サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
GWの過ごし方
bushoojapan.com
鎌倉時代はシェイクスピアである――。 そんなこと、いきなり言われても「わけわからん」と思われるでしょうか? 実は、今なおファンの多い『鎌倉殿の13人』について、脚本家・三谷幸喜さんが公式サイトのインタビューで、以下のように語られていたのです(→link)。 シェイクスピアには、おもしろい物語の要素のすべてがある。 和田義盛と三代将軍・実朝。 2人の関係は、『ヘンリー四世』に出てくるフォルスタッフとハル王子に重なります。 三浦義村は『オセロー』に出てくるイアーゴー。 頼家の苦悩は『リチャード二世』に出てくる若き王の哀しみと似ている。 そして頼家の息子の公暁。 彼が置かれた境遇はまさにハムレットそのものです。 ※脚本・三谷幸喜さんインタビューより引用(→link)※現在はリンク切れ 「シェイクスピアなんて知らんがな……」という方も後述しますのでご安心ください。 実はこの発想は三谷幸喜さんに限っ
確かに『鎌倉殿の13人』の主人公が発表された時点で、 「えっ?北条義時って???」 と違和感、あるいは驚きを抱かれた方も多かったでしょう。 源頼朝や北条政子ならまだしも、二代目執権・義時とは、まさしく予測不能――。 前半生は「何もしない人」と揶揄されるほど影が薄く、表舞台に立ち始める頃には陰謀の渦中にいて、何度も結婚を繰り返す。 英雄と持ち上げるには黒すぎて、しかも平安末期から鎌倉時代など視聴率だって望めなさそうだ。 やはり大河ドラマの主人公に適していない人物では? 実際、そんな意見も多くあったようですが、あらためて考えてみたいのがこれ。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のクライマックスとなった【承久の乱】。 後鳥羽上皇の朝廷と、北条義時の幕府が衝突した朝幕対決は、幕府の勝利で幕を閉じます。 これで鎌倉幕府も安泰だ……と思われるでしょうか? 実は承久の乱からわずか26年後、今度は鎌倉幕府を内部からバッサリ分断しかねない大事件が勃発しています。 宝治元年(1247年)6月5日、北条と三浦が衝突した【宝治合戦】です。 『鎌倉殿の13人』では、小栗旬さん演じる北条義時と、山本耕史さん演じる三浦義村は、盟友のような間柄。 さすがにこの両家は安泰では?と思われますよね。 たしかに北条は討幕まで存続します。 しかし、三浦は違います。 北条泰時の孫である北条時頼と、頼朝の側近であった安達盛長の子・安達景盛が、三浦義村の子・三浦泰村や三浦光村らを排除する事件が起きてしまうのです。 凄惨極まりない結末を迎え、三浦一族が自害を遂げた跡は今も鎌倉にひ
せがれの音之進はいずれ 指揮官になっち 決まっちょります 指揮官には大勢の若い命を預かる責任があっど せがれには我から進んで困難に立ち向い ふさわしい男になっくんやせ 鯉登平二(『ゴールデンカムイ』第139話より) 『ゴールデンカムイ20巻』は、前を見据えて進む杉元が表紙です。 彼が進みゆく道に待っている冒険の結末は、どうなるのか? それはネタバレになるため伏せさせていただきますが「金塊争奪戦以外の未来」については興味深いものがあります。 現実に起きた史実を振り返れば、様々なことが見えてくるからです。 彼らの過去、そして未来を考えてみましょう。 ※この記事はネタバレを含んでおりますので単行本20巻読了の方のみ、読み進めてください 【TOP画像】ゴールデンカムイ20巻(→amazon)
歴史とは完結したもの。 過去を取り扱うのだから「不変である」と思われがちです。 しかし、現実は違います。 歴史研究や創作物によって、同じ人物や事件でも、評価がガラリと変わることは多々ありまして。 例えば、豊臣秀吉像をとってみても、時代によって人々の願望が反映され、変化していることがわかります。 以下の部分に注目しますと……。 ―――大河ドラマや漫画、アニメなどで戦国ものが多く扱われていますが、そういった他のメディアで定着したイメージからの影響はあるのでしょうか? 木股:影響はありますね。常に新しい知識で、新しい武将の一面をみせることができたらなと。史実で新しい発見があったらどんどん取り入れていきたいと思っています。 良い例が今川義元ですね。昔は信長に討たれた中途半端なイメージでしたが、研究が進み再評価がなされ、『信長の野望』でも地位があがっていきました。 また、これまで義理が低いと言われて
大河ドラマ『青天を衝け』で、なかなか衝撃的なシーンがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。 主人公である渋沢栄一と出会った伊藤博文が、若い頃のヤンチャ自慢をするように【英国公使館焼き討ち】の話を始めたのです。 焼き討ちとは、現代でいえば「テロ活動」。 通常の感覚なら、こんな姿勢は褒められたものではないでしょう。 あれはドラマの中だけの話なのか? というと、実は史実においても、若い頃の渋沢栄一と伊藤博文は尊王攘夷の【テロ同志】と言えます。 かたや資本主義の父と呼ばれ。 かたや日本初の総理大臣であり。 お札の顔にまでなった二人ですから、にわかには信じ難い話ですが、実際に記録が残っているのだから仕方ありません。 では一体、二人はどんなテロ活動をしてきたのか? 1840年3月16日(天保11年2月13日)は渋沢栄一が生まれた日。 ドラマでも渋沢と伊藤が意気投合していた、怖い理由の真実を見て参りま
慶長16年(1611年)6月4日は真田昌幸の命日です。 古くは戦国ファンにしか知られていなかったような武将でしたが、2016年の大河ドラマ『真田丸』をキッカケに大ブレイク。 草刈正雄さんの熱演もあり、あまりに濃厚なキャラクターは主役の幸村を喰ってしまう程の人気となりました。 もちろんドラマでの像はフィクションですが、時代考証担当者が丹念に集めた史料をもとに築き上げられたキャラクターであり、史実ベースで見ても、上司にはしたくないというか、あまりお近づきにはなりたくないというか……。 正直どうなのよ?と思うような部分もあります。 なんせ謀略と共に立場をコロコロ変え、ときに「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」とも称されるこの昌幸。 一体過去に、どんな所業をしてきたのか? なにゆえ表裏比興などと言われてしまうのか?
誠実な人柄で武芸は達者。 おまけに見た目は超イケメンで、しかも智勇兼ね備えている――。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で中川大志さんが演じていた畠山重忠があまりにカッコよかった! 完璧じゃないか! と思うのは我々だけでなく、昔から「坂東武士の鑑(かがみ)」と称される程の人気ぶりでした。 では一体、坂東武士の鑑とは、どんな武士のことを指すのか? これが意外と難儀な問題で……考察しましたので、ご一緒に振り返ってみましょう。
この大人気シリーズは、まず石仮面からスタートを切ります。 「族長(オサ)!族長(オサ)!」 とまぁ、こんな絶叫から始まるわけですが、南米大陸にこんな「血は生命なり!」なんて言い切るようなとんでもない儀式があったの? そう言いたくなるかもしれません。 実は、劇中で説明されるような人身御供儀式の痕跡はあります。 ただ、資料破損のため、その目的が現在でもわからないところ多く、現代では想像力を刺激されるわけです。 ゆえに作者が「石仮面だーッ! 柱の男ォーっ!」と脚色してもそれはアリアリアリアリアリーデヴェルチなのです。 知識と丹念な取材、そして奇想が生み出した設定と言えましょう。 アステカ文明の骨董品が、イギリス貴族であるジョースター家にあったという点に注目します。 ナポレオン戦争時のロゼッタストーン発見あたりから、イギリスはじめヨーロッパ諸国は古代文明の発掘、考古学への熱気が高まってゆきました。
そんな海軍で働く人々が、それに見合うだけの待遇を得ていたかというと、そんなことはありません。 木造戦艦に乗り込んだ乗務員たちは、長いこと陸地を踏むことすらできず、劣悪な食事しか与えられませんでした。 虫の湧く堅い乾パン、水でもどした豆、塩漬けの肉、ビール、ラム酒。 ビタミン不足の乗組員たちは、壊血病に悩まされ続けます。 18世紀末になってライムの摂取が義務化されると壊血病患者は減ったものの、チフス、マラリア、コレラの患者は相変わらず多く、実に海軍での死亡者の半数は病死が占めていたぐらいです。 任務もまた過酷です。 高いマストにのぼって帆を張り、敵の戦艦と戦い、仕事で重大なミスをすれば容赦ない鞭打ち刑が待ち受けているのです。 そして、ひとたび敵と戦闘になれば、狭い船内に逃げ場はありません。砲弾の衝撃、飛び散る木片、大砲の発射音に耐えながら戦い続けねばならないのです。 病死、戦死、溺死、戦艦に
『徳川慶喜公伝』という書物をご存知でしょうか? 文字通り15代将軍・徳川慶喜の生涯を描いたもので、著者は他ならぬ渋沢栄一。 大河ドラマ『青天を衝け』でも同書の内容をベースにしているようで、主人公の栄一が書いたんだったら間違いない! これは傑作だ! とはならないのが歴史コンテンツの宿命でもあります。 自己申告の武勇伝ほどアテにならないことは皆さん肌感覚でご理解いただけるでしょう。 自伝というのは「好き勝手に改ざんできる」とまでは申しませんが、文才さえあれば、いくらでも都合よく経歴事績をキレイに見せることができる。 ウソはついてない――されど読み方によっては意図的に誤解させられる――そんな書物って信用できませんよね? 残念ながら『徳川慶喜公伝』もまた疑わしき書籍だったりします。 これは何も私が言っていることではなく、同書は刊行直後から 「フザけた内容だ!」 として元幕臣や佐幕派の武士らを中心に
なんて言葉で称えられることもあります。 2018年大河ドラマ『西郷どん』では、島津斉彬と比較してその父・島津斉興や、異母弟・島津久光が、あまり優秀では無いように描かれていました。 実際は、そんなことありません。 本稿では、江戸時代の薩摩藩主・全12代の足跡をマトメてみました。 1代 島津忠恒(ただつね) 1576-1638 2代 島津光久 1616-1695 3代 島津綱貴(つなたか)1650-1704 4代 島津吉貴 1675-1747 5代 島津継豊 (つぐとよ) 1702-1760 6代 島津宗信 1728-1749 7代 島津重年 1729-1755 8代 島津重豪(しげひで) 1745-1833 9代 島津斉宣 1774-1841 10代 島津斉興(なりおき) 1791-1859 11代 島津斉彬(なりあきら) 1809-1858 12代 島津茂久(もちひさ) 1840-1897
良いときは良く、悪いときはとことん悪く――。 権力者の家族はギャップが激しいもので、慶長二十年(1615年)5月23日に処刑された豊臣国松もその一人でしょう。 姓は聞き覚えっても名が不明で「いったい誰?」という声が聞こえてきそうですが、記事タイトルにまんま答えはありますよね。 豊臣秀頼の息子であり、つまりは豊臣秀吉の孫となります。 父親が大坂城と共に自害したことから、国松の将来にも影がさしそうですが、一体どうなるのか……その生涯を振り返ってみましょう。 📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド
『鬼滅の刃』の「遊郭編」が地上波へ――。 当初、宇髄天元によって「ド派手に行くぜ!」という告知が公開されると、たちまちネットは大騒ぎになりました。 「遊郭を子供にどう説明すればいいんだ?」 そんなストレートな疑問が飛び交っていたかと思ったら、いつしか話は曲解されて 「遊郭はセーフティネットみたいなもんだった」 なんてトンデモ論まで出てくる始末。 一体これはどういうことだ……と軽く驚きつつ、辿り着いた結論がこれです。 【みなさん、遊郭の知識が曖昧なのではなかろうか?】 江戸には吉原という一画があって、そこでは遊女が客を取る。 彼女たちの中には花魁というアイドル的存在もいて、大名や商家などの有力者しか相手にしなかったような……。 と、それぐらいのことは何となく知っていても、実際にどんな場所だったか?という生々しい話となると、答えられる方が少ないのでしょう。 そこで本稿ではリアルな遊郭事情を振り
2021年3月、日本テレビの番組『スッキリ』において、ある発言が問題になりました。 お笑い芸人・脳みそ夫氏が「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」という謎かけをしたのです。 脳みそ夫氏当人の中に、そんな意識はなかったでしょう。 しかし、その言葉の意味するところは明確なアイヌ差別であり、すでに大人気漫画『ゴールデンカムイ』でも指摘しているところで、「1巻 第6話」(→amazon)においてはこんな会話がありました。 白石「そのアイヌはお前さんの飼いイヌか?」 杉元「アゴを砕いて本当にしゃべられんようにしてやろうか」 アシリパ「よせ杉元 私は気にしない 慣れてる」 『ゴールデンカムイ1巻 第6話』(→amazon)より ※アシリパの「リ」は小文字です 『ゴールデンカムイ』は明治時代のアイヌを描いた漫画・アニメで、作中では彼らの暮らしだけでなく、長く続いた辛い歴史も反映
幕末の薩摩藩士とはとても思えないほど平和的だった大河ドラマ『西郷どん』。 主人公は常に人道的で平和主義。 そうなると、まず間違いなく「登場しない」であろう薩摩藩士が次の二人であり、 実際に登場しませんでした※1。 益満は西郷隆盛の信任も篤く、山岡鉄舟の護衛も務めたほどの藩士。 維新混乱期の中で活躍し、過去の映像化作品にも出ています。 例えば1979年放映『風の隼人』では、『西郷どん』ナレーターである西田敏行さんが演じましたが、そんな藩士がドラマに登場しないのはなぜか? というと彼らは、史実の西郷が強引に押し進めた【武力倒幕】に深く関わっていたのです。 悪徳将軍・徳川慶喜――ドラマではその愚行を止めるためとされた武力倒幕。 史実では「下策(よろしくない策)」とされながら、西郷は、なぜそんな策に走ったのか? 考察してみましょう。
言葉そのものは戦後に生まれた「守護大名」にせよ「戦国大名」にせよ。 これらのワードは戦後に生まれた学術用語です。 もとは鎌倉幕府にも室町幕府にも設置されていた【守護】が守護大名の語源。 鎌倉時代の守護・地頭は、朝廷から派遣された国守とうまくやっていくことも仕事のうちでした。 が、室町時代にもなると国守の力はほとんどなくなり、守護が国守の仕事も実質的に行っています。 これによって収入も軍事力もUP! そもそもが武士ですから家臣団もおり、武力と経済力が伴った小国家みたいな組織となりました。 鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、室町幕府の力が相対的に弱く感じられる理由の一つですね。 力を得る代わりに守護の職務も増えますが、さほどの問題ではなかったようで。 このような状態になってから「守護」ではなく「守護”大名”」と呼ぶことが多くなる気がします。 しかし、あくまで建前上は「幕府に任命されて守護の地位を得て
本稿では、父・信玄とは違った真の魅力に迫ってみましょう。 ※本稿の「信玄」表記は時期に関わらず同名で統一します(以下はその生涯を綴った関連記事となります) 📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド 諏訪氏の母を持つ武田勝頼武田勝頼の生年は、天文15年(1546年)。 同年生まれには黒田官兵衛孝高や最上義光がおり、ほぼ同期となるのが真田昌幸(1歳下)や、徳川家康(4歳上)あたりまで含められましょうか。 この世代の武将たちは1600年「関ヶ原の戦い」において、人生経験と体力をフルに発揮できた時期に当たります。 そう考えると、勝頼の生涯がいかに短かったか……。 父・武田信玄にとって勝頼は四男でした。 母は正室・三条夫人ではなく、諏訪氏(法名・乾福寺殿)の娘。本稿では法名表記の「乾福寺殿」とします。 フィクションで有名になった「湖衣姫」や「由布姫」はいずれも創作の産物であり、実名は不
今川義元は家督継承順の低い五男か今川義元は、永正16年(1519年)に生まれました。 父は今川家の当主である今川氏親で、母は中御門宣胤という公卿の娘(寿桂尼)。 母の寿桂尼は氏親の正室として今川家にかなり大きな影響を与えていたようで、「女大名」「尼御台」などと称されることもあります。 しかし、上記のように格の高い出自を有しながら、義元の家督継承順位はかなり低いものでした。 それはなぜか。 義元には複数の兄がいたと考えられるからです。 広く知られているところで二人の兄(今川氏輝・玄広恵探げんこうえたん)がおり、また近年では、経歴不詳な彦五郎という人物や、仏教界ではそれなりに名の知られた象耳泉奨しょうじせんじょうも兄とされます。 依然として義元の兄弟については複数の説が乱立していますが、本稿では今川家の五男として進めます。 たとえ大名家の子息として生まれても、これだけの兄弟がいればどのような生
様々なやんちゃ行為のおかげで、最強のネタ系戦国大名としてお馴染みの伊達政宗さん。 とりわけ政宗の手紙は飛び抜けてお茶目で面白い――そんな評判であることをご存知でしょうか。 政宗の場合、好条件が揃っており、ありのままに感情が炸裂した手紙が現代まで多数残っております。 その好条件とは、 ・祐筆をあまり使わず、自筆で書状を書いていた ・筆まめ ・伊達家が改易されておらず、家臣たちが「藩祖」の書として家宝扱いにした ・彼自身の知名度が高いため、発見されやすい
武士とは、平安後期に生まれた新しい身分です。 初期の頃は貴族に都合よく使われたり、地方の親分として粗暴な振る舞いをしたり。 ぶっちゃけ「野蛮」な存在であり、鎌倉時代初期(特に承久の乱)のあたりまでは文字を読めないのもフツーという文化レベルでした。 しかし、彼らだって、いざとなれば「やれば、できる!」。 地方統治を担うようになって自然と【法や裁判】に関わるようになり、意識改革も起きます。 たとえば文字が読めるようになったことで、学問に興味を持つ者も現れ始めました。 その最たるものが、金沢文庫を作った北条実時でしょう。 今回は鎌倉武士の衣食住・武芸・刀剣甲冑について見ていきます。 彼らと関わりの深い仏教については、別の機会にして、まずは武芸から!
本日10月14日はコロンブス・デーです。 世界史的に見て、コロンブスはもはや偉大なる英雄とはされません。 ところが日本では、2024年6月に3人組バンド「ミセスグリーンアップル」がミュージックビデオ『コロンブス』を公開して物議を醸し、早々に閲覧できなくなりました。 いったい何が起きていたのか? というと、ミュージックビデオの中で、コロンブス、ナポレオン、ベートーベンに扮したメンバーが、猿の着ぐるみを身につけた人々に様々な文明を教えるというストーリーが描かれ、差別的と見なされたのです。 たしかにアメリカでは、10月の第二月曜日を「コロンブス・デー」という祝日にしていました。 1492年10月12日にコロンブスがアメリカ大陸を発見した日を記念するものでしたが、疑義と批判が噴出し、各州で「先住民の日」と改められてゆくのです。 わざわざ祝日を変更するとは……英雄の銅像撤去にせよ、こうした世界的な歴
大河ドラマ『べらぼう』の第21話に、家臣を的にして火縄銃を撃つ恐ろしい人物が現れました。 えなりかずきさん演じる松前藩主の松前道廣(みちひろ)です。 笑顔で銃をぶっ放す異常性はあまりにも薄気味悪いものがありましたが、今回注目したいのは道廣が幕府に隠れて“抜荷(密貿易)”で荒稼ぎしているという点です。 あれは一体なんのことなのか? というと松前藩の特殊な成り立ちが影響していてのことでしょう。 大名の中で最北端に位置する松前藩では、寒冷な地域では育てられない稲の代わりにアイヌとの交易で利益を挙げていたのです。 では実際どんな運営で藩を回していたのか? 戦国期から幕末までの、松前藩の歴史を振り返ってみましょう。 🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説 コシャマインの乱で武田信広大活躍蝦夷地――それは【中央政権に屈しない民族が暮らす土地】というのが、中世以来の和人による認識でした
一般的にはマイナーながら、ある地域では絶大な支持を受ける戦国武将を紹介させていただく当コーナー。 今回は千葉県旭市からピックアップいたします。 木曽義昌さんです! 木曽義昌さんは文禄4年(1595年)3月17日に亡くなったとされます。 命日については諸説あり国史大辞典では同年3月13日だったりしますが、お墓のある東漸寺では17日を供養の日としていますので、この日で進めさせていただきますね。 申し遅れましたが、私、“れきしクン”という芸名で活動を行っている長谷川ヨシテルと申します。よろしくお願いします! 📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド
豊臣秀長と秀吉の再会豊臣秀長は天文九年(1540年)あるいは天文十年(1541年)、尾張に生まれました。 といっても生誕地はあくまで推測であり、兄・秀吉とは三~四歳差で、兄弟の父親が同じなのかどうかについてもはっきりしていません。 母は大政所(なか)。 秀吉が十代半ばで家を飛び出したせいか、秀長幼少期のエピソードはありません。 兄弟の再会も確かな史料はなく、こちらもあくまで推定ながら秀吉が寧々と結婚した頃、おおよそ永禄四年(1561年)~永禄八年(1565年)とされます。 秀吉が家を出てから、だいたい15年ぐらい後の話です。 秀長は兄が来るまで、百姓として田畑を相手に暮らしていたようです。 二十歳を少し超えていたはずですから、当時の社会通念では、とっくに妻を迎えて、子供の2~3人いてもおかしくないところ。 しかし、秀長にはどちらもおらず、これが後に、彼や豊臣家の運命を左右することになります
生い立ち大岡忠相は延宝五年(1677年)、父・大岡忠高の第四子として生まれました。 貞享三年(1686年)同姓の忠真の娘婿として養子になり、翌貞享四年(1687年)9月に時の将軍・徳川綱吉にお目見えして公的デビューを果たしています。 こういった場面で公の場に出てこないと、武士であっても血縁関係や活動時期などがわからないことがあるため、重要なポイントです。 大岡家は本家・分家の間で養子のやり取りをたびたびしており、結束が強かったようです。 しかし、忠相の時代にはそれによる不都合が起きていきます。 まず元禄六年(1693年)に忠相の実兄・忠品が八丈島に流罪となっています。 将軍・綱吉の勘気を蒙ったらしいのですが、詳細はわかっていません。 さらに元禄九年(1696年)、いとこの書院番・忠英が番頭を殺害して自害という事件を起こしたため、忠相も父や他の一族とともに閉門処分となってしまいました。 父・
借金とは、個人にとっても組織にとっても頭の痛い問題。 歴史上でもこの問題は幾度も持ち上がってきますが、そこで財政再建の名君と称され、TVや書籍でもたびたび注目されるのが上杉鷹山です。 寛延4年(1751年)7月20日はその誕生日で、彼は、あの謙信公が引き継いだ「上杉家→米沢藩」の九代藩主でありますが、そこでちょっと気になりません? 「そもそも米沢藩って、なぜそんなに財政がガタガタだったの?」 と、その詳細については以下の記事に譲り、
八甲田山に駆けつけた辨開凧次郎(イカシパ)『ゴールデンカムイ』の舞台、直前の明治35年(1902年)。 雪深い青森県の山中で行われた「八甲田山雪中行軍訓練」で、当時の陸軍は、史上稀に見る規模の犠牲者を出しました。 訓練の参加者210名中、実に199名が遭難で死亡したのです。 このとき歩兵第五師団が、難航する救難と捜索のため、協力を求めたのがアイヌ民族。 寒冷な冬の山を捜索するのであれば、彼らこそ頼りになると考えたのです。 早速、要請を受けた茅部郡落部村(かやべぐんおとしべむら)のアイヌ・イカシパ(和名:辨開凧次郎/べんかい たこじろう)は、仲間10人を引き連れ、八甲田山へ向かいました。 『ゴールデンカムイ』ではこの中に、イポプテもいたという設定がなされています。 現場に到着した辨開らは、67日間、探索に参加しました。 が、もとよりほぼ全員が亡くなった事件ですから、彼等も生存者を発見すること
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』において、徳川家康と井伊万千代(のちの井伊直政)の同性愛関係(男色)が取り上げられました。 菅田将暉さん演じる万千代が「多くの武士が色小姓となったことをキッカケにのし上がった」と自らを励まし、阿部サダヲ家康の寝所へ向かったのです。 あるいは2022年『鎌倉殿の13人』では、源実朝が北条泰時に対して恋心を抱いており、歴史に免疫のないお父さんやお母さんには 『このシーンは突然何なんだ?』 と困惑されたかもしれません。 ※いずれもドラマでは未遂で終了し、史実ではそう囁かれたりもする 一方、戦国ファンや歴史ファンならば納得の場面だったかもしれません。 織田 信長にせよ武田 信玄にせよ。 その手の話は尽きないものであり、多くの書籍やフィクション作品でも描かれたりもしています。 そうなると俄然大きくなるのが
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) - 日本初の歴史戦国ポータルサイト』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く