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ブックマーク / thir.hatenadiary.org (6)

  • なぜ彼はクレーンに乗らなくてはならなかったのか - Thirのノート

    先日、栃木県にて、クレーン車が暴走し通学途中の小学生をはね死亡させてしまった事故があった。もちろん加害者を擁護することは出来ない。彼はてんかんを持っていた。そして以前にも「未遂」を起こし、かつ薬の服用を怠ったがためにこの事件は起きてしまった。報道の通り薬を飲み忘れたがゆえにこのような事故が起こってしまったのであれば、これは完全に彼の責任であると私は思う。しかし、多くの人がそれでも思うことは、「では、何故彼はクレーンに乗ることを選択したのか?」ということであろう。この事故に関連し、id:goldhead氏は、俺はたまたま子供を6人轢き殺していないだけ - 関内関外日記において、SASを患っているという観点から記事を書いていえる。その中で、次のような文章が目にとまった。 だから俺は、クレーン車で6人の子供を死なせてしまったやつのことを考えずにはいられない。彼が症状をおさえる薬を飲んでいなかった

    なぜ彼はクレーンに乗らなくてはならなかったのか - Thirのノート
  • 「誰かが犠牲にならなければならない」ものは、システムとして欠陥がある - Thirのノート

    原発に関して、「誰か(具体的には復旧に当たっている東電社員や自衛隊員)が命や健康を犠牲になれば、原発自体は全く危険なものではない」という言説が散見できる。即ち「危機的な状況に陥っても、復旧作業を行えば何も地域全体が危険にさらされることはない、もちろんその復旧作業には危険が伴うが」と。 しかし、そのような、「緊急時には誰かが危険を伴う作業をしなくてはならない、あるいは命を犠牲にする覚悟を持たなくてはならない」ようなシステムは、そもそもシステムとして自己犠牲を内在化しており、その点においてこのシステムは全体として欠陥である。ゆえに、現時点において(あくまでも現時点において)原発というものが、いざというときにそのような犠牲を必要とするのであれば、そのようなものは消えてしまえばいい。 そして犠牲者は英雄となり、英雄となるという事実があることで犠牲は社会において再び要請される。映画「ハルマゲドン」で

    「誰かが犠牲にならなければならない」ものは、システムとして欠陥がある - Thirのノート
  • id:toled氏に対する誤解について - Thirのノート

    随所で「(いわゆる)はてサが東浩紀先生に対し『祭り』的な態度で授業に望もうとした」という誤解」が生まれているようです。これは、id:toled氏が氏のエントリ内であたかも自らが「道化」のように振る舞ったような描写をしているために生まれている誤解のように思われますが、実際には、id:toled氏にはそのような意図はなかった、と私は思っております。実際、私は授業には行かずその後彼らと合流したのですが、その際の話について、若干述べておきます。 id:toled氏はまじめに授業を受ける気だった 別にid:toled氏はあたかも学生運動時における学生のように、彼らの授業を「糾弾」しようとしていたわけではありません。むしろ東先生の授業を真摯に受け止め、その上で反論する機会を東先生が用意したらする、といった態度を取っておりました。その証拠に、氏はアガンペン著の「例外状態」英訳版や、東浩紀著の「リアルのゆ

    id:toled氏に対する誤解について - Thirのノート
    lakehill
    lakehill 2008/12/15
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  • 「テレビ要らない」が含意する複数の要素について - Thirのノート

    最近、あちこちで「2011年をもってテレビは滅亡する」や、「自分は前からテレビを見ていない。だからテレビは必要ない」という、(統計と個別の事象をごっちゃにした)かなり過激な意見を目にします。先日ふと、そのような意見は「テレビ」をどのような存在として捉えているのだろうか、と気になりました。 「テレビ」が示す四つの概念 「テレビ」という言葉は、それ自体が四つ(あるいはそれ以上)の概念を併せ持っているように見受けられます。それは、 ハコとしてのテレビ インフラとしてのテレビ コンテンツとしてのテレビ 大枠としてのテレビ産業 です。それらについて、ひとつひとつ見ていきましょう。 1.ハコとしてのテレビ 「ハコとしてのテレビ」とは、文字通り、画面とチューナーによって構成される機材としてのテレビです。 2.インフラとしてのテレビ 「インフラとしてのテレビ」とは、地上波やCS・BSといった、テレビ局から

    「テレビ要らない」が含意する複数の要素について - Thirのノート
  • あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのノート

    ニコニコ大会議であった例の件について。例の件について存じない方は、とりあえず「2008-07-04」を読んでくださいな。 いじめの構造 いじめというのは、ある一人の人物を他の大多数の人間が「見下す」ことで、虐める側の人間が「虐める側」としての共通意識・仲間意識を持つものである。つまり、虐める側は虐められる一人の人間を「外部」として定義することで初めて集団性・内部性を保つことに成功するのである。 ここで出てくるのが、「生け贄にされた一人」の問題である。いじめの構造上、彼は彼が有している感情の如何に問わずその集団の外にはじき出されている。いじめについては他にも様々な問題があるが、ひとまず「集団の内部と外部」という構造が見て取れる点だけを、今回は問題としてみる*1。 さて、ここで件のエントリに戻る。 ニコニコ大会議の場合 衝撃を受けた。すごい。すごいことだ。 あまりにも斬新すぎるコミュニケーショ

    あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのノート
  • 歩行者天国の廃止は逆効果 - Thirのノート

    なんだかねえ、通り魔殺人事件が起こってしまった理由があの歩行者天国にあるのではないか、という論調のメディアが多い(たとえばこことか)。実際模倣犯防止のため歩行者天国を中止する可能性が高いそうなのだけれど、では実際歩行者天国であることが事件を大きくしてしまったのだろうか? 正直、歩行者天国関係ないけど あらかじめ断っておきたいのは、僕は通り魔事件が、歩行者天国にその原因を求める程度に矮小化されるべきではないと思っているし、またそうすること自体が(ある種のキチガイが起こした行動に対し理由付けをすることも含めて)全くの無意味であると考えている。歩行者天国を規制しても、「人殺しをしたい」という人間は全く別の手段をもって殺人を犯すに違いない。曰く殺人を起こすのは凶器や現場ではなくあくまでも彼の思っている心情なのであるから、そこに何があろうと事物は全く関係ないのである。 それでも「歩行者天国」に乗っか

    歩行者天国の廃止は逆効果 - Thirのノート
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