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インタビュー
worldend-critic.com
2024年8月30日に公開された山田尚子監督の最新作『きみの色』について、当サイト管理人が舞台となった長崎の歴史を踏まえ、変えられない出来事の意味を書き換える「パラフレーズ」という観点から論じる。なお、本記事には『きみの色』の結末に関する記述が含まれる。 The Paraphrasology of “Salut”: Nagasaki, Kyoto Animation, and Kimi no Iro|teramat 文:てらまっと 坂の上にある虹光女子高等学校の聖堂に朝陽が射しこんでいた。1 一瞬、あたり一面が強烈に明るく淡いピンク色の光に包まれた。まるで虹が落ちてきたような、美しいと言っていい情景だった。2 かれこれ10年ほど前、原爆に関するフィールドワークの手伝いのために何度か長崎を訪れたことがある。平和公園や爆心地公園、長崎原爆資料館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館といった公式の関
2024年8月11〜12日に開催される「コミックマーケット104」にて、サークル「夜話.zip」主宰のエロマンガ評論シリーズ最新号『〈エロマンガの読み方〉がわかる本 8』が頒布される。「台湾エロマンガ」「ロ◯ータ」に続き、今号では「ギャル」を特集に掲げた同誌から、エロマンガ家の武田弘光におけるギャル表象を論じた編集者/ライター・安原まひろの論考をお届けする。 The Freedom beyond “Gal-Ochi”: From Works of Hiromitsu Takeda to “Otaku-Friendly Gals”|YASUHARA Mahiro 文:安原まひろ 現代の男性向けエロマンガに親しんでいる読者なら、おそらく誰しも「アヘ顔」や「ネトラレ」といった特徴的な表現ないしは展開に触れたことがあるはずだ。人によって好き嫌いが分かれるとはいえ、いまや定番とも言うべきこれらの要素
新海誠監督作品はこれまで、実写映画とも共通する「風景/キャラクター」という二項対立によって論じられることが多かった。だが、映画とアニメのあいだには制作プロセス上の大きな隔たりがある。実際にアニメの演出にも携わってきたみなかみが、セルやBG、ハーモニー処理、3D背動といった具体的な素材や技法にフォーカスし、それらが『ほしのこえ』から『すずめの戸締まり』までの物語上の変遷とどのように結びついてきたのかを明らかにする。 文:みなかみ はじめに アニメの画面に描かれている諸要素は、我々の瞳を強く刺激し続ける「素材」としての輝きを放っている。無論アニメの作り手たちはセルで描かれたキャラクターでもいいし、背景美術でもかまわないが、いかにそれらの持つ(というか持たざるを得ない)物質性から遠く離れてフィクションを構築しうるかを常に思考=志向している。ゆえに画面に映り込むセルやBG(バックグラウンド=背景)
※本記事は、シャフト批評合同誌『もにも~ど 2』(2024)所収の論考を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 Drain-Images Chase:About the Direction of Anime by SHAFT|Animmony 文:あにもに 自分の思考乃至動揺の中心部に、ぽっかりと暗い穴、颱風の眼のようなものがあって、さまざまな相反する判断が敲ちあって生れる筈の思考の魚が、生れかけるや否や途端にその穴、その眼の中へ吸い込まれてゆくように思われた。もしその穴、その颱風の眼をそこだけ切り取って博物館に陳列するとしたら、それには、人間的、という符牒のような札がかけられるかもしれない。 堀田善衛『広場の孤独』 はじめに いくぶん唐突な問いではあるが、「シャフト演出」と聞いたとき、ただちに連想するものと言えば何だろうか。 人によってはキャラクターを非解剖学的な角度で振り向かせる「シ
※本記事は、『ビンダー8号 特集:宮崎駿』(ククラス、2023)所収の noirse「陰謀論者の見た夢──治者としての宮崎駿」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 Hayao Miyazaki, as an Ambivalent Ruler: The Nightmare of The Boy and the Heron |noirse 文:noirse 平成 平成という時代が幕を閉じて数年が経過した。けれども今でも何かが終わったとか、何かが変わったという実感はない。「平成は失敗の30年」1で、「けっきょく『昭和』を清算しきれなかったネガティヴな時代」2という思いがあるからだろうか。 けれど平成初期に様々なカルチャーに触れ、現在の嗜好や関心の地盤を築いていった人間としては、時代が悪かっただけとは思いたくない。そこで忘れられないのがジブリだ。スタジオジブリは1985年に発足した。平成より
※本記事は、すみ「『FF16』が傑作であるのは自らの過去を肯定しつつ変革させた点にある」(2023)を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:すみ 2023年6月に『ファイナルファンタジー16』(以下『FF16』)が発売された。多くの期待と不安が寄せられた本作であるが、その評価をめぐっては大きく意見が分かれている。大手ゲームメディアサイトの平均点を算出するメタスコアでは、100点満点中87点と比較的高い点数を獲得している(2024年1月31日現在)。しかし、凡作ないしは駄作であるとの評価も多く、決して称賛する声ばかりではない1。 私自身は50時間ほどで『FF16』をクリアした。エンディングまで終えて、『FF16』は「ファイナルファンタジー(FF)」シリーズのなかで最も感動的なゲームであると感じた。だが、この感動というのはたんにストーリーが泣けるもので素晴らしかったとか、複雑なプロット
はじめに いきなりだが断言したい。 漫才師、コメディアン、テレビタレント、国民的スター、文化人、映画監督、役者、演出家、歌手、小説家……。肩書はなんでもよいが、戦後日本が輩出したもっとも偉大な表現者のひとりであるビートたけし/北野武。この「ほとんど戦後日本の神話的存在そのものとも言えるような」3人物について書かれた、無数に存在する批評や評論のなかでも、現在(いま)の私たちにとって決定的に重要なテクストがふたつある。 それは、批評家の杉田俊介氏が書いた「ビートたけし/北野武論」(『人志とたけし──芸能にとって「笑い」とはなにか』、晶文社、2020年所収)と、いまから2年ほど前、杉田氏が選考委員を務める某文芸誌の新人賞に私が応募して、最終候補作には残りながらも結局受賞は逃がしたそれである。 では、杉田氏と私がそれぞれ書いたビートたけし/北野武についてのふたつの批評文は、いったいなぜ現在(いま)
文:永瀬恭一 ゴミの居場所 わけのわからないものがある。少し見て、とりあえず異質であることは感じるのだが、それは、異質ではあるけれども美しい、のではない。とにかく異質なのであってその異質さはどこにも結びついていない。 素材はうすっぺらい紙で、切り口はまったく不器用に見え、技術的にとくに洗練されているとも思えない。しかしやけに入り組んでいて、一目では骨格をつかめない。折り紙のように、現実にある鶴や兜を模していたりもしない。言ってみれば抽象なのだけれども、では純粋に形式的な論理の展開だけでできているとも思えない。ここにはなにか、生理的で、感覚をざわつかせる、滑らかでないものがある。 わからない。なんどか見直してみて、繰り返し言うしかない。だけれども、僕はこの「わからなさ」に、たぶん、取り憑かれてしまっている。 わけのわからないもの、異質なものは、どこでどのように居場所を見つけられるのだろうか。
Bメロ:太陽に照らされる少女 ここからは実際に《毎日がスペシャル》の歌詞を検討しつつ、先に論じた《カレンダーガール》との相違点を確認していきましょう。 《毎日がスペシャル》の1番の歌詞は次のようなものです。 雨で始まるウィークデイはユーウツの種さ 寝グセの髪に 低めのテンション やりそびれた宿題と 彼のひとこと 思い出して またメゲる 〔《毎日がスペシャル》1番Aメロ、強調引用者〕 この曲は、平日の朝の光景から始まります。歌詞に登場する女性は、寝癖を直すのも億劫といった様子で、手つかずの宿題や、恋人から言われた辛辣な一言を思い出しては落ち込んでいるようです。 このような《毎日がスペシャル》の展開は、《カレンダーガール》とよく似ています。この曲もまた、ある少女の平日の朝の光景から始まっていました。 前髪はキマらないし ケンカ中だし(だるだるブルー) ズル休みしたいけれど お見通しなの(ばれば
※本記事は、『アニメルカ vol. 2』(アニメルカ製作委員会、2010)所収の志津A「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」を一部加筆・再構成のうえ、転載したものです。 文:志津史比古 夏の雲、冷たい雨、秋の風の匂い、傘に当たる雨の音、春の土の柔らかさ、夜中のコンビニの安心する感じ、放課後のひんやりとした空気、黒板消しの匂い、夜中のトラックの遠い音、夕立のアスファルトの匂い。 新海誠の『ほしのこえ』(2002)で、ノボルとミカコは、日常生活に見出される価値あるもの(「いま・ここ」に生きている実感を凝縮して示している小さな断片)をこんなふうに列挙していく。(『ほしのこえ』がそうであるような)「セカイ系」では、非日常的な状況(「いま・ここ」とは対照的な、時間的・空間的に遠く隔たっているという観念)を持ち出すことで、日常の価値を逆照射しているところがあった。こうした日
室内空間の崩壊:『がっこうぐらし!』『NEW GAME !』 つむじ まずは「きらら系」作品について考えていきたいと思います。『日常系アニメのソフト・コア』のあとがきでは「室内空間」、つまり社会から隔離された教室や部室といった内部空間が徐々に解体され、そのなかで繰り広げられていた穏やかな「日常」も失われていった、という議論がなされていました。 日常系アニメの前提となる「ありふれた日々」を成立させるためには、たとえば戦争や災害といったさまざまな生の理不尽から、少女たちを徹底して遠ざけなければならない。〔…〕そこで、多くの日常系アニメでは、そうした面倒事から少女たちを隔離・保護するために、あたかも「繭」のような室内空間が用意されている。〔…〕この安心・安全な空間は、彼女たちを優しく包み込み、外部からのわずらわしい情報を──まるで浸透膜のように──フィルタリングしてくれる。 〔…〕ところが、20
※本記事には、関係者の名誉やプライバシーの保護等に鑑み、当サイト管理人による検閲(伏字)が一部施されています。また、刺激的な画像や表現が含まれる場合があります。 文:壱村健太 世紀の夢の時間がまさに「悪夢」になった瞬間だった。 土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺』1 敗北と排除がその最大の誘因であるのだから、陰謀論は敗者のためのものである(この言葉は侮蔑的な意味ではなく、その特徴を述べるために用いている)。 ジョゼフ・E・ユージンスキ、ジョゼフ・ペアレント『アメリカの陰謀論』2 あまり知られていないが、2013年にアメリカ国家安全保障局(NSA)が極秘に運営していた大量監視システム(PRISM)の存在を暴露した内部告発者エドワード・スノーデンは、日本に滞在していたことがある。 NSAの太平洋技術センター(PTC)は、巨大な横田空軍基地にある建物の半分を占領している。在日米軍の本部として、横田基
探索せずにはいられない!──『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』に宿る「ハズレ」の美学|すみ 2023 5/06 ※本記事は、すみ「『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』」(2017)を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:すみ 2017年に発売された『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下『ゼルダの伝説 BotW』)は、ゲームファンなら誰もが認める傑作である。そもそも『ゼルダの伝説』(1986)に始まるシリーズ自体が高く評価されており、とりわけ5作目の『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998)は長らく「史上最高のゲーム」と見なされてきた1。そのため、同シリーズの新作には常に高い期待が寄せられる。 『ゼルダの伝説 BotW』は、このあまりにも高いハードルを見事に乗り越えてみせた。数々の挑戦を通じて『時のオカリナ』以
※本記事には、終末論的および黙示録的な内容が多く含まれています。気分や体調の優れない方は、フラッシュフォワード(幻覚、未来視等)を引き起こす可能性がありますのでご注意ください。 文:壱村健太 革命の全ての暴力は一人の男の人格に集中するようになったが、そのことによって革命の過程に本質的な変化が生じたわけではない。 フリードリヒ・シュレーゲル(仲正昌樹訳)『歴史の哲学』1 〈核〉神話と危機の意識クリティーク 哲学者の仲正昌樹は、かつてキリスト教系の新興宗教団体「統一教会(現・世界平和統一家庭連合)」の信者であり、その当時の宗教体験を語った自伝的著作(『統一教会と私』、論創社、2020年)のなかで、次のように述べている。 文教祖は、91年11月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金日成と会談をおこなった。それ以来、「世界日報」〔=統一教会系の新聞社〕の北朝鮮に対する論調が露骨にあまくなっ
『ダークソウル』はプレイヤーを「信頼」している? まずは『ダークソウル』に代表されるソウルシリーズに対して、どのようなことが語られているのかを見てみよう。以下にリンクを張った記事は、2018年に「Kotaku」というゲームメディアに掲載されたゲーム開発者たちへのインタビュー記事だ6。 この記事の内容は、インディゲームなどの開発者たちにソウルシリーズの魅力や欠点を語ってもらうというもの。開発者たちの指摘には、なるほどと思わされることも多い。そのなかのひとつを引用してみよう。 ソウルシリーズのゲームは時に、プレイヤーに対する無関心〔indifference〕や無視〔disregard〕と思われるものによって称賛されている。 こう語るのはグレッグ・カサヴィンである。Supergiant Games社の脚本家・ディレクターであり、『Bastion』(2011)や『Transistor』(2014)
ホームアニメ批評【座談会】若手パチンカーに聞く! アニメパチンコ座談会──物語を確率へとひらくメディアミックス|早稲田大学負けヒロイン研究会 【座談会】若手パチンカーに聞く! アニメパチンコ座談会──物語を確率へとひらくメディアミックス|早稲田大学負けヒロイン研究会 2022 8/13 ※本記事は、2022年6月5日にTwitterのスペースで行われた「アニメパチンコ座談会」の内容を書き起こし、一部加筆・修正のうえ、再構成したものです。なお、パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです。のめり込みに注意しましょう。パチンコ・パチスロは18歳になってから。 話:くあド × 三条しぐれ × 蛍火くじら × 舞風つむじ(早稲田大学負けヒロイン研究会) 聞き手:安原まひろ+てらまっと(低志会) 構成:舞風つむじ てらまっと それでは「アニメパチンコ座談会」を始めていきたいと思います。よろしくお願いしま
桐生七実と高槻枝織──『少女革命ウテナ』における2つの問い 『ウテナ』に登場する桐生七実と高槻枝織は、のちの『ピングドラム』におけるメインキャラクターの前身とも言える部分を持っている。この2人が本論にとって重要なのは、『ウテナ』における主人公の天上ウテナとヒロインの姫宮アンシーとが避けてしまった問題を、彼女たちが引き受けているように見えるためだ。そしてそのことは同時に、『ウテナ』にひとつの限界を突きつけてもいる。 まずは『ウテナ』の桐生七実と『ピングドラム』の高倉冠葉、同じく高槻枝織と荻野目苹果とがそれぞれ重要な共通点を持っていることを確認しておこう。 七実と冠葉はそれぞれの兄と妹に恋焦がれており、どちらも近親相姦的な欲望を持っているという点で類似している。他方で枝織と苹果は、それぞれの物語上の人間関係において挫折を味わっているという点で共通している。枝織は生徒会メンバーのひとりである有栖
※本記事は、すぱんくtheはにー「一週遅れの映画評:『映画 ゆるキャン△』バイクの光はすべて星。」を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。なお、映画『ゆるキャン△』(2022)の結末についての情報が含まれます。 文:すぱんくtheはにー あのですね、一応こうやって毎週映画の話をするぞい! ってやってる以上、やっぱり作品を見る前には「かかってこいやぁ!」みたいな戦闘態勢になるわけですよ。120分一本勝負! チャージ3回、フリーエントリー、ノーオプションバトル! って感じで。 それなのに、それなのにですよ! いいですか、私は名古屋育ちで、しかも「バイカー」なんです。リンちゃんが上がってきた地下鉄桜通線丸の内駅の階段が「あそこじゃん、ちょっと行くとローソンあるほうの出口」って特定できるぐらいだし、「アラサー女がトライアンフ・スラクストン乗ってるのパネェな」ってのが、かなりリアルな質感を持って迫
※本記事は、『アニクリ vol.12 ジャンルのリフレーミング』(アニメクリティーク刊行会、2021年)所収の「母と子の物語──「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」についてのラフスケッチ」を大幅に加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:てらまっと 以前、なかば冗談で「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」という言葉を提唱したことがある。「ヌーヴェルバーグ(Nouvelle Vague)」とは本来、フランス語で「新しい波(New Wave)」のことだ。1950年代後半から60年代にかけてフランスで勃興した新たな映画の潮流を指す言葉で、ジャン゠リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー、エリック・ロメールなど錚々たる映画監督が含まれる。 「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」もまた、ラブコメ漫画やアニメにおける「新しい波」を名指そうとする試みだった。さしあたって私が念頭に置いていたのは、たとえば『からかい上
※本記事は、『アニクリ vol.7s:アニメにおける〈バグ〉の表象──特集 作画崩壊/幽霊の住処』(アニメクリティーク刊行会、2019)所収の論考を一部加筆・修正のうえ、転載したものです。 文:あにもに 「開国以後、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさアムビギュイティーの二極に引き裂かれている、と私は観察しています。のみならず、そのあいまいさアムビギュイティーに傷のような深いしるし・・・をきざまれた小説家として、私自身が生きているのでもあります」1 ──大江健三郎『あいまいな日本の私』 政治的アニメーションとしての『傷物語』 2016年に全3部作として劇場公開された映画『傷物語』は、アニメーションについてのアニメーションである。あるいはより厳密に言うならば、『傷物語』は、アニメーションが含有するある種の政治性を浮かび上がらせる契機を内部に有している、自己言及的なアニメー
私たちは狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく 朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い そして食後には批評をすることができる ──カール・マルクス
“闇” と不自由 2021年初頭に刊行された『闇の自己啓発』(江永泉+木澤佐登志+ひでシス+役所暁著、早川書房)は、Amazonの「現代思想」カテゴリーでベストセラー1位を獲得するなど、商業的に大きな成功を収めた。その要因の一つとしては、本書が現代の日本における“売れる哲学”の潮流と共鳴していたことが挙げられる。 哲学者の山口尚は『日本哲学の最前線』(講談社現代新書、2021年)のなかで、日本の哲学界には世界に伍する普遍的な哲学として「J哲学」という営みが存在し、現在のJ哲学の特徴は「不自由」論である、とする。 J哲学の二〇一〇年代は「不自由論」の季節であった。ただしその議論は、人間の不自由を強調してばかりの悲観的露悪ではなく、真に自由であるために不自由を無視しないという〈自由のための不自由論〉である。1 ここで山口は國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳を代表的な「
※本記事は、サブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター EX2012』(2012)所収の対談を一部改変・修正のうえ、転載したものです。 話:志津A × てらまっと はじめに 志津A 東日本大震災の起きた2011年には注目すべきアニメ作品がいくつもあったように思います。『魔法少女☆まどかマギカ』がその中でも大きく話題になった作品だったわけですが、他にも注目作として、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『輪るピングドラム』『日常』などといった作品がありました。そして、2011年末には『映画けいおん!』が公開されたわけで、この作品は、『まどマギ』がそうであったのと同様、まさにひとつの時代の節目を印づけた作品だったように思います。 『映画けいおん!』が公開された時期から1年が経とうとし、今年もまた、注目すべき劇場アニメ作品がいくつも公開されているわけですが、ともかくも、アニメ作品を題材にし
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