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ドラクエ3
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田渕智子 ●ニューサイエンス登場 宗教と科学の統合を語る際にニューサイエンスのことを抜きにしては語れません。 これまでのいわゆるニュートン・デカルト的科学は、物質と精神を別のものと区別して考え、絶対的二元論を打ちたて、意識は脳の内部で起こる物質的プロセスの副産物としてとらえていました。 それに対して70年代に登場したニューサイエンスの特徴は、意識と物質との間に深遠な相互作用が働いていると、捉えていることにあるのです。むしろ、心や意識は副産物どころか、存在そのものに必要不可欠なものと提唱しているのです。 そして全体が一つにつながっており、一見個々バラバラの存在も全体から切り離すことはできないという全一性も大きな特徴です。 これは仏教のすべては心の現われという教えや、独立して存在するものはないという教えに非常に似ています。 ニューサイエンスにはどのようなものがあるのか、ここでいくつか簡単にご紹
皆さんは、好きな仏様、神様がいらっしゃるでしょうか。ないしは、最近は仏像ブームで仏像の雑誌も出ていると聞きますから、好きな仏像様などはありませんか? ひかりの輪では、祭壇中央に釈迦牟尼、右に観音菩薩、左に弥勒菩薩を掲げています。ただし、人を神としないひかりの輪の原則に基づいて、こうして祭壇に掲げていても、釈迦牟尼さえも絶対視はせず、むしろ、釈迦牟尼が「私を拝むまず、自分自身と法を帰依処とせよ」と説いた彼の精神・理念への敬意を示すために、そうしている面があります。 そのため、こういった外側の仏陀・菩薩は、皆、自分達の中の慈悲・仏性を引き出すための神聖な象徴物・シンボルとして位置づけています。 さて、難しい話は別にして、話を元に戻し、自分が気にいっている仏像があって、それは、京都にある弥勒半跏思惟像というものです。国宝の第一号とされ、教科書などにも出てくる有名な仏像です。その美しさは有名で、東
前回、このテーマについて日記を書きましたが、実際に刊行された本(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』亜紀書房)を読んで、少なからず驚きました。 それは、島田裕巳氏がこの本を書いた二つの理由の一つとして、他ならぬ私自身が、中沢新一氏の『虹の階梯』が、オウム・アーレフの信者が松本智津夫氏への信仰を脱却したり事件を反省したりする上で障害となっていると考えている、ということが挙げられていたからです。 よって、これは教団内部の出家修行者相手の話であって、公の発言としては、合理的ではなく情緒的な部分があったり、事実関係も多少なりとも不正確な部分があり、誤解を招く部分があります。 その意味で、公の出版に引用される場合には、私の発言の真意を確認していただいた方がよかったと思いますが、それはともかく、島田先生が私の話を引用している部分について、以下に私なりにコメントさせていただき、誤解がないよ
島田裕巳氏が、かつて一時的に松本氏を擁護した中沢新一氏とその著作である『虹の階梯』を批判する著作(中沢新一批判ないし宗教的テロリズム)を近日中に発刊する、という話を聞きました。 中沢氏は、日本のチベット密教研究者(ならびに修行者)として第一人者であると思います。そして、チベット密教ニンマ派の教義と瞑想修行を解説した『虹の階梯』は非常に有名になりました。 その中沢氏について、島田裕巳氏は、中沢氏の言動と『虹の階梯』の双方について批判し、その著作を近日中に出版するという情報です。 島田裕巳氏は、事件発覚前は、松本氏とオウムに一定の理解を示したため、教団の信者勧誘に協力したとの疑惑を持たれるなどの辛酸をなめ(事実に反するが)、事件発覚後は、オウムに関する分厚い総括本を出版しました。 一方中沢氏は、私が知るところ、事件発生後、いくつかの週刊誌と月刊誌で、オウムの問題点を指摘したことがあったと思いま
3月9日 とりあえず記者会見を終えました。 その記者会見でも説明しましたが、オウム事件の反省を背景としながら、なぜ、解散をせずに、新団体としての再出発となったのかについて、自分の宗教的視点ではなく、社会的な視点から、「新団体について」のコーナーに改めてまとめてみました。大切なことだと思うので、読んでいただければ幸いです。 今の心境としては、ようやく、新しい道が始まったな、という感じです。今までは、オウム時代の流れを断ち切れず、ある意味で、まともなことは何もできなかった、事件以来の12年間でした。皆さんにも多大な迷惑をおかけしましたことを改めてお詫び申し上げます。 とはいえ、12年間の間、色々経験しました。男性の一番弟子として、オウム・麻原氏への没入が激しかった分だけ、それから脱却し始めるのは時間がかかりましたが、同時に、それは、脱却し始めるために払った努力も多かったことを意味しており、今後
このコーナーの日記・メッセージの一部には、宗教や信仰に関する考察がありますが、これは、別項の「ひかりの輪とは」のコーナーでもご説明している通り、何か特定の宗教・信仰をすすめるものではまったくありません。 ひかりの輪は、宗教団体ではなく、東西の幸福の智恵、思想哲学の学習教室です。 では、なぜ、宗教・信仰のテーマを扱うかというと、宗教には、盲信という弊害がありますが、その一方で、その一部には、盲信を必要とせずに、理性に基づいて納得できるものが少なからず存在し、それらは、人の幸福のために、合理的でかつ奥深い智恵・人生哲学です。 こうして、宗教の弊害を避け、その一部から、幸福の智恵を抽出することは、人生の宝となると考えています。これが、一部の日記で、宗教・信仰をテーマに取り上げた趣旨です。 なお、こうして、理性が納得できるように宗教を解釈・活用することを、宗教・信仰ではなく、「宗教哲学」などと呼ぶ
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