サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
アメリカ大統領選
philosopher.cocolog-nifty.com
地域通貨というものの〈成功の鍵〉は何でしょう? 前回の記事で、国内での地域通貨の試みはすべて失敗に終わったみたいな書き方をしてしまいましたが、新しい地域通貨を提案する以上、成功の目算について明確に説明出来なければ、この企画は通りません。「絆クーポン」は、過去に発行されたたくさんの地域通貨とどこがどう違うのか? 私自身は地域通貨の実践者でも研究者でもありませんし、過去の事例についても乏しい文献を通して知っているだけです。それでも自分が地域通貨の利用者の立場で想像してみると、成功する地域通貨が最低限持っていなければならない性質であるとか、従わなければならないルールといったものをいくつか挙げることが出来るように思うのです。今回はそれを思い付くままに書き出してみます。もちろんこれは素人の考えた仮説であって、議論のたたき台に過ぎません。今後ご意見をいただきながら、修正を加えて行きたいと思います。この
11月のAPEC開催を目前にして、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加をめぐる議論が活発化しています。この問題については、私自身スタンスを決め兼ねていたのですが、インターネット上でいろいろな人の意見を読んでみて、やっぱりTPPというのはちょっと「筋の悪い」話なのではなかろうかという考えに傾いています。賛成派の意見も反対派の意見も、耳を傾けてみればそれぞれ一理あって説得力のあるものばかりです。対立の本質は、ここ10年余りのあいだに国内でずっと争われて来た論点、つまり経済成長を優先するか、国民生活を優先するかという問題に他ならないと思います。いや、この言い方はちょっと語弊がありますね、きっとTPP賛成派(ひと昔前の構造改革派?)の人たちは、「経済成長あってこその国民生活ではないか」という反論を返して来るでしょうから。これもひと昔前に流行った「トリクルダウン理論」というやつの蒸し返しです。しか
『POSSE』という雑誌がベーシックインカムの特集を組んでいます。いや、刊行されたのは昨秋のことですから、「組んでいる」と現在形で書くのは適切ではありませんね。たまたま私が最近これを読んだというだけのことです。昨年は雑誌の『現代思想』がやはりBIの特集を組んだことがあって、この時にも私は読後の〈違和感〉について書いたものでしたが、今回読んだPOSSEの記事にも別の意味で感じるところがあったので、とりあえずの感想を書きつけておこうと思うのです。 この雑誌は労働運動関係のユニオンが発行母体であるようで(私にはよく消息が分かりませんが)、そちらサイドからの記事が中心であることにはすぐ気付きます。一応、編集方針としてBI賛成派と反対派の論客を交互に組み合わせて、バランスに気を配った形跡が認められます。でも、どう贔屓目に見ても反対論の方が説得力で勝っていて、賛成派の論説は分が悪いと言うか、さらし者の
ベーシックインカムを実現するための政策を考えるなかで、「マイナスの相続税」というアイデアを思い付きました。先日の記事に書いた内容です。ベーシックインカム(BI)を、人が人生の最期において支払うべき相続税と相殺するものとして、すなわち生前に〈徴税〉される〈負の相続税〉として位置付けられないものだろうかという発想です。もちろん現実には、相続税を払わなければならないほどの資産を遺す人は少数派ですから、たいていの人は受け取ったBIを最期に〈踏み倒す〉に決まっています。それどころか、私の提案では資産家はBIの受給を拒否することで相続税率の加算を免れることが出来ますから、これによって現実にBIの財源が相続税によってカバー出来るといったものでは全然ありません。むしろこの政策の狙いは、ひとつは国民経済に占めるストックとフローのバランスを回復させて、お金の循環を促進することで景気を上向かせることと、もうひと
C.H.ダグラスが提唱するベーシックインカムにしても、シルビオ・ゲゼルが提唱する減価貨幣にしても、一般人受けする分かりやすいアイデアなので、私のような経済学の素人でもこれについて何か言えそうな気にさせられますが、当然のことながら分かりやすさということと、実現のしやすさということはまったく別ものです。ゲゼルの著作を読むと、この人がいかに過激な革命思想家だったかに驚くことがあります。ゲゼルはマルクスにむき出しの敵意を抱いていました。彼は単に減価貨幣というものの理論的効能を説いただけではありません、一国の通貨を丸ごと減価貨幣(自由貨幣)に転換し、全国の土地をすべて国有地(自由土地)にするというのが彼の改革プログラムでした。その背景には燃えるような理想主義と人類愛とがあって、それがこの人の思想の魅力なのですが、一方で経済学の正統派からは非現実的なユートピアンのように扱われて来たのも事実です。ダグラ
最初にひとつ算数の問題です。ベーシックインカムが実現して、すべての国民が毎月10万円の「国民配当」を受け取れる時代がやって来ました。ただ、これは現金で支給されるのではなく、国民のひとりひとりが持つICカードに電子マネーとしてチャージされるものとします。しかもこのICカードには不思議な機能が備わっていて、チャージされたお金が毎日1パーセントずつの割合で目減りして行ってしまうのです。そこで問題。もしもこの電子マネーを全く使わずに、毎月の10万円をそのまま貯金して行ったとしたら、1年後、2年後の残高はどうなっているでしょうか? 毎日1パーセントの減価率というのは結構インパクトが大きくて、10万円が1ヶ月後には7万数千円ほどに減ってしまいます。それでも1ヵ月経てばまた10万円がチャージされるので、残高は17万数千円に回復する。では、そうやって減ったり増えたりした結果、12ヵ月後、24ヵ月後の残高は
インターネット上にとても刺激的な文章を見付けました。今年の3月に関曠野(せきひろの)さんという方が、ベーシックインカムについて講演をされた、その時の講演録が公開されているのです。関曠野さんという名前を、不勉強な私は存じ上げなかったのですが、幅広い分野で著書をお持ちの在野の思想家といった肩書きの方だそうです。ベーシックインカムについては、私も昨年このブログでこれを考察する文章を書きました(1、2、3)。すべての国民に対する無条件の基礎所得保証という、一見突飛で非現実的に見えるこのアイデアが、実は歴史の向かう方向性としていかに自然で、また現代に特有なさまざまな問題への特効薬ともなり得るものであるかについて、自分なりに考えた結果をまとめたものでした。ただ、その効能については素人の自分にも分かるのですが、それを実現するための具体的な方法ということになると、まるで雲をつかむような話で、夢物語のように
忘れていた頃に図書館からメールが来た。だいぶ以前に予約しておいた本が届いたというのだ。確かに半年くらい前に私は一冊の本を予約したことがあった。須原一秀という人の書いた『自死という生き方』という本である。今年の初めに出版された本で、書評か何かで知って興味を持ち、行きつけの図書館にあることを知って予約を入れたのである。ところがとても人気のある本だったようで、自分の順番が来るまでに半年も待つことになってしまった。一読して、これは重要な著作だと思った。少なくとも自分にとっては非常に示唆に富む本だった。今回はこの本を手掛かりにして、「死の受容」ということについて若干の考察をしてみたいと思う。 『哲学論考』と題したこのブログに書いた一連の文章で、私は自分にとって一番関心のあるテーマ、すなわち「自分とは何か?」という問題についての考えを綴って来た。これはいくら考えても解き明かせるといった類の問題ではな
ゲゼル研究会のメーリングリストで「ベーシックインカム」という言葉を初めて知りました。日本ではまだ聞き慣れない言葉ですが、ここ十年くらいのあいだに欧米を中心に広まって来た考え方で、これを研究する本もたくさん出版されているそうです。考え方自体はとても単純なことで、基本的な生活を支えるために必要な収入(ベーシックインカム)を、国がすべての国民に一律に支給するというものです。現在の生活保護制度は、受給資格を得るために非常に厳しい審査がありますが、ベーシックインカムにはそうした審査はありません。すべての人が年齢や収入などに関係無く、一律の金額を支給されるというものだからです。人が最低限の生活を支えるに足る金額であるというのが、「ベーシック」と名付けられた所以だろうと思います。もしもこれが実現されれば、現行の生活保護や失業保険のような制度もすべてそこに統合出来るし、公的年金制度だって、(過渡的な措置は
今週、私のところにも「年金特別便」というのが届きました。これまでに何回か転職をして、過去に勤めた会社の中には今はもう無いところもあるので、ちゃんと記録が残っているか心配だったのですが、自分の記憶の限りでは記録に間違いはありませんでした。宙に浮いた年金記録というのは、ほんとうに由々しい問題で、私たち国民は行政の責任を徹底的に追及して行くべきだと思いますが、一方で公的年金の本質的な問題はそんなところにはないということにも我々は気付いている訳です。年金というのは、まさに大多数の国民にとって人生設計の根幹をなしていたものなのに、それが実は詐欺商法まがいの「ねずみ講」のようなものでしかなかった、そのことが一連の混乱のなかではっきりしたのだと思います。すでに年金の支給開始年齢は、政治家の勝手な判断で引き上げられてしまったし、支給金額はこれからもどんどん引き下げられて行くことが予想されます。何故そんなこ
今回ももう一度、裁判員制度について書きます。前々回の記事では、日本の裁判員制度をアメリカの陪審制と比較して、その問題点を指摘しました。が、これは少し〈あざとい〉論法でしたね。一般的に市民が裁判に参加する制度としては、陪審制と並んで参審制というものがあって、裁判員制度はどちらかと言えば参審制に分類されるものだからです。もしも比較するなら、ヨーロッパで多く採用されている参審制と比較しなければ意味が無かった。調べてみれば、同じ市民の司法参加と言っても、このふたつの制度はまるで異なる理念を持つもののようです。以前書いた記事の訂正と補足を兼ねて、今回はこのふたつの制度の比較考察から始めたいと思います。 簡単におさらいをしましょう。陪審制というのは、市民から抽選で選ばれた(通常)12人の陪審員が、プロの裁判官抜きで評議を行ない、有罪か無罪かの評決を行なう制度です。評決は陪審員の全員一致が原則で、全員の
1.クーポン券の受け取りについて 【Q】クーポン券を受け取るために、毎月市役所の窓口に行くのが面倒です。土休日は役所は休みですし、もっと簡単に受け取れる方法はありませんか? 【A】方法はいろいろあると思います。例えば自治体が運営しているさまざまな施設にも窓口を設置するアイデアはどうでしょう。専用の窓口でなくても構いません。インターネットにつながったパソコンと、受給者証のバーコードを読み取るバーコードリーダーがあれば、どこでもクーポン券の発行はできます。市役所やその支所には常設の窓口を置くことにして、その他にも公民館、公会堂、図書館といった施設にも臨時の窓口を置くのです。施設によっては土休日も営業していますから、市民にとっての利便性は高まるはずです。 あとはクーポンの配布を民間に委託してしまう方法もあります。給与支払を企業に委託する案は本文にも書きましたが、その他にも市内のショッピングセンタ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『philosopher.cocolog-nifty.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く