であり、逆境であり、もしくは凪であるときは。 そういった中にも有り難さや意味を見出す豊かな感性を与えられることが、 信仰を持つことのギフトかなあとも思う。 自分が希うことが思い描く通りに叶えられることだけを幸せと呼ぶような地獄の世界からは 少なくとも開放される。 ただ、信仰を持つ人にはいろんな段階があって、失礼だけれど、 目の前の人が明確にその人になにかしてあげた時も、「○○様の御蔭」になっちゃってる人がいる。 いや、まあ思いっきりすっ飛ばすとその人をあなたの目の前に遣わしてくれたのもまあその○○様なのかもしれないけれど、 しかし、あなたに「良きことが起こった」そのために、明確に身を削った人はあなたの目の前にいるのだ。 あなたに「悪いことが起こらなかった」それを、人知れず全力で守った人達が
ここ1週間くらい、「ネット廃人」って素晴らしいんじゃないか、 という考えに取り憑かれていましたが、 未だにわりと素敵なんじゃないかくらいには思っています。 なぜここに来て突然。 ちなみに廃人とは ⇒廃人とは - はてなダイアリー ・・・まあ、何かにはまって日常生活に支障を来してる人です。 ネット廃人、だとネットに浸かっている人。 (しかし昔は「ネットは偉人」って誤変換されたものだけどなあ・・。) 今、青少年のネット規制だとか携帯フィルタリングだとか話題になっていますが、 ネットが「娯楽」や「道具」の一種、もしくはせいぜい「場」という認識だったものが、 ついに「社会」そのものとしてリアルを脅かすようになったということなんだなあと、 しみじみ思います。 大人たちはそれが子供の成長に是か非か決められなくて右往左往していますが、 そりゃあそうだ、初めて遭遇するわけで。 私の昔を振り返ってみても、
学生の頃は曜日感覚の麻痺した生活を送っていたので、 社会人が週末を指折り数えて待っているのを見て、 あんな人生は嫌だなあと思っていた。 まあ最速で「あんな人生」になりましたが。 平日が嫌なわけじゃなくて、 なんていうか、 「俺・・・土日になったら・・・するんだ・・・。」 みたいな区切りを休日に求めてしまうわね。 遠くを見ると滅入るから、 イベントなりタスクなりを設定して、 それまでは乗り切ろう、みたいな、 人生の小刻み運転。 あの電柱までは走ろう。あの交差点までは走ろう。 知り合いの鬱の人で、 常に心配する(自分が治らなくていい)理由を探している人がいるんだけど、 それはそれで人生設計をしているように見える。 あの山を越えれば、海が見える。その陰で山を永遠に自己調達。 うまく見つけてきて、身も世もなく嘆いているのだけれど、 その周りの巻き込み方の段取りといい、 下手すると私より生きる力が強
愛読してる極東ブログで先日この本が紹介されていた。 極東ブログ: それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条(ケント・M・キース) ちょっと思うところがあってその場で購入した。 それでもなお、人を愛しなさい―人生の意味を見つけるための逆説の10カ条 作者: ケント・M.キース,Kent M. Keith,大内博出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2002/08メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 50回この商品を含むブログ (26件) を見る知らなかったが、逆説の十戒、というのがあるらしい。 こんな感じ。 1. People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway. 2. If you do good, people will accuse you of selfi
最近ウェブの流れがリアルのコミュニケーションと同じくらいに速くなって、 時間の感覚が変わってきた気がする。 ウェブとリアルの違いの一つは過去ログが残るかどうかで、 そのおかげでウェブのコミュニケーションは非同期で成り立つ。 私達は同じ時間に同じ場所にいなくていいし、 あなたの今が私の過去だったり、私の未来があなたの今だったりする。 それがすべて1人の人から見た場合、同時に存在している。 考えてみると、たとえばリアルでの私の身体は「過去ログ」にあたる。 今までの食生活、生活習慣、姿勢の総和。 それを総動員してリアルに目の前に存在する「現在」に向かう私。 ダイエットやら化粧やらはなんというか、過去の隠蔽のような気分を伴う。 終わり(最新体型)良ければすべて良し、過去がなかったことに。 ならないかなあとか。そんな欲望。 ウェブ上でのコミュニケーションで実感できるのは、 「人は変わる」ということだ
前、このエントリ(「仕事を通じて、ダイレクトに社会貢献したい」は甘いか? - はてブついでに覚書。)書いてたら、ブクマや他のところで、下記の書籍を教えていただいた。 自分探しが止まらない (SB新書) 作者: 速水健朗出版社/メーカー: SBクリエイティブ発売日: 2008/02/16メディア: 新書購入: 22人 クリック: 1,118回この商品を含むブログ (306件) を見るまだ読んでないんだけど、ちょっとはてなやTwitterでも話題になっていたし(というかそもそも著者がはてなやTwitterにいらっしゃるわけだけど)、読まねばねば。 自分探し、キャッチーでいい言葉ですよね。 私は好きですよ。愚直にガチで探してる人しか信じないくらい(笑)。 というか、一言「自分探し」というと人それぞれに全員定義が違うくらい、面白い言葉よね。 自分とは何かを分かっていてそれを探しているのか、 自分を
いつの時代でも世代間の価値観ギャップはあるわけだけれど、 経済が右肩上がりとか、今頑張れば将来がもっとよくなるとか、そういう価値観の人たちと、 バブル崩壊後に社会人になった現代の若者達の価値観がずいぶん違うことは、自分がその渦中にいることもあって、よく感じる。 82〜83年生まれにとっては、小学校低学年頃がバブル経済のピークだった。その後、日本経済は、ここ数年の「実感なき経済成長」を除けば、「ずっと景気が悪い」のだ。彼らからすれば、ものごころついて以来、「景気というのは悪いのが普通」「明日は、今日より悪いことの方が多い。今日と同じなら、もうけもの」という感覚の方が普通だろう。 私はこの年代より5歳上だけど、小学生も中学生も日本では経済リテラシ的に変わらないから、大体同じような感覚を持っている。 これまでの経験では、「仕事を通じて、ダイレクトに社会貢献したい」という20代が多く、それを仕事へ
「隣のうちの子供が事故で死んでしまった。うちの子は今日は生きてる、ありがとう!」 というような感謝の仕方を、 たとえ心で思っても人前で口に出すような人は相当アレだと思うけど、 そういう、「持たざる」人に比べて自分の「持てる」状態を感謝する、というやり方は 脳内では結構よくやりがち。 ご飯が食べられるだけいいか。家があるだけいいか。足があるだけいいかetc. 同じ境遇の人同士の間(たとえばご飯が食べられるだけ〜はたいていの日本人間)では、はさほど問題にならないけれど、 その、比較された「持たざる」人がその感謝の言を聞いたとき、 こんなに悲しく、辛いことはない。 ただ、たいていの人は、ただただ、別に何と比べるでもなく、目の前の事象に感謝してる。 ご飯がうまいありがとう。職があってありがたい、健康で幸せ、 子供ができて嬉しい、上司が人格者でラッキーetc. 明らかに恵まれている場合もあるし、客観
あんまりアクティブじゃない一人っ子の娯楽というのは、 本が手っ取り早いので、子供の頃は読書好きだった。 (今は情報摂取を目的とした読書以外がほとんどなくなって、寂しい限り。) 親からは結構な勢いで放置されて育った、というか、 世の中とはこういうものだ、という概念や価値観を 全く語ることのない性質の人達なので(彼らにあるのは、田舎のある階層特有のやさしい諦念と受容)、 結果、世の中の認知方法を本からの知識に頼ることになった。 基本的には推理小説とか、娯楽本を読んでるだけだったけど、 たまに、何か受け入れがたい現実があるときは、 私がそれを受け入れるロジックを知らないだけだ、そしてそれはどこかにすでにある、 という理由で本を漁って読んだ。 現実はいつも、肯定も否定もなくすでに事実として存在する。 それを否定しても現実が消えるわけではない。 なので肯定して次に行く。次の自分に。 肯定が出来ないの
今日はクリスマスイブだったけれど、大人たちが酔い宵でバスを待っていたら、 そんな中、高校生と思しき男の子たちが、数学だ理科だっていう話を一生懸命していた。 文系と理系、自分はどっちだ、何々が得意だから、何々には興味ないからetc.と、判定し合っていた。 誰もがする話だ。2年生になると選ぶのよね。私がいた高校はそうだった。 まあ、割り切ってるよね。私もそうだったけど、自分の興味なんてまだわかんないから、 苦手な科目はそのまま、「まあ、向いてないんだろう、俺」ってことで、 苦手じゃないほうを、無難なほうを、点数取れるほうを、向いてるということにして選んでる。 そうやって選んでしまったものが案外、その先の人生を縛るんだなあとしみじみ。 みんなの人生が”一緒に流れて”いる中で立ち止まったり道を変えたりするのって、 結構な意思がないとやれないから、結構な意思がない場合、そのまま行くのよね。 でも所詮
誰かが悲しんでいるとき、 誰かが悩んでいるとき、 時間が解決することが、時間をかければ解消していくことが、結構ある。 しっかり時間を使って悲しんで、だんだんと受け入れていったり、 時間をかけて考えを整理していくうちに、道が見えたり。 そういう途中で、 その人は他の人に相談することはもちろんあるけれど、 そういうときに、相談されるほうは、あれなんだね、 結論なんて、がんばって言わなくていいんだねきっと。 あの、明らかに本人が血迷ったりなんかしてる場合でなければ。 だって途中だから。 きちんときちんと時間を使って、答えを出すところまでいく途中だから。 結論出して違う道を強制したり、 考えを否定して歩みを停滞させたりしてしまうよりは、 なんていうか、邪魔しないように、伴走できたらいいんだろうね。 すみませんそんなことに今頃気づきましたはい。
幸せに育った人は、小さな、何気ない幸せに満足できる。 きちんと、無条件に、無根拠に、絶対的な存在の承認をもらって、 小さい頃から、「足る」の受容体が育つように、育っているので、 他の人と比べたりする前に、世間なんていう評価を待つ前に、 自分にとって何が足るかを知っているし、きちんと発達した受容体が、それをきちんと捕まえて、 きちんと受け取って、満足して、生きられる。 「幸せ」とか、「足る」とかの受容体を、育てる機会を授からなかった人は、 他の人の表明や、世間という評価でしか知らなかった人は、 いつも、これじゃないし、いつも、あれじゃないし、いつも、それでもないと、 たくさんの、「受け取れない」日々を、うんざりするほど重ねて、 人よりもたくさん諦めてみたり、人よりもたくさん求めてみたりして、 受け取る行為に使われなかったその、 ものすごい、欠乏のエネルギーを、希求のエネルギーを、やり場なくも
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『旧 はてブついでに覚書。』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く