サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
アメリカ大統領選
www.kabuki-za.com
てんぷらの屋台店。出典『江戸久居計(えどくいけ)』(1861) 『江戸久居計』は、江戸の庶民の食物を書き集めたものです。 江戸の人々にとって、てんぷらはすしと並んで屋台店の食べ物でした。当時の屋台は簡単な屋根と柱のついた台で、担ぎ棒がついていて移動可能なものと、道傍やあき地などに置いて、不用な時には他に移すものとがありました。 三田村鳶魚によると、江戸の街頭にてんぷら屋の屋台店が出始めたのは天明5年(1785)ごろといいます。 てんぷらは油で揚げるために煙やにおいが出るので、換気のためには屋外の屋台の方が便利だったようで、『守貞漫稿』(1853)には、てんぷらは自宅で売る場合にも、家の前に屋台を置いていたとあります。店舗を構えたてんぷら屋が出来たのは、嘉永(1848-54)のころのようです。
麦湯は麦茶とも呼び、殻つきのまま煎った大麦をせんじた飲み物で、現在も夏の飲み物として親しまれています。 麦湯の名は『料理伊呂波庖丁』(1773)にも見られ、煎茶の普及していなかった江戸前期から庶民の飲み物だったようですが、麦湯の店が江戸の街頭の夏の夜の景物となったのは、文政(1818~30)の頃からといいます。 江戸後期の風俗を記した『江戸府内風俗往来』には、「夏の夜、麦湯店の出る所、江戸市中諸所にありたり。多きは十店以上、少なきは五、六店に下らず。大通りにも一、二店ずつ、他の夜店の間に出でける。横行燈に「麦湯」とかな文字にてかく。また桜に短尺(たんざく)の画をかき、その短尺にかきしもあり。 行燈の本(もと)は麦湯の釜・茶碗等あり。その廻りに涼み台を並べたり。紅粉を粧うたる少女湯を汲みて給仕す。」とあります。 麦湯店には、桜湯、くず湯、あられ湯などもあり、価も安く、家の中の暑苦しさを逃れて
青物魚軍勢大合戦の図(あをものさかなぐんぜいをゝかつせんのづ) 歌川広景画 安政6年(1859) 財団法人 味の素食の文化センター所蔵 上の錦絵は、擬人化された青物(野菜)と魚介類の合戦を描いたもので、安政6年(1859)に板行されています。安政5年には、致死率の高い疫病のコレラが長崎から侵入して日本中に伝染し、3年間にわたって流行し、「安政コレラ」と呼ばれました。 この絵の青物はコレラにかからない食物、魚はかかりやすい食物を示しているともいわれています。 人間以外の生物や無生物を擬人化して戦わせる主題は、異類合戦物として室町時代から物語や絵にとりあげられており、食物を擬人化したものでは、文明以前(1469以前)の成立といわれる『精進魚類物語』が知られています。この物語では納豆を大将とする精進軍が勝ち、魚類軍の大将鮭の大介は、鍋の城で討死しています。 上の錦絵に登場するのは、右側の青物軍は
江戸食文化紀行 ご希望のバックナンバーをクリックしてご覧ください。 VOL.2 "江戸の美味探訪" VOL.281 江戸名所日本橋 VOL.280 鰻の生態 VOL.279 宮戸川の鰻 VOL.278 孝女と鰻 VOL.277 初鰹の錦絵 VOL.276 江戸の会席料理屋 VOL.275 日本橋の初鰹 VOL.274 相模の鰹 VOL.273 握りずしと刺身 VOL.272 品川洲崎の汐干狩 VOL.271 食い倒れ VOL.270 遊廓の食事 VOL.269 拳酒と塩辛 VOL.268 江戸名所日本橋魚市場 VOL.267 七福神と宝船 VOL.266 品川松弁の紅焼鯛 VOL.265 十六むさしと盃洗 VOL.264 深川の料理茶屋 VOL.263 赤尽くし VOL.262 地震と鯰 VOL.261 『偐紫田舎源氏』と「源氏絵」 VOL.260 深川の軽子 VOL.259 硯蓋 VOL
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『歌舞伎座オンラインサービス / TOPページ』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く