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koumichristchurch.hatenablog.jp
今、日本国憲法の制定と幣原喜重郎のことを調べている。筆者はかつて、戦前の協調主義の幣原外交は「軟弱外交」だと一言で片付ける軽薄な教科書を習っただけだったのだが、実際には、この人物は深謀遠慮の人だった。 自主憲法制定論者には都合がわるいであろうが、調べれば調べるほど、戦争・戦力放棄条項を憲法に盛り込むことは、1946年1月24日に幣原がマッカーサーに提案したことだということは確かである。しかも、残された幣原のことばの記録から見ると、この戦争・戦力放棄条項には、マッカーサーの意図をも超えた深い意図があったことがうかがえる。 当時、マッカーサーが抱えていた難題は、日本が二度と軍国化しないように確実な手を打つことと、天皇制を存続させるということだった。米国の方針は日本の共産化をふせぐために天皇制を存続させるということとなっていた。だが、他方で、ソ連は天皇制廃止を強硬に唱え、オーストラリア、ニュージ
福音派で新しい聖書翻訳事業がスタートするそうである。筆者は語学に決して堪能ではないけれど、一応聖書言語を学ぶ機会に恵まれて、牧師として聖書に取り組んで毎週説教準備をしてきて、気になるところがやはりあるものである。それは、きっと筆者だけではないと思う。そういう説教者たちのメモを聖書翻訳者たちに届けることができたら、よりよい翻訳聖書を生み出すためのヒントにはなるのではなかろうか。そんなことを思って、「新改訳聖書」のカテゴリーで、あと数回、聖書翻訳にかんするメモをしておきたいと思っている。カテゴリーボタン「新改訳聖書」をクリックすれば、まとめて見ることができます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ <もくじ> 文字の向こうに・・・聖書の解釈 聖書本文の文脈 我らに罪を犯す者を我らが赦す「ごとく」(その2) 七
無罪判決が出た小沢氏を強制起訴した検察審査会は、実は、架空だったそうである。最高裁が無作為に選んだ11人の検察審査員たちが、二回とも平均年齢が小数点以下二位までぴったり同じだったということは、昨年秋ごろラジオで聞いた。こんなことは確率的にありえないことである。しかも、検察審査会に出たことになっている検察官は、実際には出頭命令を受けておらず、出頭もしていないという。架空の検察審査会だから出頭しようがなかった。 事実なら、ひどい話だが、客観的に見て事実としか思えない。法の番人である最高裁が自ら法を犯しているとは、なんと情けない。 こちらを参照↓ http://civilopinions.main.jp/2012/07/729.html http://civilopinions.main.jp/2012/07/731.html http://civilopinions.main.jp/2012/
はじめに 何を近代とするかについては諸説ある。ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約(1648年)で近代主権国家が成立したこと、経済においては産業革命によって資本主義が成立したこと、市民革命によって市民社会が成立したことなどが近代の特質とされる。本稿では、すっきりと中世は6世紀から15世紀、近世は16,17世紀、近代を18世紀、19世紀とし、20世紀を現代と位置づけたい。近世と近代のちがいは、近代は理性の自律を信奉する啓蒙主義運動が出現したということである。大きな思潮としては18世紀は啓蒙主義的合理主義全盛であり、19世紀はその反動のように浪漫主義的な運動が展開されるが、それでも理性に対する楽観的態度は継続している。それが、20世紀になり二度の世界大戦を経て近代の合理主義的文明に対する楽観的態度は消えうせてゆく。 1.啓蒙主義とフランス革命−−迷信からの解放から理性崇拝へ (1)「啓蒙
友人に紹介されて山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』という本を読んだ。山本は学徒出陣で敗色濃くなったフィリピン戦線に投入され、惨憺たる戦闘の後に、戦場で敗戦を迎えて捕虜収容所に入れられる。その間に見た、帝国陸軍の実態を鋭い洞察力をもって観察し、帝国陸軍という異様な組織のありようの本質をあきらかにし、それが戦後も日本の会社や官僚組織にも受け継がれているという現実を示唆する。 鍵となることばは4つと見た。「不可能命令」と「員数合せ」と「組織の自転」。そしてこれらを支えた「皇軍無敵神話」である。現場を知らない参謀が立案した非現実的な作戦命令を受けて、指揮官が下に向かって発令する。たとえば2個大隊と野砲100門をもって、どこそこ方面へ進出し、敵を撃滅せよというふうに。これが「不可能命令」。2個大隊というと2300名ほどだが、現場では仮に人数はいたとしてもけが人病人の兵士だらけで、到底、人員をそろえ
最近、当ブログでは引用本文を口語訳聖書に切り替えたことにお気づきの読者がいらっしゃるでしょう。新改訳聖書の聖句引用はHP、ブログなどでも「通算250節」までに制限され、それを超えると使用料が発生するのだそうです。 http://www.wlpm.or.jp/seisyo/ http://theologia.blog21.fc2.com/blog-entry-224.html 翻訳聖書はいずれもたいへんな労作ですが、仔細に検討すれば一長一短があって、口語訳はまったく使い物にならないほどリベラルで、新改訳だけが突出して原語に忠実だというわけでもありません。口語訳の問題点については、藤原藤男『聖書の和訳と文体論』(キリスト新聞1973年)が述べています。その要点はこちらを参照。 http://www.seisho.or.jp/category/about-shinkaiyaku とはいえ、新改訳
今週から北海道聖書学院の新年度授業がスタートします。1学期はカテキズムと、キリスト論・贖罪論です。カテキズムは数年前から「神を愛するための教理問答」というのを作成して用いています。これはここ半年くらい教会の朝夕の祈り会での学びという現場で用いて、さらにわかりやすくペンを入れて、仕上がったかなという感じです。 はじめのあたりをちょっと紹介します。 1 序 問1-1 人のおもな目的は何か。 答 人のおもな目的は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛することである。 マルコ12・28-31 律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなた
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