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10年前(2005年)の今日、4月11日にこのブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」を始めました。 【10年前の最初の記事】 当時はまだ「ブログ」なるものが登場し始めの頃で、インターネットの新しい可能性を開くものと期待されていました(真鍋かをりが「ブログの女王」と呼ばれていた頃です)。 その頃、東京の大学院で研究をしていた僕は沖縄の歴史がほとんど認知されていないことを痛感し、どうにか研究者以外の人たちに沖縄の歴史をわかりやすく伝えることができないかと漠然と考えていました。 伝承や数十年前の水準の一般書は沖縄県内を中心にそこそこありましたが、研究者が出した最新の論文などの成果を解説した書籍は少なく、ましてや当時は沖縄の歴史についてネット検索しても、手作りのホームページで簡単な沖縄の歴史年表や概説がある程度でした。 この試みは大学院での研究とは全く関係なく、研究者としてのキャリアで考えればムダな
薩摩といえば1609年に琉球王国を占領した「支配者」です。琉球は薩摩に毎年税を払い、あいさつに出向き、さまざまな政治的な制約を受け、いわば「子分」のような存在になってしまったわけです。しかし、かつては琉球王国が薩摩の上に立ち、薩摩がへりくだっていたとしたら?「まさか!あんなに強い薩摩が弱小の琉球王国の下につくなんて考えられない!」と思う読者もいることでしょう。しかし最近の琉球と薩摩との関係を分析した歴史研究では、驚くべき説が出されています。 1500年代はじめの尚真王の時代、琉球は中央集権化を達成して八重山や久米島を征服、奄美大島にも攻め込んで反乱を鎮圧し、琉球史上の最大版図を築いていました。一方の薩摩は島津の分家がそれぞれ分裂して、守護職をもつ島津本宗家に対抗し、さらに国人領主も台頭、島津氏領国は統一にはほど遠い状態でした。さらにこうした内乱に乗じて日向(宮崎県)の伊東氏や肥後(熊本県)
沖縄県の県庁所在地の那覇市。王国時代には沖縄随一の交易港として栄えました。この「那覇」という地名、一説では漁場を表わす「なば」からきてるとも、また那覇の浮島にあったキノコ状の形をした石灰岩(ナバ=奈波)からきているとも言われています。 それでは、「なは」という地名に「那覇」の漢字があてられるようになったのはいつ頃のことでしょうか。確認できるかぎりでは、1521年の三司官から種子島時堯へ宛てた書状(『旧記雑録』)。「那覇之奉行」という文言で登場します。 1542年の大内氏奉行人・相良武任の書状には「奈波」とあり(「中川家文書」)、この頃は表記が定まっていなかったようです。 1559年には「那覇主部(なはぬしべ)」から島津氏の老中あてに書状が送られていますが、ここでは「那覇」と表記されています。どうやら16世紀後半から「那覇」表記が一般的になったようです。 書状では琉球側から「那覇」と表記し、
名護市東海岸の嘉陽(かよう)の丘陵地帯に、嘉陽グスクというグスクがあります。このグスクは石垣はまったく存在せず、日本の中世城郭のような土でできたグスクです。山を削って平場や切岸を設け、敵の侵入を阻む造りです。伝承によると、グスクは勝連から移住した嘉陽大主(かよう・うふぬし)なる人物が築いたということです。 グスクも非常に興味深いのですが、今回紹介するのは廃城後、地元民の信仰対象となったグスクについてです。グスクを登ると、1939年(昭和14)に建立された鳥居があり、そこをくぐると広場になっています。そこにはコンクリート造りの祠と碑があります。 碑には「紀元二千六百年祭記念」と、祠建立に寄付した者一覧が刻まれています。紀元2600年祭といえば戦前の日本で大々的におこなれた国家的な祝賀行事。こんな沖縄の一地域にまで影響を及ぼしていたんですね。名護は沖縄戦の激しい戦火にはみまわれなかったので、こ
沖縄島南部の知念半島の先に浮かぶ久高島。近年では「神の島」として広く知られるようになりました。スピリチュアル・ブームに乗って、多数の観光客がこの島を訪れています。 この島には沖縄のほとんどで消えかけた古来の祭祀組織が温存されていて、島の女性は一定の年齢になると神女組織へと編入されます。12年に1度行われる就任式にあたるイザイホーの儀式は過疎化により現在途切れていますが、それでも1年のうち約30回もの祭祀があります。島には琉球の創世神話で神が降臨したという聖地のフボウ御嶽があり、沖縄のなかでも特別に格式の高い聖地です。 神秘的な雰囲気ただようこの島には、ある不可思議な事実が存在します。琉球王国の正史『球陽』には、次のように記されています(これは2010年に僕が監修したFEC文化事業部「首里城ミステリーツアー」で「炙りの煩い」とともに取り上げました。【こちら】に体験記)。 久高島、代々「異種」
ついにNHK・BSプレミアムで琉球王朝を舞台にした「テンペスト」が始まりました!とてもエキサイティングなドラマ展開で今後も非常に楽しみですが、視聴者のみなさんは江戸時代の時代劇とはちがい、琉球史のほとんど馴染みのない言葉や文化、制度にとまどうかもしれません。そこで、時代考証に関わった僕が、これから毎回のドラマに登場するシーンの歴史解説、用語の説明などをしたいと思います。沖縄の歴史に詳しい方でしたら「何をいまさら」な話になるかもしれませんが、ドラマを楽しむための入門編ということで、そこはご容赦ください。 なお、【ネタバレあり】なので、まだ観てない方は注意してくださいね。 まず今回のドラマは原作と若干の変更点があります。 (1)琉球の国政をつかさどる三司官(3人制の大臣)の名前、向親方・毛親方・馬親方を、それぞれ宜野湾親方(名高達男)、座喜味親方(上田耕一)、与那原親方(江原真二郎)に名前を変
東日本大震災では津波による大きな被害が出ました。四方を海に囲まれている沖縄も、津波と無関係ではありません。過去1000年に1~2度は南西諸島が津波災害に襲われていたことがわかっています(こちら参照)。 沖縄県や那覇市も今回の震災で津波などの災害対策に乗り出しています。そのなかで那覇市の津波浸水予測図が公開されました。 【那覇市津波浸水予測図】 【画像】古琉球の那覇概念図 この予測図を見てあることに気づきました。浸水する地点は、ほぼすべて埋め立て地になっています。那覇はかつて「浮島」と呼ばれた独立した島でした。那覇は王国時代から近代までに埋め立てがかなり進み、今では島の面影はほとんどありません。そして、津波による浸水をまぬがれる地区は、この浮島だった部分とほぼ重なるのです。 つまり、この浸水予測図から、王国時代の那覇の地形が浮かび上がってきたといえます。
中国との朝貢関係を結んでいた琉球では、福建省の福州に琉球館(柔遠駅)という滞在施設があり、ここに琉球人のスタッフが常駐していました。当然、現地では中国語を話さなくてはなりませんので、言葉を学ぶための中国語のテキストがありました。このテキスト、受験用のものではなく、超実践的!現地で実際に起こる状況を想定しての会話集です。 それでは王国時代の中国語テキスト『学官話』の一部を見てみましょう。 【レッスン1】中国の悪ガキに怒りをブチまけよう おまえという子は、私があなたをからかってもいないのに、どうして私をののしるのだ。家庭教育もなっていない、このろくでなし!もともと中国は礼儀を重んじる国だと聞いていたのに。お前のこんな行動や話し方を見ていると、私は中国へ勉強しに来たのに、学ぶべきことが何にもないという気になるよ。 (這個小孩子!我又不惹你。你來罵我做什麼。没家教的雑種!原説中國有道理的。看你這樣
沖縄の歴史に関する大きな情報が飛び込んできました。琉球国王家である尚家の遺産が国宝に指定されたというニュースです。沖縄での国宝指定は戦後初めてのことになります。指定された尚家の遺産は1251点にのぼる膨大な数の美術品や古文書です。国王の王冠や衣裳、王家が所蔵していた王国時代の記録類など、第一級の資料ばかりです。 この尚家の遺産、「首里城の謎(3)消えた王家の財宝」で取り上げた、戦前に中城御殿(尚侯爵邸)にあった宝物が一部東京へ移されて戦災をまぬがれたものです。本来はこの倍以上の遺産があったのですが、それらは戦争で焼失したり、米軍の略奪にあって現在伝えられていません。 琉球王国の滅亡後、尚王家は東京移住を強制され、千代田区九段北に邸宅をかまえることとなりました(現在は九段高校になっています)。尚家は華族(侯爵)となり、以来東京を拠点に生活し“江戸っ子”となったのです。しかし尚家の人々は沖縄の
イスラム教といえば11億人もの信徒を持ち、キリスト教・仏教とならんで世界三大宗教のひとつとされている宗教です。その中心は西アジア・アフリカですが、イスラム商人の活動を通じて東南アジアにも普及していました。 ちょうどその頃、琉球では統一王国が成立し、アジア各地へと交易に出向いていました。東南アジアでとくに交流があったのがシャム(現在のタイ)、そしてマレー半島南部のマラッカです。マラッカはもともと小さな漁村でしたが、やがて東南アジア最大の港湾都市となり、港には実に84の言語を話す人々が集まっていました。マラッカ王はイスラム教に改宗し、西のイスラム商人との結びつきを強めていました。つまり琉球の人々はイスラム教にふれる機会があったのです。 東南アジアだけではありません。当初、中国における琉球船の寄港地は福建省の泉州という場所でしたが、ここはかつて海のシルクロードの拠点として栄えた交易都市で、あの有
亜熱帯の沖縄では冬でも零下を下回ることはなく、雪が降ることはありません。しかし1999年12月、那覇市のパレット久茂地前で雪が降る様子がビデオ撮影され、ニュースになったことがあります。気象台は「当時の気温は13度で、そんなことはありえない」と反論しましたが、ビデオを見るとたしかに雪のようでもあり、真相は不明です(こちら参照)。 沖縄で気象観測がはじまって「雪」と観測されたのはただ1例、1977年久米島においてのみです。しかしこれは完全な雪ではなく正確には「みぞれ」でした。やはり沖縄に雪が降ることはないのでしょうか。ちなみに2005年には国頭村の奥で過去最低の5.2度を観測、同じころ奄美では山頂に雪も確認されたとのこと。 実は王国時代の記録(『球陽』)をみてみると、「ひょう」や雪が降ったことが確認できます。たとえば1774年、久米島では雪まじりの雨が降り、草木の葉に雪が積もったそうです。18
尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナ、ナンダッテー!)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。 結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が本来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。 尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、
大航海時代、ヨーロッパ人たちは琉球を「レキオ」と呼びました。そして「ゴーレス」もまた琉球人を指す名称として知られています。トメ・ピレス『東方諸国記』にはこうあります。 レケオ人はゴーレスと呼ばれる。彼らはこれらの名前のどちらかで知られているが、レキオ人というのが主な名前である。(レキオ人)は7、8日でジャンポンへ行って彼らの商品(小箱など調度品、扇、刀剣)を金や銅と交換する、レキオ人がもたらすもの(金、銅)は全部ジャンポンから来る。そしてレキオ人はジャンポンからの荷をルソン布などの商品と交換する。 このゴーレスという名前の由来はいったい何なのか、これまで明らかにされてきませんでした。しかし近年、歴史研究者の的場節子氏によってこの謎が解明されました(『ジパングと日本』)。的場氏は西欧側の史料を丹念に読み込み、琉球の金の入手先である「ジャンポン」「チャンパン」「ジャボンガ」「ぺリオコ」などが日
【古琉球で使用されていた元号】 明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。 洪武 こうぶ (1368~1398) 建文 けんぶん (1399~1402)※ 永楽 えいらく(1403~1424) 洪煕 こうき(1425) 宣徳 せんとく(1426~1435) 正統 せいとう(1436~1449) 景泰 けいたい(1450~1456) 天順 てんじゅん(1457~1464) 成化 せいか(1465~1487) 弘治 こうじ(1488~1505) 正徳 せいとく(1506~1521) 嘉靖 かせい(1522~1566) 隆慶 りゅうけい(1567~1572) 万暦 ばんれき
5月9日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムが開催されたので、参加してきました。参加人数は数百人を超え、臨時に第三会場まで用意するという盛況ぶり。沖縄での関心の高さがうかがえます。 報告者は琉球史研究を牽引する先生方、また本土や奄美からの研究者も参加したそうそうたるメンバーでした。さまざまな切り口から薩摩侵攻についての報告が行なわれました。とくに面白かったのは女性史や民間伝承、精神史の面から薩摩侵攻事件にせまった報告など。これまで考えたことのない新しい視点からの話は、とても興味深いものでした。 さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1
3年前、僕は小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』に対して批判的な見解を述べたことがあります(こちら参照)。この批判に対して最近、小林よしのり氏は『激論ムック・アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)で僕を名指しで反論してきました。今回はその反論に対しての回答を述べたいと思います。 小林氏は僕の批判記事「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるまで琉球王国は「日本国」に帰属した事実は一度もありません。」という部分を引用し、「日本は明治時代に近代国家を建設することになり、領土を画定するために「琉球処分」を行って琉球王国を廃絶し、明確に日本の一部とした」ことをちゃんと書いており、僕が『沖縄論』を読まずに批判している、と反論しています(『アイヌと沖縄の真実』18ページ)。 近代以降に普及した「民族」概念と同じように、国民
2009年は、1609年の薩摩・島津氏による琉球侵攻からかぞえてちょうど400年の節目の年に当たります。この島津軍の侵攻事件は琉球にとって初めての本格的な対外戦争でした。これから数回にわたり、拙稿「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』沖縄県教育委員会、2005)をもとに、島津軍侵攻の過程と琉球側の軍事的対応についてみていきたいと思います(注1)。 【図】島津軍の侵攻経路(クリックで拡大) 1609年(慶長14・万暦37)3月4日、薩摩の山川港に集結していた80隻余りの島津軍船が琉球攻略を目指して出航しました。 島津軍の編成は大将に樺山久高、副将に平田増宗・肝付兼篤。鹿児島方・国分方・加治木方のほか北郷氏や種子島氏、七島衆などが加わった約三千の軍勢でした。この軍は島津家久・義弘・義久のグループで成り立った寄せ集めの混成部隊であり、内紛の火種を常に抱えていました。当時の島津氏は当主
近世(江戸時代)の琉球王国は薩摩藩の支配下におかれていました。薩摩の琉球支配でよく言われるのは次のような説でしょう。征服者の薩摩藩は琉球王府を形だけ残し、中国との貿易で得られた利益を徹底的に奪い取る一方、琉球を植民地化して人民を奴隷のように扱ったと。薩摩に支配された琉球の悲惨な状況は、明治の琉球処分によって解消されたと伊波普猷によって主張されています。彼の「琉球処分は奴隷解放なり」という言葉は有名です。はたしてこのような説は正しいものなのでしょうか。 実は、伊波が唱えた、薩摩支配下の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。 まず、琉球には薩摩藩の「植民地総督」はいたのでしょうか。琉球には「在番奉行」という薩摩役人が派遣されていましたが、スタッフの総数はたったの十数名しかいませんでした。彼らの滞在場所は那覇の港町にほぼ限定され、しかも薩摩藩スタッフは国王との接触
琉球というと中国の影響が強くあって、昔は中国風の文化だったのが、近世(江戸時代)に薩摩藩に征服されてから次第にヤマト(日本)化していったと考える方も多いと思います。しかし、事実は全く逆。琉球は薩摩に征服された後に「中国化」していくのです。 もちろん琉球は中国(明・清)の朝貢国だったので、中国の影響が全く無かったわけではありません。しかし近世の琉球は中国文化をとくに積極的に取り入れていきます。 例えば首里城で行われる儀式。近世以前の王府儀礼は中国の拝礼様式を参考にしつつも、何とヤマトの陰陽道の方式が取り入れられていました。王府の重要な儀礼のひとつである元日の天を拝む儀礼では、年ごとに縁起のいい方角に向かって王や官人が拝んでいましたが、これは「歳徳神(恵方)」の信仰にもとづくものです。この信仰は節分に食べる恵方巻き(まるかぶり)を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。 しかし、この恵
近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日本の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日本に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日本へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。 このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。 1752年、国王尚穆(しょ
琉球といえば、「武器のない国」としてイメージされる場合が多いと思います。平和を希求する尚真王が武器を捨て世界にさきがけて“非武装国家宣言”をしたとか、ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いたというエピソードも、これらを根拠づけるものとしてよく引き合いに出されます。 しかし歴史を詳しく調べていくと、事実は全くちがうことがわかります。まず尚真王は武器も廃棄していないし、“非武装国家宣言”も出していません。刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれています。 「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」 刀狩り説は、これを「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈していました。しかしこの文を現代風に訳すると、何と「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(
昆布(こんぶ)はクーブイリチー(昆布の炒めもの)や汁ものをはじめ、今や沖縄料理にかかせない食材です。沖縄の昆布消費量は全国一といわれます。しかしタイトルの「昆布と富山のクスリ売り」。それが沖縄の歴史とどんな関係があるのでしょう。 沖縄で昆布が広く食べられるようになったのは江戸時代(近世)のことです。ご存じだと思いますが、昆布は沖縄で採れません。沖縄で食べられる昆布は移入されたものです。ではその昆布はどこで採れたものなのでしょうか。実は、琉球で食べられていた昆布はエゾ地(北海道)産でした。 18世紀、エゾ地は開発が進められ、釧路や根室の沿岸で採れる昆布がニシンなどとともに北前船で出荷され、流通するようになります。昆布は日本海沿岸を通り、最後には大坂市場に運ばれていきます。そして、この昆布の流通網と結びついていたのが富山のクスリ売りでした。彼らは東北から九州の薩摩まで販路を広げてクスリを売って
独立国だった時代(古琉球)の琉球王国は、文書にどのような様式のものを使っていたのでしょうか。おそらく多くの人は、琉球王国が中国・明朝の朝貢国であったことから、中国風の漢文を使っていたのではないかと考えていると思います。しかし、国内の文書に漢文はほとんど使われていません。では琉球独自の文字があった?いいえ。実は、琉球国内で広く一般的に使われていたのは日本の「ひらがな」でした。 国王から家臣に出された任命(辞令)書【写真。クリックで拡大】は全て「ひらがな」の草書体で書かれ、中世日本で使われていた「候文(そうろうぶん)」という書き方と同じです。候文とは、文章の最後を「~です。」とするのではなく「~候(そうろう)。」と書く文体のことです。 もちろん琉球から明朝に送る外交文書には全て漢文が使われています。しかし、これは琉球自身が漢文で書くことを選んだのではなくて、当時明朝に外交の使者を送るには、明朝
小林よしのり氏が『沖縄論』で主張した歴史論は、実はそんなに目新しいものでありません。小林氏はご存じないでしょうが、1980年代、琉球の歴史の評価をめぐって「琉球王国論争」という論争が行われたことがあります。琉球も結局はもともと「日本」の一部、一地方政権にすぎない、とする小林氏とほとんど同じ意見を持つ論者の主張に対し、歴史研究者の高良倉吉氏は厳密な歴史資料の分析から琉球の独自性を立証し、琉球否定論者を完全に論破しています。小林氏の歴史論の骨子は20年前にすでに論破されたものなのです。しかもこの論破された論は都合のいい部分だけ「おいしいとこ取り」された最新の研究で“粉飾”され、リニューアルしています。 ことわっておきますが僕は沖縄独立論者ではなく、現在の体制を否定するつもりはありません。しかし、沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるま
先日、雑誌『SAPIO』に連載されている小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言」を読む機会がありました。小林氏はそのなかでネット上に流れる「情報」を批判し、さらに『沖縄論』に対する否定的な反応に対して、小林氏の沖縄に対する「感受性」や「心」を読みとれず「情報」の揚げ足とりに終始していることを書いています。小林氏は「『ゴー宣』を読む時は「情報」のおいしいとこ取りだけ、するんじゃない!自分の知性で行間に込めたものまで認識して「知識」とせよ!」と「ゴーマン」をかましています。 以前、僕のブログでも小林氏の『沖縄論』に対して批判的な意見を述べたことがあります。小林氏からすれば僕の批判は「情報」と「知識」の区別がつかず、ネット上で「情報」を発している「若手」の揚げ足取りだと感じることでしょう。小林氏が僕のブログを読むはずもないでしょうが、これを機会に『沖縄論』の何が問題なのかを少し具体的に述べたいと思
【お知らせ】 河出書房新社より『マンガ沖縄・琉球の歴史』発売中です!なじみのない沖縄の歴史をサクっと理解することができます。購入は【こちら】から 上里隆史への講演・執筆などのご依頼は→右の【プロフィール】からお願いいたします。 ・講演実績やプロフィールは→右の【プロフィール】をクリックしてください。 ・ご依頼につきましては、すべてメールで承っております。上記アドレスに (1)ご依頼の内容 (2)日程、スケジュール (3)講演料・執筆料のご予算 などの詳細を【明記】してご連絡ください。よろしくお願いいたします。 ※明記のない場合はお返事したしかねますので、どうぞご了承ください。 ・琉球史マンガは、noteにて引き続き連載しております。【こちら】です。 ※ツイッターは【こちら】 10年前(2005年)の今日、4月11日にこのブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」を始めました。 【10年前の最初の
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