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アメリカ大統領選
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もともと僕がシェアハウスに住み始めたのは東中野にある「沈没ハウス」というところなのだけれども、そこは成立の由来として90年代にちょっと流行った「だめ連」というのがありました。もともとだめ連って、働きたくないしお金もできるだけ使いたくないっていう、いってみれば貨幣経済システムから外れたところでコミュニティや文化を作っていこうという運動でもあったと思うのだけれども、そのこともあり、やはりお金の力を行使することに関して、嫌悪感というか罪悪感のようなものが多少なりとも働いていたと思います。コミュニティの内部の倫理的なものとして。けれどもそれは、だめ連がサスティナブルなムーブメントにすることを困難にした側面もあると思っているのです。そして、その問題解決には次世代の登場を待つことになります。 もちろん、だめ連が貨幣経済への感覚が薄かったことには時代的な背景があります。その頃はまだ、バブル景気の香りがま
近年、情報技術の発達によって可能になった情報速度や人の繋がりが、社会的なうねりとなって有効に機能している、ということがよく言われている。例えば、中東などで起こっている市民革命の盛り上がりにその影響を指摘する論調も多い。そのこともあり、情報技術を利用した民主主義の可能性という話をすると、まずその国際的な市民運動の盛り上がりの文脈が意識されるのは、ある意味当然のことかもしれない。けれども、本書で問題とされているのは、そのような社会情勢とは別のところにある。情報技術が張り巡らされた社会において、民主主義や政治のイメージそのものが変わってしまうかもしれない、としているのだ。 一般的に情報技術の可能性としてよく挙げらるオープンソースの理想は、「熟議」を前提としている。けれども、それはこれまでの民主主義のパラダイムの枠の中での話でしかない。そしてそのパラダイムは今、機能不全に陥っている側面がある。そこ
9月12日、渋谷駅から徒歩10分のところにある面白シェアハウス「渋家」にて、 ギークハウスの提唱者であり日本一のニートを目指しておられるphaさん(ブログ:「phaのニート日記」http://d.hatena.ne.jp/pha/)と、 ライフスタイルクリエイターの玉置沙由里さん(ブログ:「女。MGの日記。」http://d.hatena.ne.jp/iammg/)の対談を企画させていただきました。 お二人とも、 ・京都大学出身 ・東京在住 ・インターネットでご活躍 ・住居環境に関心 と、多くの共通点がおありなのですが、 今回が初対面、とのこと。 お話を伺っていると、意外にも元々の方向性というか生き方時自体は結構違っているように思えました。 それぞれ別ルートで現在、近い位置(相互の認識し合えるような)ところに辿り着いている。 そこに強い同時代性を感じずにはいられません。 今回の対談の内容は
社会学者、古市憲寿さんの新著『絶望の国の幸福な若者たち』を読みました。書かれるべくして書かれた書籍、そんな感想です。 僕の中に散乱していた幾つかの点が結ばれ線となり、さらに面が示唆されたように思います。 この本は以下のような主張から始まります。ちょいと要約。 日本の経済成長の停滞は若者たちを不安にさせる一方、「より幸せ」を諦めさせることに繋がって、その諦念が「自己充足」(コンサマトリー)を生んでいる。 そして、現代はとても恵まれたインフラや生活環境が揃っていて、そのこともまた「幸せ」を感じさせる要因となっている、と。 また、若者たちが幸せな理由の本質を「仲間」に求めています。 その象徴として『One Piece』が挙げられていたのが印象的でした。古市さんは『One Piece』の物語のテーマを「仲間のために」、としています。 この「仲間」という言葉はこれからの日本社会を考えていくにあたり、
宇野常寛氏の新著『リトル・ピープルの時代』を読んだ。前作の『ゼロ年代の想像力』から約3年、久々の単著だ。基本的な主張の軸は前作と変わらないが、変化として感じられたことの一つは、「大きなもの」への想像力を取り戻す思考を目指す、という志向性だ。 『ゼロ年代の想像力』においても宮台真司氏らの指摘があったが、宇野氏の言説は現代の政治哲学の先端と響き合っているといわれるが、今回の新著ではまったくクラスタが異なると考えられているとある政治哲学の主張との奇妙な響き合いを感じずにはいられなかった。 いささかアクテュアリティに乏しいと思われるかもしれないが、その主張がもっとも象徴的に現れているのはネグリ=ハートの『〈帝国〉』(原題『Empire』)という著作である。原書は2001年に、邦訳版では2003年に発行されている。 この両者は多くの共通点を有してるように思われる。 まず決定的に似ていると思ったのは、
『文学界』の2010年3月号に掲載されている大澤信亮氏の「復活の批評」を読んだ。一言でいうと、批評を再起動させる場所の確認作業、といえるだろうか。 近年、批評というジャンルの内側で、批評の対象とするコンテンツの違いによる新旧の情報戦が活発化しているようにも見える。そのことは、既得権益の切り崩しとも重なってみえたり、インターネットの発達によるメディア環境の変化ともシンクロしていることもあり、表象的にも商業的にも大澤氏が批判する勢力の方が順調に見える展開があるのではないかと思う。ネットコミュニティやオタクコミュニティを一つの基盤としていること、そのことが「新しい批評」の言葉が「ゲーム」において有利な理由でもあるだろう。 大澤氏が批評を発する場所は「私小説的」なのだ。この「私小説的」という言葉にネガティブな意味を持つ人は多いと思う。けれども、この「私小説的」という言葉と自閉することとはイコールの
イベントやるよ! 以下、詳細です!! - 未来回路presents 「ソーシャルネットワーク時代のシェアハウス〜基礎から始める共同生活〜」 twitterやustream、facebook。私たちを取り巻くメディア環境は変化し続けています。経済の低迷とは逆に、多様な需要や供給を持つ人たちとの情報共有やコミュニケーションが容易になった今、別の豊かさを追求しやすい状態になってきたのではないでしょうか。 そして、そのようなコミュニケーションツールの変化は、インターネットの中だけでなくリアルにも影響を与え始めています。 リアルな生活を構築する重要なファクターである「衣・食・住」。その中でも、「住」のことを考えることは意外と少ないのではないかと思います。日本における住宅観が画一的であるのは、そこにも理由があるのではないでしょうか。 けれども、最近、この「住」に関する面白い試みが増えているのです! そ
最近、何となく思っていることでも。。 2008年に出版されて話題を集めた『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』の著者・佐々木中氏の新刊『切りとれ、あの祈る手を――<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』が2010年10月30日に出版された。その評判は好評とよべるものだと思う。そして、その著作に対する一種のカウンターともいえる書評が12月1日に発表された。紀伊国屋の書評空間に掲載されている文芸評論家・福嶋亮大氏による書評である。 その書評は佐々木氏の「情報」に関する認識における問題に向けて攻撃の触手が向けられているものだ。まさしくこの書評自体が「情報戦」の一部であり、また、その博学さを伴った文学における歴史認識は「正統」なものであるのだろう。 しかし僕は、この書評が本来「情報」を巡る歴史認識の問題が視点であるはずものが、わかりやすい形での対立構造に簡略化されて広まってしまうのではないかと
*画像をクリックするとamazonの商品ページに移動します。 2010年12月5日(日曜)の文学フリマにて頒布開始予定の『未来回路2.0』のコンテンツ一覧を公開します! テーマ「コミュニティの生態系」 【現代詩】「パンゲア」カニエ・ナハ 【対談】 1、「逸脱のガールズトーク〜生活実践による永久革命〜」安全ちゃん×モコモコ 2、「欲動としてのコミュニティ〜分断と接合のコミュニケーション〜」山本ペロ×中川康雄 3、「『百合子、ダスヴィダーニャ』を巡って〜名指す事で零れ落ちるものへの視線〜」沢部ひとみ×長野明 4、「東京におけるインフラとしての演劇構築へ〜portB「完全避難マニュアル」公開前夜に〜」高山明×鴻英良 【小説】「家出」Gabriele Rebagliati 【インタビュー】 1.「京都から考える〜欲求の投影としての他者の文化〜」吉岡洋(現代芸術) 2.「未知との遭遇、人間はそこまで
現状におけるイベント詳細の最新版をここに更新していきます! ご確認ください! - 【イベントタイトル】 模索舎presents アラザル×未来回路共同企画「電子書籍時代の同人誌〜文フリ評論系の場合〜」 【日時】 2010年9月12日(日曜)19時00分〜 【入場料】 前売¥1,500 / 当日¥1,600(共に飲食代別) 【場所】 阿佐ヶ谷ロフトA(http://www.loft-prj.co.jp/lofta/) 【イベント概要】 電子書籍時代、ついに到来! 今後、出版業界の産業構造が大きく変化することが予想される。 そんな激動の時代の中で「同人誌」はその存在意義を問われることとなるだろう。 何が変わり、何が変わらないのか!? 当事者たちの立場から日本における電子書籍シーンの未来予想図と示しつつ、紙媒体であることの意味やコミュニティとしての同人誌文化について考察する!! 電子書籍制作の実
90年代の「だめ連」からゼロ年代の「素人の乱」への流れ。 これは都市部におけるオルタナティブの抽象的なあり方から具体的なあり方へ流れともいえるものだと思います。 90年代に提示できなかったオルタナティブを提示することのできたゼロ年代。その意味で何も無かっただなんて囁かれる巷の評価とは違い、ゼロ年代は大きな変化があった時代だったといえるかもしれません。 けれども、僕の中にひとつの疑問が残ります。果たして90年代に提起された問題系は乗り越えられたのだろうかという疑問です。ここでいうと、問題系の中で90年代の「だめ連」が持っていた問題意識の中にゼロ年代の「素人の乱」が持っていないものがあるのではないか、と。例えば、「ココロ系」問題とか。 「だめ連」はだめをこじらせないために集まり交流し考え行動するムーブメントでした。けれども実際にはだめを開き直れる、つまり、だめでいいのだと考える人々の溜まり場と
生き方としての「非モテ」、つまり、モテようとすることからおりる生き方自体は、もう普通に市民権を得つつあって(もちろんそれは都市部の中の一部での状況であろうけれども)、でもその生き方を貫くとモテたりして、確かに「非モテ」をアイデンティティとするメンタリティも突き詰めるとかっこいいのだけれども、問題はそのどちらにもいけない人々が実はリアル非モテで、しかもそういう人たちは結構な数がいるようだ、とか。 持たざるものとしての「非モテ」、持つものとしての「リア充」。このプロレタリアとブルジョワジーとの関係のようなわかりやすさ。そのわかりやすさをネタとして消費している感もある。 つまり、それはスケープゴートとして「リア充」を使用しているともいえるのではないだろうか。 たぶん、「非モテ」の生き方というものが一般化して明確な攻撃対象を生み出さない、ということが、マイノリティとしての「非モテ」という言葉が終了
はてなダイアリーとかで「非モテ」について語るとそれまでの論争史を押さえていないと何もいえないような風潮もあるようですが、そのある意味、権威的かつエリート主義的な思考とは別に「非モテ」の回路を生産することも可能かと思われるので、ここに綴ってみよう。 ここでいう「非モテ」とはカテゴリーとしては一般的に使用されるように「ただ異性にもてない」、という話には留まらずいわゆる「草食系男子」もその範疇に加えることもできる文化的な概念だ。いわゆる「リア充」的なモテ志向型のカルチャーではなくそのカウンターカルチャーとしての非モテカルチャー。それが現在、わかりやすい形で展開しているようにみえる。 その表象としてあげらるのはtwitterの中の「非モテ」クラスタである。そこでのコミュニケーションは、2ちゃんねる的なマッチョなコミュニケーション空間でもなく、ブログ(特にはてなダイアリー)に見られるような全人格的な
濱野智史氏の「自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性」(http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2009/09/post.php)を興味深く読みました。 濱野氏の関心の焦点を、神学者ラインホールド・ニーバーの有名な言葉をもじって、「変えることのできなかったもの《を》変えることができるようになったかどうかを、識別する知恵」と、説明されたのが印象的。 あのニーバーの言葉、確か宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』にも引用されていたと記憶しています。もしかしたら、サバイブ系の想像力を生態系論・自己組織化論に接続することを目的のひとつにして、本論が書かれているのかもしれないなーと思いました。 サバイブ系の想像力への警戒と注釈。そのようにも読むことが可能なのかもしれません。でも、そうなっていくとどんどん「研究」的になっていくなー。つまり、とても精緻でよい仕事をさ
なかなかこのセンスは出せません。 後半が単純に面白い。
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