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衆院選
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に関して、なんで隠岐に流されたのか?、なんで鎌倉幕府を倒そうとしたのか?、なんで味方だった足利尊氏が寝返ったのか?、なんで南北朝時代となったのか?など、歴史の背景などできる限り分かりやすく、ご紹介したいと存じます。 後醍醐天皇とは 後醍醐天皇は、鎌倉末期から南北朝初期の天皇ですが、大覚寺統・後宇多天皇の第2皇子でした。 母は談天門院忠子 (参議・藤原忠継の娘)です。 元寇もあったこの鎌倉末期の天皇は、後伏見天皇の「持明院統」と、亀山天皇の「大覚寺統」の2つに分裂した両統迭立(りょうとうてつりつ)となっており、それぞれの家系から交互に天皇を即位させていました。 後醍醐天皇の異母兄である後二条天皇は第94代天皇となっていましたが、1308年に24歳で急死し、持明院統の花園天皇(95代)が12歳で即位します。 当然、若年なので、持明院統の伏見上皇や、兄の後伏見上皇が
小笠原長時とは 小笠原長時 (オガサワラ ナガトキ) 1514年11月9日 ~1583年4月17日 1514年11月9日小笠原長棟の長男として生まれる。 小笠原氏は、甲斐源氏・加賀見遠光の次男・加賀見長清が、甲斐国小笠原村に移り、小笠原を称したのが始まり。その後、信濃国を本拠として全国に小笠原一族を分出した。 源頼朝による信濃国支配は、源氏の有力御家人を送り込む支配方式を取り、小笠原氏も源氏一門として甲斐から信濃へ勢力を拡大したようだ。1185年、源頼朝の推挙で信濃守に任じられている。 鎌倉時代からは北条氏が信濃守護職を得ていたが、その間、小笠原氏は北条氏と関係を結びながら信濃で勢力を拡大し、建武の新政により1333年小笠原貞宗が信濃国守護に補任された。 しかし、一時、関東管領上杉朝房が信濃守護に任命されるなど、守護職が迷走したり、村上氏や海野氏、高梨氏などの国人の反感もあり「大塔合戦」な
NHK2016年の大河ドラマ『真田丸』も、いよいよ佳境を迎え、真田幸村と徳川家康の一騎打ちも迫ってきた。そんなクライマックスの舞台に用意されている大阪夏の陣には、ちょっと信じがたいミステリアスな伝承が存在することをご存じだろうか。それは、「徳川家康は、大坂夏の陣で後藤又兵衛の槍を受けて戦死していた」という“もう一つの史実”である。 そんなことを言えば、「家康が死んだのは夏の陣の翌年で、駿府城で食したてんぷらにあたったからじゃ?」「後藤又兵衛なら、道明寺の戦いで片倉重綱の鉄砲部隊にやられているはずだろ?」という反論の矢が飛んできそうだが、大阪・堺市にある南宗寺には、“家康は夏の陣で死んだ”ことを思わせる数々の遺物が存在するのだ。果たして、家康は本当に夏の陣で命果てたのか?歴史の深い謎を検証する。 ◆大阪夏の陣 大阪夏の陣は、慶長20年(1615年)5月6日と7日の2日間にわたり、徳川幕府軍と
聚楽第の落書き事件とは 戦国時代の1589年、何者かが夜陰に乗じて、聚楽第南外門にの白壁に落書きしたのが発見された事件。(落首事件) 落書きの内容は関白(豊臣秀吉)の政治を批判するものであったという。 一説には下記のような文章で落書きされていたと言う。 大仏の くどくもあれや やりかたな くぎかすがいは 子たからめぐむ」 との記述であるが、上記文章は後世の創作である可能性があり、実際にどのような落書きがされたのかは記録が無い。 いずれにせよ、当時、豊臣秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩令を出して批判されており、このようにして京都東山に大仏殿を建築しようとしていた事や、側室を多数持ちながら長年、子供に恵まれて来なかったのに、突然、茶々(淀殿)が懐妊した事から、あざ笑うかのような内容であったとされる。 誹謗中傷が落書きされたのに対して、豊臣秀吉はまず警備を担当していた番人に怒りをぶつけた
井伊直虎(いいなおとら)とは・・。 戦国時代に「直虎」と男性の名前を称して家督を継いだ「女城主」とは? 生涯独身を貫いた井伊直虎が遠江・井伊家断絶の危機を救った女領主となり、家名を存続させた波瀾万丈の「女地頭」とも称される浜松の女傑。 2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」にて、女優・柴咲コウさんが演じる主人公・井伊直虎(いい-なおとら)が、なぜ「おんな城主」となったのか? 最近は戦国無双(戦国無双4)、戦国大戦、戦国IXA、戦国basaraといったゲームでも、かわいいフィギュアにもなっている直虎の実像をできる限り詳しくご紹介したい。 井伊直虎とは 井伊直虎(いい-なおとら)は、遠江・井伊谷(静岡県浜松市北区)の領主(井伊谷城主)・井伊直盛の「娘」として生まれた。大河ドラマでの初名は「おとわ」。 母は新野親矩の妹(祐椿尼)とされるが、誕生年は不明だが1535年頃と推定できる。 なお、繰り返
関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦。 学生諸君は、日本史のテストに出るので、1600年と切が良い数字を覚えておこう。 石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。 先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。 濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られた。 西軍は多くの将が様子見で戦に参加せず、戦闘したいたのは30000程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。 しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略して
阿茶局とは 阿茶局(あちゃのつぼね)は、武田信玄の家臣・飯田直政(飯田筑後久左衛門)の娘として、戦国時代の1555年2月13日に甲府で生まれた。 須和とも言う。 2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優(女優)の松本若菜さんが演じられる。 父・飯田直政は、武田信玄と今川義元が和睦した際に、許しを得て今川義元の家臣になった。 1573年、須和(阿茶局)は19歳のときに一条信龍の家臣・神尾忠重(神尾孫兵衛忠重)に嫁いで、1574年に長男・神尾猪之助(神尾久光、虎之助とも?)を生んだが、23歳のときである1577年に夫・神尾忠重(43歳)が死没してしまう。 その後、未亡人であった須和は、1579年、25歳のとき浜松城に召されて、徳川家康(38歳)の側室となった。 ※武田勝頼の自刃後、子供を連れて、甲斐・黒駒にて徳川家康に初めて拝謁したとも。 美貌だけでなく、馬術や武術にも優れていたため
この章では、大坂夏の陣で討ち死にした真田幸村の家族のその後について記載しておきたい。 1615年5月7日に大坂夏の陣で真田信繁(真田幸村、享年49)が戦死すると、徳川家康に命じられた紀伊領主・浅野長晟は真田信繁の室・竹林院を捜索し、5月20日に紀伊・伊都にて娘のあぐりとともに3人の侍に警護されて隠れていたのを発見。 5月24日に京都の徳川家康に引き渡したが、その後、無罪・放免となり、その後は七女・おかね(於金殿)の嫁ぎ先である石川貞清の援助で京都で暮らしたと言う。 1649年5月18日に竹林院は京都で亡くなった。 長女・阿菊(お菊)(すへ)は上田で生まれたとされ、母は真田家臣・堀田興重(堀田作兵衛興重)の娘とされる。九度山蟄居の際にも上田にて堀田興重に育てられ、小県郡長窪宿の郷士・石合重定(石合十蔵重定)に嫁いだ。1642年没。なお、堀田興重は大阪の陣で真田信繁に従い、大坂城で討死している
天正壬午の乱とは 天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、1582年6月、織田信長の死後、空白地帯となった甲斐・信濃・上野にて、勢力を争った広範囲に渡る、いくつもの戦いの総称です。 その範囲は現在の長野県・山梨県を中心にして、群馬県・静岡県と4県も巻き込んだ非常に広い範囲で戦闘があっただけでなく、関与した大名も徳川家康、北条氏直、上杉景勝、木曾義昌、真田昌幸などと多く複雑なのです。 そして、それぞれの思惑も異なっていたため、流れが非常にわかりにくく、小生もすべて把握するのに何年も掛かりました。 単に武将だけで追いかけますと、その武将が関与した戦しかわかりませんので、信濃・甲斐を巡る争いがどのような混戦状態だったのか、つかみにくいのが天正壬午の乱です。 しかし、お陰様でそれらの武将を調べてきた結果、ここ最近ようやく全容が見えてきたような気がいたしますので、今回「天正壬午の乱の全容」として、
高野山にある徳川家霊台は3代将軍・徳川家光が1643年に建立したもので、徳川家康と徳川秀忠の霊が慰められています。 かつて大徳院の境内であったそうですが、現在は霊台だけが残っていますが、東の日光東照宮、西の高野山徳川家霊台と言われます。 拝観時間は8時30分~16時30分で、入口にて拝観料(大人200円)を支払い入場します。 なお、金剛峯寺の一部ですので、諸堂共通内拝券で利用するとお得で、ここでも購入できます。 見学所要時間は約10分となります。 日光東照宮の雰囲気もある一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が2つ並んでおり、左が徳川秀忠の霊舎です。 下記である右側が徳川家康となっています。 東側にも、徳川家光以降の将軍や御三家を祀る尊牌堂(そんぱいどう)があったそうですが、明治21年(1888年)に焼失してしまったとの事です。 高野山の徳川家霊台への行き方ですが、高野山内路線バ
真田信尹とは 真田信尹(さなだのぶただ)は、真田幸隆の4男として1547年?に誕生した。真田信昌とも称している。 母は正室・河原隆正の妹・恭雲院。 兄に真田信綱、真田昌輝、真田昌幸がいる。 なお、真田昌幸と歳が同じであることから、母は側室だったとする説や、双子だったと言う説もある。 1551年に父・真田幸隆が砥石城攻めで功を挙げると、真田の里に復帰。 そして7歳のとき、1553年8月10日に兄・真田昌幸と同じく、人質として甲府にいた模様だ。 その後、武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(和野氏、鹿角氏)を継ぐと加津野信昌(加津野市右衛門信昌)と称した。 この加津野家は勝沼氏の親戚であり「信玄代惣人数書上」では馬10騎、足軽10人を率いた槍奉行とされており、信州先方衆として活躍。 甲陽軍鑑では安西平左衛門・今福昌常(今福新右衛門昌常)らと槍奉行3人衆として
伊勢宗瑞(北条早雲)とは 北条早雲(北條早雲)は、一介の素浪人から戦国大名になった下剋上の始まり、戦国時代の幕開けとなった人物とされてきたが、そもそも、何の実力も無い者が一国の主になる事は非常に困難である。 その後の研究では、北条早雲(北條早雲)の出自もわかってきた為、最新の研究内容を踏まえて、新たな北条早雲について、詳細に記載したいと思う。 北条早雲(ほうじょう-そううん)は小田原城を奪い、相模を統一すると言う偉業を達成するのだが、亡くなる時点でも「北条」と言う姓名を使用することは生涯なかった。 北条姓を使うようになったのは、相模や関東とゆかりの深い鎌倉時代の執権北条氏の権威を受け継ごうと、2代目の北条氏綱から北条氏を称するようになったので、北条早雲の時代は出自である伊勢氏を称していた。 また「早雲」と言う名だが「早雲庵宗瑞」との法名や、北条家の菩提寺が箱根湯本の「早雲寺」であることから
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、四国を平定した土佐の戦国大名で1539年生まれ。 岡豊城主(おこうじょう)・長宗我部国親(約14000石)の嫡男で、母は美濃・斎藤利長の娘(祥鳳玄陽)。 1560年5月16日、22歳のとき遅い初陣となったが、長浜の戦いに出陣。 この時、高知・若宮八幡宮の松林に陣を張り、一夜心静かに戦勝を祈願してから、初陣に臨んだと言う。 下記は、高知・鎮守の森公園にある長宗我部元親初陣の像。 モンストなどのゲームでも人気のようで、訪れる方も、ちらほらいらっしゃるようだ。 長宗我部元親は本山城主・本山茂辰との戸ノ本の戦い(戸の本の合戦)で大活躍する。 下記は、戸ノ本の戦いがあった場所にある石碑。 槍の名手として勇猛果敢な活躍を見せ武名が広まるも、その僅か1ヶ月後、6月15日に父が急死。 長宗我部元親が家督を継いだ。 この頃の土佐は、一条家を筆頭に、津野家、大平家、吉良
真田幸村(真田信繁)とは?どのような人物だったのか? 真田幸村は1567年に武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)の2男として甲府で生まれた。すなわち、出身地は甲府であり、真田幸隆の孫にあたる。幼名は真田弁丸。のち真田源次郎。 母は、武藤喜兵衛の正室・山手殿と考えられるが、別の説では1570年2月2日誕生。 江戸時代に松代藩95000石の大名となる兄・武藤源三郎(のちの真田信之)は1566年3月に誕生している。 2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の日向亘さんが真田信繁を演じられる。 なお、真田幸村(さなだ-ゆきむら)と言う名を記載した史料は見つかっていない。 「幸村」は江戸時代に書かれた書物による通称であり、正しい名前は真田信繁(さなだ-のぶしげ)であるが、このページでは「真田幸村」として明記させて頂く。 信繁と言う名は、武田信玄の弟・武田信繁を尊敬していた父・武藤喜兵衛昌幸(
いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。
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